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「球磨」慰霊碑の「球」

2015-03-10 | 海軍

呉海軍墓地の慰霊碑を元に日本海軍軍艦や海軍部隊を紹介していく
「呉海軍墓地シリーズ」、今日は重巡と軽巡を三隻ご紹介します。 

まずは傑作と言われた大正年間のこの巡洋艦から。

重巡洋艦「加古」慰霊碑

石碑の揮毫は最後の艦長となった高橋雄次大佐によるものです。

「加古」って加古川の加古だろ?重巡なのに「加古」っておかしくね?

と思われた方、あなたは鋭い。

「重巡は山、軽巡は川の名前」という海軍艦艇の命名基準に例外が出てきてしまいました。

この変則にはワシントン軍縮会議が関係しています。
「加古」は「川内型」軽巡の4番艦となる予定で建造されかけていたのですが、
ワシントン条約を受けて一旦建造中止になってから、あらためて工事が再開され、

さらにその後”ある事情”で名称だけはそのままに一等巡洋艦となったので、
重巡でありながら川の名前を持つことになったということです。

その”ある事情”についてはご存知の方はご存知だと思いますが、のちのエントリで
くわし~~くお話しするつもりですので、今はスルーしておいてください(笑) 

「加古」は「古鷹」型の第1艦です。

「1番艦なら『加古』がネームシップだろ?なぜ『古鷹型』じゃないんだ?」

と思われた方、あなたも鋭い。
もともとこの型は「加古型」となるはずだったのですが、「加古」竣工が事故で遅れたためです。

竣工直前にクレーンで艦体を損傷したのが原因だそうです。

2番艦の「古鷹」とともに、造船界の鬼才平賀譲中将が着想し、

ワシントン条約の制限下、いかに少ないトン数でどれだけ重武装を備えるか、
という要求に応えるべく技術陣が総力を絞った造船史に残る傑作艦艇の一つ。

必要は発明の母という言葉がつい浮かんできますね。

また後で「加古」を除いた「古鷹」「青葉」「衣笠」という

「山三人娘」について詳しくお話しするつもりですが、
(なぜハブったかというと、エントリのタイトルの関係上)
この4隻で、五島存知少将を司令とする第6戦隊に編入された「加古」は、
この体制で開戦を迎えています。

1942年8月8日、「加古」は第6戦隊の姉妹、従姉妹たち4隻と
第1次ソロモン海戦と名付けられた夜戦で連合軍の重巡4隻を撃沈しています。

昔、「重巡洋艦アストリア号の運んだものというエントリで、
駐米大使斎藤博の遺骨を日本に運んできた重巡「アストリア」が、ほかでもない
その日本の手によって屠られ戦没した、という縁についてお話ししたことがあります。
このとき重巡「アストリア」に止めをさしたのが、重巡「加古」でした。


「アストリア」だけでなく、「ヴィンセンス」「クィンシー」「キャンベラ」と
次々に敵艦を撃破し、この海戦で最も活躍した殊勲艦は「加古」だったのですが、
その帰路、旗艦「青葉」の後方800mを航行しながらニューアイルランド島北方まで来たとき、
米潜水艦「S-44」に捕捉され、右舷艦首に1本、右舷中部と後部に各1本ずつ魚雷が命中。

右舷側に大傾斜し、67名の乗員とともに沈没しました。

被雷直前に乗員の疲労が激しいことを見て取った副長が、艦長の許可を得て

換気のために舷窓を開けさせたことが、早い沈没につながった言われます。


これに遡ること開戦前、英海軍の重巡「サフォーク」が、英国王室のヘンリー王子の

親善訪問のために来日した時、これを迎えたのは「加古」と「古鷹」でした。
このとき、交流のため日英の乗員たちは、互いの艦を見学し合いましたが、
「加古」を見学したイギリス海軍士官は、

「斯うした窮屈な艦を日本が造り得るのは、せいぜいあと十年だらう。
今に国民の生活程度が向上して、こんな住居(すまゐ)には堪えられなくなる時が
日本にもやがて来るに違ひない。」

と感想を書き残しています。

つまり生活程度が低いから居住区が狭くとも平気なのだろうと言っとるわけですね。

この士官が「せいぜい10年たてば耐えられなくなるので居住区は広くなる」
と予言したのは昭和4年のことでした。
「加古」が沈没したときにはすでに13年が経っていたわけですが、この間できた艦も
広さという点ではあまり変わりがなかったようです。


しかし「加古」の沈没を早めたのが

「居住区が狭く空気が悪かったので舷窓を開けざるを得なかった」

ということなのだとしたら、軍艦の機能そのものには関係なく、二の次三の次にされた
「居住性」が実は大きな欠陥だったという結果になります。
こればかりはさしもの平賀先生も予想していなかったに違いありません。



碑文を書いた艦長の高橋雄次元大佐は、このとき他の650名の乗員とともに救助されました。
 



軽巡洋艦「鬼怒」


 「鬼怒」は「長良」型軽巡の5番艦です。
大正年間に建造され、1932年には海軍機関学校の練習艦になったりして、
比較的まったりと過ごしていたのですが、開戦するやいなや「鬼怒」は
第2潜水戦隊の旗艦として潜水艦8隻を従え、マレー作戦、蘭印作戦、ジャワ作戦と
矢継ぎ早に駆り出されることになります。

その後、「長良」「五十鈴」「名取」と共に第16戦隊に編入、旗艦となり、
ニューギニア西武各地の攻略及び掃討戦に従事しました。

途中で主砲の換装なども行われているのですが、老朽艦のせいなのか、なぜか
魚雷発射管の換装だけはしてもらえず、最後まで90式魚雷を搭載していました。

お年寄りなのに・・・・ってお年寄りだったからかしら。


「鬼怒」は昭和19年10月、サボ沖海戦で大破した重巡「青葉」をマニラまで曳航し、
そのあと陸兵をレイテ島まで増援輸送に成功しましたが、その帰途、
米軍第7艦隊空母搭載機の攻撃により、3発の命中弾と多数の至近弾により
艦体を蜂の巣のような穴だらけにされ、戦死者440名と共に海に沈んでいきました。

「鬼怒」の生存者を救出するために現場に急行していた駆逐艦「不知火」も、
このときパナイ島沖で撃沈されています。

しかし沈没まで2時間半と時間があったため、生存者はちょうど現場を通りかかった
第一輸送隊の輸送艦3隻に救助されました。

このとき救助された中に、戦後ビハール号事件(捕虜殺害事件)
の責任を負わされ、戦犯として処刑された左近允尚敏中将の息子尚敏大尉がいました。
 



ここにもある「世界人類が平和でありますように」の杭。

前にこれを見たのはボストンのウェルズリー大学のキャンパスでした。
(いまだにこの正体は謎・・・・誰かご存知ですか)




軽巡洋艦「球磨」慰霊碑


「若い時(竣工当時)は「長門」すら上回る快速を誇ったもんじゃ。

ちなみに「長門」は8万馬力のところ、こちら9万馬力だったんじゃよ」
(日本昔話ナレーターの声で)


先ほど「鬼怒」にお年寄りなどと言ってしまいましたが、
それでいうとこちらの「球磨」も大正9年就役で、大戦末期にはかなりのお歳でした。
というわけで「キヌさん」「クマさん」ともども、老体に鞭打って、
美容整形改装を施して超若返り大東亜戦争に参加していますが、このときのクマさん、

装備を乗せられすぎて、かつての快速もヨタヨタ状態になってしまっていました。

お年寄りはいたわりましょう(T_T)

球磨」はフィリピンで陸軍川口支隊、河村支隊の上陸を援護するなどし、
改修後は主に蘭印で活動していましたが、昭和19年の1月、

イギリス海軍のツタンカーメン級潜水艦「タリホー」

に捕捉され魚雷を2発受けて沈没しました。
本筋ではないのですが、この艦名って、等級も含めなんか変じゃないですか?
Tally-Ho」
と書いてたりほーと読む。

中国人の名前かと思ったら、イギリスらしくキツネ狩りの時にかける掛け声だとか。

イギリス海軍の艦名は地名、人名の他に無理やり作ったみたいな名前も結構あり、
「アタッカー」級空母には「ハンター」「ストライカー」「アベンジャー」にならんで
「バイター」(噛む人)なんて、日本では到底受け入れられない響きのものや、 
「ストーカー」なんて今では残念な意味しかない空母もいたようで。

・・・ていうかいやだなあ空母「ストーカー」って。 

まあイギリス人から見れば「球磨」型の「KUMA 」「TAMA」「OI」とか、
そんな変な名前つけるお前らに言われたくねえというものかもしれませんが。

(ちなみに今回英艦艇の名称を見ていて「エイコーン」(どんぐり)というのがあり

思わず笑いかけたのですが、我が海軍には「椎」(改松型橘)があったんだったorz
どこの海軍も艦名が出尽すと苦労している模様)


ちなみにこのとき「球磨」は駆逐艦「浦波」とともに対潜訓練をするところでした。

潜水艦タリ・ホーの攻撃によって訓練が実戦になってしまったのです。
いや、訓練が間に合わなかったと考えるべきでしょうか。

敵の来襲があったとき

「これは訓練にあらず!」

という言葉が使われたかどうかが気になりますね。(わたしだけかな)

この沈没で、「球磨」乗員138名が戦死しましたが、杉野修一艦長を含む生存者は
一緒に対潜訓練をしていた(というかする予定だった)「浦波」に救助されました。

この杉野艦長は「杉野は何処」と歌にもなった、あの杉野孫七兵曹の息子です。
杉野兵曹の遺児二人は海軍兵学校をでて士官となりましたが、海軍に進むことは
閉塞作戦前に遺された父親の遺言に書いてあったことだそうです。

長男の修一はこのあと「長門」の艦長(大佐)で終戦を迎え、次男の健次も
なぜか同じ大佐で終戦を迎えています。



ところで、冒頭の写真はこの「球磨」の慰霊碑の中心に据えられた「球」。

それは「磨かれた球」、すなわち「球磨」そのものなのです。

「球磨」をそっと包み込むような形のオブジェは掌を象っており、
この艦に乗って戦い、そして命を失った乗員たちの魂をあたかも守っているようです。