バトルシップコーブについて説明したとき、この
「ジョセフ・P・ケネディJr.」
について少し触れたのですが、それをもう一度書いておきます。
JFKの兄、ジョセフはハーバード在学中に海軍パイロットに応募、
1942年に海軍予備少尉となって対潜哨戒任務に就いていましたが、
1944年に欧州戦線で極秘作戦に参加し、戦死しました。
そしてその1年後、彼の名前を付けられた駆逐艦が誕生しました。
それがこの「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」です。
ここで思うのが、ジョセフが事故死する2ヶ月前に、
弟のジョンはまだ同じようにハーバードを卒業して海軍におり、
前にここでもお話ししたPTボートの艇長として日本軍と戦い、
危ういところで生還するという経験をしていたことです。
弟が九死に一生を得たその2ヶ月後、父親が期待をかけていた
兄の方が死んでしまったという運命の不思議さ。
さらに不思議なのは、海軍がこの無名の予備士官の名前を駆逐艦に与えた時、
後の合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは
まだ政治家ですらなかったという事実です。
「ケネディ家の人々とケネディ」
という説明ボードには、まず左上のロバート(JFKの弟)が
「僕は海軍の幹部候補生学校を辞めてすぐ
レーダーマンとしてJPKに配置されたのさ」
1945年の12月15日にJPKは就役し、ロバートは海軍士官としての訓練を切り上げ、
2月1日からカリブ海への「シェイクダウン・クルーズ」、つまり慣らし航海に
見習いとして乗務を始めました。
5月1日には名誉除隊をしてメダルも授与されています。
青い星の中には、ケネディ夫人ジャッキーのことが書かれています。
次回詳しくお話ししますが、彼女は夫とともにJPKから
アメリカズカップを観戦し、また70年には息子のジョンと
娘のキャロラインを伴って乗艦しています。
キャロラインは先日日本での大使職を離任しましたが、
やはり民主党の大使だけあって、空気読まないリベラル的発言が
時として痛々しかったというように感じました。
本国アメリカでも、日本の大使になるには実力不足では?
という声が実のところ相次いでいたとか。
さて、そして最後にJFKが何を言っているかというと・・・、
「私はJPKをキューバに送って、ソ連に”ビジネスであることを”見せたのだ」
「ビジネス」の意味ががイマイチよくわからないのですが・・・。
1962年のキューバ危機において、米政府はキューバでのソ連の弾道ミサイル配置に対応し、
海上封鎖のため艦隊をカリブ海に配置しましたが、JPKはその任務に参加し、
ソ連がミサイルをキューバから撤去した後も、哨戒を続けています。
ついでに、ジャッキー夫人は、この時、
『もし事態が変化したら、私はキャロラインとジョンJRの手をつなぎ、
ホワイトハウスの南庭に行きます。
そして勇敢な兵士のようにそこに立ち、
全てのアメリカ人と同じく運命に立ち向かいます。』
と、大統領の家族だけが核シェルターに避難することを拒否したそうです。
男前だねえ。
しかし、これ本当にそうなっていたら、大統領の家族を差し置いて
自分たちが避難するわけにいかなくなったホワイトハウスの関係者に
かなり恨まれたかもしれませんね(笑)
キューバ危機は脅しや北のしょぼいミサイル威嚇と違って、本当にそうなる
可能性がかなり高かったと言われていますから、彼女のこの発言は
それだけで評価されるべきだとわたしは個人的に思っています。
さて、ここでアメリカ海軍の駆逐艦の命名基準についてお話ししておくと、
第二次世界大戦中、対潜哨戒、護衛任務のために大量に建造された
「ギアリング」型駆逐艦には、
戦死した海軍軍人の名前
が、彼らの栄誉を称えてつけられることになっていました。
ですから、DDの700番代から890番までの駆逐艦には
「ハロルド・J・エリソン」とか「フレッド・T・ベリー」とか、
あるいは個人ではなく海軍の家系を顕彰して、ファミリーネームだけの
「ストライブリング」「ヴォーゲルゲサング」なんてのがあります。
いずれも世界的には無名の戦死者ですが、つまり海軍はこの駆逐艦に
名を残すということを若い海軍軍人たちへの「戦死特典」?
として士気鼓舞に利用していたと思われます。
日本では、現在に至るまで人の名前は船につけないことになっています。
(『しらせ』は”そういう地名があるから”というウルトラ解釈による)
たとえば大戦末期に大量に建造された「松型駆逐艦」にはえらく苦労して
木の名前をつけていたわけですが、「松」「杉」といったメジャーな木は
あっというまになくなり、次第に小さな木になっていって最後には
「雑木林」と呼ばれていたことは、ここでも一度書いたことがあります。
最後にはもう同じ桜でも「若櫻」「山桜」などをひねり出し、
建造中止になったものの、「夏草」「秋草」「薄」「野菊」とその範囲は
野に咲く草に突入していったわけで、あと11隻名前を考えなければいけなかった
当時の海軍工廠の命名係は、終戦になってさぞホッとしたことであろう、
と前回も結びました。
その点、アメリカ海軍の駆逐艦の命名基準であれば、
「付ける名前が枯渇する」ということだけはありません。
戦争が続く限りそれは無尽蔵に・・・・・。
そういう意味ではこの「ギアリング」型駆逐艦は日本の「松型」と似ていて、
戦争が終わったので途中で生産打ち止めになったというのも、
(156隻建造予定だったが96隻で打ち止め)一緒です。
ただしこちらは大量生産の割にはできがよかったようで、
終戦後は国内や西側諸国の他国の軍隊で運用され、
最後の型が退役したのがなんと2014年だったということです。
(これにはある事情があるのだけどそれはまたいずれ)
ともかく、「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」もまた、そういう駆逐艦の
一つとしていわば機械的に?その名を付けられたにすぎず、
本来ならばその他と同じ「戦死者の名前をつけた船」として、
戦後は海外の海軍で余生を終えていたのかと思われます。
ところが、この戦死したジョセフ・ケネディの父という人が野心家で、
なんとしてでも自分の息子を政治家にする気満々だったため、
長男の死後は次男を政界に送り込むことにあらゆる手を打ち、
長男の名前をつけた駆逐艦も、次男のPTボートが撃沈され、
生還したことも全て、次男が政界にでるための宣伝に利用して頑張りました。
なにより本人も長男が生きていたときの劣等感を克服してその気になり、
その後あれよあれよと大統領にまで上り詰めてしまったのはご存知の通り。
「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」(以下「JPK」)と同時期に建造された
「ギアリング」型駆逐艦のうち、戦後標的艦にならなかったものは、
台湾やトルコ海軍などにほとんどが譲渡されていったのですが、
JPKはケネディが政治活動に入った頃から「特別扱い」されており、
(そうさせたのはもちろんケネディ父)現役を退いたあとも
他の船のような廃棄処分をされることもなく、展示艦となったわけです。
バトルシップコーブの海上展示が一望できる場所。
手前にJPK、ライオンフィッシュ、そして向こうにマサチューセッツが。
ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」はライオンフィッシュと
マサチューセッツに挟まれていて少し確認しにくいですが。
JPKを正面から見てみました。
艦首に揚がっているのは青字に白の艦首旗、信号旗は
おそらくJPKを表す固有の組み合わせであろうと思われます。
これは最初にバトルシップコーブに来たとき。
右がJPKで、わたしはこのあと「マサチューセッツ」見学をしました。
前に海軍迷彩の軍人さんが歩いていたので後ろから撮らせてもらいました。
ここから入っていきます。
ラッタル右側には各地の都市の方向を示す矢印が。
後甲板に
「アーレイバーク提督国際駆逐艦乗り博物館」(直訳)
というお知らせがあったので、草鹿中将の話とか、海上自衛隊との
この提督とのつながりについて知っている日本人としてはすわ!と
盛り上がるも、博物館は現在改装中でした。
これを見るためだけにもう一度行きたいくらいです。
その下の白い看板には
「ものを持ち去る、落書きをする、破損するなどの行為を
この船の上で行うことは犯罪として扱われますので、
そのような行為に対しては法律に照らして起訴します」
とバトルシップ・コーブの名前で書かれています。
誰も見ていないと思って、記念になりそうなものを持って帰るとか、
こっそりどこかに落書きするなどといった行為が
いままでないわけではなかった、ということでしょうか。
艦尾から国籍旗越しにながめる戦艦「マサチューセッツ」の図。
黄色いドラム缶は海に転がり落とせるようになっています。
キャプスタンに描かれたシャムロックの印。
これこそが「ケネディの印」なんだそうです。
JFKの曽祖父がアイルランドからの移民だったからで、
シャムロック(クローバーではない)はアイルランドの国花です。
映画「逃亡者」ではハリソン・フォードがセントパトリックデイの
行列に紛れて逃げるシーンがありましたが、あれは
聖人パトリックの命日の3月17日で、シャムロックの緑を身につけます。
ハロウィーン、最近ではブラックフライデーと、これまで
わけもなくあちらのイベントに便乗し続けてきた節操のない日本ですが、
さすがにこれだけは無理だろうと思っています。 いや思いたい。
ヘリコプターを搭載することができたのか?と少しびっくりしました。
そのわりには着地地点が狭すぎませんか?
実は、JPKが載せていたのはDASH(Dorone Anti Submarine Helicopter )、
対潜ドローンヘリでした。
これ。
ジャイロダイン社のQH-50というタイプで、このJPKのように
小さな駆逐艦上でも搭載し、潜水艦を攻撃することができました。
いまにしてびっくりしてしまうのですが、アメリカ海軍の対潜構想は
近距離=魚雷
中距離=ASROC
遠距離=DASH
というもので、遠距離に操縦して対潜攻撃を行うことのできる
無人兵器として、非常に大きな期待をかけていたようなのです。
操縦は複数チャンネルのアナログFMで行うため、 CICから操作するとき
まず「機体の位置がわからない」「高度もわからない」ことになり、
当然のことながら帰ってこない機体も多かったそうです。
アメリカでのDASHの運用は10年くらいで終了しました。
後部煙突と構造物の間にDASHの格納庫がありました。
写真を撮っていたときにはなにを載せていたか知らなかったので、
小さな格納庫だなあと思っていたんですよね。
ところで、わたしは全然知らなかったのですが、このDASH、
我が海上自衛隊でも運用していたらしいんです。
「たかつき」「みねぐも」型に搭載するために20機運用していて、
しかも現場では大変評価されていたとか。
そのため、アメリカが運用をやめてから8年もの間、
部品の調達が難しくなるまでずっと使っていたということです。
日本人にはこの操縦や運用が肌に合っていたのかもしれません。
JPKの主砲はMk12、5インチ砲。
大型艦には対空砲として、小型艦には主砲として搭載された艦載砲です。
主砲の前に取ってつけたような電話ボックスみたいのがありますが、
これは昔ハッチだったところに展示艦となってから入口をつけたのでしょう。
艦番号である850がペイントされています。
わたしはこのペイントは基本的に航空機が着陸の認識につかうもの、
と思っていたわけですが、無人機を着陸させるのに番号の必要があるのか?
とふと思いました。
(とはいえ、おっちょこちょいのヘリが間違って降りるのを防ぐことはできる)
あと、850のうえに麻呂の眉毛みたいな丸二つがあるのですが、
これはなんでしょうか。
無人機である DASHが見分けるためのポイントだった、に2シャムロック。
続く。