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駆逐艦「叢雲」-The Captain Is The Last-

2015-03-23 | 海軍

呉海軍墓地の慰霊碑を元にお話ししているこのシリーズ、
前回駆逐艦「叢雲」の途中で終わってしまったのですが、
その前に、タイトルの英語の意味をご存知でしょうか。 
これは全部最後まで言うと

The captain is the last man to leave the ship
(船長は船を離れる最後の人間である)


海洋国家イギリスで生まれたらしい言葉です。
イギリスといえば、例えばあのタイタニック号の沈没の時、
船長のエドワード・スミスは船と運命を共にしており、幾つかの証言から
彼が救助される道を選ばなかったらしいことが明らかになっています。

スミス船長ががタイタニックの "The last man” であろうとしたことはまず間違いないでしょう。

昨年韓国で起こったセウォル号の転覆・沈没事件は修学旅行中の学生が
まともな救出作業も行われず多数犠牲になった驚愕すべき事故でしたが、
それよりも世界が驚いたのは、船長が乗客の足止めをした上で自分たちがいの一番に脱出し、
なぜか収容先の病院で濡れたお札を乾かしていたと報道されたことでした。

2012年にイタリアで起きたクルーズ船、「コスタ・コンコルディア」号の座礁では、
救出のために船内に入ることをためらった船長に、沿岸警備隊が

「今逃げようとしているのか。ほかの言い訳はするな。
今、乗客が船の中に何人いて、何が必要か把握せよ」

と叱責しさらなる救助活動を続けるよう指示を与えたといわれます。
この事故でクルーズ船の99%の乗客はクルーの救助活動によって助かりましたが、
脱出しようとしたときには、まだ船内に300人の乗客が残っていたことから、

乗客1人あたり懲役8年と計算して懲役2400年
死者・行方不明者34人に対して懲役8年ずつ合計272年
ずさんな操船による座礁の責任として懲役10年
それに伴う過失致死責任として懲役15年
合計2697年

同船長に求刑されています。(まだ結審していない模様)

平時の民間船でも乗員全員の生命に対して責任を持つのが艦長の使命。
これは最悪の場合にも

「たとえ船と運命を共にすることがあっても最後の一人であれ」

という海の鉄則でしょう。

ましてや戦時中の軍艦では、艦長が沈む艦に殉じるのは海軍軍人として当然である、
このような不文律が帝国海軍にあったとしても全く不思議ではありません。


というところで再び「叢雲」の話に戻ります。
前回少し説明したように、駆逐艦「叢雲」は1942年、「古鷹」の救助に向う途中
ガダルカナル基地を飛び立った米軍機の攻撃によりスクリューを破損し、
航行不能になった末、味方の手で処分されることになりました。

このときは米軍の命中弾が少なく、死者は20名とわずかだったため、ほとんどの乗員は
艦と運命を共にしようとする艦長と水雷長を残して、まず「初雪」に移乗しました。
そして乗員を別の艦に移したあと、「初雪」はもう一度艦長らを説得するために戻ってきました。


艦長たちは当初頑として説得に応じなかったそうですが、
「初雪」乗員の必死の努力でなんとか彼らが退艦することを承服し艦を後にした途端、
「叢雲」はそれを見届けるかのように炎上し始めたそうです。


「わしはフネに残る!」


と言い張るも無理やり降ろされた軍人はたくさんいて、小沢治三郎もその一人でした。
マレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズと運命を共にしたトーマス・フィリップ提督の話を聞き、

「俺もいつかはフィリップと同じ運命をたどらねばなるまい」

と話したとされる小沢は、いつか自分にそんな日が来た時には潔く死のうと覚悟していたはずですが、
マリアナ沖海戦で「大鳳」が沈没した時には「若月」を経て「羽黒」に移乗しており、
ご存知レイテ沖海戦のときにも攻撃を受けて作戦能力を失った「瑞鶴」から設備の整った
「大淀」に移乗させられています。

いずれの場合も小沢は艦に残ることを主張したそうですが、特にレイテ沖の場合は
指令を出す人間がいなくなってしまうと説得され、移乗を承諾しました。

ここで艦長が沈没時、その運命を共にした艦を列記していくと、

(戦艦)

金剛 (島崎利雄)大和(有賀幸作)武蔵 (猪口 敏平)

(空母)

蒼龍(柳本柳作) 飛龍(山口多聞) 瑞鶴(貝塚武男) 信濃 雲龍

(重巡)

羽黒 那智 麻耶 筑摩

(軽巡)

長良 名取 川内 神通 阿賀野



これに対し艦長が沈没前に別の艦に移乗した例は、



(戦艦)


比叡 榛名 霧島

(空母)

赤城 翔鶴 龍驤 翔鳳 瑞鳳 千歳

(重巡)

古鷹 加古 足柄 愛宕 鈴谷

(軽巡)

天龍 龍田 球磨 木曽 大井 五十鈴 由良 鬼怒 阿武隈 那珂 夕張 能代 矢作 大淀



中でも「蒼龍」の柳本艦長の最後は壮絶で、艦が沈む際、部下の制止を振り切り
燃え盛る艦橋にただ一人残って万歳を三唱しながら焼死したというものです。
江田島第一術科学校の「教育参考館」には、まるで阿修羅像のように
炎に包まれる柳本艦長を象った木像を見ることができます。

またここには出しませんでしたが、「朝潮」に乗っていた久保木秀雄駆逐隊司令や
「巻波」艦長などのように、駆逐艦の艦長も多くが沈む艦に殉じています。



退艦して生き残ったとされる艦長も、本人は残ると言って勲章まで出してきてつけたのに、

その後強引に説得されて退艦した「赤城」艦長青木泰二郎大佐のような人がほとんどです。


これについては少々穿った考えですが、引き止められることがわかったうえで

一応残ることを主張した艦長も中にはいたのではないか、とわたしは思っています。
この「赤城」の青木艦長と「比叡」の西田艦長の例があるからです。


「比叡」艦長の西田正雄大佐は「比叡」沈没時、
総員退艦させた後に艦に残ろうとしましたが、

「未来の戦艦大和艦長、さらには連合艦隊司令長官たりえる人物を死なせるのは忍びない」

と掌航海長が説得を試み、さらに艦橋から降ろそうとするも頑なに拒否したため、
掌航海長とその部下3人が西田を羽交い絞めにして甲板に担ぎ下ろしました。

そこで西田艦長は、後甲板に並ぶ乗員に訓辞を述べさせられるのですが、
終わってから再び、残る残らないで1時間半にもわたる押し問答になります。

 

その様子を「比叡」より将旗を移した駆逐艦「雪風」から見ていた第11戦隊司令官が、

「比叡の実情報告のため、雪風に移乗せよ」

と命令を出すことで、西田艦長を退艦させようとしました。
しかし命令を無視してでも比叡に残ろうとする西田艦長。
ついには上甲板に海水が押し寄せる状態となり、もはやこれまでと考えた掌航海長は
大声を出して暴れる西田の手足を担ぎ上げ、そのままカッターに無理やり運び込みました。

 

艦隊司令に比叡の状況を報告後した後、西田艦長はなおも「比叡」に戻ろうとしましたが
「雪風」は動き出し、そして「比叡」に魚雷を発射してその場を去りました。


こんな成り行きであったのにもかかわらず、「比叡」の動力が艦長退艦後も生きていたという理由で、
査問会議さえ行われず、問答無用で西田大佐には予備役、すなわち閑職への左遷決定が下ります。
このときにそれを決定したのが嶋田繁太郎
逆に西田大佐をかばったのが山本五十六で、

「 比叡1隻を失うことより、西田を失うことのほうが、海軍にとって痛手である」

と意見したのですが、山本と日頃仲が悪かった嶋田大将は判定を覆しませんでした。

先日アルバムの写真で、同じ日に大将に昇進した山本と嶋田が、

並んで靖国神社の参道を歩いている写真について説明したわけですが、
同学年で大将に昇任したたった二人なのに(だからかな)不仲だったんですね。

また「赤城」艦長であった青木泰二郎大佐も、沈没まで指揮を執り続け、
最後まで退艦を拒んでいたのを無理やり連れ出されたのにもかかわらず、
艦長退艦後「赤城」は無人のまま動き回ってしまい、それゆえ連合艦隊司令部(山本五十六)が
「赤城」の処分をためらう、というようなことがあったせいで、
ミッドウェー海戦の後、
やはり予備役に回されてしまっています。


「比叡「赤城」沈没は1942年、開戦からあまり日の経たない時期だったので、
これらの裁定が他の軍艦の艦長たちに与えた衝撃は大きく、したがって戦争末期になって
指揮官はできるだけ生き残って戦うべし、というような風潮になってきてからも、
彼らは逡巡するより先に、とりあえず「残る」と言うほかない心理に追い込まれていたのでは・・。



上に挙げなかった軍艦の艦長は、戦闘中に戦死したり、退避する間も無く沈没したり、
轟沈してしまって退避を選択する
余地もありませんでした。

「山城」「扶桑」「伊勢」「日向」
「加賀」「鳥海」「衣笠」「最上」「熊野」

などです。
そして戦闘状態でもないのに、何が起こったかわからないまま死んだ、
「陸奥」艦長の三好輝彦大佐も。

もしかしたら艦に残ることを表明した艦長の中には、あるいは
戦闘中に死んだこれらの艦長たちを羨ましいという気持ちはなかったでしょうか。
残ることを「選択」しなくてもよくなったという意味で。

そして、言い方は悪いですが、艦に残ろうとする艦長とそのお供一人に
(必ず二人残ることを言い出すのは賀来止夫艦長の影響か?)
 現在の海軍が置かれている戦況を説き、生き残って戦うようにと退艦を説得する幹部には、
あたかも結果が分かっているのに、一応そう決まっているからやっているといった、
まるで儀式を踏まえているようなやり切れなさを感じた者も少なからずいたのでは・・・。




「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは葉隠の言葉で、

二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、
死ぬほうに進むものであり、それでは犬死にだなどという意見は、思いあがりである、

という考え方であり、それはまさに


”The captain is the last man to leave the ship”

の精神と相通ずるものがあります。


誰しも生きるほうが好きなのだからおそらく好きなほうに理屈がつくだろうが、
しかし、もし選択を誤って生き延びたととしたら、腰抜けである。

このような日本古来の武士道の思想が、帝国海軍に受け継がれたことは間違いありません。

しかしこれはもののふの「平時の心構え」なのであって、平時でなく戦場、
そして一対一で刀と槍で戦う武士の戦場と軍艦での戦闘では、
その精神をそのまま受け継ぐことは、あまりにも前近代的で非合理で、
まさに命の無駄遣いにすぎないという考え方もあろうかと思います。



「飛龍」に残ることを決めたとき本人は夢にも思わなかったでしょうが、
山口多聞少将が艦に殉じ、
多くの将兵たちの命の責任を取って死んだことは、
わずかながらもその後の帝国海軍に「殉死の美学」という名の呪縛を与えたとはいえないでしょうか。

山口少将の最期を描いた映画、絵、文章には涙を誘われずにいられないわたしですが、
また一方でこのような考えを振り払うことができないのです。



ところで、冒頭の「叢雲」の沈没の時、艦長とともに説得され、
最終的に退艦した
「叢雲」本多敏治水雷長ですが、
いくつかの艦の艦長を務めるうち終戦を迎え、
戦後は海上自衛隊に入隊して
南極観測船「ふじ」の初代艦長となり、初めて南極の氷を踏んだ自衛隊指揮官となりました。