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スプルーアンスの息子〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

2017-01-14 | 軍艦

バラオ級潜水艦「ライオンフィッシュ」。
前部発射管を見ただけで前回終わってしまったので
次に行きたいと思います。

発射管室はこのように檻状の扉で仕切られていたので、
魚雷発射管の写真は、間からカメラを入れて撮りました。

信管と火薬を抜かれて不発処理された魚雷の上には
カンバスのバンク(兵員寝床)があるのは皆同じ。
魚雷の上に寝るこの配置は開放感があって兵には人気があったそうです。

「ライオンフィッシュ」のバラオ級潜水艦が搭載していたのは
21インチ、すなわち533mmの魚雷です。

前部には(3つしか見えませんが)6基、後部に4基、
計10基の発射管を装備していた「ライオンフィッシュ」、
魚雷は前部で24本搭載していました。

天井近くに見えているのはダクト?それとも2門の発射管?

前回話が出たTDC(魚雷管制装置)があるとしたら
こういうところではないかと思われます。

潜水艦では前部魚雷発射室に続いて必ずオフィサーズ・クォーター、
士官居住区があるようです。 

というわけで、いきなり士官食堂が現れました。
銀器にマリーゴールド色のテーブルクロス、
そして錨のマークの付いた食器にカトラリー。

こんなテーブルセッティングをしていても食べるのはアメリカの食べ物ですが、
それでも閉塞感のある艦内において食事は何よりもの楽しみですから、
腕利きの調理員が心を込めて用意したものを、せめてこうやって
ちゃんとしたテーブルで食べることを大事な習慣にしていたのでしょう。

士官用のキッチンも兵員用とは別です。
こんなに狭いんだから一緒にすれば場所の節約にもなると思うのですが、
軍というところは必ずこういうところをきっちりと分けます。
 

パンケーキにハムエッグ、といった朝食が用意されていますが、
ちゃんと陶器の食器に盛り付けてありますね。

 

二人、あるいは三人寝ることができる個室の壁に掛けられた
軍服はルテナント・ジュニア・グレイド、中尉のもの。

この部屋は「チャプレンズ・ルーム」、つまり従軍牧師の部屋で、
潜水艦にすら牧師を乗せていたということになります。
乗員総数66名で、士官は6名、そのうち1名が牧師だったということで、
アメリカ海軍にとっての従軍牧師というのは、日本海軍の艦艇に
必ず神棚があるのと同じであるとわたしは位置付けたのですが、
この説、どうでしょうか。

ベッドの上に演出として置かれたギターと雑誌「ライフ」。

バラオ級の定員は85名ですが、それよりかなり少ない当艦は、
居住スペースにかなり余裕があって、もしかしたら
従軍牧師は専用の個室を(告解室兼用で)もらえたのかもしれません。

右側の壁にある丸いものは折りたたみ式の洗面台。
・・・・・じゃないよね多分。

カトリックでは司祭が額に水をかけて、

「父と子と聖霊の御名によって、あなたを洗う」 

という儀式を行うということなのでその専用台が、
まさかこれ・・・・?

誰も見たことはありませんが、従軍牧師の乗艦していた潜水艦が
魚雷にやられてもうだめだという時には、乗員たちは牧師の元に
集まり、牧師は彼らと自分自身のために祈りを捧げたのでしょうか。

沈没前のタイタニック号で群がる船客たちに告解を与えた牧師が、
彼自身もまた今から神に召されることを覚悟していたように。 

ベッドの上にある金属のプレートは、造船会社がつけたもの。
例の、仕事が遅くて不確実で、これ以降の発注を取り消された
クランプ造船会社の名前と起工日、進水日が刻まれています。 

ベッド上右側の写真はもちろんFDR。
左はレイモンド・スプルーアンス海軍大将でしょうね。

何しろ「ライオンフィッシュ」の艤装&初代艦長は元帥の息子、
スプルーアンス少佐だったということなので。

エドワード・D・スプルーアンス

シャープで冷徹でいかにもインテリそうな父親の風貌に比べて、息子は
どちらかというとやんちゃで闊達な面影を残しているように見えます。
終戦後は、一時的に降伏した伊号潜水艦の艦長をしていたこともありました。

このスプルーアンスの息子がその後どうなったのかというと、
なんと1969年、54歳の若さで交通事故により死亡してしまったのです。

スプルーアンスは元帥にはなれなかったものの、終生海軍大将として
現役のまま、つまり俸給も得ていたということです。
晩年には椎間板ヘルニアと白内障を患い、動脈硬化症を併発して
カリフォルニアのペブルビーチで闘病生活を送っていました。

そんなおり、長男の事故死の知らせを受けたスプルーアンスは、
精神に異常をきたして認知症のようになってしまったといいます。
そして同じ年の12月に息子の後を追うように亡くなりました。

死後はニミッツ元帥とともにサンフランシスコのゴールデンゲートにある
国立墓地に眠っているということです。

旧式のタイプライターに封書、卓上のカレンダーは
1945年5月になっています。

区画同士を区切る扉は他の潜水艦に比しても小さい気がしました。
扉の右下にあるのはクランプ造船所ではなくポーツマスの
海軍工廠で作られた非常用操舵室バッテリー。

黒いパネルは開くと各区画のボルトメータースイッチがあります。

煌々と明かりのついた機械室。

コントロールルームに差し掛かってきました。

 

下階から続いていそうな方向度目盛りのついたバー。
「ペリスコープ・ウェル」と言われるものでしょうか。 

操舵室。
展示にあたっては直接手で触れられないようにアクリルでカバーしてあります。

手前の大きな車輪が"helm"、舵のようです。

こちらはバウプレーン(前方の安定舵)を操作するためのホイール。
右と左を別々に操作したようです。

操舵席と機器の間には甲板に出るための垂直梯子がみえます。

ドアやハッチが潜航時空いているかどうかが、
このインジケーターで一覧できることになっています。

これによると外とつながりハッチ等で開け閉めする出入り口は前方に2、
後方に2、中央に1と全部で5つあるらしいことがわかります。 

"DEAD RECKONING TRACER"

「死んだ推測の追跡」ってなんですかって感じですが、
デッドレコニングで「推測航法」を意味します。

わかっている艦位を記していくことによってその情報から
これからの航路を決定していくというのが「航法」の定義です。

航法は

天則航法(方位磁針や六分儀、クロノメーター、海図などを用いる)

山アテ航法(陸地の特徴的な地形を目印にする)

スターナビゲーション(天体の位置や動き、風向、海流や波浪、生物相などから総合的に判断)

などがありますが、いずれも船から目視するもので、
このころの潜水艦は、浮上して行うことが基本でした。

これはどういうことかというと、索敵されていたり、悪天候の際には
航法を行うことができず、したがって自分がどこにいるのか見失い、
誤差が生じることがあったということなのです。

天測が出来ない時や、潜航中は、速力と針路、時間の経過から、
計算で自艦の位置を推定しますが、これが推測航法といいます。

ジャイロコンパスで針路、速力計で速さはわかりますから、
それらの情報がこのトレーサー、航跡自画器に推測艦位を出していきます。

ちなみに潜水艦の速度を知るには、ピトースウォード(ロッドメーター)
と呼ばれる金属のブレードが船殻から海中に突き出しており、
これが船速を感知してピトーメーターログにデータとして取り込まれます。

(日本語では情報を見つけられなかったため、英語のままですが、
おそらく何か適正な名称があるのだと思います)

ギャレーです。
「パンパニト」にもあった、ミキサーがここにも。
この狭いキッチンでおそらくパンも粉から作ったのでしょう。

左手にはガラスをはめた引き戸式の小窓があり、兵員には
ここから食事を出していたらしいことがわかります。 

そういえば、先日お話した映画「勝利への潜行」で、
アイドルの写真を取り上げられた水兵が、ここから手を突っ込んで

「返してくれ!」

と懇願するも、写真を見ているキッチンの主に
跳ね上げ式の窓でパチンと挟まれ、からかわれるというシーンがありました。 

その窓がこの写真の左に見えています。
なぜかここに「コレヒドールからの脱出」という題で
マッカーサーが脱出した時のことが書いてあるので、何かと思えば

「マッカーサーがそのときに乗り込んだPTボートの船長、
シューマッハー中尉はその後、ライオンフィッシュの副長になった」

というそれがどうした情報でした。
ちなみにこのときには3隻の敵駆逐艦に追われ、砲火を受けつつも、
勇敢なPTボートの船長はそれをかいくぐって脱出を成功させたそうです。 

ちなみにこんなに短い文章なのに、一番最初に

「マッカーサー将軍が万が一捕虜になっては士気に関わる、
という判断がなされたため、ルーズベルト大統領の脱出命令が出された」

とちゃんと言い訳っぽく書いてあるのには少しウケました。
アメリカでもこのときの脱出を良く言わない人がいるみたいです。

まあ、部下を置き去りに敵前逃亡、というのはどう言い訳しても事実だし(ゲス顔)

ここがクルーズ・メス、兵員食堂。
ぎゅうぎゅうに座っても一度に食事ができるのは20人くらいです。 

テーブルの端は1センチくらいのガードが取り付けられ、
艦が揺れても滑り落ちないようになっています。

窓ガラスに貼ってあるお知らせは、元サブマリナーで、
「ライオンフィッシュ」の展示に際してボランティアとして
様々な協力をしてくれたベテランたちの名前と、
彼らに対する感謝の言葉が書かれていました。

 

続く。