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「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長

2015-03-06 | 海軍人物伝

 

呉海軍墓地にある旧海軍艦艇の慰霊碑についてお話ししています。
駆逐艦「濱風」(濱は旧字体ですがここではこう記します」は、二代目で、
陽炎型の13番型として昭和16年浦賀船渠で竣工されました。

昭和16年11月26日、真珠湾攻撃のために単冠湾を出港したハワイ攻撃機動部隊の
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母
(『ファイナルカウントダウン』でオーエンス中佐が一生懸命言ってましたね)
を護衛するという華々しい初戦を飾り、ポートダーウィン機動作戦、
ジャワ南方機動作戦、セイロン作戦などにも参加しています。

ミッドウェー海戦では日本側は4隻の空母を失いますが、このとき「濱風」は
「蒼龍」の援護を行い、沈没した同空母の乗員を救出しました。



駆逐艦というのは敵を「駆逐する」、英語で「破壊する者(デストロイヤー)」

という名の通り、もともと「水雷艇を駆逐する」というのが存在意義です。

そういう意味でいうと、一等「陽炎」型駆逐艦の13番艦である「濱風」は、
その使命を最後の最後まで全うしきった駆逐艦であったというべきでしょう。

揚陸作戦においても、昭和17年8月には、ガナルカナル島に上陸した米軍を駆逐するため
陸軍一木支隊916名を「嵐」「荻風」「谷風」「浦風」「陽炎」らとともに
ガ島北岸太母岬に揚陸させ、その半年後にはガ島撤退作戦にも参加しています。

さらに「濱風」はコロンバンガラ島への陸兵揚陸にも携わった直後、
さらなる陸兵上陸を支援するために行われたコロンバンガラ夜戦で、
「神通」を取り囲み、寄ってたかって攻撃を加える敵艦隊を「雪風」らとともに
酸素魚雷を装填しながらじわじわと包囲し、艦隊ごと航行不能にしています。

このように、特にファンが多いと言われる陽炎型駆逐艦の中でも、艦これ的には
特に嫁にしたい駆逐艦ナンバーワンといわれているらしい「濱風」。
個人的には「島風」とともに「ザ・デストロイヤー」の称号を差し上げたいほどです。
 


しかし駆逐艦として戦い抜いたということは、同時に
次々と失われていく聯合艦隊の艦を見届けてきたということでもあります。


「濱風」の最後は、天一号作戦、坊之沖岬海戦で「大和」の護衛として出撃、
魚雷の命中によって轟沈を遂げるというものでしたが、

ミッドウェーで蒼龍の最後を見届ける
クラ湾夜戦で旗艦「新月」の最後を見届ける
コロンバンガラ海戦で旗艦「神通」の最後を(略)
撃沈された空母「飛鷹」の乗員を救出する
シブヤン海戦で「武蔵」の最後を見届け、800名の乗員を救助
回航中撃沈された「信濃」の救助を行う

という壮絶な歴史の目撃者ともなりました。

彼女が救出した人員は途方も無い数に上ります。
記録に残っているだけでも

戦艦「武蔵」  934名

戦艦「金剛」  146名

空母「信濃」  448名

輸送船「日竜丸」 36名

輸送船「安竜丸」 5名

これだけで約1500名強。
戦後設立された「濱風会」では救助人員をそう称していますが、
「蒼龍」「赤城」「飛鷹」駆逐艦「白露」の乗員については資料がないため、
おそらく合計でいうと3000名にはのぼるだろうと言われているのです。

さらに先ほどのガ島からの陸兵撤退、海軍特別陸戦隊の撤退を含めると、
この乗員300名の小さな駆逐艦が5000名の命を救ったことになります。


コロンバンガラ島夜戦で「神通」の仇を取ったあと、「濱風」は
ベララベラ海戦に参加して損傷したため呉に帰港してドック入りしますが、
このときに三代目艦長、前川万衛中佐(52期)が着任しました。
「濱風」の救助した人員数がここまで膨大になった原因は、どんな嵐の戦場でも

武運強く戦い抜き生き残った彼女の「運」に加えて、この前川艦長の着任にありました。
「濱風」溺者救助作業のほとんどは前川艦長が指揮を執っています。


冒頭挿絵ですが、どこを探しても前川中佐の写真が見つからなかったので、

「こんな人に違いない」という思い込みだけで想像似顔絵を描いてみました。
多分似てないに違いありませんが、いいんです(きっぱり)




アメリカ軍は徹底的に人命救助を重視しました。
一名の戦闘機搭乗員のためにカタリナ飛行艇を日本本土まで飛ばしていたくらいで、
沈む軍艦と運命を共にしなかった艦長を左遷するような日本海軍とはえらい違いです。
戦争のやり方も、有り余る物資と人を有しながらなお防御を重視するアメリカと、
防御は二の次で自分の命を盾にしてでも攻撃を成功させることを取る日本とでは、
これはもうどう考えても国力の無いほうが負けることは明らかでした。

どうして戦後の人間なら単なる一ブロガーにもわかるこの理屈が、
当時の日本軍において無視されてきたのかは、前にも言いましたが、
「軍人精神」という名の正常性バイアスがかかっていたからだとわたしは見ます。
まあこの辺りの論議についてはいつかまた日を改めるとして、
とにかくアメリカが人命重視を徹底したのは、そうしないと国民の戦争への
理解が得られないということと、なんといっても一人のスペシャリスト
(海軍艦艇に勤務する者は専門職である)を育てる時間とコストが勿体ないからです。
人を育てる労力は飛行機や船の生産などよりずっと大変だと知っていたからです。

日本の美しい言葉「勿体ない」が、こういうときに全くかえりみられなかったのは
実に勿体ないことだったというしかありません。 
まあ、切羽詰まって省みられるほどの余裕がなかったという事情もありますが・・・・。


それに、戦時、艦を停止して人員救助をしているところを敵に襲われ、
救助している方が何人も戦死した例は多く、一艦300名の命を預かる艦長としては、
敵が帰ってくる可能性の多い戦闘海域で行き脚を止めるという決断をするのは
それが駆逐艦の使命とはいえ大変な決断を要します。

つまり、「濱風」のように徹底的に溺者救助に命をかけたフネの方が少数派なのです。


しかも、前川艦長の救助方法は少し変わっていました。

マリアナ沖海戦のときには一般に駆逐艦が行う、短艇を使ってやる救助方法とは違って、

艦を風上に持っていって停止し、風の力だけで艦を漂流者のほうへ近づけていき、
風下舷の艦首から艦尾まで垂らしたロープを掴んだ生存者を引っ張りあげる

という方法で行いました。

まず、中央から後ろにかけての外舷にありったけの縄ばしごと、先端を輪にしたロープを
何十本も垂らし、探照灯を海上に照射して、漂流者のかたまりを目標にすると、

行き脚を止めて風の流れだけでそこにじわじわと近寄っていきます。
スクリューで人員を傷つけたりすることなく、艦の外周で同時に救助が行えます。
縄ばしごを自力で上がれるものは上がり、体力がないものはロープの先に体をくぐらせれば
甲板の「濱風」乗員が引っ張り上げてくれるというわけです。
海面から人がいなくなるともう少し艦を走らせ、発見すると再びスクリュー停止。

これを前川艦長は徹底的に、かつ執拗に行ったのです。
見張員が「海上に漂流者を認めず」と報告しても、「もう一度確認せよ」と返し、
一度では決して沈没地点の探索を切り上げることをしませんでした。
そして、救助の対象が一人、二人となってきても、見張員が声をあげるたび、
同じことを何度も繰り返し救助を続けたのです。

しかしこのやり方ではいつ敵に捕捉されるかわからず、気が気ではなくなる乗員もいました。
「濱風」の専任将校、武田光雄水雷長は、内心の不安からつい、

「艦長、もうそろそろこの辺で切り上げてはどうですか」

と急かすように具申したところ、作業の間中、椅子に腰掛けたまま泰然としていた艦長は
静かな口調でこう言ったそうです。


「水雷よ、ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろう。
それははっきりしている。 だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは、これは運だよ。
だったら最後の一人まで助けようではないか」 

武田水雷長はこのとき、今後は自分も艦長の言うとおりにやろうと心に決めたそうです。



「濱風」は最後まで救助中に敵に捕捉されることはありませんでした。



この前川万衛中佐が大尉時代のことです。
昭和10年に起こった「第4艦隊事件」のとき、乗り組んでいた
駆逐艦「夕霧」の艦首は、嵐の動揺によって切断されました。
同じように切断された「初雪」の艦首には機密が搭載されたため、
曳行が不可能とされた時点で第4艦隊はこれを雷撃で乗員もろとも沈めました。
「夕霧」艦首部も曳行が試みられましたが、やはり27名の下士官兵を乗せたまま
途中で沈没してしまったのでした。

「濱風」の航海長に、第4事件のことを話したとき、

「あの事件で大勢の兵隊たちを殺してから、俺は・・・」

と前川艦長は言葉を途切れさせたそうです。



冒頭写真の「濱風の碑」の後ろには、こんな文字が刻まれています。

「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、
数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍、飛龍、信濃、戦艦武蔵、
金剛、駆逐艦白露等の乗員救助及びガダルカナル島の陸軍の救助等、

人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」



その「濱風」の最後の出航となった坊ノ岬沖海戦、「大和」特攻の前夜のことです。
「濱風」先任下士官が

「ネズミがロープを伝って陸上に上がっていくのを見ました」

と先任将校に小声で囁きました。
士官は先任下士に向かい、

「誰にも言うな」

と口止めしたと言いますが、実はこの不思議な現象はこの夜、
坊ノ岬沖海戦に次の日出撃する幾つかの他の艦でも目撃されていました。
動物の本能は、もうすぐ艦が沈むことまでを察知することができたようで、
事実「濱風」もこの海戦で戦没することになります。

「濱風」の最後は多くの生存者によって目撃されています。
4月6日、徳山を出港、7日、大隅諸島西方で敵機動部隊の攻撃を受け、
後部に大型爆弾が命中、航行不能となりました。
そこへ魚雷が船の中央部に大音響とともに命中したため、真っ二つとなって沈没したのです。


この慰霊碑の実に不思議な形は、彼女の最後の瞬間を想起させます。
轟沈した「濱風」の乗員は100名が戦死し、前川艦長始め256名が救出されました。