ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍兵学校67期遠洋航海アルバムより~彩帆島の運動会

2015-03-13 | 海軍


2014年度海上自衛隊練習艦隊は、大戦中にガナルカナルで戦死した日本軍将兵たちのご遺骨を
日本に帰国させるという歴史的な任務を遂行させた初めての遠洋航海となりました。

そのご遺骨の帰国式に来賓として参加させて頂く光栄を得たわたしですが、
その出席に関する事務的な連絡をしてくださった海幕の一佐は、

「帰国のための航海中も、御遺骨に手を合わせる乗組員が
昼夜を問わず後を絶たなかったと聞きました。
実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」

というご報告をお礼への返事に書き添えてくださったものです。

練習艦隊というのが初級士官の教育が目的です。
軍艦の上で行われるすべての営み、作業の手順ややり方はもちろん、
昔は(今もかな)六分儀(セクスタント)を使っての天測も行われましたし、
今回皆さまにお見せしている写真の中でも、候補生甲板士官が慣れない指揮を執りつつ
水兵たちの作業に立ち会っているらしい様子を見ることができます。

そして海幕の一佐のおっしゃるように、最も大切なのが「精神教育」でしょう。
今まで一般大学や防衛大学で学んできた初級士官たちの、遠洋航海は

「社会人デビュー」であり、同時に指揮官として、自分より年下の部下をも
率いていかねばならないのですから、まずその心構えを、シーマンシップと共に
その柔軟な若い心にみっちりと植えつけて育てていく必要があるのです。

どのようにそれを指導していくかは練習艦隊の指揮官にとっても重要事で、
常にそういう機会を捉えては教育の糧とする用意をしているのかと思われます。

今お話ししている遠洋航海の前年度、昭和13年度のことです。
この年は、兵学校66期と機関学校47期、主計27期が同行したのですが、
機関の47期に、戦後自衛隊で海将補まで務めた上村嵐氏がいました。

その上村氏が書いていたことですが、この航海で鎮海(釜山から西へ100kmあたりにあった
海軍の要港で14年にも寄港している)に入港したとき、
「八雲」か「磐手」のスクリューに何かが絡まって回転が不能になってしまいました。
指揮官(艦長だったか司令官だったかは説明なし)が候補生を集めて

「こんな時にはどのような処置をとったらよいか」

と質問をしました。
突然のことで候補生たちが返答できずにいると、その指揮官は

「こうするのだ」

と言うやいなや、海の中にそのまま飛び込んだのです。
この年度の遠洋航海は最も遠い寄港地がマニラという、わずか2ヶ月の
「短縮航海」だったのですが、出港日が11月16日。
少なくともこのときには12月近かったと思われるのですが、
その冷たい海に軍服のまま飛び込み、スクリューにからまっていたロープを
手で取り除いたということです。

上村氏はこの話を海軍の伝統である「指揮官率先」「指揮官先頭」を説明するために
例として挙げているのですが、おそらくこの指揮官は、このアクシデントを
候補生たちに施す精神教育のための奇貨として、敢えてこの挙に及んだという気がします。
(こういう場合でなければやっていないとかいう意味ではありませんよ(^◇^;))

それにしてもこのとき物理的に動かなくなったスクリューからロープを外すとき、
飛び込む前に動力を止めなかったのか(外した時動き出したら危ないし)とか、
せめて靴は脱いだのかとか、いろんなことが一気に気になったのはわたしだけでしょうか。

この話の真意に疑念を唱えるつもりは全くありませんが、一つ気になったので
ちょっと書いておくと、13年の遠洋航海で鎮海には寄港していません。
この著書をを上村氏が著したのは2000年ということなので、もしかしたら
この年の二つ目の停泊港となった「青島」と勘違いされたのかなという気がします。

さて、それでは当時日本が委託統治していたマーシャル諸島のヤルートを出港して
次の泊地であるサイパンに向かう航海の写真の続きから参りましょう。




なんと!

水が超貴重な海の上では、少尉候補生ですらスコールを皆で浴びるのです。
航海中、特に潜水艦などはスコールの雲を見つけるとそこに突入していき、
入浴と洗濯を済ませてしまうと聞いたことがあります。

それにしても日頃鍛えている若い筋肉は惚れ惚れとするほど美しいですね。
何人かがカメラの方を見て「こんなところ撮ってんじゃねえよ」みたいな顔をしていますが。



サイパンは前回ヤルート島のときにお話ししたように、第一次世界大戦後
国連から委託を受けて日本が正式に統治していた南洋諸島のひとつで、
昔はスペインが統治してキリスト教を広めました。
その後、米西戦争でスペインが負け、アメリカはサイパンをドイツに売却したのです。

あれ?

つまりこうですよね。

スペイン領

→アメリカがスペインから取り上げてドイツに売り、ドイツ領

→第一次世界大戦の時日本が侵攻 軍艦「香取」で海軍が上陸

→第一次世界大戦でドイツが負けたので国連の指名で日本統治

→日本、戦争に負ける


この後です。

→戦後アメリカの軍政下に置かれる

→国連が信託統治することにし、現在アメリカ自治領


アメリカがドイツに売った、ってことはアメリカはその代金をドイツから受け取っているんですよね?
その時にアメリカは領有権を放棄していて、国連の指名で日本が統治したのに、
戦後はちゃっかり昔売ったはずのサイパンをタダで取り戻し自治領にしていると・・・。

なんかこれ、ずるくないですか?


日本統治時代はサイパン島は「彩帆島」となかなかオシャレな漢字を当てられ、
委任統治中には都市開発や公衆衛生、産業振興、教育政策が急速に推進されました。
日本政府はここサイパン、ロタ、テニアンにサトウキビ畠を作り、製糖を第一次産業としました。

今でもサイパンに観光に行くとプランテーションと港をつなぐ「シュガートレイン」や、
「シュガーキング」と呼ばれた松江春次の銅像を今でも見ることができます。

この松江春次は海軍と少々の関係がありますのでそのことをお話ししておくと、
政治とあまり関わりなくきた海軍があるときこれではいかん!と思い、
高木惣吉の発案で、日本の戦争理念の研究、生産増強策の提案、海軍政治力の補強に貢献すべく、
各方面より人材を確保して「Brain trust」ブレイントラストというものを組織しました。

哲学者和辻哲郎、社会学者清水幾太郎、実業家藤山愛一郎、劇作家岸田国士・・。

松江は各界の知識人で構成されたこのブレイントラストに海軍省顧問として参加していたということです。


産業がうまくいくようになったサイパンには、日本(沖縄がほとんど)はもとより、
台湾、朝鮮からの移民が続々と入殖するようになった結果、1943年の時点での人口比率は

日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人カナカ人3,926人、外国人11人

となっていました。
ちなみに現在のサイパンではチャモロ人は「政府から保護されていて仕事をせず太るばかり」だと
現地のホテルのフィリピン人スタッフがわずかに軽蔑したように言っていました。


当時のサイパンには学校はもちろん、「香取神社」という神社もありました。
1914年に「香取」がサイパンに侵攻したとき、ドイツ軍の望楼があった小山に小祠を建てて、
軍艦香取内に祀られていた香取神宮の分霊(祭神 経津主神)を分祀したものです。

この香取神社のある山は「香取山」と名付けられました。

これらのことを調べるためにいろんなサイトを覗いていたところ、
サイパン専門のツァー会社のHPで

「日本は
神社を作ると日本人はもちろん、島にいる全ての人々に参拝を強制したそうです」

と伝聞形でこんなことを書いているのを見つけました。
参拝を強制って・・・?(驚愕)

当の日本人にも「強制されて神社参拝」をした人はおそらく一人もいないと思いますし、
(だいたい日本人なら強制されなくても行きますよね。初詣とか)
統治するのにあたっては島民に宗教を強制しない、というのは普通に国連の通達にもあったことなので、
真面目な日本がこれを守らないはずはないのですが、どこからこんな話が出てきたのかしら。
それに現実問題、参拝などという個人的なものをどうやって強制したのかしら。

 なんというか、戦前の日本のやることはすべて悪と思い込んでいる人の思い込み?
統治時代名前を奪われたとか言葉を奪われたと騒ぐ人たちと同じ匂いがします。

余談ですが、台湾でお会いした蔡焜燦さん(予測変換で一発で出てきた・・・有名だったんだ)
が言っていたことによると、蔡さんが日本軍にいた時、
蔡さんはじめ台湾出身者は皆台湾名を名乗っていました。
日本名を名乗るか通名を名乗るかは本人の自由で、蔡さんはそうしていたのですが、
朝鮮出身者は、全員自主的に日本名を名乗っていたそうです。

しかし日本が負けた後、列車の中などで横暴に振る舞っているのは、
なぜか必ず全て朝鮮人であったということでした。





海軍の練習艦隊がその航路の最後にサイパンに立ち寄ることは何度か行われました。
現地では候補生たち、艦隊一行を迎えるための行事として、親善のための運動会を催しました。
これもおそらく何度となく行われてきたことだったのでしょう。

練習艦隊はこの前にトラック、パラオに立ち寄って、半日程度の見学をし、
サイパンでは12月7日から10日までの三日間を過ごしています。 




運動会に特別出演、サイパン島民。
おそらくチャモロ人たちだと思われます。
このアルバムはほとんど感想らしきものが書かれていないのですが、
唯一ここに書かれた感想、

「サイパン島民は全く土人離れして居る」

という言葉が、越山候補生の素直な驚きを表しています。
おそらくこれはヤルート島民との比較において出てきた感慨だと思われますが、
これはどういうことかというと、日本の統治下で文化の影響を受けているため、
たとえば「サイパン音頭」などという日本語の踊りに溌剌と興じる様子が、
どうも未開の土人というものではなかったのでしょう。



この時の踊りが大変好評だったせいか、司令官は特別賞を出したようです。
嬉しそうな顔をしているのははっきり言って賞品を持っている一人だけで、
あとは地なのか仏頂面なのか、無表情な島民の皆さんですが。


さて、この運動会が行われてわずか数年後のことになりますが、
侵攻してきたアメリカ軍と日本軍の間に熾烈な戦闘が行われ、サイパンは「死の島」と化します。 

諸島防衛が検討されるようになった時、サイパン島民のうち婦女子、老人の帰国が検討され
島のひとところに帰国する者が集まったのですが、「亜米利加丸」が米潜に撃沈されて
500名が犠牲になってからは疎開は遅々として進まず、 戦闘が始まると多くの民間人が
巻き込まれて死傷したり、米軍に捕まるのを恐れて崖から飛び降りて自殺したりしました。

崖から入水する一人の婦人のフィルムが残されていて、
皆さんも一度はどこかで
見たことがあるかもしれませんが、
彼女の身元は分かっていて、会津出身の室井ヨシさんだそうです。


サイパンの在留邦人の死者は8千人から1万人といわれており、
戦闘終了後、米軍に保護されたのは14,949名。

内訳は 日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人、チャモロ族2,350人・カナカ族875人でした。


この時に海軍の練習艦隊乗員と1日運動会に興じた日本人のうち、割合にすれば
ちょうど半分がこの日からわずか5年後に亡くなったことになります。

67期史を編纂したもと67期生徒は、この日のことをこう書いています。


「サイパンでは1日乗員が陸上の学校校庭で、子供や女学生を含む
在留邦人とともに、運動会に楽しいひと時をすごした。
我々と一緒に走った、これらの人々が5年後のサイパン戦で、
どんな運命をたどったのであろうかと思うと胸が痛む」


サイパンを出た後、最後の寄港地は父島の二見港でした。
この季節特有の雨が降っていたそうです。

横須賀に帰着する前、館山に仮泊して、艦体の外弦総塗粧を行いました。
自衛隊の練習艦隊でもそうだったそうですが、この時に次年度の艦隊編成、
訓練に備えた士官の大移動が発令され、横須賀入港を待たずして、館山で退艦、
そのまま赴任に向かう士官もそうとうあったということです。

かくして練習艦隊は12月20日、懐かしの横須賀に入港、
兵科候補生240名は即日霞ヶ浦航空隊付を命ぜられ退艦赴任、
機関科、主計科候補生は、艦隊は移乗を命ぜられて各艦所在地に向かいました。



昭和14年度、海軍兵学校67期の練習後悔の総航程14,833浬。
近海4,453浬、遠洋10380浬、行動日数は149日(7月25~12月20日)でした。




兵学校67期遠洋航海シリーズ 終わり 

 


海軍兵学校67期遠洋航海アルバムより~ヤルート島の「土人踊り」

2015-03-12 | 海軍

ハワイを出港した昭和14年の練習艦隊「八雲」「磐手」は、
太平洋をさらにすこし南下していきます。
次の停泊地、ヤルートに向かうためです。

ヤルートというのはマーシャル諸島の環礁にある小さな島です。
なぜこのとき練習艦隊がヤルートに向かったかというと、当時ここは
日本政府が委託統治していたからでした。

皆さんは「南洋庁」という言葉を聞いたことがありますか。

第一次世界大戦の後、連合国とドイツの間で調印されたヴェルサイユ条約で、
敗戦したドイツがそれまで植民地にしていたいくつかの領土は、
国際連盟に指名された国が委託統治することになりました。

アフリカのトーゴ、ルワンダ、カメルーン、タンガニーカその他、
そして太平洋のニューギニア、サモア、南西諸島などです。

日本は第一次世界大戦にはちょっと参加したため、ドイツ領ニューギニアであったうちの

マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島

を南洋諸島として国連から委託されて統治することになったのです。
日本はこれで、

サイパン・ヤップ・パラオ・トラック・ポナペ・ヤルート

などに包括される島々を植民地として支配することになったわけですが、
日本政府はこれらの南洋諸島を統治するために「南洋庁」という役所を作りました。
南洋庁の本部はパラオのコロールに、上の各ゾーンごとに支庁が一つづつ置かれました。

委託統治については、国際連盟の定めた委託統治条項を守ることが定められており、

  • 地域住民の福祉のための施政を行う義務(第2条)
  • 奴隷売買・強制労働の禁止(第3条)
  • 土着民に対する酒類供給の禁止(第3条)
  • 土着民に対する軍事教練の禁止(第4条)
  • 軍事基地設置の禁止(第4条)
  • 信仰の自由及び国際連盟加盟国民による聖職者の行動の自由(第5条)
  • 毎年、施政年報を国際連盟に提出する義務(第6条)

という内容でした。
つまり植民地じゃないのよ、統治なのよ、ということですね。
しかし、特に「強制労働禁止」とか「福祉のための施政」とか「宗教の自由」とか、
果たして他の、特にアフリカの統治を行ったイギリスやらフランスやらは、
本当にこれを守っていたのか、とすこし疑ってしまいますね。

実際はその懸念通りで、国連の「原住民の自主独立を尊重した上での統治」などというお題目を
まともに実行しようとしていた国などなく、名目は統治、実態は植民地というのが現実でした。

その中で、日本の統治は真面目に国連の指示を守ろうとしたと言えるもので、
何と言っても他の委任国との違いは原住民のための学校があったことでした。
ただし、この学校での初等教育は日本語で行われています。
日本政府が学校を作る以上そうなってしまうのは当然なのですが、
これが「原住民の自主独立」に則しているかというとちょっと違いますしね。

これをもって「言葉を奪われた」の「文化を強制した」の、未だに憎悪を剥き出しにして、
終わることのない
謝罪と賠償を求めてくる国も世界には約1カ国あるわけですが、
当時非統治国でなされた統治国による教育の是非を、わたしは言っているのではありません。
今現代の価値観で帝国主義の善悪を論じるのと同様に、それは意味のないことだと思います。

日本の南洋庁は現地に公立の病院を作り、気象観測所を作り、
土木課などを置いてインフラの整備を行い、農業、水産、林業、畜産と、
あらゆる分野を日本の統治下で行ってきました。

この練習艦隊がヤルートを訪れたとき、すでに統治が始まってから20年近く経過しており、 
南西諸島はすでに「日本」となっていたということです。

ここで改めて海軍兵学校の歴代遠洋航海の航路、寄港地を調べてみると、
大正12年、「磐手」の艦長が米内光政大佐であった年に初めて、

「トラック・パラオ・サイパン」

という南洋庁の支庁がある島への訪問が始まっています。
以降、ヤルートを加えたこの4箇所が寄港地の定番となり、
ほとんどの練習艦隊がこのいずれかの島に錨を下ろすことになったのでした。


という説明はそこそこにして、ヒロ出港後から、続きです。



「艦内運動会」とありますが、なんとなく赤道祭りみたいですね。

この練習艦隊は赤道を越えてはいませんが、赤道に近づいたので、
赤道祭りっぽく運動会の仮装行列をやってみたということでよろしいでしょうか。

赤道祭りというのは外来のしきたりで、もともとは大航海時代、
すなわち帆船で航海していた時代に、赤道近くになると無風になることから、
神様に風を吹かせてくださいとお願いした儀式が元になっているそうです。

動力船になってからは儀式として残り、戦争中も大抵の船が赤道を越す時には
祭りこそしないまでも皆が一斉に祈りを捧げたものだそうで、
それは海中を進む潜水艦の中においても
変わらずに行われたということです。

我が海軍では日頃の厳格さをここぞとかなぐり捨て、仮装して無礼講で祭りを行った
(もちろん平時のことですが)ということですので、

この仮装も「プチ赤道祭り」「ニアミス赤道祭り」の意味で行われたのではないでしょうか。



工夫を凝らした仮装ですが、特に一番右、トラウマになるくらいキモい。

一つ上写真での仮装している乗組員の皆さんですが、
着物やヅラ、看護婦さんの衣装なんかをいったいどうやって調達したのか・・。

そして、写真に写っている誰一人としてニコリともしていないのがシュールです。

特に赤鬼青鬼の一人、結構なイケメンですが、目を伏せて実に暗い。
決してやりたくてやっているわけではない、みたいなオーラ全開です。



ちなみにわが自衛隊の赤道祭りの様子を拾ってきましたのでどうぞ。

赤道を越えた時の南極観測船「しらせ」での赤道祭りの模様。
赤鬼さんの無表情に、昭和14年の艦上の鬼と同じような不承不承さが見て取れます。
え?鬼になりきってるだけだって?


それにしても、こ、この凝りようは・・・・・。


この「赤道門」はもしかしたら艦内に常備してあるもの?
そしてあまりにも似合いすぎている赤鬼と青鬼のパンツは一体どこで購入したのか。
こういうものを調達、制作するのに、公費は使えないときいたことがあるので、
もしかしたら全てポケットマネーで賄っているのか、などと色んなことが気になります。

ところでなんで赤道祭りに鬼が出ることになったんでしょうね。
どなたかこのあたりのいわれに詳しい方おられませんでしょうか。




艦内で行うのでどうしてもこういう小学校の運動会みたいなものになってしまうのかと・・。
パン食い競争のような感じですが、ロープの先に吊られているのは何でしょうか。
タバコのようにも見えますが、魚肉ソーセージかなんかかしら。
こういう競技の場合、圧倒的に背の低い人が有利です。(一番左)

ところで彼らの着ている2種軍装はすでに兵学校のリーファージャケット
(裾の短い上着)ではなくなっていますね。
このリーファーという言葉はファッション辞典で知った言葉ですが、
「士官候補生」という意味もあるということだったのでreeferという綴りで
調べたところ、これは「縮帆する人」という意味しかありませんでした。

士官候補生というとカデットとかミシップマンしか知らなかったのですが、
もしかしたらこういう隠語もあるのかもしれません。


あらためていただいた写真を確かめてみると、卒業したばかりの少尉候補生は

抱きミョウガの軍帽に短いジャケットという独特のスタイルであるはずなのですが、
いつの間に彼らは少尉軍服に着替えることを許されたのでしょうか。



内地から郵便が届きました。
後ろには小包もありますね。

郵便到着!とエクスクラメーションマークを打っているあたりに、
越山候補生のときめいた気持ちが表れています。

練習艦隊への手紙は、おそらく各寄港地に送られて艦隊が到着するのを
待っているのだと思われますが、彼らはいったいどのくらいの割で
家族からの郵便を受け取ることができたのでしょうか。



ここでの一大イベントはヤルートの島民の踊りです。

先日、陸軍部隊の「魔のサラワケット越え」を率いた「栄光マラソン部隊」
の話に興味を持って、その隊長、北本中尉が書いた本を手に入れたのですが、
この本では、苦楽を共にした愛すべき原住民のことを普通に「土人」と呼んでいます。

「土人」という言葉はネットで「民度の低い民族」というネガティブな意味で使用されるのみで、

放送禁止用語にもなっており、こういうのを見るとアレっと思うのですが、よく考えれば
オリジナルの「土人」には読んで字のごとく現地の(土の)人という意味しかなく、
なんでこれが差別用語に指定されたのか不思議でなりません。

こういうのって、差別用語ということに決めたから、否定的なイメージを持つんですよ。
差別が作り出される一つの構図ですね。



で、このヤルート島民も当時は「土人」と言われていたわけですが、
写真を見ると絵に描いたような、というかまるで冒険ダン吉に出てくる人たちそのもの。
見物している練習艦隊の皆さんも頭の中では

「冒険ダン吉の土人そっくりだなあ」

という感想をお持ちだったと思うのですがどうでしょうか。

ヤルートの島民は日本の統治下で学校に学び、読み書きができましたし、

統治後20年経っていたこの頃では、むしろ普段こんなスタイルはしておらず、
候補生たちに見せるために特別に腰蓑をまとっただけであると思うのですが。


ヤルートは環礁なので大型船の泊地に適しています。

この練習艦隊が寄港した直後くらいから、海軍はここに航空基地などを備えて、
対米戦に備えていたということです。

開戦後しばらくは後方基地となっていたのですが、昭和18年頃には連合軍の来襲があり、
昭和19年にかけては連日激しい空襲や艦砲射撃にさらされる激戦地となってしまいました。
食料も不足し、末期には毎日10名が餓死していくという中で、ここでも捕虜の処刑が行われ、
報復裁判では、自決した司令官の部下が、わずか30分の裁判を経て絞首刑に処せられています。


わずかこのときから数年で、この平和な環礁が悲劇の舞台となるとはあまり想像せず、
練習艦隊の乗員たちは、珍しい島民の踊りに目を輝かせて見入ったに違いありません。




ヤルートを出港するとき、現地の生鮮食料品が寄贈され積み込まれました。
白黒なのでわかりにくいですが、ドリアンのようなものが見えます。
手前の右側にあるのはおそらくジャックフルーツだと思われます。

なんでも地べたにゴロゴロなっている、やる気のない植物だとかで、
暑いところで文明の発達が遅れるのは、こういう食物を努力せずに食べられて
創意工夫をしようとしないからだ、という話をふと思い出しました。

この後、練習艦隊は太平洋を西北に進み、最後の寄港地サイパンに向かいます。


続く。




 


「球磨」慰霊碑の「球」

2015-03-10 | 海軍

呉海軍墓地の慰霊碑を元に日本海軍軍艦や海軍部隊を紹介していく
「呉海軍墓地シリーズ」、今日は重巡と軽巡を三隻ご紹介します。 

まずは傑作と言われた大正年間のこの巡洋艦から。

重巡洋艦「加古」慰霊碑

石碑の揮毫は最後の艦長となった高橋雄次大佐によるものです。

「加古」って加古川の加古だろ?重巡なのに「加古」っておかしくね?

と思われた方、あなたは鋭い。

「重巡は山、軽巡は川の名前」という海軍艦艇の命名基準に例外が出てきてしまいました。

この変則にはワシントン軍縮会議が関係しています。
「加古」は「川内型」軽巡の4番艦となる予定で建造されかけていたのですが、
ワシントン条約を受けて一旦建造中止になってから、あらためて工事が再開され、

さらにその後”ある事情”で名称だけはそのままに一等巡洋艦となったので、
重巡でありながら川の名前を持つことになったということです。

その”ある事情”についてはご存知の方はご存知だと思いますが、のちのエントリで
くわし~~くお話しするつもりですので、今はスルーしておいてください(笑) 

「加古」は「古鷹」型の第1艦です。

「1番艦なら『加古』がネームシップだろ?なぜ『古鷹型』じゃないんだ?」

と思われた方、あなたも鋭い。
もともとこの型は「加古型」となるはずだったのですが、「加古」竣工が事故で遅れたためです。

竣工直前にクレーンで艦体を損傷したのが原因だそうです。

2番艦の「古鷹」とともに、造船界の鬼才平賀譲中将が着想し、

ワシントン条約の制限下、いかに少ないトン数でどれだけ重武装を備えるか、
という要求に応えるべく技術陣が総力を絞った造船史に残る傑作艦艇の一つ。

必要は発明の母という言葉がつい浮かんできますね。

また後で「加古」を除いた「古鷹」「青葉」「衣笠」という

「山三人娘」について詳しくお話しするつもりですが、
(なぜハブったかというと、エントリのタイトルの関係上)
この4隻で、五島存知少将を司令とする第6戦隊に編入された「加古」は、
この体制で開戦を迎えています。

1942年8月8日、「加古」は第6戦隊の姉妹、従姉妹たち4隻と
第1次ソロモン海戦と名付けられた夜戦で連合軍の重巡4隻を撃沈しています。

昔、「重巡洋艦アストリア号の運んだものというエントリで、
駐米大使斎藤博の遺骨を日本に運んできた重巡「アストリア」が、ほかでもない
その日本の手によって屠られ戦没した、という縁についてお話ししたことがあります。
このとき重巡「アストリア」に止めをさしたのが、重巡「加古」でした。


「アストリア」だけでなく、「ヴィンセンス」「クィンシー」「キャンベラ」と
次々に敵艦を撃破し、この海戦で最も活躍した殊勲艦は「加古」だったのですが、
その帰路、旗艦「青葉」の後方800mを航行しながらニューアイルランド島北方まで来たとき、
米潜水艦「S-44」に捕捉され、右舷艦首に1本、右舷中部と後部に各1本ずつ魚雷が命中。

右舷側に大傾斜し、67名の乗員とともに沈没しました。

被雷直前に乗員の疲労が激しいことを見て取った副長が、艦長の許可を得て

換気のために舷窓を開けさせたことが、早い沈没につながった言われます。


これに遡ること開戦前、英海軍の重巡「サフォーク」が、英国王室のヘンリー王子の

親善訪問のために来日した時、これを迎えたのは「加古」と「古鷹」でした。
このとき、交流のため日英の乗員たちは、互いの艦を見学し合いましたが、
「加古」を見学したイギリス海軍士官は、

「斯うした窮屈な艦を日本が造り得るのは、せいぜいあと十年だらう。
今に国民の生活程度が向上して、こんな住居(すまゐ)には堪えられなくなる時が
日本にもやがて来るに違ひない。」

と感想を書き残しています。

つまり生活程度が低いから居住区が狭くとも平気なのだろうと言っとるわけですね。

この士官が「せいぜい10年たてば耐えられなくなるので居住区は広くなる」
と予言したのは昭和4年のことでした。
「加古」が沈没したときにはすでに13年が経っていたわけですが、この間できた艦も
広さという点ではあまり変わりがなかったようです。


しかし「加古」の沈没を早めたのが

「居住区が狭く空気が悪かったので舷窓を開けざるを得なかった」

ということなのだとしたら、軍艦の機能そのものには関係なく、二の次三の次にされた
「居住性」が実は大きな欠陥だったという結果になります。
こればかりはさしもの平賀先生も予想していなかったに違いありません。



碑文を書いた艦長の高橋雄次元大佐は、このとき他の650名の乗員とともに救助されました。
 



軽巡洋艦「鬼怒」


 「鬼怒」は「長良」型軽巡の5番艦です。
大正年間に建造され、1932年には海軍機関学校の練習艦になったりして、
比較的まったりと過ごしていたのですが、開戦するやいなや「鬼怒」は
第2潜水戦隊の旗艦として潜水艦8隻を従え、マレー作戦、蘭印作戦、ジャワ作戦と
矢継ぎ早に駆り出されることになります。

その後、「長良」「五十鈴」「名取」と共に第16戦隊に編入、旗艦となり、
ニューギニア西武各地の攻略及び掃討戦に従事しました。

途中で主砲の換装なども行われているのですが、老朽艦のせいなのか、なぜか
魚雷発射管の換装だけはしてもらえず、最後まで90式魚雷を搭載していました。

お年寄りなのに・・・・ってお年寄りだったからかしら。


「鬼怒」は昭和19年10月、サボ沖海戦で大破した重巡「青葉」をマニラまで曳航し、
そのあと陸兵をレイテ島まで増援輸送に成功しましたが、その帰途、
米軍第7艦隊空母搭載機の攻撃により、3発の命中弾と多数の至近弾により
艦体を蜂の巣のような穴だらけにされ、戦死者440名と共に海に沈んでいきました。

「鬼怒」の生存者を救出するために現場に急行していた駆逐艦「不知火」も、
このときパナイ島沖で撃沈されています。

しかし沈没まで2時間半と時間があったため、生存者はちょうど現場を通りかかった
第一輸送隊の輸送艦3隻に救助されました。

このとき救助された中に、戦後ビハール号事件(捕虜殺害事件)
の責任を負わされ、戦犯として処刑された左近允尚敏中将の息子尚敏大尉がいました。
 



ここにもある「世界人類が平和でありますように」の杭。

前にこれを見たのはボストンのウェルズリー大学のキャンパスでした。
(いまだにこの正体は謎・・・・誰かご存知ですか)




軽巡洋艦「球磨」慰霊碑


「若い時(竣工当時)は「長門」すら上回る快速を誇ったもんじゃ。

ちなみに「長門」は8万馬力のところ、こちら9万馬力だったんじゃよ」
(日本昔話ナレーターの声で)


先ほど「鬼怒」にお年寄りなどと言ってしまいましたが、
それでいうとこちらの「球磨」も大正9年就役で、大戦末期にはかなりのお歳でした。
というわけで「キヌさん」「クマさん」ともども、老体に鞭打って、
美容整形改装を施して超若返り大東亜戦争に参加していますが、このときのクマさん、

装備を乗せられすぎて、かつての快速もヨタヨタ状態になってしまっていました。

お年寄りはいたわりましょう(T_T)

球磨」はフィリピンで陸軍川口支隊、河村支隊の上陸を援護するなどし、
改修後は主に蘭印で活動していましたが、昭和19年の1月、

イギリス海軍のツタンカーメン級潜水艦「タリホー」

に捕捉され魚雷を2発受けて沈没しました。
本筋ではないのですが、この艦名って、等級も含めなんか変じゃないですか?
Tally-Ho」
と書いてたりほーと読む。

中国人の名前かと思ったら、イギリスらしくキツネ狩りの時にかける掛け声だとか。

イギリス海軍の艦名は地名、人名の他に無理やり作ったみたいな名前も結構あり、
「アタッカー」級空母には「ハンター」「ストライカー」「アベンジャー」にならんで
「バイター」(噛む人)なんて、日本では到底受け入れられない響きのものや、 
「ストーカー」なんて今では残念な意味しかない空母もいたようで。

・・・ていうかいやだなあ空母「ストーカー」って。 

まあイギリス人から見れば「球磨」型の「KUMA 」「TAMA」「OI」とか、
そんな変な名前つけるお前らに言われたくねえというものかもしれませんが。

(ちなみに今回英艦艇の名称を見ていて「エイコーン」(どんぐり)というのがあり

思わず笑いかけたのですが、我が海軍には「椎」(改松型橘)があったんだったorz
どこの海軍も艦名が出尽すと苦労している模様)


ちなみにこのとき「球磨」は駆逐艦「浦波」とともに対潜訓練をするところでした。

潜水艦タリ・ホーの攻撃によって訓練が実戦になってしまったのです。
いや、訓練が間に合わなかったと考えるべきでしょうか。

敵の来襲があったとき

「これは訓練にあらず!」

という言葉が使われたかどうかが気になりますね。(わたしだけかな)

この沈没で、「球磨」乗員138名が戦死しましたが、杉野修一艦長を含む生存者は
一緒に対潜訓練をしていた(というかする予定だった)「浦波」に救助されました。

この杉野艦長は「杉野は何処」と歌にもなった、あの杉野孫七兵曹の息子です。
杉野兵曹の遺児二人は海軍兵学校をでて士官となりましたが、海軍に進むことは
閉塞作戦前に遺された父親の遺言に書いてあったことだそうです。

長男の修一はこのあと「長門」の艦長(大佐)で終戦を迎え、次男の健次も
なぜか同じ大佐で終戦を迎えています。



ところで、冒頭の写真はこの「球磨」の慰霊碑の中心に据えられた「球」。

それは「磨かれた球」、すなわち「球磨」そのものなのです。

「球磨」をそっと包み込むような形のオブジェは掌を象っており、
この艦に乗って戦い、そして命を失った乗員たちの魂をあたかも守っているようです。










海軍兵学校67期遠洋航海アルバムより~ハワイ訪問

2015-03-09 | 海軍

海軍兵学校の練習航海を目的とする最初の海外派遣は、
明治8(1875)年、「筑波」に当時少尉候補生だった山本権兵衛を含む
47名を乗せて、サンフランシスコとホノルルを訪問したときのものです。

その後何度となく遠洋航海はハワイに寄港しましたが、この寄港が
契機となって、ハワイのカラカウア王が日本を訪問することになり、その後、
一層彼我の交流が密になった結果、移民の交渉を政府が行うまでになったのです。

ハワイに日系の移民がなぜ多かったかというと、こういう理由があったのですね。

しかしそこでふと考えてしまうのが、のちに日米が戦火を交えることになった時、
ハワイの日系人二世の多くが442部隊として祖国アメリカに忠誠を誓い、
直接ではないにせよ日本と戦うアメリカ軍兵士となったということです。

もし海軍がハワイに遠洋航海に行かず、橋渡しをすることがなければ、
移民の話も・・・、少なくともハワイ移民の数はもっと少なかったに違いありません。




この遠洋艦隊の艦隊司令官は沢本頼雄中将(兵36)でした。
「高雄」「日向」の艦長の後艦政本部を経て練習艦隊司令官になっています。

中将の両隣には海軍軍人のミニチュアがおります。
中将の右側にいるアメリカ人の息子たちでしょうか。


沢本中将は2年後の日米開戦には反対で、

「次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしい」

と海相だった嶋田繁太郎に頼んだのですが、嶋田が沢本の大将昇進、
連合艦隊司令長官への就任をちらつかせたので、翻意してしまい、
戦後本人はこのことをずっと後悔することになったとのちに述懐しています。


海の民なら男なら、みんな一度は憧れるのが連合艦隊司令長官。
たとえそれがだめでも少なくとも大将にはなりたい。わかります。

井上茂美のようになりたくもないのになってしまう者が居る一方で、
自分の信念を翻してでも「大将」という位に執着してしまう者もいると・・・。
むしろこちらがほとんどであったと思われます。


写真の澤本中将の後ろには、綺麗どころがずらりと並んでおります。
これはオアフ在住の在留邦人(日系アメリカ人ではない)の夫人たちです。

昭和14年10月4日に横須賀を出港した練習艦隊は、10月13日に日付変更線を通過し、
18日にはホノルルに到着しました。




ホノルルに着いてすぐ、総領事館が歓迎会を催しました。
アメリカ人の好きな「バックヤードでの立食パーティ」だったようです。
時勢を反映してこのときの米海軍の接遇は最小限度の公式行事に止まりましたが、
その分、というのか、在留邦人の心温まる歓迎ぶりは熱狂的ですらあったといいます。
行く先々の村々で、趣向を凝らした歓迎会が行われたのはもちろんのこと、
自由行動となった候補生は、個人の邸宅に招かれて下にも置かない歓待を受けました。

「まあまあもう少しいいじゃないですか」

とかなんとか引き止められてなかなか帰してもらえず、帰艦時刻に遅れて
指導官付から大目玉を食らった候補生もいたそうです。



さて、領事館の写真をもう一度見てください。
こういうパーティでは満遍なく参加客と「社交」をするのが目的ですが、
どうやら士官候補生たちは候補生同士で固まってしまっていますよ(笑)
することがなくて腕組みをしている候補生も何人か居ますね。

彼らのこれまでの4年間の生活に「社交」を培う時間があったのかどうかを考えると無理もありませんが。



これはもう少し昔の候補生たちが、ホノルル商工会議所主催の
歓迎会に出席した時の様子ですが、どこが歓迎会?という感じ。
ただ候補生たちが集まって立っているだけにしか見えません。
やっぱり社交になってません。




「八雲」「磐手」がオアフ島に到着した時の写真です。
沿道にアメリカと日本の旗を打ち振って迎える住民あり。

手前のおばちゃんはありがちなアメリカ人体型です。

今はもっと凄いですが、この頃にもこんなアメリカ人いたんですね。
そういえばアメリカに駐在していた栗林忠道少佐(当時)は、
お掃除に来るおばちゃんにずけずけと体重を聞いていましたっけねえ。
たしか100キロ近くあるという話だったのですが、口の悪い栗林少佐、

「こんなに太ってるのに流行の髪型して滑稽だ。おまけによく喋る婆だ」

なんて書いてましたっけ。
このときに日本の旗を振ってインペリアル・ネイビーを迎えたアメリカ人たちは
わずかこの2年後にほかでもない海軍がここ真珠湾を攻撃したのをどう思ったでしょうか。

そしてこのときに沿道で迎えた少尉候補生の中の2名は(古野繁実、横山正治)そのとき
特殊潜航艇でハワイ湾に没し、「9軍神」と称えられたことを彼らは知る由もなかったでしょう。

ところでこの写真の手前に犬がいますが、このころはハワイにも野良犬がいたのでしょうか。





一行はオアフ島のワイパフという地域(砂糖のプランテーションがあった)で
「フラ踊」、フラダンスを見物したようです。

真ん中のフラダンサーはどう見ても日本人の顔をしているのですが、
日系のダンサーで、このためにわざわざ呼ばれたのかもしれません。



フラダンス鑑賞中。

♪ あろ~は~おえ~あろ~は~おえ~♪




この日は同時に島巡りをしたらしく、同じ日付で

「ヌアヌパリ」より「カネオヘ」湾を望む

とあります。
ヌアヌパリはオアフ島の右下の山頂にある展望ゾーンで、そこからは
カネオヘ湾が見えるのですが、ご存知のようにカネオヘには海軍基地があり、
海軍航空隊の飯田房太大尉が2年後の12月7日に突入することになります。

映画「ハワイ・マレー沖海戦」では格納庫のようなところに突っ込み
自爆したと描かれていましたが、実際は格納庫に突っ込む途中、
妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突して死亡しており、現在その地点には記念碑があります。

記念碑に海軍の旧搭乗員たちが花を贈呈している写真がありますが、
記念碑の後ろにはプレイヤード、つまり子供用の遊具のあるコーナーとなっていて、
こんなところに子供の遊び場を作るかー、と不思議な感じがしました。



オアフの島内観光のあと、一行はハワイ島に渡りました。
ここに次の目的地である「ヒロ」があります。
移動の列車車中での候補生御一行様。
島内の案内係には現地在住の若い女性が選ばれて同行したのですが、
今まで女人禁制の生徒生活を送ってきた彼らは、卒業した途端にこのような
計らいをされてさぞかし心が浮き立ったのではないかと思われます。
女性の近くに座っている候補生たちの表情に照れのようなものが見えます。

ちなみに彼らが「お遊びデビュー」となるのは士官に任官した後。

士官候補生の間はまだ「修行中」ということでレスなどの出入りは禁じられています。
エス(芸者)を揚げてお酒、などというドキドキワクワク体験も任官までの辛抱です。



ハワイ島にはキラウェア火山一体の国立公園があります。
わたしは新婚旅行がマウイだったのですが、そのときにこのような植物園に行き、
日本では見ることのない不思議な形をしたシダに目を見張ったものでした。
このときの士官候補生たちも、ああいった原生林のようなところを歩いたのかと思うと
何か不思議な気がします。



硫黄の噴出するところを見学したようです。
候補生全員がマントを着用しています。
帰国が12月になるため、マントも持ってきたようで、白の軍装に
灰がかかっては後が面倒なので、冬用マントを利用したんですね。
問題は軍帽ですが、こちらは今のようにビニールのキャップもないしどうしたのかなあ。 




キラウェア火山は「世界で一番安全な活火山」と言われています。
何となれば大抵は爆発的な噴火ではなく、溶岩を流出するタイプの噴火を行うためで、
流出した溶岩は粘度が低いため、最初地表を伝い、表面が冷え固まった後も
地下の溶岩チューブなどを伝って流れ続け、海岸線を広げるだけだそうです。

そしてその火口を見学する下士官と水兵さんたち。


「八雲」「磐手」は一時期練習艦隊艦として毎年のように遠洋航海に行きましたが、
その他練習艦となった「香取」「浅間」「鹿島」の乗組員に配置された下士官兵は
結構「ラッキー!」と喜んだのではなかったでしょうか。
何しろ外国に行く遠洋航海があるために兵学校を目指すという若者も多かったというくらい、
海外をこの目で見るというのは当時の日本人にとって特殊なことだったのですから。

ところで、今これを書きながら気付いたのですが、旧軍時代「鹿島」が練習艦であったので、
現在の練習艦も名前を引き継いで「かしま」となったんですね。
あ、そういえば練習艦「かとり」もあったっけ!




ヒロでの、すなわちハワイでの最後の行事がキラウェア観光だったようです。
ヒロに入港した時には、港内の漁船は全てアメリカ国旗、日本国旗、海軍旗を
マストに揚げて艦隊を迎えたのだそうです。



このときに残された候補生たちとヒロ在住邦人の婦人たちの写真。
「夫人」とキャプションにはありましたが、皆若くて独身のお嬢さんもいそうな・・。
全員がここぞとばかりにオシャレしているように見えるのは気のせいでしょうか。

ヒロはホノルルと違って軍官施設はほとんどなく、在留邦人が多く住んでいる島でした。
しかも日本海軍艦船の訪問は10年ぶりということで、彼らの観劇もひとしおであったらしく、

練習艦隊はホノルルにも勝る熱のこもった歓迎を受けました。

「アットホーム」と称する艦内での歓迎レセプションがどちらでも開かれたそうですが、
この女性たちはそれに参加したのに違いありません。(だからお洒落してるんですねきっと)



10月28日、ヒロを出た後は太平洋をひた航行(はし)り、ヤルートを目指します。
つまりまっすぐ日本に向かうのではなく、赤道直下のマーシャル諸島まで南下すると。
まあハワイそのものが日本よりかなり緯度は赤道に近いので、
さらにちょっと南に下ってから帰国するというルートを取ったようなのですが。




観光地では士官候補生仲間よりも下士官兵がよく被写体になっていた越山候補生の写真ですが、
彼ら艦隊勤務の下士官兵の仕事は主に重労働です。
ホノルル埠頭で石炭を積み込んでいる乗組員と現地の職人。
おそらくですが下士官兵が上陸して観光できるのは休みの日だけだったのではないでしょうか。


候補生たちももちろん、この作業中見ているわけではありません。
行事の合間を縫って随伴入港した「知床」から、1日がかりで載炭を行いました。
これをすると耳の穴の中まで真っ黒になるのだそうですが、ピッチ?でかぶれた顔を
洗うのもそこそこに、夜には歓迎行事に出かける毎日だったということです。



いよいよハワイを出港するときがきました。
ホノルルには10月23日までの5日間、ヒロには28日までの4日間の滞在でした。

埠頭で見送る人たちと艦上からそれに答えて帽子を振る乗組員たち。
つまり練習艦隊がハワイに滞在したのはたった10日間ということになります。

彼らのうち一人がこのハワイでのことをこう書き記しています。

「やがて日米海軍が戦場で相見ゆる日も近いと予期していた我々の、
真珠湾や米艦船を遠望する眼差しは真剣であった」

幾度かこのブログでも書きましたが、この遠洋航海で「八雲」と「磐手」が

ホノルル湾に着いた時、士官候補生たちに向かってその分隊の監事が

「お前たちのうちの何人かは近いうちにここにもう一度帰ってくるから
できるものはスケッチしておくがよい」

と命じ、言われたうちの何人かが薄暗いその湾をスケッチしたとされます。
実際には直接「帰って来た」のは特殊潜航艇に乗っていた2名、
そして千島列島を出発した6隻の空母にも、その直前に中尉となっていた67期生は
何人もが乗り組んでいたことと思われます。

彼らはそのとき、この楽しかったハワイの10日間のことを思い出したでしょうか。



続きます。 

 











横須賀出航~海軍兵学校67期の遠洋航海

2015-03-08 | 海軍

昭和14年度に行われた海軍兵学校67期の卒業後遠洋航海について、続きです。
67期の卒業式は7月25日でした。
海軍省少尉候補生を命ぜられた248名のうち242名は練習艦隊に直ちに配乗。
教官、後輩、家族にロングサインで見送られて即日江田内を出航、
近海航海の途についたのでした。

各寄港地に入港すると必ず真っ先に「水路見学」があります。
寄港地行事はともかくもそれが終わった後に初めて行われます。

前回厳しさを増していた国際情勢について少しお話ししましたが、
アメリカとの関係をいうと、支那事変以来英国とともに関係は悪化しており、
遠洋航海出航翌日の7月26日に、突如日米通商航海条約の破棄を通告してきました。

アメリカ本土への寄港取りやめにより1ヶ月航海が短縮になったのは
英仏のドイツへの宣戦布告以上にこちらの原因が主だったかもしれません。

ヒットラーのドイツは前年の昭和13年にオーストリアを併合し、
ズデーデンに進駐したのに加え、その後強引にチェコ全土も併合、
さらにダンツィッヒに及び、ポーランド回廊問題の解決を迫ったため、
ポーランドはイギリスとの間に安全保障条約を結んでドイツの圧力に抵抗します。

ドイツはイタリアと同盟を結び、かつてこの三国で防衛協定を結んだ
日本に対して同盟を迫り、陸軍はこれを強硬に推進せんとしましたが、
三国同盟は対米戦争に通ずると見る海軍首脳はこれに反対したため、
平沼首相は70回余にわたる5相会議においてもこれを決定することはできませんでした。 

このような内外の情勢は発表されていたもの以外詳しく知る由もなかったのですが、
それでも状況の変化はひしひしと一層海の守りが重要となったことを告げ、
67期少尉候補生たちはそれぞれが心に一種の覚悟を決めつつ練習航海に出発したのでした。



横須賀から遠洋航海艦隊が出港しました。

海軍大臣、軍事参議官など、要路の顕官の盛大な見送りを受けての出航でした。
この遠洋航海は前にも書きましたが、石炭専焼艦による最後の航海となっただけでなく、
帝国海軍最後の外国練習航海となったのです。


ところで冒頭の写真で不思議なのは、こちら側の水兵さん軍団が冬の第1種軍装なのに、
出港する
艦上で「帽振れ」をしている一団が夏服を着ているということです。
写真はどちらか片方の艦上から撮られたと思っていたのですが、もしかしたらこちらは岸で、
この写真はカメラマンによって撮られ、あとから配られたものなのかもしれません。


そしてこの上の写真ですが、大きめのボートに候補生らしき一団が乗っているようです。
「八雲」「磐手」は沖合に投錨していて、今から乗り移るということでしょうか。

そして横須賀に詳しい方がおられたら教えていただきたいのですが、この出港ドック、
山の位置から見て現在の米軍基地の、「ジョージ・ワシントン」が停泊している岸壁ではないでしょうか?

本練習艦隊には「磐手」「八雲」の他になんと給炭艦「知床」を随行していました。
燃料を積むための艦を連れて行ったというわけです。
しかしそれでも横須賀では「八雲」「磐手」の上甲板にさえ所狭しと石炭が搭載されました。


 

出港から二日後、艦隊は完全に外洋に出ました。
「磐手」(か『八雲』)の艦体に怒涛の波が叩きつけられます。
最初の航海は最大3,500浬航程のホノルルが目的地です。

「磐手」と「八雲」は姉妹艦で、日露戦争で活躍した排水量9800トン、
20センチ主砲4門の装甲巡洋艦です。
この写真にもその20センチ砲が少しだけ写っています。
速力は大変遅く、巡航速度は平常時速10キロくらいだったそうです。


それにしてもこれは貴重な写真ですね。
「八雲」(か『磐手』)の艦橋から砲塔を見ているわけですが、
砲塔の下に壁にピッタリ張り付いている作業服の乗組員(見張員?)が、
いかにもこわごわといった感じなのがこの距離からでもわかります。

外洋の揺れで候補生たちは皆居室で船酔いのため倒れてしまって、
「ガス室状態』(by『いせ』乗組員)になっていたかも、と思ったらやっぱり(笑)
67期の一人が戦後書いた追想記には、

「今まで経験しなかった大きなうねりを伴う荒天に、船酔いも相当発生した」

とあります。

何しろ明治時代の旧式艦なので、往々にして候補生たちは、配乗の際には
これで遠洋航海に出るのかとかすかな失望を隠せなかったそうですが、
必ず監事はそんな彼らに向かって、

「新鋭艦でも旧艦でも原理は同じである。本艦のことがわかればどの艦でも通用する」

と言うのが常でした。
どの旧軍艦もそうですが、「八雲」「磐手」の艦内はどこもかしこも手入れが行き届き、
老艦であっても真鍮などはピカピカに磨き上げられていたそうです。 






そういえば台風シーズンだったんですね。
怒涛の原因は海が低気圧で荒れていたからでしょう。
前を航行するのは「磐手」。
途中で司令官が「磐手」に座乗し旗艦が交代となりました。




低気圧が去った後の艦上で作業をする乗組員たち。
何をしているかはわかりませぬが、皆がデリックでラインを引っ張っています。

水兵たちの向こうにズボンの裾をまくりあげた士官が見えますが、

これが噂の「甲板士官」。(当ブログ「甲板士官のお仕事」参照)
上着が短いところを見ると、彼は候補生甲板士官のようです。

「甲板士官のお仕事」エントリを作成した時には、イマイチ士官のコスチュームというものを
わかっていなかったため、「作業服」をカーキ色で描いてしまっていますが、
これは白の間違いだと思っていただいて結構です。
基本的に候補生甲板士官は、軍装のズボンをまくりあげただけで作業していたようですね。

さて、兵科候補生の練習艦隊実習で最も鍛えられるのは天測とこの当直勤務です。
当直勤務は「副直士官勤務」ともいい、この二つは初級士官として必須の要件。
練習航海を通じて絶え間なく繰り返し演練指導されているうちに、
シーマンシップとともにある程度身についてくるものです。

このほか、甲板士官、内火艇指揮、分隊士事務・・・・。
航行中停泊中を問わず、先輩のガンルーム士官がつきっきりで指導してくれます。

この辺は海上自衛隊の練習艦隊に引き継がれていると思いますが如何。

越山候補生のアルバムもそうですが、練習艦隊の記録や遺された写真にたとえ
寄港地の行事が大部分を占めていたとしても、実習最大の項目は

「天測と当直」

がメインで、それを習得するのが目的でもあったのです。


ところでボートの上の方にごちゃごちゃと掛けられているのはなに?

まるでこれでは洗濯物・・・・・・、

 

と思ったらお洗濯の様子もちゃんと写しておいてくれています。
海軍軍人にとって洗濯は海軍に入った時から普通に任務の一つで、
兵学校の学生も自分のものは自分で、手洗いしていました。

今の江田島の幹部学校の校舎の屋上には、昔洗濯物干し場があって、

ここでは下級生は上級生に色々と「修正」されるポイントでもあったとか。
兵学校卒業生は、あの洗濯干し場を何かの機会に見ると、何とも言えない当時の
圧迫された下級生時代を思い出し、胸が苦しくなったものだそうです。 



写真はいきなり11月に飛んでいます。
このあと艦隊は出港して二週間後の10月20日にハワイに到着し滞在した後、
またおよそ2週間かけて太平洋航路を帰途に就くのですが、写真に書いている
「明治節」というのは11月3日で、これは太平洋上で何か式典を行った時のものでしょう。
「明治節」はご存知のように現在は「文化の日」となっています。

ちゃんと正装したところ(といってもいつもと同じ二種軍装ですが)を
艦尾の軍艦旗と一緒に撮った写真。

アルバムの主の越山候補生がシャッターを押したらしく、本人は写っていません。

10月の出港に夏の第2種軍装を着ていたのは遠洋航海は気候的に「夏」なので
第1種では暑い、ということだったのだろうと思われます。
彼らの帰国は12月であったので、第1種軍服と海軍マント、人によっては通常礼装まで、
これらを皆遠洋航海に持っていかなくてはいけなかったわけですが、ただでさえ
居住性に難のある明治時代の軍艦にこれはさぞ大変だったかと・・・。


そういえば小官が5月に晴海埠頭から見送った海上自衛隊の2014年度練習艦隊ですが、

そのとき純白の第1種夏服で出航していった彼らが、10月の帰国には冬服の第1種礼装で
「かしま」のタラップを降りてきたものです。
それを見て、「航海の荷物に冬服も持って行ったのか、大変だなあ」と思ったのですが、
考えたら全航海を通じてほとんど制服しか着ないわけだし、「かしま」は「八雲」「磐手」に比べると
居住性も東◯◯ンとマンダリンオリエンタルくらいの差で良かったはずなので、
きっと心配するほどのことはなかったに違いありません。


 さて、というところで今日最後の写真は、アルバムの主である越山澄尭少尉候補生。
正帽をちょっとラフに被って、このころの防暑服だった肩章つきの半袖半ズボンを着用。
そしてなんとサングラスをしているわけですが、
旧軍軍人のサングラス姿というのは、飛行隊員以外で初めて見たような気がします。

キャプションに「シケた後の間抜け面」とあります。 

少なくとも写真を見る我々には間抜けには見えないのですが、これはおそらく
ご本人が、散々海の時化で艦が翻弄され、グロッキーになっていたため、
サングラスの後ろはげっそりした顔であると自覚していたのかもしれません。

これがこのアルバムにあった唯一の一人での航海中の写真なのですが、
ご本人のコメントとはうらはらに、越山候補生、なかなかナイスではないですか。


さて次回、兵学校67期卒少尉候補生たちの遠洋航海シリーズ、
「ハワイ上陸編」に続く。 


 


「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長

2015-03-06 | 海軍人物伝

 

呉海軍墓地にある旧海軍艦艇の慰霊碑についてお話ししています。
駆逐艦「濱風」(濱は旧字体ですがここではこう記します」は、二代目で、
陽炎型の13番型として昭和16年浦賀船渠で竣工されました。

昭和16年11月26日、真珠湾攻撃のために単冠湾を出港したハワイ攻撃機動部隊の
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母
(『ファイナルカウントダウン』でオーエンス中佐が一生懸命言ってましたね)
を護衛するという華々しい初戦を飾り、ポートダーウィン機動作戦、
ジャワ南方機動作戦、セイロン作戦などにも参加しています。

ミッドウェー海戦では日本側は4隻の空母を失いますが、このとき「濱風」は
「蒼龍」の援護を行い、沈没した同空母の乗員を救出しました。



駆逐艦というのは敵を「駆逐する」、英語で「破壊する者(デストロイヤー)」

という名の通り、もともと「水雷艇を駆逐する」というのが存在意義です。

そういう意味でいうと、一等「陽炎」型駆逐艦の13番艦である「濱風」は、
その使命を最後の最後まで全うしきった駆逐艦であったというべきでしょう。

揚陸作戦においても、昭和17年8月には、ガナルカナル島に上陸した米軍を駆逐するため
陸軍一木支隊916名を「嵐」「荻風」「谷風」「浦風」「陽炎」らとともに
ガ島北岸太母岬に揚陸させ、その半年後にはガ島撤退作戦にも参加しています。

さらに「濱風」はコロンバンガラ島への陸兵揚陸にも携わった直後、
さらなる陸兵上陸を支援するために行われたコロンバンガラ夜戦で、
「神通」を取り囲み、寄ってたかって攻撃を加える敵艦隊を「雪風」らとともに
酸素魚雷を装填しながらじわじわと包囲し、艦隊ごと航行不能にしています。

このように、特にファンが多いと言われる陽炎型駆逐艦の中でも、艦これ的には
特に嫁にしたい駆逐艦ナンバーワンといわれているらしい「濱風」。
個人的には「島風」とともに「ザ・デストロイヤー」の称号を差し上げたいほどです。
 


しかし駆逐艦として戦い抜いたということは、同時に
次々と失われていく聯合艦隊の艦を見届けてきたということでもあります。


「濱風」の最後は、天一号作戦、坊之沖岬海戦で「大和」の護衛として出撃、
魚雷の命中によって轟沈を遂げるというものでしたが、

ミッドウェーで蒼龍の最後を見届ける
クラ湾夜戦で旗艦「新月」の最後を見届ける
コロンバンガラ海戦で旗艦「神通」の最後を(略)
撃沈された空母「飛鷹」の乗員を救出する
シブヤン海戦で「武蔵」の最後を見届け、800名の乗員を救助
回航中撃沈された「信濃」の救助を行う

という壮絶な歴史の目撃者ともなりました。

彼女が救出した人員は途方も無い数に上ります。
記録に残っているだけでも

戦艦「武蔵」  934名

戦艦「金剛」  146名

空母「信濃」  448名

輸送船「日竜丸」 36名

輸送船「安竜丸」 5名

これだけで約1500名強。
戦後設立された「濱風会」では救助人員をそう称していますが、
「蒼龍」「赤城」「飛鷹」駆逐艦「白露」の乗員については資料がないため、
おそらく合計でいうと3000名にはのぼるだろうと言われているのです。

さらに先ほどのガ島からの陸兵撤退、海軍特別陸戦隊の撤退を含めると、
この乗員300名の小さな駆逐艦が5000名の命を救ったことになります。


コロンバンガラ島夜戦で「神通」の仇を取ったあと、「濱風」は
ベララベラ海戦に参加して損傷したため呉に帰港してドック入りしますが、
このときに三代目艦長、前川万衛中佐(52期)が着任しました。
「濱風」の救助した人員数がここまで膨大になった原因は、どんな嵐の戦場でも

武運強く戦い抜き生き残った彼女の「運」に加えて、この前川艦長の着任にありました。
「濱風」溺者救助作業のほとんどは前川艦長が指揮を執っています。


冒頭挿絵ですが、どこを探しても前川中佐の写真が見つからなかったので、

「こんな人に違いない」という思い込みだけで想像似顔絵を描いてみました。
多分似てないに違いありませんが、いいんです(きっぱり)




アメリカ軍は徹底的に人命救助を重視しました。
一名の戦闘機搭乗員のためにカタリナ飛行艇を日本本土まで飛ばしていたくらいで、
沈む軍艦と運命を共にしなかった艦長を左遷するような日本海軍とはえらい違いです。
戦争のやり方も、有り余る物資と人を有しながらなお防御を重視するアメリカと、
防御は二の次で自分の命を盾にしてでも攻撃を成功させることを取る日本とでは、
これはもうどう考えても国力の無いほうが負けることは明らかでした。

どうして戦後の人間なら単なる一ブロガーにもわかるこの理屈が、
当時の日本軍において無視されてきたのかは、前にも言いましたが、
「軍人精神」という名の正常性バイアスがかかっていたからだとわたしは見ます。
まあこの辺りの論議についてはいつかまた日を改めるとして、
とにかくアメリカが人命重視を徹底したのは、そうしないと国民の戦争への
理解が得られないということと、なんといっても一人のスペシャリスト
(海軍艦艇に勤務する者は専門職である)を育てる時間とコストが勿体ないからです。
人を育てる労力は飛行機や船の生産などよりずっと大変だと知っていたからです。

日本の美しい言葉「勿体ない」が、こういうときに全くかえりみられなかったのは
実に勿体ないことだったというしかありません。 
まあ、切羽詰まって省みられるほどの余裕がなかったという事情もありますが・・・・。


それに、戦時、艦を停止して人員救助をしているところを敵に襲われ、
救助している方が何人も戦死した例は多く、一艦300名の命を預かる艦長としては、
敵が帰ってくる可能性の多い戦闘海域で行き脚を止めるという決断をするのは
それが駆逐艦の使命とはいえ大変な決断を要します。

つまり、「濱風」のように徹底的に溺者救助に命をかけたフネの方が少数派なのです。


しかも、前川艦長の救助方法は少し変わっていました。

マリアナ沖海戦のときには一般に駆逐艦が行う、短艇を使ってやる救助方法とは違って、

艦を風上に持っていって停止し、風の力だけで艦を漂流者のほうへ近づけていき、
風下舷の艦首から艦尾まで垂らしたロープを掴んだ生存者を引っ張りあげる

という方法で行いました。

まず、中央から後ろにかけての外舷にありったけの縄ばしごと、先端を輪にしたロープを
何十本も垂らし、探照灯を海上に照射して、漂流者のかたまりを目標にすると、

行き脚を止めて風の流れだけでそこにじわじわと近寄っていきます。
スクリューで人員を傷つけたりすることなく、艦の外周で同時に救助が行えます。
縄ばしごを自力で上がれるものは上がり、体力がないものはロープの先に体をくぐらせれば
甲板の「濱風」乗員が引っ張り上げてくれるというわけです。
海面から人がいなくなるともう少し艦を走らせ、発見すると再びスクリュー停止。

これを前川艦長は徹底的に、かつ執拗に行ったのです。
見張員が「海上に漂流者を認めず」と報告しても、「もう一度確認せよ」と返し、
一度では決して沈没地点の探索を切り上げることをしませんでした。
そして、救助の対象が一人、二人となってきても、見張員が声をあげるたび、
同じことを何度も繰り返し救助を続けたのです。

しかしこのやり方ではいつ敵に捕捉されるかわからず、気が気ではなくなる乗員もいました。
「濱風」の専任将校、武田光雄水雷長は、内心の不安からつい、

「艦長、もうそろそろこの辺で切り上げてはどうですか」

と急かすように具申したところ、作業の間中、椅子に腰掛けたまま泰然としていた艦長は
静かな口調でこう言ったそうです。


「水雷よ、ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろう。
それははっきりしている。 だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは、これは運だよ。
だったら最後の一人まで助けようではないか」 

武田水雷長はこのとき、今後は自分も艦長の言うとおりにやろうと心に決めたそうです。



「濱風」は最後まで救助中に敵に捕捉されることはありませんでした。



この前川万衛中佐が大尉時代のことです。
昭和10年に起こった「第4艦隊事件」のとき、乗り組んでいた
駆逐艦「夕霧」の艦首は、嵐の動揺によって切断されました。
同じように切断された「初雪」の艦首には機密が搭載されたため、
曳行が不可能とされた時点で第4艦隊はこれを雷撃で乗員もろとも沈めました。
「夕霧」艦首部も曳行が試みられましたが、やはり27名の下士官兵を乗せたまま
途中で沈没してしまったのでした。

「濱風」の航海長に、第4事件のことを話したとき、

「あの事件で大勢の兵隊たちを殺してから、俺は・・・」

と前川艦長は言葉を途切れさせたそうです。



冒頭写真の「濱風の碑」の後ろには、こんな文字が刻まれています。

「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、
数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍、飛龍、信濃、戦艦武蔵、
金剛、駆逐艦白露等の乗員救助及びガダルカナル島の陸軍の救助等、

人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」



その「濱風」の最後の出航となった坊ノ岬沖海戦、「大和」特攻の前夜のことです。
「濱風」先任下士官が

「ネズミがロープを伝って陸上に上がっていくのを見ました」

と先任将校に小声で囁きました。
士官は先任下士に向かい、

「誰にも言うな」

と口止めしたと言いますが、実はこの不思議な現象はこの夜、
坊ノ岬沖海戦に次の日出撃する幾つかの他の艦でも目撃されていました。
動物の本能は、もうすぐ艦が沈むことまでを察知することができたようで、
事実「濱風」もこの海戦で戦没することになります。

「濱風」の最後は多くの生存者によって目撃されています。
4月6日、徳山を出港、7日、大隅諸島西方で敵機動部隊の攻撃を受け、
後部に大型爆弾が命中、航行不能となりました。
そこへ魚雷が船の中央部に大音響とともに命中したため、真っ二つとなって沈没したのです。


この慰霊碑の実に不思議な形は、彼女の最後の瞬間を想起させます。
轟沈した「濱風」の乗員は100名が戦死し、前川艦長始め256名が救出されました。 



拝謁・東京見学~海軍兵学校67期の遠洋航海

2015-03-05 | 海軍

兵学校67期の遠洋航海アルバムシリーズ、三回目です。

今までなんども古い写真を見て同じようにそのことについて調べたり、
時には検証したりしてエントリを製作してきたわたしですが、
今回の遠洋航海シリーズは同じ作業をしていてもなぜかわくわくします。
彼らの旅の軌跡をたどることでその遠洋航海を追体験するとともに、
彼らの浮き立った気持ちや興奮が手に取るように感じられるからでしょう。

昭和14年、ときあたかも戦雲垂れ込めてくるような世界情勢に加え、
彼らにとっても短縮となった遠洋航海では中国本土では生々しい戦跡を目の当たりにし、
皆が何かを心に深く予感する旅になったことは間違いありません。

実は、わたしも今回初めて知ったことなのですが、67期の遠洋航海は当初、
ハワイの後北米西海岸に行くいつものコースの予定であり、候補生たちも
そのつもりで遠洋航海に乗り組んでいたのです。
彼らが近海航海の最終段階に入り、台湾の高雄をでて廈門に向かって行動中、
国際情勢はこのわずかの間に急変するに至りました。
そして、佐世保に帰港して中国から本土に戻って来た時、彼らにこのような
ニュースがもたらされたのでした。

「本年度の遠洋航海は北米西海岸を取りやめ、ハワイで打ち切りとする」

つまり、ハワイの後、本来ならば1ヶ月かけて米国本土まで航海し、
サンフランシスコとサンペドロを経由する予定が中止されたのでした。

この変更には、彼らが近海航海をしている間の情勢が影を落としています。

2年越しの支那事変は膠着状態に陥っていましたが、欧州の情勢はこのとき、

風雲急を告げるごとくに変化しつつありました。
8月23日、「独ソ不可侵条約」が締結されます。
日本とノモンハンでやりあっている間にドイツにやられてはかなわないと、
スターリンがドイツとの間に結んだ不可侵条約でしたが、ドイツはこれで
「挟み撃ちにされない」という保証を得てポーランドに侵攻したわけです。

みなさん、第二次世界大戦の始まりってなんだったか覚えてますか?

そう、ドイツのポーランド侵攻です。それがこの9月1日だったんですね。
これに対してイギリスとフランスが宣戦布告したことが戦火の火ぶたを切ったのです。
それが9月3日で、候補生たちが台南市内を見学していたその時です。

つまり、遠洋航海の突然の短縮は、3日の英仏参戦がきっかけになっていたのです。

日本では独ソ不可侵条約の締結に際し、当時の平沼騏一郎内閣が有名な

「欧州情勢は複雑怪奇なり」

の言葉を残して退陣しています。
この言葉をもって、日本の支配者が国際情勢を判断する力を失い、
自主的な外交政策を立てられなくなっていたことの証明であるとする説もあります。

それを実証するかのようにその後半年にわたって政府および陸海間はもめ続け、

「三国同盟」は一時自然消滅の形となっていました。

英仏の参戦に対し、日本とアメリカは一応中立を宣言しています。
しかし、欧州の動乱が世界に波及する危険をはらんでいることは明らかでした。
実際、アメリカはこの戦乱に日本をして参戦させるために手を替え品を替え挑発し、
(日米通商条約を破棄したのもちょうどこのころ)かつ締め上げにかかっていたのです。






しかし国際情勢はともかく、若い候補生たちにとって一ヶ月の遠洋航海短縮は
どんなにか落胆することであったでしょうか。
特に中止されたのはアメリカ本土であるサンフランシスコです。
こんなことでもなければアメリカなど一生行けないかもしれないと思えば、
無念さはいや増したでしょうが、また同時に急な予定変更に対し、
やはり今は非常時であることを実感し、
身の引き締まる思いもしたことと思われます。



内地ではまず伊勢神宮参拝のために伊勢に立ち寄りました。
ここで遠洋航海の旗艦が「八雲」から「磐手」に変更されます。

この意図が今ひとつ分からないのですが、これも訓練だからか、それとも
司令官の澤本頼雄中将が坐乗する艦を変えたと言うことでしょうか。

そして「恒例検閲」が行われます。定期チェックのような感じかな。


この写真は旅館で朝ごはんを食べていますが、誰かという説明がないので、
もしかしたらクラスメートに撮ってもらったご本人かもしれません。
こういうショットがあるところを見ると、やはり自前のカメラのようですね。

それより後ろに二種軍服が実に雑な感じで掛けてあるのが気になるのですが・・。
ハンガーにかけないとシワになるわよ~(おかん感覚)



これは伊勢神宮内宮の橋をなぜか下から撮ったものですが、
橋の上を隊列を組んで歩いているのは艦隊の皆さんです。

廈門以外は全部わたしが実際に行ったことがあるところばかりでなんか嬉しいです。

今は政教分離がフンダララで自衛艦の艦内神社にすら文句をつける奴がいるので、
自衛隊が公式に神社に参ることはされていないようですが、
例えば「いせ」などは年に一度伊勢神宮に参拝することになっているようです。



そして9月20日。
艦隊は横須賀に入港しました。
ここでは2週間停泊して、整備と遠航の準備を行います。

まず9月23日まで、なんと丸々3日間、作業を行いました。
そして9月24日に初めて艦を離れることが許され、候補生たちは築地の海軍経理学校に
宿泊して、数日間の東京行事を実地することになりました。

東京に自宅のあるものは自宅宿泊を許可されるので、親しい友人を連れて
何人かで実家に転がり込むというのも可でした。
しばし規則から解き放たれるのですから、こちらを好む生徒は多かったでしょう。



ここ東京は候補生たちが一番楽しみにしていた国内の寄港地ではなかったかと思われます。

訪れるのは戦跡や海軍の根拠地や慰霊碑や神社で、まあ遊びではないのだから当然ですが、
やはり修学旅行でもお寺や観光地より夜のまくら投げが楽しかったように(たぶん)、
候補生といえど若い男の子、やはり花の都で少しはハメを外したい。

てなわけで前回もご紹介した旧エントリのように、東京出身者を先頭に立てて銀ブラしたり、
「ちょっとドキドキな校則違反」なんかをやらかす候補生なんかが出てくるわけです。
このとき同級生の妹にちゃっかり目をつけて、後に嫁にしてしまうツワモノもいました。

しかし東京に着くと同時に夏の二種から一種軍装に着替えた候補生たちは

こうやって写真に撮ってみると制服と白手袋のせいもあって、皆立派な士官さんに見えます。

参道を歩いていた他の参拝客が思わず立ち止まって彼らを眺めている様子が写っていますね。
よくよく見ると先頭を歩いているのは本物の?士官らしく、上衣が腰まで長い海軍常装。
後ろにカルガモの雛状態でついてきているのが候補生たちです。

ちなみにこのとき「八雲」「磐手」の次室士官である中尉(63、64期)も同行していますから、

彼らか、あるいは主任指導官(中佐)とその副官(中尉)が引率している状況でしょうか。


短いジャケットの候補生は他の地方ではこの時期にしか見られることはないため、

明治神宮であろうが銀座であろうがさぞかし注目を集め、また候補生たちも
さぞかし面映くも晴れがましい気持ちになったものと思われます。

東京見学の予定はまず、

9月25日 海軍省、海軍大臣伺候、大臣主催壮行会(水交社)

という、どちらかというと面白くなさそうな行事から始まります。
いやまあ、遊びじゃありませんから面白いわけはないのですが。
ちなみにこのときの海軍大臣は「不可解也」で解散した直後の阿部内閣指名の吉田善吾
・・知らねー。


 

 


続いて9月26日の行事はまず宮中伺候、および拝謁でした。
遠洋航海に旅立つに当たって天皇陛下の閲兵?を受けるのです。

全員が第1種軍装に白い手袋をつけ、整然と退出してきます。
5列になって行進していますが、もしかしたらハンモックナンバー順だったりするのでしょうか。

それにしても皇居ですから当然とはいえ、坂下門の様子は今現在と全く同じ。
今度からこの前を通る時には彼らがここを踏みしめて歩いたことを彷彿としてしまいそうです。
今はこの前にゲートができ、地面は舗装されてコンクリートに変わっていますが。

拝謁に続き、賢所(かしこどころ)参拝、御府拝観、と宮中ツァーの半日。
当然ですが、東京での行事の頂点がこの拝謁でした。

それにしてもみなさん、歩いている候補生の姿を遠目に見て何か気づきませんか?

そう、「上着が長い」でしょ?
候補生の服装は短ジャケット(つまり兵学校の軍服の階級章を変えたもの)なのですが、
このときだけは
特別なので「通常礼装」に全員が身を固めて宮中に参内したのですが、

遠くて見え~~んっ!!!

67期卒の彼らがこの「通常礼装」に袖を通したのは後にも先にもこのときだけでした。
つまり、このただ一回のために彼らは礼装を揃え、二度と着ることはなかったのです。

そういえば、67期の笹井醇一中尉が戦死して二階級特進全軍布告となったとき、
葬儀には嶋田繁太郎大将が弔問に訪れていましたが、その時の写真の祭壇の遺影は、
通常礼装姿だったのを思い出します。
あれはこのときの宮中参内に合わせて仕立てたものだったわけですね。

ちなみに祭壇の遺影が通常礼装の写真だったのはそのときだけで、ご両親は
遺影として、戦後有名になった航空学生時代のものを飾っておられたようです。
その方が息子らしい、と思ってのことだったでしょうか。

 

候補生たちはこの後、靖国神社を参拝しました。
先ほどの明治神宮参拝の時にはもう候補生のスタイルに戻っています。
越山候補生は1日勘違いをしていたようで、写真の説明には9-26と書かれていますが、
公式記録によると宮中参内と靖国神社が9月26日、明治神宮は9月27日となっています。





 
明治神宮の後のこの聖徳記念絵画館見学も、実は27日の間違いです。

都内はバスで移動したんですね。

例年東郷神社とか海軍会館、上野動物園などの見学?が組まれることもありますが、
この時にはこの後、目黒の海軍技術研究所を見学したようです。

当ブログでも当時の建物がそのまま残る敷地に潜入して写真をご紹介したことがあります。



ところで関東地方在住の方、この聖徳記念絵画館ってご存知ですか?

明治神宮の外苑に今でもあって、明治神宮の予算で維持管理されている、
明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示するための美術館です。

教科書などに載っていて目にすることも多い

「王政復古」「五箇条の御誓文」「ポーツマス講和」「日露役日本海海戦」

などといった作品ですね。

銀杏並木の奥に威容を構える大変美しい建築物で重要文化財にも指定されていますが、
近年近隣に高層マンション建築の計画が起こり、これが経つと、銀杏並木の奥に見える
この建物のドームからにょっきりビルが突き出す形になるのだとか。

建設反対運動が起こっていると聞いたことがありますが、今どうなってることやら・・。





現在の聖徳記念絵画館。ライトアップしたところです。



この日付もおそらく29日の間違いであろうと思われます。

今の国会議事堂より柱とか経年劣化してないか?と思ったのですが、

建立年月日を調べてびっくりしました。
なんと竣工したのは昭和11(1936)年。
つまりまだできて3年しか経っていない、ほぼ新築の国会議事堂だったのです。

今の議事堂がこの時より綺麗に見えるのは、2008年から竣工以来初めての
大規模な修繕工事が行われたからで、このときは専用洗剤と高圧洗浄で外壁の汚れを落とし
コーティングを施す作業と、窓ガラスを枠ごと取り換える作業が行われたそうです。

それより、この写真ですが、議事堂前の広場で何をするでもなく立ち尽くす候補生たち。

全員がカメラマンの方を見ています。
越山生徒が議事堂の全景がフレームに入るところまでダーっとダッシュして、
同行のクラスメートを待たせいている間大急ぎでシャッターを切ったのでしょうか。

待たせているので少し焦ったせいか、議事堂の頂上が少し切れてしまっています(^O^)

そしてこの後、候補生たちが見学したのは日本放送協会、現在のNHKでした。
つまり、明治神宮からここまでの東京見学を9月27~9日の3日間かけて行ったのです。
それが済めば、嗚呼何たる親心、9月30日、10月1日と丸々二日間、彼らには

自由行動

が与えられたのでした(T_T)
この二日間で銀座に行って銀座ライオンでビールを飲んだり天国でてんぷら食べたり
(こっそり)初めてのレス体験をしたり、同期生の家で騒いだりして羽を伸ばしたわけですね。

そして10月2日、帰艦。
いよいよ横須賀から遠洋航海に向けて出航するのです。


続く。
 

 


内地巡行と近海航海~海軍兵学校67期遠洋航海

2015-03-04 | 海軍

あるブログ読者の方から送っていただいた、海軍兵学校67期生徒が
卒業後遠洋航海で撮った貴重な写真をご紹介しています。

まず冒頭の、艦船ファンには大変興味深い写真をご覧ください。
台湾の馬公(台湾海峡にある澎湖諸島の中心都市)でのものですが、
左はこの練習航海でアルバムの主越山候補生が乗艦した(煙突の形状からおそらく)「八雲」。 



日程から見ると、これは昭和14年7月25日に江田内をでて、

舞鶴ー宮津ー鎮海ー旅順ー大連ー青島ー上海ー馬公

と一ヶ月かけて8月28日に到着した時のものです。
ちなみに舞鶴では機関科候補生、宮津では主計科の候補生が配乗しました。

記録によると、「八雲」には戦後幕僚長になった中村悌二、「天山」爆撃隊の隊長だった
肥田真幸、真珠湾の軍神となった古野繁実、水上機の横山岳夫候補生が、
「磐手」には台南航空隊の笹井醇一、もう一人の軍神横山正治候補生が乗艦しています。

「八雲」も「磐手」も明治時代にイギリスから購入したもので、この時すでに建造から
40年近く経っている超老朽艦でした。(だからこそ練習艦になったわけですね)
どちらも日露戦争で働いた旧式艦で、速度はなんと時速10k/t。
しかし、乗員は選り抜きの精鋭で訓練と整備に励む様子は、教練作業、検閲も含め
当時の帝国海軍の猛訓練ぶりを候補生に知らしめたそうです。

「磐手」の方は例の昭和20年7月26日の呉大空襲で沈没しましたが、「八雲」は
終戦時稼働状態であったので、復員船として1年間「最後のご奉公」をしました。

ついでに「磐手」ですが、以前にも「船乗り将軍の汚名返上」というエントリで話したことのある
上村彦上之氶が蔚山沖海戦でロシア海軍のリューリック号乗員を救助した艦でもあります。


写真に戻りましょう。
右側に並んで停泊しているのは、東洋汽船の貨物船「総洋丸」です。
東洋汽船は戦前の安田財閥系海運会社で、その所持船は全て「×洋丸」と名付けられていました。
徴用船はもちろんですが、東洋汽船所有の貨物船はそのほとんどが戦没しており、(その他は座礁沈没)
この「総洋丸」も、昭和18年の12月7日に戦没のため喪失となっています。


写真を詳細に眺めれば、「八雲」の舷側に候補生たちが固まって列を作っているのがわかります。
これは後からわかったのですが、今から作業に入る候補生たち。

そして、注目して欲しいのは両艦の間にかけられたラッタル。
昔のラッタルってこんなだったんですね・・・。
これ、もしかしたら長い梯子を渡しただけですよね><
横にいる人の大きさと比べてもかなり板と板の間が広そうな・・。

これは、酔っ払っていなくても結構 落 ち た  のでは・・・。
ましてや舷門番に怒り、目が眩んで足を踏み外すガンルーム士官なども当然(意味深)




軍艦「松島」は日本三景艦「松島型」一番艦で、お召し艦になったこともあり、
黄海海戦ではあの「勇敢なる水兵」三浦寅次郎3等水兵の逸話を生んだ艦です。



ここにあるのは台湾にあった「松島」の記念碑。
海軍の遠洋航海なのでこういうところに立ち寄ったようですね。

公文書館の資料でこの碑を建立したときの趣意書を見ることができますが、
それによると、この塔は松島の主砲を模しているもので、周りに置かれた
砲弾とスクリューはどうやら本物のようです。
国民に寄付を募ったところ当時のお金で1万5千円が集まり、昭和11年に完成したとありますから、
このときはまだできてすぐの「ホットなスポット」でもあったということです。

ところでなぜ「松島」の記念碑がここにあるか、ですが。


実は「松島」、明治41(1901)年になんと、少尉候補生を乗せて遠洋航海中
ここ馬公で爆発事故を起こして沈没してしまったのです。

兵学校35期の名簿を見ると、卒業生172名のうち33名の名前の後ろに「馬公(松島)」とあり、
33名もの候補生が遠洋航海で一挙に失われてしまった悲劇の学年であることがわかります。

67期候補生にとっても、自分たちの先輩、しかも同じ航路での惨事とあらば他人事ではありません。
おそらくこの悲劇は、候補生たちの間でひとしきり話題になっていたことでしょうし、
練習艦隊に乗り組むに当たっては、この事故から得た教訓なども訓示されたはずです。

おそらくこの碑の前に彼らは神妙な面持ちで佇み先輩の霊に黙祷したに違いありません。


ところで、事故当時の「松島」の乗員307名のうち死亡したのが207名、3分の2が殉職しています。
この多さを考えると、兵学校生徒の33名というのは割合にして約3分の1と少なく、
もしかしたら救出も彼らが率先されたのだろうか、というようなことも考えてしまいます。


 

写真を頂いた時にはなんとなく見て「台湾だなあ」と思っただけでしたが、
実はわたくしここに行ったことがあったのでした(^◇^;)
お正月に旅行で台南市にいったとき、赤崁楼(せきかんろう)というオランダ人の作った城郭跡が
博物館も兼ねた公園のようになっていたところに観光に行ったのですが、どうやらわたしは
全く自分でも知らないうちに67期の皆さんと同じところを見ていたのです。



別角度からですがこれが右側の建物ですね。
これも何度か書いていますが鄭成功が、ここに陣を張るオランダ軍を攻め攻略したのちに、
ゼーランディア(ここも観光地)も落とし、オランダの台湾支配を終焉させました。
鄭成功が「台湾中興の祖」と言われる所以です。



この写真だけでは意味がわからなかったのですが、旅程によると、
8月29日には馬公で「載炭」と予定にもそう書かれています。
よくよく見ると旅程の所々に「載炭」の日があり、これは読んで字の通り
石炭を艦に搭載する日が丸一日設けられていたらしいことがわかります。
これは今石炭を積んでいる作業中で、石炭貯蔵タンクの向こう側には
候補生らしい人影があります。

冒頭写真は「総洋丸」から石炭をもらっているところなんですね。

候補生にとっても石炭搭載作業は大変印象的だったようです。
当時において重油専焼艦が大半を占めていた海軍艦船のうち、
数少ない石炭専焼艦として、各地で一日がかりの載炭を行い、
候補生も炭塵にまみれて下士官とともにこの苦しい全艦作業を経験するのです。
殊に酷暑の候、熱帯地方で陽に照りつけられながら、あるいは空気の流通の悪い
炭庫深くで行う作業は、かれらにとってひとつの試練でもありました。

この作業を体験したクラスは、67期が海軍の歴史でも最後になったのです。



本土帰港前の最後の寄港地は廈門でした。
候補生たち練習艦隊は廈門にある南普陀寺(なんふだじ)に観光に来ています。
しかし、今までの観光地での写真はほとんどが水兵さんばかりが写っているのですが、

彼らは一緒に行動していたのでしょうか。

それともカメラを持っている者は候補生にもいなかったため、皆の写真を撮ってあげていたのか・・。

それにしても、このアルバムの主、越山清尭候補生のカメラの腕は冒頭の艦上写真を始め
(これ一体どこからどうやって撮ったんでしょうか)相当確かなものに思われます。
もしかしたらご本人ではなく同行のカメラマンが撮ったものだったのかな・・・?



日光岩というわりに景色が日本ではないなと思って調べたら、これも廈門でした。
「鼓浪嶋ニテ」とありますが、これは「こらんとう」、中国読みでグゥ ラン ユィだそうです。

1900年くらいから欧米、および日本の共同租界となっていて「コロンス島」という別名があり、
欧米諸国や日本が領事館、学校、教会等を建設したことから、租界地特有の豪華な洋風建築が
島内のあちらこちらに今でも残されていて見ることができるそうです。


言われてみれば写真に見える建物は、洋風と言えなくもないですね。

このころはどうだったのかわかりませんが、現在鼓浪嶋の住人は音楽好きで知られており、
”住宅街で耳を澄ませばピアノやバイオリンの音が聞こえてくる”といわれているそうです。
租界だったということもこの環境に影響しているのでしょうか。



陸戦隊というのは他でもない海軍陸戦隊のことなのですが、そもそもこのアモイ、
明治時代に日本が占領しようとしたことががあるってご存知でしたか?

廈門事件で検索すると詳細が出てくるのですが、
福建省のこの地における覇権確立をかねてより狙っていた日本は、児玉源太郎台湾総督の時代、
廈門にある東本願寺が焼失したのを名目に(どうもこれは自作自演っぽい)
海軍陸戦隊を海峡を隔てたお向かいの
台湾(つまり日本ですね)から出兵させて
廈門を軍事占領した、ということがありまして。

この崖の上の本部というのは、
その時に司令部としてつくったか接収したものであるようです。

しかし中国での権益を強く主張するイギリス、アメリカ、ドイツの参加国が
これに対し強く抗議し、特にイギリスが軍艦まで出してきたため、日本政府はさすがに
布教所の火事ぐらいを占領の理由にするのは無理があると諦め、潔く?撤兵しました。

まあ、このあたりから列強各国は日本に対して牽制にかかっていたということですね。
出る杭は打たれるってヤツでしょうか。
日本としてもせっかく義和団事件でいい感じ()だった列強との関係を壊したくなかったため、
大人しく引き下がったという経緯がありました。


というわけで日本は、軍事占領は諦めて、いわゆる「対岸経営」というやり方、
すなわち
対岸の台湾から福建に会社や鉄道の経営を通して経済的権益を得る、
という方法で廈門に進出して
いくことになります。

この建物は明治時代に陸戦隊本部であったのですが、この頃(昭和13年)には
実際に部隊が置かれていたわけではないので、候補生たちは「本部跡」として見学したのかもしれません。

このとき候補生たちは「戦跡見学」として、日露戦争の戦場、そして
満州事変戦跡(柳条湖)、彼らの先輩が陸戦隊で勇戦奮闘した上海広中路の激戦跡、
といったところを目の当たりにしました。

ある候補生は戦後このときのことを

「将来の決意を一層固めたものである」

と書き残しています。
それは果たしてどのような「将来」であったのか・・・・。

この後候補生たちは、満州鉄道に乗って新京まで行き、そこで

満州国皇帝愛新覚羅溥儀に拝謁を賜っています。

「ラストエンペラー」溥儀は、1932年、日本の後押しで満州国皇帝となり
施政を執ってもうこのころで7年目になっていました。
「満州国皇帝」に即位してから5年目です。
候補生たちはこのときに関東軍司令官にも伺候しています。
このころは梅津美治郎が就任する少し前で、前任の植田謙吉の頃です。

彼らは夢にも知りませんでしたが、このころ時あたかもソ連と満州の国境で、
日ソ国境紛争の一つであるノモンハン事件が起こっていました。
1939年のこの時期、国境での紛争件数は200件に上り、軍事衝突において
日ソともに戦死者は8~9千人に上るというものでした。
植田司令が候補生たちを拝謁したとき、ちょうど最後の戦闘が行われようかという時で、
司令官が兵学校の候補生と会っている場合だったのか?という気もしますが、
わたしたちが思うくらいですから候補生たちがこういったことを一切知らず、
後で聞いて驚愕したとしても当然のことだったかもしれません。

続く。




”遠航散見”~海軍兵学校67期の遠洋航海

2015-03-03 | 海軍

もう1年以上前のことになりますが、海軍兵学校67期の卒業生の親族であるという方から
当ブログにコメントをいただきました。
なんでも「兵学校67期」でググると、当ブログ記事に多数ヒットしたということで
(といいますのも笹井醇一中尉がこの67期であったりするもので(〃∇〃)ゝ )

その後はそのご親戚の67期卒業生について、わたしの手持ちの資料の中からわかることを調べ、
生徒生活からその最後の出撃までを、「海軍人物伝」にアップさせていただきました。

越山澄尭大尉シリーズ 


その後、この方から、越山大尉所蔵だったアルバムの写真をいただきました。
67期の遠洋航海の際、越山生徒が自分自身のカメラで撮った写真です。

戦艦「伊勢」乗員の親族であった方のアルバムについて、先日お話ししたところですが、
日本の家庭には、「お祖父ちゃんのアルバム」として押入れの奥深くに仕舞われたまま、
余人の目に触れることなく、これまで来た歴史的に貴重な資料がさぞかしあるに違いありません。

遺族の方が、本来は門外不出の貴重な写真の公表を許してくださるのは大変ありがたく、
このブログでそれを発表する機会を慎重にうかがってはいたのですが、
うかがっているうちにまず落馬して骨折、治ったと思ったらイベントやなんやで、
ハッと気がついたら資料を頂いてから1年が経過してしまいました。

というわけで、満を持して、(っていうのかな)ここに

海軍兵学校67期遠洋航海シリーズ

を始めさせていただきたいと思います。

冒頭写真はアルバムの主の兵学校での写真です。
映っているのは13人ですから、分隊ごとに撮られたものと思われます。
18歳くらいの少年といっていい生徒もいるのですから、当然とはいえ、
一人ひとりの顔をよくよく見ると、まだ幼さが残っていて、こんな少年たちが
兵学校を志願して受け、厳しい訓練を受けていたのかと感慨深いものがあります。



アルバムの主である越山生徒。

この写真は上半身脱衣で撮られているのですが、もしかしたら海兵試験のためには
このような写真を提出することが決められていたのかもしれません。

身体頑健で健康であること、というのは兵学校生徒になるために学力と同じくらい
重要な選定のポイントでしたから、そうだったとしても納得がいきます。



夏用の第二種軍服での一枚。
町の写真館で、おそらく同郷の級友と撮ったものではないでしょうか。
兵学校の制服が若い男女の憧れであったことはいろんな文献に見ることができますが、
これをまとって娑婆を歩く時、学生たちの気持ちはさぞかし晴れがましいものだったでしょう。

アルバムの主越山中尉は左端です。



 
昭和13(1938)年、軽巡洋艦「大井」の甲板で撮られたものだそうです。

軽巡「大井」は「球磨」型の第4鑑で大正8年に建造されましたが、
昭和5年ごろから機関の不調に悩まされた結果、兵学校の練習艦になっていました。

短艇訓練が行われたときに撮られたのであろうこの写真の真ん中の人物は、
当時の「大井」艦長安場保雄大佐(42期)であろうと思われます。
開戦後「北上」と共に重雷装を施され、第1艦隊に編入された「大井」は、
あの森下信衛大佐が艦長になったこともあり、南洋でで通商破壊活動に従事していましたが、
昭和19年の7月19日、米潜水艦の攻撃によりマニラ沖で戦没しています。

写真の上の自著は、左端の越山生徒が写っている級友に頼んだものらしく、
一人一人が特徴のある字体を残していますが、右上端の上田淳二生徒の特に変わったサインには
1号生徒の分隊写真では笹井醇一生徒と一緒に写っていたのでが見覚えがあります。

上田生徒も越山生徒と同じく伊号潜水艦(伊4)勤務になり、ラバウルで戦没しました。
この写真に写っている他の生徒について書くと、鈴木武雄生徒は752空で台湾東沖にて戦死、
重枝清生徒は飛鷹乗り組みで鹿屋で戦没となっていますから、おそらく艦載機での戦死でしょう。
永松正輝生徒は呂56が沖縄沖で撃沈されて戦死。
この中で生き残ったのは坂本生徒と深井生徒だけです。



アルバムの外表紙の画像まで送っていただきました。
昔は鮮やかな赤であったであろう糸の織り込まれた布地の表紙。
時を経てところどころ糸がほつれているのもまた感慨深い。



アルバムの主の署名とアルバムタイトル。
気持ちの大きさを感じさせる伸びやかな筆致です。





というわけでここからが遠洋航海アルバムになります。
アルバムの表紙裏には、

「昭和14年7月25日の海軍兵学校卒業式に我等も招待を受け
両親参列
 高松宮殿下後台臨

厳粛ながら卒業式終了後大宴会 終わって乗艦(八雲・磐手)
午後3時艦隊出港 爾来東洋方面巡行終了後 
9月20日 横須賀帰着
9月26日 宮城参内
10月4日 横須賀出航 遠洋航海
12月20日 帰着

と書かれています。

現在の海上自衛隊の遠洋航海も同じように、卒業式の後「表桟橋」から出航し、

まずは慣らし?としてしばらく近場での航海を経験します。

その寄港地は

江田内→舞鶴→宮津→鎮海→旅順→大連→青島→
上海→馬公→高雄→廈門→佐世保→伊勢→横須賀

で、今なら行かない中国大陸と台湾に立ち寄っています。
伊勢ではやはり伊勢神宮の参拝が大きな目的だったのに違いありません。

一旦首都に寄港してそれから遠洋航海に出ることになっていますが、戦前はこのときに

宮城参内、そして靖国神社、明治神宮などを参拝するという大事な行事がありました。
(今靖国参拝は・・・・していなさそうだなあ)

このとき、士官候補生となった彼らは同時に東京見学などで大いに羽目をはず
・・・・・す者もいたという話ですがもちろん全員ではありません。

士官候補生東京見学行状記

さて、昭和14年の兵学校67期の遠洋航海は、最後の海外への遠洋航海となりました。
それまでの遠洋航海はある時はアメリカ本土、ある時はヨーロッパと、

「兵学校に入る目的の大きな部分は遠洋航海で海外に行けること」

であったというくらい、そのスケールは大きく、海外旅行に行くことができるものなど
ごく限られた層の一握りであった時代には世人の憧れでもありました。
しかし世界情勢が不穏になりつつあったこの時期、とりあえずは行われた遠洋航海も

そのルートはハワイまで行って帰ってくるという「短縮コース」となります。

ここで各期の遠洋航海ルートを見比べていてふと気付いたことがあります。
昭和12年に行われた64期の遠洋航海は、機関学校45期、主計学校25期、研究医官と
全てが合同で行われ、艦隊司令は古賀峯一中将
「八雲」艦長は宇垣纏大佐、「磐手」艦長は醍醐忠重大佐という有名どころ()で、
イスタンブールを経て地中海はナポリ、マルセイユと訪ねる超豪華コース。

といってもそれまでアメリカ大陸コース、地中海ヨーロッパコース、太平洋コース(豪州)
という順番で繰り返し行われてきたのですが、昭和13年の間に行われた65期、66期の航海から
急に中国とシンガポール、パラオなどの後の激戦地が寄港地に変わるのです。

そして、この最後の遠洋航海では、ハワイ・・・。


この67期の練習艦隊が真珠湾に近づいた時、そのとき現地は朝方で暗かったということですが、、
候補生たちに向かって分隊監事が

「お前たちのうち何人かは近いうちにまたここに来るかもしれないからよく見ておけ」

と言ったそうです。
このことを以前、

「海軍の中ではここを近々攻撃するかもしれないという噂でもあったのだろうか」

と書いたことがあるのですが、こうして見ると昭和13年になって急に
海軍内で「なにかが変わった」と言わざるを得ません。

変わったと言えば前年の昭和12年には廣田内閣が総辞職しており、
その前年にはニニ六事件が起こって、国内の政情は大変不安定でした。
この年の5月には国家総動員法が全会一致で決議されており、
いよいよ国を挙げて戦時体制に突入したことが国民にも感じられる年ではありましたが、
海軍では、巷で「米英もし戦わば」というようなシミュレーションが盛んにされる以前に、
その可能性が信憑性をもって捉えられていたらしいことが、こんなところからも窺い知れるのです。

さて、それでは遠洋航海の前の「近海航海」から始めましょう。



鎮海に始まり中国国内を航海していた艦隊は、卒業式から約1ヶ月後の8月21日、上海に入港しました。
接岸しようとする「八雲」もしくは「磐手」。
煙突の形状からどうも「八雲」だと思われますが・・。



埠頭には現地の邦人がこれを迎えて手に手に軍艦旗をうち振っています。
おそらくカラー写真であれば青い空にさざめく紅白の
旗、そして艦橋に鈴なりになった
候補生たちの純白の軍装がさぞ美しかったことでしょう。

 

その三日後、彼らは海軍陸戦隊が有名になった上海事変の激戦地跡を見学したようです。
上海事変ではこのとき日本軍の爆撃で商務印書館という出版社のビルが焼かれました。
ただし史実によるとこれは第一次上海事変の昭和7年のことです。
つまり、この建物は修復されないまま5年間放置されていたままのものだということになりますが、
ここにメモとして書かれている日付は、第二次上海事変のとき、日本軍が上海を制圧し、

日軍占領大場鎮」

というアドバルーンを日本人街に挙げたときのものです。

現地の説明に、もしかしたら手違いがあったのかという気もしますが、今となってはわかりません。



第二次上海事変の時に破壊されたところは少なくとも彼方此方で復興されぬままだったようです。
上海事変の慰霊碑が呉の海軍墓地にありましたが、この時の戦闘は中国軍の激しい抵抗のため、
日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄絶な消耗戦になりました。

日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出しています。


さあ、というわけで、しばらくの間67期が最後の遠洋航海で辿った航路を、
越山清尭生徒の撮った写真とともに追体験してみたいと思います。


続く。

 


空母ホーネット博物館~米海軍の女性提督と海自の海将補(候補)

2015-03-01 | 自衛隊

去年の春と秋、練習艦隊の出港と帰国を晴海埠頭に見届けたときの
練習艦「せとゆき」の東良子艦長が、1月1日付で1佐に昇進されたそうです。

おめでとうございます。

女性では初めての1選抜での1佐昇任となり、もしかしたら女性初の将補も可能性も見えてきました。
他人事ながらなんとか頑張って女性海将まで行って欲しいものですが、
ここから先、競争相手は精鋭ばかり。さぞや険しい道であろうとご推察します。


というところでいきなり寄り道して、雷蔵さんのレクチャーで仕入れたばかりの知識ですが、
自衛官の昇進についてお話しします。

これから海上自衛官を目指す方、特にどなたとは言いませんが、どうぞご参考になさってください。

防衛大学校と一般大学卒業者からなる一般幹部候補生は全部で150名。
防大が毎年100人、一般大が50人です。
尉官のうちは、つまり3尉、2尉から1尉昇任までは、重大な病気かよっぽどの規律違反がない限り、
同じ日に揃って昇任します。

世界のどの海軍にも階級順に名前が記された「幹部(士官)名簿」というものがあるものですが、
海上自衛隊では2尉まではアイウエオ順です。
つまり中尉までは自分がどの位置にいるかわからないままなのです。
卒業の時に自分の順位がわかっているので、防大卒はそれでだいたいの判断ができるとはいえ、
一般大卒が加わるのでそこからさらに落ちる可能性もあるというわけです。

で、1尉になるとき、初めて名簿は成績順に並ぶようになります。
この段階で自分の自衛官人生がだいたい見えてしまうということでもあるんですね。

旧海軍のハンモックナンバー偏重主義は戦後否定的に評価されており、
それが負けた原因だなどと極論をいう人すらいるわけですが(違うと思いますけど)、
大学卒業の時の成績がそうものを言わないとはいえ、このように序列が20代のうちから
はっきりと見えてしまう職場というのも珍しいといえば珍しいものですよね。

当ブログでも何度もご紹介している、兵学校の最後の在学生となった76期生徒のSさんなど、
自分がハンモックナンバー5番で、しかもそれが結構ご自慢であるのにもかかわらず、

「あれはいけません。海軍の弊害というかダメなところですよ」

とこんな話をしてくれました。
76期卒業生で「最後の海軍軍人出身海幕長」と言われた長田海将と「いなづま」の
艦長の話をこのブログでもしたことがありますが、その長田海将と、
同期、つまり76期出身で海将になった者が海幕長候補に挙がったとき、
ハンモックナンバーが決め手になって長田海将が海幕長になった、ということが
76期同期生の間でささやかれてきたという話です。

言っておきますが、この76期は、2号生徒の時に終戦を迎えていますから、
この海幕長を決めたハンモックナンバーというのも3号(1年生)終了後の成績なのです。

卒業時にハンモックナンバーなんて全く変わっている可能性もあったのに」

とS氏はつまりその結論にあまり納得していないようでしたが、わたしは


「いえ、実は長田海幕長には若い時にこんな話がありまして」

と膝を乗り出さんばかりにして「いなづま」航海士だったときの話をさせていただきました。
(ここでそのことを書いた直後だったもんで)


一般に艦長の時「つっかける」と海自内の言葉で言う軽微な事故、定置網に気付かず突っ込んだとか、

小さな漁船に接触する事故などを起こしてしまうと、それだけで昇進が足踏みするのに、
人が何人も亡くなるような事故のとき航海長でいながら、海幕長に選ばれたということは、

「(長田氏は)ハンモックナンバーだけでなく実際にも評価が高かったのではないでしょうか」

わたしがこういうと、S氏は、

「そうかもしれないですねえ」

と少し驚いておられるようでした。
戦後そちら方面には極力関心を持たず、同期会で仕入れた断片的な噂話が情報元だったので、

こういう海自のリベラルな部分や雅量とでもいうべき部分については
知ることなく今日まで来てしまったのかもしれません。



さて、冒頭に東良子2佐は「1選抜で」と書きましたが、この1選抜とは、
同期の中から真っ先に上級に昇進することのできる選抜メンバーをいいます。
防衛大学校を出ていれば、最低2佐まではいける、という話を聞いたことがありますが、
ここで1選抜となった同期はどんどんと先に行ってしまうわけですね。

実にシビアな方式で、わたしなどは驚いてしまったのですが、この1選抜は


3佐に1選抜される人数→150名のうち50名(3分の1)

2佐に1選抜される人数→50名のうち25名(2分の1)

1佐に1選抜される人数→25名のうち5名(5分の1)


これは、旧軍のハンモックナンバーではなく、その地位にあった時の「実績」に
よるものですから、たとえ防大を首席で卒業したとしても、その人の能力によっては
1選抜に漏れるということも起こりうるということになります。


そして東さんはこの5人に入ったということなのです。(/^ー^)/"""パチパチ

で、この先ですが、将補以上は各クラス10人ずつ、内訳は海将が3~4人、海将補が6~7人出ます。

1佐から初回で将補に昇任するのは、4年半後なので、海上自衛隊初の女性海将補が
もし生まれる可能性があるとすれば、そのときということになりますね。


 
閑話休題。


って、最初から全く写真とは関係ない話に紙幅ならぬブログ幅を費やしてしまいました。
どうして東1佐の話を冒頭に持ってきたかというと、今日はアメリカのアラメダで見学した
ホーネット博物館の艦内展示から、女性海軍軍人のコーナーのお話をするための前振りです。

海上自衛隊の女性隊員のことをWAVEという、ということにわたしは比較的最近気づいたのですが(笑)、
アメリカ海軍ではちゃんとSをつけてWAVESと称します。
なんの略かと言いますと、 


Woman Accepted for Volunteer Emergency Service
( 緊急時任務に志願することを認められた女性)

直訳するとこうなります。
アメリカ海軍がこう言って女性を集めたので
これが名称となり、
アメリカ式名称を直輸入した自衛隊が、何の疑問もなく?

この名称を使用しているのですが、なんか変ですよね。

自衛隊で「イマージェンシー」というのは名称に含む必要があるのかとか、
なぜ肝心の「サービス」の「S」を自衛隊では削ってしまって、「WAVE」なのかとか。

単にウェーブスだといいにくいから?
WAVEで波=海上でいいんじゃね?ってこと?

うーん、たった今気づいたけど、これは ・・・・・・・。
 


と相変わらずどうでもいいことが気になって仕方がないわたしであった。

ついでに自衛隊の場合、

「ワック」WAC=Woman’s Army Corps=女性陸上自衛官

「ワフ」=WAF=Woman in the Air Force=航空自衛隊

で、これらも米軍の名称をそのまま受け継いでいます。
陸自と空自はすっきりと「女性の陸軍」並びに「空軍の女性」なのに、
なんだって海自だけがこういうわけわかめな名称なのか。
どなたかご存知の方おられますか。

もうひとつついでに、Army Corpsは「アーミーコーア」と読んでね。
語源はフランス語なので語尾の子音発音しないんですよ。





さて、とにかく前に進みましょう。

あれは確か1年半前、ホーネットの見学を行ったわけですが、
その時撮りっぱなしになっていた写真のことを突如思い出したのです。

空母ホーネットは日本軍に沈められたのですが、ちょうどそのとき
「キアサージ」となる予定だったこの空母を、アメリカは瞬時にして
『ホーネット」として竣工してしまったのでした。

「日本に沈められた」という情報が世間に広まるのを抑えるためだったに違いありません。

戦後ホーネットはアポロ13号の乗員の回収を行ったりして退役し、
余生を博物館として送っているのですが、体験型博物館として、艦内で宿泊したり
ナイトツァーを行うなどもしています。

写真は細かいバルブとスイッチ、そしてメーター。
これなんですか?(早速お手上げ)



本題に入る前にもうひとつ未発表写真を投入。
キャニスター(蓋付き容器)とか延長線などが収納されている、
ということですが、これも何のためのロッカーかはわかりません。
ただ、ロッカー側壁に赤で書かれているOBAというのは、

oxygen breathing apparatus(酸素吸入装置)

という意味なので、非常用のセットであることはまず間違いありません。
上に置いてある赤いヘルメットが凹んでいるのは(これにもOBA表記あり)
何かシリアスな状況に使われたことがあったということでしょうか。



というわけでやっとこさWAVESコーナーです。
やはり女性軍人についてのコーナーですので、展示はお洋服から。

左の紺色スーツは下士官のもので、後ろには現行の士官用がありますが、
手前のブルーのシャツにブルーラインの制服はわかりません。
これが「Sea Service Woman」のものでしょうか。
でも「Sea Service」って、航海勤務のことだしなあ・・。



白っぽいドレスは1940年代のものであることは確か。
左のブルーは水兵さんの女性版?



真ん中は海兵隊の女性軍人(SPARS)用の制服です。
カーキに最も合う色、赤を配した帽子がおしゃれですね。 


さて、冒頭でわが国初の海将補誕生か?という話題を取り上げましたが、
アメリカ海軍では一足お先に2014年7月、初めての女性「提督」が誕生しています。



ミシェル・ハワード大将

女性が、しかもアフリカ系女性として初めての4つ星階級となり、
海軍作戦副総長となったののは236年のアメリカ海軍史上、初の快挙だということです。

1960年の54歳ということですが、なかなか可愛らしい方ですよね。
インタビューを見ましたが、頭脳明晰を絵に描いたような喋り方をする人です。
1982年に米海軍兵学校を卒業し、1999年には黒人女性として初めて米海軍艦艇
( USS Rushmore  LSD-47_揚陸艦
)の艦長を務めました。

バラク・オバマは黒人でなければ大統領になれなかった、とよく言われますが(笑)、
彼女の昇進にも常にそういう批評が付きまとったようです。
俺の方が上なのに女だから、黒人だから抜擢された、などといつも
陰口を叩かれながら今日まで来たと慮られるのですが実際はどうだったのでしょう。

「私が任務に就くのを好まない人や、私が目指すことを邪魔する人たちもいました」

彼女はインタビューにこう答えています。
ただ、これは注意が必要で、ハワード大将が自発的にそう言ったのか、それとも
そういうことにしたいメディアがそう言わせようと誘導したかは誰にもわかりません。

ただ実際にも、
2013年に発表されたある海軍報告書からは、あるハワード大将の同僚が、
彼女が中将になったとき、

「昇格が早かったのはアフリカ系女性だからであり、その立場にたどり着くまでに、
アフリカ系でも女性でもない人間と同じような難関を乗り越える必要はなかったのではないか」

と話していたことが明らかになったということです。
つまり遠回しに「黒人女性だから簡単に昇進できた」と言っとるわけですね。 

まあわたしも実はオバマはアフリカ系だから大統領になれたと思っている口ですが()
軍は・・・・やっぱり実際に優秀でないと現場の評価から足元が崩れてしまうし、
あまりにも性格が悪くて更迭された女性艦長もいたくらいですから、
この同僚の「やっかみ」ではないのかという気もしますが、どうなんでしょう。 

我が日本国においても、女性自衛官の艦長就任などがあると結構な話題となり、
インターネットには

「自衛隊が世間に迎合している」「イメージ戦略のためにやっている」

などという意見も出てきたりするわけですが、自衛隊こそ、よほど優秀でないと
上がってこられないし「出る杭は打たれる」の文化なので、ここは

「男性だったとしても普通に昇進できるくらい優秀だから昇進した」

ということなんじゃないでしょうか。

(あくまでもイメージです)


米海軍のWAVESについても、もう少しお話ししていきたいと思います。