前回今回共に、「ライオンフィッシュ」の写真を撮ったのは
戦艦「マサチューセッツ」の甲板からです。
あらためてみると「バラオ」級潜水艦の艦尾に妙なものが。
名前はなんというか知りませんが、減揺装置の一種ではないでしょうか。
ここでいきなり余談です。
現代の潜水艦の塔から突き出している羽のような減揺装置を
フィン・スタビライザーといいますが、これを発明したのは
なんと日本人であったということをご存知でしょうか。
1920年代に、三菱造船の元良信太郎博士が揺動を軽減する装置を発明し、
1923年に対馬商船「睦丸」に取り付けられたのが世界で最初でした。
しかし、制御技術の未熟だった当時では十分な効果を発揮することができず、
特許はそのままイギリス企業に売却されてしまいました。
これの技術を実用化したイギリスやアメリカは、駆逐艦などに取り入れましたが、
日本では敗戦まで全く研究されることもありませんでした。
戦後になってこの技術は海外から取り入れられましたが、
日本人はこのときこれが同胞の発明であることを知って驚いたのです。
なんだかあの八木&宇田アンテナと同じような話があったんですね。
階段を下りていくとそこは前部発射管室。
バラオ級の魚雷発射管は全部で10門あり、ここには
1、2、4と書かれた21インチ発射管が3門見られます。
(おそらく3は右下にあるのかと)
そのうち1には日章旗が、そして2には旭日の線の数もいい加減な
(これは強いて言えば旧海軍の大将旗ですね)海軍旗が小さく書いてあり、
サンフランシスコで見た同じバラオ級の「パンパニト」と全く同じです。
全く対日戦と関係ないミサイルコルベット艦のミサイルに
なぜか日の丸をペイントしていたのを見てから、こういうのは
当時からあったのではなく、展示の際に誰かが「気を利かせて」
雰囲気を出すためにわざわざペイントしたのではないか、
とわたしは実は疑っているのですが、まあこの「ライオンフィッシュ」は
現に日本海近郊でうろうろしていたという戦歴があるので、
全くの捏造ではないでしょう。
そのミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」甲板から見た「ライオンフィッシュ」
ですが、艦橋には当時からあったらしい両日本旗が見えます。
ちなみに砲塔正面に据えてあるのは20ミリ機関銃と思われます。
バラオ級潜水艦は対日戦に多数投入されており、たとえば「パンパニト」も、
開戦当日の12月8日に日本が拿捕した米国の「プレジデント・ハリソン」こと
改名して「勝鬨丸」となった輸送船を撃沈しています。
ここで、バラオ級潜水艦によって沈められた我が方の艦船を、
ウィキからの転載になりますが、挙げておきます。
- ボーフィン(SS-287):学童疎開船(輸送船)「対馬丸」
- スケート(SS-305):軽巡洋艦「阿賀野」、駆逐艦「薄雲」
- アスプロ(SS-309):陸軍特種船「神州丸」
- バットフィッシュ(SS-310):駆逐艦「五月雨」、潜水艦「呂112」、「呂113」
- アーチャーフィッシュ(SS-311):空母「信濃」
- シーライオン(SS-315):戦艦「金剛」、駆逐艦「浦風」、敷設艦「白鷹」、給糧艦「間宮」
- チャー(SS-328):軽巡「五十鈴」(ガビラン(SS-252)との共同戦果)
- ハードヘッド(SS-365):軽巡「名取」
- ジャラオ(SS-368):軽巡「多摩」
- サンドランス(SS-381):軽巡「龍田」
- パンパニト(SS-383):輸送船「勝鬨丸」(元米船プレジデント・ハリソン)
- クイーンフィッシュ(SS-393):緑十字船「阿波丸」、陸軍特種船「あきつ丸」
- レッドフィッシュ(SS-395):空母「雲龍」
- アトゥル(SS-403):輸送船「浅間丸」、哨戒艇「第38号哨戒艇」、輸送船「さんとす丸」
- スペードフィッシュ(SS-411):空母「神鷹」
いやもうとんでもないですね。
ちなみにここに書かれている戦果はこれらが沈めた全てではないのです。
それにしても「シーライオン」の戦果がものすごすぎ。
よっぽど腕利きが乗り込んでいたか、というか強運だったのでしょう。
もちろん伊潜が撃沈した敵艦船も決して少なくないので、
双方にとって潜水艦というのは大変な脅威となったことがわかります。
ちなみに、学童疎開船を撃沈した「ボーフィン」は、船団を執拗に追い詰め、
その監視過程で「対馬丸」に子供が乗っているのを確認していたはずですが、
戦後、生存中の元乗組員が
「夜間だったので艦長も子供たちの乗船を知らなかった」
と見え見えの言い訳をしています。
米軍は日本近海を哨戒潜水艦に対し「無制限攻撃作戦」を布いており、
知っていてもおそらく攻撃したであろうといわれていますが、
やはり知らなかったことにしておこうということになったのでしょう。
それだけでなく「ボーフィン」は、「対馬丸」を沈めた第6次哨戒に対し、
「戦闘において比類ない英雄的行為をしたもの」
としてネイビークロス(海軍十字章)を授与されており、
真珠湾が母港であり、たくさんの日本船を(ヨット、漁船を含む民間船ばかりで
軍艦は海防艦1隻の計24隻)を沈めたことから、
「真珠湾の復讐者」
と言われて未だにアメリカ人にとっては英雄的存在なんだそうです。
そこでこの表に「ライオンフィッシュ」の名前がないことに、
現地で実際にこの艦体を見たわたしとしてはホッとしているわけですが、
彼女の対日戦における実績がどんなものであったかを、
これも日英双方のwikiから抜粋してみますと。
1945年1月15日 キーウェストを出港
太平洋戦線に移動し真珠湾に回航され、哨戒に備えてサイパン島に進出
1945年4月2日、最初の哨戒で東シナ海および黄海に向かう
4月10日 最初の戦闘を行い、日本海軍の潜水艦による2本の魚雷をかわす
5月1日 艦砲により3本マストのスクーナーを破壊
僚艦が救助したB-29乗員を移乗させてサイパンへ送り届ける
5月22日 51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投
艦長がスプルーアンスからブリッカー・M・ガンヤードに交代
6月20日 2回目の哨戒で日本近海に向かう
7月10日 早朝、足摺岬沖で浮上航行中の伊168型潜水艦と思しき潜水艦を発見
魚雷を2本発射し、爆発音と煙を潜望鏡から確認
続いてもう2隻の潜水艦に対して砲撃を行うも、失敗に終わる
7月10日の戦闘で、「ライオンフィッシュ」は3隻と戦ったと思っていたようですが、
相手は燃料輸送に従事していたしかも伊162の1隻だけでした。
ちなみに英語のwikiでは「爆発音と煙を確認したが伊162はダメージを受けていない」
とだけひっそりと書かれております。
当時相手を撃沈したと思い込んだ「ライオンフィッシュ」は喜びに包まれ、
戦時日誌にもこのことが " Very happy!! " と記されているそうですが、
これも英語wikiには記述されていません。
7月11日 潜水艦を発見して魚雷を発射したが外す
8月15日 終戦。哨戒の終わりには航空機乗員の救助任務に従事していた
8月22日 58日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投
その後、サンフランシスコに向かった
本人たちにとっては戦果をあげてベリーハッピー!!な帰還となったようで何よりです。
いや別に皮肉ではなく。
ところで、魚雷発射室に、かつてここを職場としていたヴェテランが
当時の思い出を語っているビデオが流されていました。
時間がなかったので全部聴いたわけではないですが、写真を撮っているとき、
「日本の潜水艦に向けて魚雷を放つ時は夢中だったが、
その潜水艦が沈んだとき、彼らにも家族があり愛する人がいるのだと
じつに複雑な気持ちになった」
というようなことを話しているのを耳に挟みました。
そのときにはわたしはまだ「ライオンフィッシュ」の勘違いについて
全く知らなかったので、ふーんと思いつつ聞いていたのですが、
こうして史実を知った今となっては、彼らは未だに本当の戦果を知らず、
(アメリカのwikiでも曖昧な書き方しかされていないように)
今のようにインターネットで調べるという習慣もない時代に晩年を送った
元乗員たちは、死ぬまで自分たちが3隻の潜水艦と戦い、
そのうち1隻を撃沈したと信じてこの世を去ったのではないかと思っています。
続く。