ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

拝謁・東京見学~海軍兵学校67期の遠洋航海

2015-03-05 | 海軍

兵学校67期の遠洋航海アルバムシリーズ、三回目です。

今までなんども古い写真を見て同じようにそのことについて調べたり、
時には検証したりしてエントリを製作してきたわたしですが、
今回の遠洋航海シリーズは同じ作業をしていてもなぜかわくわくします。
彼らの旅の軌跡をたどることでその遠洋航海を追体験するとともに、
彼らの浮き立った気持ちや興奮が手に取るように感じられるからでしょう。

昭和14年、ときあたかも戦雲垂れ込めてくるような世界情勢に加え、
彼らにとっても短縮となった遠洋航海では中国本土では生々しい戦跡を目の当たりにし、
皆が何かを心に深く予感する旅になったことは間違いありません。

実は、わたしも今回初めて知ったことなのですが、67期の遠洋航海は当初、
ハワイの後北米西海岸に行くいつものコースの予定であり、候補生たちも
そのつもりで遠洋航海に乗り組んでいたのです。
彼らが近海航海の最終段階に入り、台湾の高雄をでて廈門に向かって行動中、
国際情勢はこのわずかの間に急変するに至りました。
そして、佐世保に帰港して中国から本土に戻って来た時、彼らにこのような
ニュースがもたらされたのでした。

「本年度の遠洋航海は北米西海岸を取りやめ、ハワイで打ち切りとする」

つまり、ハワイの後、本来ならば1ヶ月かけて米国本土まで航海し、
サンフランシスコとサンペドロを経由する予定が中止されたのでした。

この変更には、彼らが近海航海をしている間の情勢が影を落としています。

2年越しの支那事変は膠着状態に陥っていましたが、欧州の情勢はこのとき、

風雲急を告げるごとくに変化しつつありました。
8月23日、「独ソ不可侵条約」が締結されます。
日本とノモンハンでやりあっている間にドイツにやられてはかなわないと、
スターリンがドイツとの間に結んだ不可侵条約でしたが、ドイツはこれで
「挟み撃ちにされない」という保証を得てポーランドに侵攻したわけです。

みなさん、第二次世界大戦の始まりってなんだったか覚えてますか?

そう、ドイツのポーランド侵攻です。それがこの9月1日だったんですね。
これに対してイギリスとフランスが宣戦布告したことが戦火の火ぶたを切ったのです。
それが9月3日で、候補生たちが台南市内を見学していたその時です。

つまり、遠洋航海の突然の短縮は、3日の英仏参戦がきっかけになっていたのです。

日本では独ソ不可侵条約の締結に際し、当時の平沼騏一郎内閣が有名な

「欧州情勢は複雑怪奇なり」

の言葉を残して退陣しています。
この言葉をもって、日本の支配者が国際情勢を判断する力を失い、
自主的な外交政策を立てられなくなっていたことの証明であるとする説もあります。

それを実証するかのようにその後半年にわたって政府および陸海間はもめ続け、

「三国同盟」は一時自然消滅の形となっていました。

英仏の参戦に対し、日本とアメリカは一応中立を宣言しています。
しかし、欧州の動乱が世界に波及する危険をはらんでいることは明らかでした。
実際、アメリカはこの戦乱に日本をして参戦させるために手を替え品を替え挑発し、
(日米通商条約を破棄したのもちょうどこのころ)かつ締め上げにかかっていたのです。






しかし国際情勢はともかく、若い候補生たちにとって一ヶ月の遠洋航海短縮は
どんなにか落胆することであったでしょうか。
特に中止されたのはアメリカ本土であるサンフランシスコです。
こんなことでもなければアメリカなど一生行けないかもしれないと思えば、
無念さはいや増したでしょうが、また同時に急な予定変更に対し、
やはり今は非常時であることを実感し、
身の引き締まる思いもしたことと思われます。



内地ではまず伊勢神宮参拝のために伊勢に立ち寄りました。
ここで遠洋航海の旗艦が「八雲」から「磐手」に変更されます。

この意図が今ひとつ分からないのですが、これも訓練だからか、それとも
司令官の澤本頼雄中将が坐乗する艦を変えたと言うことでしょうか。

そして「恒例検閲」が行われます。定期チェックのような感じかな。


この写真は旅館で朝ごはんを食べていますが、誰かという説明がないので、
もしかしたらクラスメートに撮ってもらったご本人かもしれません。
こういうショットがあるところを見ると、やはり自前のカメラのようですね。

それより後ろに二種軍服が実に雑な感じで掛けてあるのが気になるのですが・・。
ハンガーにかけないとシワになるわよ~(おかん感覚)



これは伊勢神宮内宮の橋をなぜか下から撮ったものですが、
橋の上を隊列を組んで歩いているのは艦隊の皆さんです。

廈門以外は全部わたしが実際に行ったことがあるところばかりでなんか嬉しいです。

今は政教分離がフンダララで自衛艦の艦内神社にすら文句をつける奴がいるので、
自衛隊が公式に神社に参ることはされていないようですが、
例えば「いせ」などは年に一度伊勢神宮に参拝することになっているようです。



そして9月20日。
艦隊は横須賀に入港しました。
ここでは2週間停泊して、整備と遠航の準備を行います。

まず9月23日まで、なんと丸々3日間、作業を行いました。
そして9月24日に初めて艦を離れることが許され、候補生たちは築地の海軍経理学校に
宿泊して、数日間の東京行事を実地することになりました。

東京に自宅のあるものは自宅宿泊を許可されるので、親しい友人を連れて
何人かで実家に転がり込むというのも可でした。
しばし規則から解き放たれるのですから、こちらを好む生徒は多かったでしょう。



ここ東京は候補生たちが一番楽しみにしていた国内の寄港地ではなかったかと思われます。

訪れるのは戦跡や海軍の根拠地や慰霊碑や神社で、まあ遊びではないのだから当然ですが、
やはり修学旅行でもお寺や観光地より夜のまくら投げが楽しかったように(たぶん)、
候補生といえど若い男の子、やはり花の都で少しはハメを外したい。

てなわけで前回もご紹介した旧エントリのように、東京出身者を先頭に立てて銀ブラしたり、
「ちょっとドキドキな校則違反」なんかをやらかす候補生なんかが出てくるわけです。
このとき同級生の妹にちゃっかり目をつけて、後に嫁にしてしまうツワモノもいました。

しかし東京に着くと同時に夏の二種から一種軍装に着替えた候補生たちは

こうやって写真に撮ってみると制服と白手袋のせいもあって、皆立派な士官さんに見えます。

参道を歩いていた他の参拝客が思わず立ち止まって彼らを眺めている様子が写っていますね。
よくよく見ると先頭を歩いているのは本物の?士官らしく、上衣が腰まで長い海軍常装。
後ろにカルガモの雛状態でついてきているのが候補生たちです。

ちなみにこのとき「八雲」「磐手」の次室士官である中尉(63、64期)も同行していますから、

彼らか、あるいは主任指導官(中佐)とその副官(中尉)が引率している状況でしょうか。


短いジャケットの候補生は他の地方ではこの時期にしか見られることはないため、

明治神宮であろうが銀座であろうがさぞかし注目を集め、また候補生たちも
さぞかし面映くも晴れがましい気持ちになったものと思われます。

東京見学の予定はまず、

9月25日 海軍省、海軍大臣伺候、大臣主催壮行会(水交社)

という、どちらかというと面白くなさそうな行事から始まります。
いやまあ、遊びじゃありませんから面白いわけはないのですが。
ちなみにこのときの海軍大臣は「不可解也」で解散した直後の阿部内閣指名の吉田善吾
・・知らねー。


 

 


続いて9月26日の行事はまず宮中伺候、および拝謁でした。
遠洋航海に旅立つに当たって天皇陛下の閲兵?を受けるのです。

全員が第1種軍装に白い手袋をつけ、整然と退出してきます。
5列になって行進していますが、もしかしたらハンモックナンバー順だったりするのでしょうか。

それにしても皇居ですから当然とはいえ、坂下門の様子は今現在と全く同じ。
今度からこの前を通る時には彼らがここを踏みしめて歩いたことを彷彿としてしまいそうです。
今はこの前にゲートができ、地面は舗装されてコンクリートに変わっていますが。

拝謁に続き、賢所(かしこどころ)参拝、御府拝観、と宮中ツァーの半日。
当然ですが、東京での行事の頂点がこの拝謁でした。

それにしてもみなさん、歩いている候補生の姿を遠目に見て何か気づきませんか?

そう、「上着が長い」でしょ?
候補生の服装は短ジャケット(つまり兵学校の軍服の階級章を変えたもの)なのですが、
このときだけは
特別なので「通常礼装」に全員が身を固めて宮中に参内したのですが、

遠くて見え~~んっ!!!

67期卒の彼らがこの「通常礼装」に袖を通したのは後にも先にもこのときだけでした。
つまり、このただ一回のために彼らは礼装を揃え、二度と着ることはなかったのです。

そういえば、67期の笹井醇一中尉が戦死して二階級特進全軍布告となったとき、
葬儀には嶋田繁太郎大将が弔問に訪れていましたが、その時の写真の祭壇の遺影は、
通常礼装姿だったのを思い出します。
あれはこのときの宮中参内に合わせて仕立てたものだったわけですね。

ちなみに祭壇の遺影が通常礼装の写真だったのはそのときだけで、ご両親は
遺影として、戦後有名になった航空学生時代のものを飾っておられたようです。
その方が息子らしい、と思ってのことだったでしょうか。

 

候補生たちはこの後、靖国神社を参拝しました。
先ほどの明治神宮参拝の時にはもう候補生のスタイルに戻っています。
越山候補生は1日勘違いをしていたようで、写真の説明には9-26と書かれていますが、
公式記録によると宮中参内と靖国神社が9月26日、明治神宮は9月27日となっています。





 
明治神宮の後のこの聖徳記念絵画館見学も、実は27日の間違いです。

都内はバスで移動したんですね。

例年東郷神社とか海軍会館、上野動物園などの見学?が組まれることもありますが、
この時にはこの後、目黒の海軍技術研究所を見学したようです。

当ブログでも当時の建物がそのまま残る敷地に潜入して写真をご紹介したことがあります。



ところで関東地方在住の方、この聖徳記念絵画館ってご存知ですか?

明治神宮の外苑に今でもあって、明治神宮の予算で維持管理されている、
明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示するための美術館です。

教科書などに載っていて目にすることも多い

「王政復古」「五箇条の御誓文」「ポーツマス講和」「日露役日本海海戦」

などといった作品ですね。

銀杏並木の奥に威容を構える大変美しい建築物で重要文化財にも指定されていますが、
近年近隣に高層マンション建築の計画が起こり、これが経つと、銀杏並木の奥に見える
この建物のドームからにょっきりビルが突き出す形になるのだとか。

建設反対運動が起こっていると聞いたことがありますが、今どうなってることやら・・。





現在の聖徳記念絵画館。ライトアップしたところです。



この日付もおそらく29日の間違いであろうと思われます。

今の国会議事堂より柱とか経年劣化してないか?と思ったのですが、

建立年月日を調べてびっくりしました。
なんと竣工したのは昭和11(1936)年。
つまりまだできて3年しか経っていない、ほぼ新築の国会議事堂だったのです。

今の議事堂がこの時より綺麗に見えるのは、2008年から竣工以来初めての
大規模な修繕工事が行われたからで、このときは専用洗剤と高圧洗浄で外壁の汚れを落とし
コーティングを施す作業と、窓ガラスを枠ごと取り換える作業が行われたそうです。

それより、この写真ですが、議事堂前の広場で何をするでもなく立ち尽くす候補生たち。

全員がカメラマンの方を見ています。
越山生徒が議事堂の全景がフレームに入るところまでダーっとダッシュして、
同行のクラスメートを待たせいている間大急ぎでシャッターを切ったのでしょうか。

待たせているので少し焦ったせいか、議事堂の頂上が少し切れてしまっています(^O^)

そしてこの後、候補生たちが見学したのは日本放送協会、現在のNHKでした。
つまり、明治神宮からここまでの東京見学を9月27~9日の3日間かけて行ったのです。
それが済めば、嗚呼何たる親心、9月30日、10月1日と丸々二日間、彼らには

自由行動

が与えられたのでした(T_T)
この二日間で銀座に行って銀座ライオンでビールを飲んだり天国でてんぷら食べたり
(こっそり)初めてのレス体験をしたり、同期生の家で騒いだりして羽を伸ばしたわけですね。

そして10月2日、帰艦。
いよいよ横須賀から遠洋航海に向けて出航するのです。


続く。