海軍兵学校の練習航海を目的とする最初の海外派遣は、
明治8(1875)年、「筑波」に当時少尉候補生だった山本権兵衛を含む
47名を乗せて、サンフランシスコとホノルルを訪問したときのものです。
その後何度となく遠洋航海はハワイに寄港しましたが、この寄港が
契機となって、ハワイのカラカウア王が日本を訪問することになり、その後、
一層彼我の交流が密になった結果、移民の交渉を政府が行うまでになったのです。
ハワイに日系の移民がなぜ多かったかというと、こういう理由があったのですね。
しかしそこでふと考えてしまうのが、のちに日米が戦火を交えることになった時、
ハワイの日系人二世の多くが442部隊として祖国アメリカに忠誠を誓い、
直接ではないにせよ日本と戦うアメリカ軍兵士となったということです。
もし海軍がハワイに遠洋航海に行かず、橋渡しをすることがなければ、
移民の話も・・・、少なくともハワイ移民の数はもっと少なかったに違いありません。
この遠洋艦隊の艦隊司令官は沢本頼雄中将(兵36)でした。
「高雄」「日向」の艦長の後艦政本部を経て練習艦隊司令官になっています。
中将の両隣には海軍軍人のミニチュアがおります。
中将の右側にいるアメリカ人の息子たちでしょうか。
沢本中将は2年後の日米開戦には反対で、
「次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしい」
と海相だった嶋田繁太郎に頼んだのですが、嶋田が沢本の大将昇進、
連合艦隊司令長官への就任をちらつかせたので、翻意してしまい、
戦後本人はこのことをずっと後悔することになったとのちに述懐しています。
海の民なら男なら、みんな一度は憧れるのが連合艦隊司令長官。
たとえそれがだめでも少なくとも大将にはなりたい。わかります。
井上茂美のようになりたくもないのになってしまう者が居る一方で、
自分の信念を翻してでも「大将」という位に執着してしまう者もいると・・・。
むしろこちらがほとんどであったと思われます。
写真の澤本中将の後ろには、綺麗どころがずらりと並んでおります。
これはオアフ在住の在留邦人(日系アメリカ人ではない)の夫人たちです。
昭和14年10月4日に横須賀を出港した練習艦隊は、10月13日に日付変更線を通過し、
18日にはホノルルに到着しました。
ホノルルに着いてすぐ、総領事館が歓迎会を催しました。
アメリカ人の好きな「バックヤードでの立食パーティ」だったようです。
時勢を反映してこのときの米海軍の接遇は最小限度の公式行事に止まりましたが、
その分、というのか、在留邦人の心温まる歓迎ぶりは熱狂的ですらあったといいます。
行く先々の村々で、趣向を凝らした歓迎会が行われたのはもちろんのこと、
自由行動となった候補生は、個人の邸宅に招かれて下にも置かない歓待を受けました。
「まあまあもう少しいいじゃないですか」
とかなんとか引き止められてなかなか帰してもらえず、帰艦時刻に遅れて
指導官付から大目玉を食らった候補生もいたそうです。
さて、領事館の写真をもう一度見てください。
こういうパーティでは満遍なく参加客と「社交」をするのが目的ですが、
どうやら士官候補生たちは候補生同士で固まってしまっていますよ(笑)
することがなくて腕組みをしている候補生も何人か居ますね。
彼らのこれまでの4年間の生活に「社交」を培う時間があったのかどうかを考えると無理もありませんが。
これはもう少し昔の候補生たちが、ホノルル商工会議所主催の
歓迎会に出席した時の様子ですが、どこが歓迎会?という感じ。
ただ候補生たちが集まって立っているだけにしか見えません。
やっぱり社交になってません。
「八雲」「磐手」がオアフ島に到着した時の写真です。
沿道にアメリカと日本の旗を打ち振って迎える住民あり。
手前のおばちゃんはありがちなアメリカ人体型です。
今はもっと凄いですが、この頃にもこんなアメリカ人いたんですね。
そういえばアメリカに駐在していた栗林忠道少佐(当時)は、
お掃除に来るおばちゃんにずけずけと体重を聞いていましたっけねえ。
たしか100キロ近くあるという話だったのですが、口の悪い栗林少佐、
「こんなに太ってるのに流行の髪型して滑稽だ。おまけによく喋る婆だ」
なんて書いてましたっけ。
このときに日本の旗を振ってインペリアル・ネイビーを迎えたアメリカ人たちは
わずかこの2年後にほかでもない海軍がここ真珠湾を攻撃したのをどう思ったでしょうか。
そしてこのときに沿道で迎えた少尉候補生の中の2名は(古野繁実、横山正治)そのとき
特殊潜航艇でハワイ湾に没し、「9軍神」と称えられたことを彼らは知る由もなかったでしょう。
ところでこの写真の手前に犬がいますが、このころはハワイにも野良犬がいたのでしょうか。
一行はオアフ島のワイパフという地域(砂糖のプランテーションがあった)で
「フラ踊」、フラダンスを見物したようです。
真ん中のフラダンサーはどう見ても日本人の顔をしているのですが、
日系のダンサーで、このためにわざわざ呼ばれたのかもしれません。
フラダンス鑑賞中。
♪ あろ~は~おえ~あろ~は~おえ~♪
この日は同時に島巡りをしたらしく、同じ日付で
「ヌアヌパリ」より「カネオヘ」湾を望む
とあります。
ヌアヌパリはオアフ島の右下の山頂にある展望ゾーンで、そこからは
カネオヘ湾が見えるのですが、ご存知のようにカネオヘには海軍基地があり、
海軍航空隊の飯田房太大尉が2年後の12月7日に突入することになります。
映画「ハワイ・マレー沖海戦」では格納庫のようなところに突っ込み
自爆したと描かれていましたが、実際は格納庫に突っ込む途中、
妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突して死亡しており、現在その地点には記念碑があります。
記念碑に海軍の旧搭乗員たちが花を贈呈している写真がありますが、
記念碑の後ろにはプレイヤード、つまり子供用の遊具のあるコーナーとなっていて、
こんなところに子供の遊び場を作るかー、と不思議な感じがしました。
オアフの島内観光のあと、一行はハワイ島に渡りました。
ここに次の目的地である「ヒロ」があります。
移動の列車車中での候補生御一行様。
島内の案内係には現地在住の若い女性が選ばれて同行したのですが、
今まで女人禁制の生徒生活を送ってきた彼らは、卒業した途端にこのような
計らいをされてさぞかし心が浮き立ったのではないかと思われます。
女性の近くに座っている候補生たちの表情に照れのようなものが見えます。
ちなみに彼らが「お遊びデビュー」となるのは士官に任官した後。
士官候補生の間はまだ「修行中」ということでレスなどの出入りは禁じられています。
エス(芸者)を揚げてお酒、などというドキドキワクワク体験も任官までの辛抱です。
ハワイ島にはキラウェア火山一体の国立公園があります。
わたしは新婚旅行がマウイだったのですが、そのときにこのような植物園に行き、
日本では見ることのない不思議な形をしたシダに目を見張ったものでした。
このときの士官候補生たちも、ああいった原生林のようなところを歩いたのかと思うと
何か不思議な気がします。
硫黄の噴出するところを見学したようです。
候補生全員がマントを着用しています。
帰国が12月になるため、マントも持ってきたようで、白の軍装に
灰がかかっては後が面倒なので、冬用マントを利用したんですね。
問題は軍帽ですが、こちらは今のようにビニールのキャップもないしどうしたのかなあ。
キラウェア火山は「世界で一番安全な活火山」と言われています。
何となれば大抵は爆発的な噴火ではなく、溶岩を流出するタイプの噴火を行うためで、
流出した溶岩は粘度が低いため、最初地表を伝い、表面が冷え固まった後も
地下の溶岩チューブなどを伝って流れ続け、海岸線を広げるだけだそうです。
そしてその火口を見学する下士官と水兵さんたち。
「八雲」「磐手」は一時期練習艦隊艦として毎年のように遠洋航海に行きましたが、
その他練習艦となった「香取」「浅間」「鹿島」の乗組員に配置された下士官兵は
結構「ラッキー!」と喜んだのではなかったでしょうか。
何しろ外国に行く遠洋航海があるために兵学校を目指すという若者も多かったというくらい、
海外をこの目で見るというのは当時の日本人にとって特殊なことだったのですから。
ところで、今これを書きながら気付いたのですが、旧軍時代「鹿島」が練習艦であったので、
現在の練習艦も名前を引き継いで「かしま」となったんですね。
あ、そういえば練習艦「かとり」もあったっけ!
ヒロでの、すなわちハワイでの最後の行事がキラウェア観光だったようです。
ヒロに入港した時には、港内の漁船は全てアメリカ国旗、日本国旗、海軍旗を
マストに揚げて艦隊を迎えたのだそうです。
このときに残された候補生たちとヒロ在住邦人の婦人たちの写真。
「夫人」とキャプションにはありましたが、皆若くて独身のお嬢さんもいそうな・・。
全員がここぞとばかりにオシャレしているように見えるのは気のせいでしょうか。
ヒロはホノルルと違って軍官施設はほとんどなく、在留邦人が多く住んでいる島でした。
しかも日本海軍艦船の訪問は10年ぶりということで、彼らの観劇もひとしおであったらしく、
練習艦隊はホノルルにも勝る熱のこもった歓迎を受けました。
「アットホーム」と称する艦内での歓迎レセプションがどちらでも開かれたそうですが、
この女性たちはそれに参加したのに違いありません。(だからお洒落してるんですねきっと)
10月28日、ヒロを出た後は太平洋をひた航行(はし)り、ヤルートを目指します。
つまりまっすぐ日本に向かうのではなく、赤道直下のマーシャル諸島まで南下すると。
まあハワイそのものが日本よりかなり緯度は赤道に近いので、
さらにちょっと南に下ってから帰国するというルートを取ったようなのですが。
観光地では士官候補生仲間よりも下士官兵がよく被写体になっていた越山候補生の写真ですが、
彼ら艦隊勤務の下士官兵の仕事は主に重労働です。
ホノルル埠頭で石炭を積み込んでいる乗組員と現地の職人。
おそらくですが下士官兵が上陸して観光できるのは休みの日だけだったのではないでしょうか。
候補生たちももちろん、この作業中見ているわけではありません。
行事の合間を縫って随伴入港した「知床」から、1日がかりで載炭を行いました。
これをすると耳の穴の中まで真っ黒になるのだそうですが、ピッチ?でかぶれた顔を
洗うのもそこそこに、夜には歓迎行事に出かける毎日だったということです。
いよいよハワイを出港するときがきました。
ホノルルには10月23日までの5日間、ヒロには28日までの4日間の滞在でした。
埠頭で見送る人たちと艦上からそれに答えて帽子を振る乗組員たち。
つまり練習艦隊がハワイに滞在したのはたった10日間ということになります。
彼らのうち一人がこのハワイでのことをこう書き記しています。
「やがて日米海軍が戦場で相見ゆる日も近いと予期していた我々の、
真珠湾や米艦船を遠望する眼差しは真剣であった」
幾度かこのブログでも書きましたが、この遠洋航海で「八雲」と「磐手」が
ホノルル湾に着いた時、士官候補生たちに向かってその分隊の監事が
「お前たちのうちの何人かは近いうちにここにもう一度帰ってくるから
できるものはスケッチしておくがよい」
と命じ、言われたうちの何人かが薄暗いその湾をスケッチしたとされます。
実際には直接「帰って来た」のは特殊潜航艇に乗っていた2名、
そして千島列島を出発した6隻の空母にも、その直前に中尉となっていた67期生は
何人もが乗り組んでいたことと思われます。
彼らはそのとき、この楽しかったハワイの10日間のことを思い出したでしょうか。
続きます。