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天佑神助の離着艦~日高盛康少佐

2011-11-15 | 海軍

本日画像は有名なラバウル航空隊の写真から、一部ズームアップして描いてみました。
昭和18年4月13日、トラックのラボウル東飛行場で、出撃前の瑞鳳戦闘機隊が整列している様子です。

こちらのシルエット右が山本司令、左が草鹿長官ということで、歴史的なショットとも言える写真、
なぜこの部分だけ引き延ばしたかと言うと、ちょうどこの画像の真ん中の人物。
いろんな本に掲載されている写真では小さくて顔が見分けにくかったのですが、
パソコンに落とした画像を拡大してみると、これは、本日主人公の日高盛康少佐ではありませんか。

肖像画を二つ描いたので、もう沢山の中からでも少佐の顔が見分けられるようになりました。
ですから自信はありますが、もし間違っていたらすみません。


このところ母艦パイロットの話題で何かと語っている日高盛康少佐ですが、
戦後厚生省の復員事務局を経て、一般の会社に務め、
自衛隊の前身である警察予備隊発足と同時に入隊。
二年後には航空自衛隊に転換して、以後12年間、空を飛び続けました。
退職時の階級は一等空佐。旧海軍の大佐です。


沈黙の海軍軍人として、やはり多くは世間に向かって語らなかった日高少佐は、しかし、
海軍兵学校の発行した、遺族と級友に配布される回想録では、
非常に能弁に自らの母艦パイロット時代の思い出を語っておられます。

しかしながら、それはほとんどを飛行機の性能や、母艦パイロットとしての技術についての薀蓄、
その訓練や零戦の機能に終始しており、その内容は「かく戦えり」というより「かく飛べり」。

いかにして母艦乗りとして一人前になったか。
それが戦後の日高氏が屈託なく世間に語れることの一つだったのでしょうか。




それでは離着艦が一通りはできるようになったところから再開しましょう。
ちなみに、着艦フックをワイヤーに引っ掛けるためには、
飛行機の前輪と後輪の三点を同時に着地させることが要求されます。
これを定着、と言うのですが、滑走の距離が限られている母艦着艦独特の方法で、
この三点が同時に着陸するということは機体はやや上向きのままの態勢です。

また地上に降りるのと、海上では空気の密度が違うので浮力の計算も変わってきます。
このような微妙なコントロールも、徹底的に回数をこなさないと身体に叩き込むには至りません。
ベテランドライバーの身についた車体感覚のように、
訓練も数をこなして初めて飛行機が身体そのものに感じられてくるのです。

しかしだれでも初心者はそうでしょうが、最初着艦訓練十回くらいまでは毎回毎回が必死。
今日は最後かという悲壮な覚悟をしながら母艦に向かうのですが、回を重ねるうち今度は楽しみになってきて
「よし、今日は一番ワイヤーにドンピシャの着艦をしてやろう」
などと、張り切って出発するようになってきます。
さらに、戦争に突入する頃になると、着艦などいつの間にしたのか覚えてもいないくらいの
日常茶飯事になってくるわけです。

映画「連合艦隊」で、若い飛行兵の中鉢飛行兵曹が、
「私たちは発艦はできますが着艦ができないので帰ってきません」
と言って、整備長を泣かせる場面があります。
余裕を持って着艦訓練をする間もなく、このように母艦に乗せられた搭乗員は戦争末期には実際にいたのでしょうか。

しかし、発艦はできるといっても、この未熟な搭乗員はその発艦すら整備員たちをはらはらさせ、
甲板の向こうに一瞬機影が消えて浮きあがるのを見た整備長たちは
「ひやひやさせやがって」
「お守りが効いた」
などと喜び合います。

発艦、これもなかなか曲者なのです。

日高少佐が大尉時代中隊長を務めた瑞鶴を例にとりましょう。
この大きな母艦であっても、飛行甲板に第一次攻撃隊を発進状態に並べると、
一番先頭の飛行機は前端からわずか50mの位置になってしまいます。

瑞鶴では、九七艦攻―9、九九艦爆―18、零戦―9機というそれぞれの搭載ですが、
並べる順番は、九七艦攻が一番後ろです。雷装がなされているからですね。
そして、その中でも、各機先頭に中隊長機が位置するわけで、これはどういうことかというと、
零戦隊の中隊長である日高機は、滑走距離が全ての機の中で最も短くなるわけです。

それでは、索敵機から「敵機動部隊発見」の報が入ったところから再現しましょう。

「第一次攻撃隊発進」が下命される

母艦は風に立って増速、発艦に合わせて速度がセットされる

発艦係将校が「発艦せよ」の合図を出す

フラップを少し下げ、ブレーキを一杯に踏んで、エンジン全開。
尾部を少し持ちあげ、抵抗の量も少ない状態にしたうえでパッとブレーキを一斉に放す

ブレーキを離すと、機はするすると前方に進み、五〇mなどあっという間に滑走してしまい、
飛行甲板の前端が迫ってくる

じわっと操縦桿を引く これは機を浮揚させるため

距離が短いと浮力がついていないから、甲板を離れると機は下に沈んでいく
運が悪いとここで海中に墜落

あわや海面につくと思われる頃、やっと浮力がついて上昇が始まる ここまでくれば一安心

脚をあげ、フラップを収めて、やれやれと息をつく


いかがでしょうか。
毎回このようなぎりぎりの操作ですから、訓練当初の「着艦の失敗」などより、こちらの方が
現実的には恐怖感はあったでしょう。
何と言っても墜落しても、拾ってくれる蜻蛉つり船はいないのです。
これは、日高少佐にとって腕の善し悪しというより、エンジンの好不調に運命を委ねることで、
一度も失敗がなかったのはひとえに整備員の献身的な努力の賜であると言いきっておられます。

それに、何と言っても、全攻撃隊の先頭を切って発艦するというのは(たとえ滑走距離が一番短くとも)
真珠湾攻撃に参加した志賀淑雄氏がいみじくも同じように語る如く
「男子の本壊これにすぐるものはない」ものであったということです。

(もっとも志賀氏は後年テレビ番組でそのとき発艦一番乗りを逸ったのは
『実に子供じみた気持ちから』だったとも語っていました。照れ隠しでしょうか)


戦中戦後通して一度も事故の無かった日高少佐ですが、一度着艦の時にあわや艦橋に激突、
という失敗をしています。

飛龍での零戦訓練中のこと、どうしたことか左に位置する艦橋にどんどん機が寄って行ってしまうのです。
必死で右に修正するも、吸い寄せられるように艦橋に向かって行くではありませんか。
操縦桿を引くのですが、機速が大きすぎて、バル―ニング
(着陸における接地後、地面効果や主輪の跳ね返りにより、再び機体が飛行状態になってしまうこと)
して、ワイヤーを次々と飛び越してしまいます。
迫りくる艦橋。
艦橋後方の信号マストのところにいる信号兵が慌てて逃げていく姿がはっきりと目に入りました。

「ああしまった、えらいことをしてしまった、激突だ」

観念して目をつぶった瞬間、ぐっとGがかかるのを感じました。
そう、最後のワイヤーに辛うじてフックがひっかかったのです。

戦中、一度も事故やけがのなかったことを、自分の努力と技術ではなく、
ただ整備員の努力と零戦の性能の恩恵を被ったおかげ、と真摯に感謝していた日高少佐ですが、
これなどは、何より天佑神助の強運であったとしか言いようのない一事ではなかったでしょうか。