2014年度海上自衛隊練習艦隊は、大戦中にガナルカナルで戦死した日本軍将兵たちのご遺骨を
日本に帰国させるという歴史的な任務を遂行させた初めての遠洋航海となりました。
そのご遺骨の帰国式に来賓として参加させて頂く光栄を得たわたしですが、
その出席に関する事務的な連絡をしてくださった海幕の一佐は、
「帰国のための航海中も、御遺骨に手を合わせる乗組員が
昼夜を問わず後を絶たなかったと聞きました。
実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」
というご報告をお礼への返事に書き添えてくださったものです。
練習艦隊というのが初級士官の教育が目的です。
軍艦の上で行われるすべての営み、作業の手順ややり方はもちろん、
昔は(今もかな)六分儀(セクスタント)を使っての天測も行われましたし、
今回皆さまにお見せしている写真の中でも、候補生甲板士官が慣れない指揮を執りつつ
水兵たちの作業に立ち会っているらしい様子を見ることができます。
そして海幕の一佐のおっしゃるように、最も大切なのが「精神教育」でしょう。
今まで一般大学や防衛大学で学んできた初級士官たちの、遠洋航海は
「社会人デビュー」であり、同時に指揮官として、自分より年下の部下をも
率いていかねばならないのですから、まずその心構えを、シーマンシップと共に
その柔軟な若い心にみっちりと植えつけて育てていく必要があるのです。
どのようにそれを指導していくかは練習艦隊の指揮官にとっても重要事で、
常にそういう機会を捉えては教育の糧とする用意をしているのかと思われます。
今お話ししている遠洋航海の前年度、昭和13年度のことです。
この年は、兵学校66期と機関学校47期、主計27期が同行したのですが、
機関の47期に、戦後自衛隊で海将補まで務めた上村嵐氏がいました。
その上村氏が書いていたことですが、この航海で鎮海(釜山から西へ100kmあたりにあった
海軍の要港で14年にも寄港している)に入港したとき、
「八雲」か「磐手」のスクリューに何かが絡まって回転が不能になってしまいました。
指揮官(艦長だったか司令官だったかは説明なし)が候補生を集めて
「こんな時にはどのような処置をとったらよいか」
と質問をしました。
突然のことで候補生たちが返答できずにいると、その指揮官は
「こうするのだ」
と言うやいなや、海の中にそのまま飛び込んだのです。
この年度の遠洋航海は最も遠い寄港地がマニラという、わずか2ヶ月の
「短縮航海」だったのですが、出港日が11月16日。
少なくともこのときには12月近かったと思われるのですが、
その冷たい海に軍服のまま飛び込み、スクリューにからまっていたロープを
手で取り除いたということです。
上村氏はこの話を海軍の伝統である「指揮官率先」「指揮官先頭」を説明するために
例として挙げているのですが、おそらくこの指揮官は、このアクシデントを
候補生たちに施す精神教育のための奇貨として、敢えてこの挙に及んだという気がします。
(こういう場合でなければやっていないとかいう意味ではありませんよ(^◇^;))
それにしてもこのとき物理的に動かなくなったスクリューからロープを外すとき、
飛び込む前に動力を止めなかったのか(外した時動き出したら危ないし)とか、
せめて靴は脱いだのかとか、いろんなことが一気に気になったのはわたしだけでしょうか。
この話の真意に疑念を唱えるつもりは全くありませんが、一つ気になったので
ちょっと書いておくと、13年の遠洋航海で鎮海には寄港していません。
この著書をを上村氏が著したのは2000年ということなので、もしかしたら
この年の二つ目の停泊港となった「青島」と勘違いされたのかなという気がします。
さて、それでは当時日本が委託統治していたマーシャル諸島のヤルートを出港して
次の泊地であるサイパンに向かう航海の写真の続きから参りましょう。
なんと!
水が超貴重な海の上では、少尉候補生ですらスコールを皆で浴びるのです。
航海中、特に潜水艦などはスコールの雲を見つけるとそこに突入していき、
入浴と洗濯を済ませてしまうと聞いたことがあります。
それにしても日頃鍛えている若い筋肉は惚れ惚れとするほど美しいですね。
何人かがカメラの方を見て「こんなところ撮ってんじゃねえよ」みたいな顔をしていますが。
サイパンは前回ヤルート島のときにお話ししたように、第一次世界大戦後
国連から委託を受けて日本が正式に統治していた南洋諸島のひとつで、
昔はスペインが統治してキリスト教を広めました。
その後、米西戦争でスペインが負け、アメリカはサイパンをドイツに売却したのです。
あれ?
つまりこうですよね。
スペイン領
→アメリカがスペインから取り上げてドイツに売り、ドイツ領
→第一次世界大戦の時日本が侵攻 軍艦「香取」で海軍が上陸
→第一次世界大戦でドイツが負けたので国連の指名で日本統治
→日本、戦争に負ける
この後です。
→戦後アメリカの軍政下に置かれる
→国連が信託統治することにし、現在アメリカ自治領
アメリカがドイツに売った、ってことはアメリカはその代金をドイツから受け取っているんですよね?
その時にアメリカは領有権を放棄していて、国連の指名で日本が統治したのに、
戦後はちゃっかり昔売ったはずのサイパンをタダで取り戻し自治領にしていると・・・。
なんかこれ、ずるくないですか?
日本統治時代はサイパン島は「彩帆島」となかなかオシャレな漢字を当てられ、
委任統治中には都市開発や公衆衛生、産業振興、教育政策が急速に推進されました。
日本政府はここサイパン、ロタ、テニアンにサトウキビ畠を作り、製糖を第一次産業としました。
今でもサイパンに観光に行くとプランテーションと港をつなぐ「シュガートレイン」や、
「シュガーキング」と呼ばれた松江春次の銅像を今でも見ることができます。
この松江春次は海軍と少々の関係がありますのでそのことをお話ししておくと、
政治とあまり関わりなくきた海軍があるときこれではいかん!と思い、
高木惣吉の発案で、日本の戦争理念の研究、生産増強策の提案、海軍政治力の補強に貢献すべく、
各方面より人材を確保して「Brain trust」ブレイントラストというものを組織しました。
哲学者和辻哲郎、社会学者清水幾太郎、実業家藤山愛一郎、劇作家岸田国士・・。
松江は各界の知識人で構成されたこのブレイントラストに海軍省顧問として参加していたということです。
産業がうまくいくようになったサイパンには、日本(沖縄がほとんど)はもとより、
台湾、朝鮮からの移民が続々と入殖するようになった結果、1943年の時点での人口比率は
日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人
となっていました。
ちなみに現在のサイパンではチャモロ人は「政府から保護されていて仕事をせず太るばかり」だと
現地のホテルのフィリピン人スタッフがわずかに軽蔑したように言っていました。
当時のサイパンには学校はもちろん、「香取神社」という神社もありました。
1914年に「香取」がサイパンに侵攻したとき、ドイツ軍の望楼があった小山に小祠を建てて、
軍艦香取内に祀られていた香取神宮の分霊(祭神 経津主神)を分祀したものです。
この香取神社のある山は「香取山」と名付けられました。
これらのことを調べるためにいろんなサイトを覗いていたところ、
サイパン専門のツァー会社のHPで
「日本は神社を作ると日本人はもちろん、島にいる全ての人々に参拝を強制したそうです」
と伝聞形でこんなことを書いているのを見つけました。
参拝を強制って・・・?(驚愕)
当の日本人にも「強制されて神社参拝」をした人はおそらく一人もいないと思いますし、
(だいたい日本人なら強制されなくても行きますよね。初詣とか)
統治するのにあたっては島民に宗教を強制しない、というのは普通に国連の通達にもあったことなので、
真面目な日本がこれを守らないはずはないのですが、どこからこんな話が出てきたのかしら。
それに現実問題、参拝などという個人的なものをどうやって強制したのかしら。
なんというか、戦前の日本のやることはすべて悪と思い込んでいる人の思い込み?
統治時代名前を奪われたとか言葉を奪われたと騒ぐ人たちと同じ匂いがします。
余談ですが、台湾でお会いした蔡焜燦さん(予測変換で一発で出てきた・・・有名だったんだ)
が言っていたことによると、蔡さんが日本軍にいた時、
蔡さんはじめ台湾出身者は皆台湾名を名乗っていました。
日本名を名乗るか通名を名乗るかは本人の自由で、蔡さんはそうしていたのですが、
朝鮮出身者は、全員自主的に日本名を名乗っていたそうです。
しかし日本が負けた後、列車の中などで横暴に振る舞っているのは、
なぜか必ず全て朝鮮人であったということでした。
海軍の練習艦隊がその航路の最後にサイパンに立ち寄ることは何度か行われました。
現地では候補生たち、艦隊一行を迎えるための行事として、親善のための運動会を催しました。
これもおそらく何度となく行われてきたことだったのでしょう。
練習艦隊はこの前にトラック、パラオに立ち寄って、半日程度の見学をし、
サイパンでは12月7日から10日までの三日間を過ごしています。
運動会に特別出演、サイパン島民。
おそらくチャモロ人たちだと思われます。
このアルバムはほとんど感想らしきものが書かれていないのですが、
唯一ここに書かれた感想、
「サイパン島民は全く土人離れして居る」
という言葉が、越山候補生の素直な驚きを表しています。
おそらくこれはヤルート島民との比較において出てきた感慨だと思われますが、
これはどういうことかというと、日本の統治下で文化の影響を受けているため、
たとえば「サイパン音頭」などという日本語の踊りに溌剌と興じる様子が、
どうも未開の土人というものではなかったのでしょう。
この時の踊りが大変好評だったせいか、司令官は特別賞を出したようです。
嬉しそうな顔をしているのははっきり言って賞品を持っている一人だけで、
あとは地なのか仏頂面なのか、無表情な島民の皆さんですが。
さて、この運動会が行われてわずか数年後のことになりますが、
侵攻してきたアメリカ軍と日本軍の間に熾烈な戦闘が行われ、サイパンは「死の島」と化します。
諸島防衛が検討されるようになった時、サイパン島民のうち婦女子、老人の帰国が検討され
島のひとところに帰国する者が集まったのですが、「亜米利加丸」が米潜に撃沈されて
500名が犠牲になってからは疎開は遅々として進まず、 戦闘が始まると多くの民間人が
巻き込まれて死傷したり、米軍に捕まるのを恐れて崖から飛び降りて自殺したりしました。
崖から入水する一人の婦人のフィルムが残されていて、
皆さんも一度はどこかで見たことがあるかもしれませんが、
彼女の身元は分かっていて、会津出身の室井ヨシさんだそうです。
サイパンの在留邦人の死者は8千人から1万人といわれており、
戦闘終了後、米軍に保護されたのは14,949名。
内訳は 日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人、チャモロ族2,350人・カナカ族875人でした。
この時に海軍の練習艦隊乗員と1日運動会に興じた日本人のうち、割合にすれば
ちょうど半分がこの日からわずか5年後に亡くなったことになります。
67期史を編纂したもと67期生徒は、この日のことをこう書いています。
「サイパンでは1日乗員が陸上の学校校庭で、子供や女学生を含む
在留邦人とともに、運動会に楽しいひと時をすごした。
我々と一緒に走った、これらの人々が5年後のサイパン戦で、
どんな運命をたどったのであろうかと思うと胸が痛む」
サイパンを出た後、最後の寄港地は父島の二見港でした。
この季節特有の雨が降っていたそうです。
横須賀に帰着する前、館山に仮泊して、艦体の外弦総塗粧を行いました。
自衛隊の練習艦隊でもそうだったそうですが、この時に次年度の艦隊編成、
訓練に備えた士官の大移動が発令され、横須賀入港を待たずして、館山で退艦、
そのまま赴任に向かう士官もそうとうあったということです。
かくして練習艦隊は12月20日、懐かしの横須賀に入港、
兵科候補生240名は即日霞ヶ浦航空隊付を命ぜられ退艦赴任、
機関科、主計科候補生は、艦隊は移乗を命ぜられて各艦所在地に向かいました。
昭和14年度、海軍兵学校67期の練習後悔の総航程14,833浬。
近海4,453浬、遠洋10380浬、行動日数は149日(7月25~12月20日)でした。
兵学校67期遠洋航海シリーズ 終わり