もう1年以上前のことになりますが、海軍兵学校67期の卒業生の親族であるという方から
当ブログにコメントをいただきました。
なんでも「兵学校67期」でググると、当ブログ記事に多数ヒットしたということで
(といいますのも笹井醇一中尉がこの67期であったりするもので(〃∇〃)ゝ )
その後はそのご親戚の67期卒業生について、わたしの手持ちの資料の中からわかることを調べ、
生徒生活からその最後の出撃までを、「海軍人物伝」にアップさせていただきました。
越山澄尭大尉シリーズ
その後、この方から、越山大尉所蔵だったアルバムの写真をいただきました。
67期の遠洋航海の際、越山生徒が自分自身のカメラで撮った写真です。
戦艦「伊勢」乗員の親族であった方のアルバムについて、先日お話ししたところですが、
日本の家庭には、「お祖父ちゃんのアルバム」として押入れの奥深くに仕舞われたまま、
余人の目に触れることなく、これまで来た歴史的に貴重な資料がさぞかしあるに違いありません。
遺族の方が、本来は門外不出の貴重な写真の公表を許してくださるのは大変ありがたく、
このブログでそれを発表する機会を慎重にうかがってはいたのですが、
うかがっているうちにまず落馬して骨折、治ったと思ったらイベントやなんやで、
ハッと気がついたら資料を頂いてから1年が経過してしまいました。
というわけで、満を持して、(っていうのかな)ここに
海軍兵学校67期遠洋航海シリーズ
を始めさせていただきたいと思います。
冒頭写真はアルバムの主の兵学校での写真です。
映っているのは13人ですから、分隊ごとに撮られたものと思われます。
18歳くらいの少年といっていい生徒もいるのですから、当然とはいえ、
一人ひとりの顔をよくよく見ると、まだ幼さが残っていて、こんな少年たちが
兵学校を志願して受け、厳しい訓練を受けていたのかと感慨深いものがあります。
アルバムの主である越山生徒。
この写真は上半身脱衣で撮られているのですが、もしかしたら海兵試験のためには
このような写真を提出することが決められていたのかもしれません。
身体頑健で健康であること、というのは兵学校生徒になるために学力と同じくらい
重要な選定のポイントでしたから、そうだったとしても納得がいきます。
夏用の第二種軍服での一枚。
町の写真館で、おそらく同郷の級友と撮ったものではないでしょうか。
兵学校の制服が若い男女の憧れであったことはいろんな文献に見ることができますが、
これをまとって娑婆を歩く時、学生たちの気持ちはさぞかし晴れがましいものだったでしょう。
アルバムの主越山中尉は左端です。
昭和13(1938)年、軽巡洋艦「大井」の甲板で撮られたものだそうです。
軽巡「大井」は「球磨」型の第4鑑で大正8年に建造されましたが、
昭和5年ごろから機関の不調に悩まされた結果、兵学校の練習艦になっていました。
短艇訓練が行われたときに撮られたのであろうこの写真の真ん中の人物は、
当時の「大井」艦長安場保雄大佐(42期)であろうと思われます。
開戦後「北上」と共に重雷装を施され、第1艦隊に編入された「大井」は、
あの森下信衛大佐が艦長になったこともあり、南洋でで通商破壊活動に従事していましたが、
昭和19年の7月19日、米潜水艦の攻撃によりマニラ沖で戦没しています。
写真の上の自著は、左端の越山生徒が写っている級友に頼んだものらしく、
一人一人が特徴のある字体を残していますが、右上端の上田淳二生徒の特に変わったサインには
1号生徒の分隊写真では笹井醇一生徒と一緒に写っていたのでが見覚えがあります。
上田生徒も越山生徒と同じく伊号潜水艦(伊4)勤務になり、ラバウルで戦没しました。
この写真に写っている他の生徒について書くと、鈴木武雄生徒は752空で台湾東沖にて戦死、
重枝清生徒は飛鷹乗り組みで鹿屋で戦没となっていますから、おそらく艦載機での戦死でしょう。
永松正輝生徒は呂56が沖縄沖で撃沈されて戦死。
この中で生き残ったのは坂本生徒と深井生徒だけです。
アルバムの外表紙の画像まで送っていただきました。
昔は鮮やかな赤であったであろう糸の織り込まれた布地の表紙。
時を経てところどころ糸がほつれているのもまた感慨深い。
アルバムの主の署名とアルバムタイトル。
気持ちの大きさを感じさせる伸びやかな筆致です。
というわけでここからが遠洋航海アルバムになります。
アルバムの表紙裏には、
「昭和14年7月25日の海軍兵学校卒業式に我等も招待を受け
両親参列 高松宮殿下後台臨
厳粛ながら卒業式終了後大宴会 終わって乗艦(八雲・磐手)
午後3時艦隊出港 爾来東洋方面巡行終了後
9月20日 横須賀帰着
9月26日 宮城参内
10月4日 横須賀出航 遠洋航海
12月20日 帰着
と書かれています。
現在の海上自衛隊の遠洋航海も同じように、卒業式の後「表桟橋」から出航し、
まずは慣らし?としてしばらく近場での航海を経験します。
その寄港地は
江田内→舞鶴→宮津→鎮海→旅順→大連→青島→
上海→馬公→高雄→廈門→佐世保→伊勢→横須賀
で、今なら行かない中国大陸と台湾に立ち寄っています。
伊勢ではやはり伊勢神宮の参拝が大きな目的だったのに違いありません。
一旦首都に寄港してそれから遠洋航海に出ることになっていますが、戦前はこのときに
宮城参内、そして靖国神社、明治神宮などを参拝するという大事な行事がありました。
(今靖国参拝は・・・・していなさそうだなあ)
このとき、士官候補生となった彼らは同時に東京見学などで大いに羽目をはず
・・・・・す者もいたという話ですがもちろん全員ではありません。
士官候補生東京見学行状記
さて、昭和14年の兵学校67期の遠洋航海は、最後の海外への遠洋航海となりました。
それまでの遠洋航海はある時はアメリカ本土、ある時はヨーロッパと、
「兵学校に入る目的の大きな部分は遠洋航海で海外に行けること」
であったというくらい、そのスケールは大きく、海外旅行に行くことができるものなど
ごく限られた層の一握りであった時代には世人の憧れでもありました。
しかし世界情勢が不穏になりつつあったこの時期、とりあえずは行われた遠洋航海も
そのルートはハワイまで行って帰ってくるという「短縮コース」となります。
ここで各期の遠洋航海ルートを見比べていてふと気付いたことがあります。
昭和12年に行われた64期の遠洋航海は、機関学校45期、主計学校25期、研究医官と
全てが合同で行われ、艦隊司令は古賀峯一中将。
「八雲」艦長は宇垣纏大佐、「磐手」艦長は醍醐忠重大佐という有名どころ()で、
イスタンブールを経て地中海はナポリ、マルセイユと訪ねる超豪華コース。
といってもそれまでアメリカ大陸コース、地中海ヨーロッパコース、太平洋コース(豪州)
という順番で繰り返し行われてきたのですが、昭和13年の間に行われた65期、66期の航海から
急に中国とシンガポール、パラオなどの後の激戦地が寄港地に変わるのです。
そして、この最後の遠洋航海では、ハワイ・・・。
この67期の練習艦隊が真珠湾に近づいた時、そのとき現地は朝方で暗かったということですが、、
候補生たちに向かって分隊監事が
「お前たちのうち何人かは近いうちにまたここに来るかもしれないからよく見ておけ」
と言ったそうです。
このことを以前、
「海軍の中ではここを近々攻撃するかもしれないという噂でもあったのだろうか」
と書いたことがあるのですが、こうして見ると昭和13年になって急に
海軍内で「なにかが変わった」と言わざるを得ません。
変わったと言えば前年の昭和12年には廣田内閣が総辞職しており、
その前年にはニニ六事件が起こって、国内の政情は大変不安定でした。
この年の5月には国家総動員法が全会一致で決議されており、
いよいよ国を挙げて戦時体制に突入したことが国民にも感じられる年ではありましたが、
海軍では、巷で「米英もし戦わば」というようなシミュレーションが盛んにされる以前に、
その可能性が信憑性をもって捉えられていたらしいことが、こんなところからも窺い知れるのです。
さて、それでは遠洋航海の前の「近海航海」から始めましょう。
鎮海に始まり中国国内を航海していた艦隊は、卒業式から約1ヶ月後の8月21日、上海に入港しました。
接岸しようとする「八雲」もしくは「磐手」。
煙突の形状からどうも「八雲」だと思われますが・・。
埠頭には現地の邦人がこれを迎えて手に手に軍艦旗をうち振っています。
おそらくカラー写真であれば青い空にさざめく紅白の旗、そして艦橋に鈴なりになった
候補生たちの純白の軍装がさぞ美しかったことでしょう。
その三日後、彼らは海軍陸戦隊が有名になった上海事変の激戦地跡を見学したようです。
上海事変ではこのとき日本軍の爆撃で商務印書館という出版社のビルが焼かれました。
ただし史実によるとこれは第一次上海事変の昭和7年のことです。
つまり、この建物は修復されないまま5年間放置されていたままのものだということになりますが、
ここにメモとして書かれている日付は、第二次上海事変のとき、日本軍が上海を制圧し、
「日軍占領大場鎮」
というアドバルーンを日本人街に挙げたときのものです。
現地の説明に、もしかしたら手違いがあったのかという気もしますが、今となってはわかりません。
第二次上海事変の時に破壊されたところは少なくとも彼方此方で復興されぬままだったようです。
上海事変の慰霊碑が呉の海軍墓地にありましたが、この時の戦闘は中国軍の激しい抵抗のため、
日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄絶な消耗戦になりました。
日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出しています。
さあ、というわけで、しばらくの間67期が最後の遠洋航海で辿った航路を、
越山清尭生徒の撮った写真とともに追体験してみたいと思います。
続く。