ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

"Rock The Ship!"〜空母「ホーネット」博物館

2016-04-10 | 軍艦

去年の夏、何度目かの空母「ホーネット」を見学してきました。
艦内ツァーで、元母艦乗りのパイロットであった解説員(元中尉) の
説明を受けて、それなりに交流してきたことをお話ししたわけですが、
今日は、この「海軍博物館」部分の展示をご紹介しようと思います。



たしかハンガーデッキだったと思うのですが、

「ユニフォームを見分けられますか?」

として、海軍の軍服が展示してありました。
例えば襟の部分に付けられた説明は、

「黎明期の1830年頃、士官と下士官の違い、または
士官の位を見分けるための階級章は襟についていました」

軍帽には

「これは少尉少佐までがランクされる帽子です。
1960年までは、士官の位を見分けることができました」

今では見分けられなくなったってことでしょうか。
肩章には、これが「エポーレット」ということが書かれていますが、
このエポーレット、ファッション用語ではおなじみです。 
コート肩にベルトみたいなのが付いているデザインがありますが、 
あれをエポーレットと呼ぶのです。



そして右側にはセーラー服。
左下の水兵帽は、1880年から1945年まで使われていた「Dixie-cup」
と呼ばれるものです。
ディキシーカップとは、最初に紙コップを作ったアメリカの会社で、
形状が似ていなくもないということから付けられたようです。

左腕のストライプは「釜の飯を食った年数」を表していると書かれていますが、
4年以上いたらどうなるのか。

ちなみにこの制服は、ペティオフィサー・ファーストクラス
Petty OfficerFirst Class(PO1)
 のもので、

自衛隊なら1等海曹になろうかと思われます。



前に来た時には改修中だったスカイホークが完成していました。
 TA-4Jスカイホークは、軽量で高性能の2シート戦闘機で、Δウィングです。
プラット&ウィットニーJ52 P6Bエンジンを搭載しています。

初飛行は1969年。
その駆動性の良さと操縦しやすさから、練習機としても使われ、
設計者のエド・ハイネマンの名前をとって

「ハイネマンのホットロッド」

として知られていたそうです。
ホットロッドとはカスタムカーのことだったりしますが、
この場合は「ホットなロッド」(ロッドはいわゆるありがちなスラング) 
にかけたのではないかという気もします。

ところで、ちょっとびっくりしてしまうのですが、ここにあるスカイホーク、
海軍航空博物館から貸与されてここにあるもので、なんと

「現存する最後の生きている機体の一つ」

なんだそうです。
最後に空を飛んだのは2003年の4月。
プエルトリコから、オークランドのアラスカ航空の整備場までで、
整備をすませてからこのアラメダにある「ホーネット」まで飛んできました。



デパートで洋服を着せられているのとは面構えのすこし違うマネキン。
ジム・ダッジ海軍大尉という実在のドライバーの往年のコスチュームなので、
もしかしたら本人に似せたらこうなったのかもしれません。

ダッジ大尉は最後の「ホーネット」乗り組みの飛行部隊、
「バウンティング・ハンターズ」(賞金稼ぎ)の司令官で、
アラメダに海軍基地があった頃の最後の司令官でもありました。

「ホーネット」が廃棄処分を免れ、今現在博物館としてその姿を残しているのは
このダッジ元大尉の尽力がたいへん大きかったからだ、ということです。

ダッジ大尉は「ビジランテ」の偵察ナビゲーターとして海軍のキャリアを始め、
その後、F-14トムキャットのパイロット兼教官をしていました。
アラメダの海軍施設が廃止になったのは1994年のことですが、
(ちなみにその頃の建物などは今ゴーストタウン化している)
最後の司令官として「バウンティング・ハンターズ」を率いました。



これも前回来た時には見なかったような。

F-11F-1(F-11A)タイガー

F-11 A というのはアメリカ三軍で統一した名称です。
もし源田実が空自にF「三菱鉛筆」というあだ名のあったスターファイター、
F104を導入しなければ、この「タイガー」が日の丸をつけていたかもしれない、
という歴史の「イフ」をご存知でしょうか。
そうならなかったのはタイガーよりスターファイターの方がカッコよかったから。

とかいう理由ではありません。


当初、この改良型の F-11Bの企画がアメリカ海軍に売れなかったので、
グラマン社は日本の商社、
伊藤忠と組んで、空自に売りつけにかかりました。
アメリカ海軍に売れなかったのにも何か理由があったはずなんですけどね。

この商談は一応内定までこぎつけたのですが、まだそのとき、設計図だけで

本体ができていなかったのと、当時のご時世から「内定は汚職ではないか」
と騒がれたことで、話
は白紙になってしまったそうです。

そもそも腹立たしいことに、グラマンは

「空自が買ってくれたら、空自仕様に開発することはやぶさかではない。
でもその開発資金色々は全部そっち(日本側)で持ってね」

という態度だったというのです。
どれだけ舐められてんのよ。というかそんな商売では銭の花は咲きまへんねんで。


そこで源田実を団長として現地に視察団が赴いた結果、あらためてタイガーの

代替案として、スターファイターを導入することに決まったというわけです。

うーん、いろんな意味でグラマンひどすぎ。
まあ、今現在も日米間における武器の購入と開発には、いろいろと、

アメリカ側のジャイアニズムが幅を利かせているそうですが、
特にこのころは「戦争に勝った国と負けた国」の力関係が、一企業の態度にも
この例のように表れることもあったってことでよろしいでしょうか。


ちなみにこのタイガー、アメリカではチャンスボート社のクルセイダーF-8Uと
主力の座を争って敗れたので、日本に売りつけようとしたという舞台裏がありまして、

同じような両社の競合関係としては、レシプロ時代にも
「F8Uベアキャット対F4Uコルセア」という販売合戦がありました。

このときも海軍はコルセアを選び、チャンスボート社の圧勝に終わっています。




ところで、「タイガー」のテストフライトの時、航空史上最も
「奇妙な出来事」が起こったとされます。
「タイガー」は史上唯一、「自分で自分を撃墜した飛行機」になってしまったのです。

1956年、パイロットのトム・アトリッジは、試験飛行で
ダイブしながら2発の射撃を行いました。
自分の撃った弾の弾道と、自分の飛行機の速度と航跡がどうにかなって(笑)
それがちょうどクロスし・・・・つまり、自分の弾に当たってしまったのです。

「松作戦」のときに米潜水艦が自分で自分に攻撃して自分が沈没、というのは
潮の流れということを考えればまあ可能性はなきにしもあらずだと思いますが、
空中で近代戦闘機が、というのは確率的にもものすごいレアでしょう。

操縦士のミスでもなんでもなく、ものすごい偶然の賜物?で、
とにかく、撃墜された機体は無事死亡し、アトリッジを乗せたまま

地面でクラッシュしたのですが、奇跡的にもアトリッジは無事でした。

まあなんというか、テスト飛行のときから「ケチがついていた」ってことなんですね。


さて、ハンガーデッキからその階下に降りると、士官用の各部屋だったところが
今はアメリカ海軍の艦船のメモリアルルームになっており、
当ブログでも幾つかの展示をご紹介してきたわけですが、今回は
前回写真を撮り損ねた部分についてこだわってみようと思います。



空母「フィリピン・シー」のコーナーで見つけた一コマ漫画。
「フィルシー・コミックス」というのがなぜ2002年になって
描かれているのかが謎なのですが、現在でも、元乗組員たちが
機関誌などを発行しているのかもしれません。

「オニオン・スキン、こちらジューングラス!」

と始まる無線通信なのですが、次に続くZero-niner、というのは
いわゆる「手順語」で、たとえば

 "Victor Juliet Five-Zero, Victor Juliet Five-Zero,
this is Echo Golf Niner-Three.

Request rendezvous at 51 degrees 37.
0N, 001 degrees 49.5W. Read back for check. Over."

みたいに使われる数字の言い方のようです。
「ナインティ」だと19か90かわからないこともあるからでしょうか。
漫画の場合、機体番号が109なので、「ゼロナイナー」なのかなと。

オチの「Rock the ship!」も正直よくわかりません。
この「ジューングラス」機は、もうランディングギアも降ろした状態ですが、
無線が通じなくなって無茶苦茶焦っていて、
「船を止めてくれ!」(係留する=ロック)と懇願しているのか。
それとも、飛行機のバンクのように船を揺らして(ロック)くれと言っているのか。
 
どちらの意味だったにしても、わざわざ一コマ漫画にするほどのことか?
と日本人としては思ってしまうわけですが、これを読んでいる方、
もしこのネタの真意がお分かりでしたら、教えていただけると幸いです。

読みにくい方もおられると思うので、漫画の台詞を書き出しておきます。

"ONION SKIN ! THIS IS JUNE GRASS !  ZERO-NINER !
I'M AT THE180.  GEAR AND HOOK DOWN!  STATE 800 !  
HEY! I THINK MY RADIO IS OUT! 

IF....YOU...HIAR...ME! ROCK THE SHIP!"
 


と、妙なところで時間を取ってしまったので続く。
 

 


百三回目の桜〜横浜鎮守府司令長官庁舎一般公開

2016-04-09 | 海軍

旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開、
わずか1時間ほどの見学から知る歴史や秘話。
いつもながら歴史的な遺物を見ることは、それだけで終わらせず
後から探求することによって知ることの愉悦を与えてくれます。


ここが一般公開の時しか見学できないというのは残念ですが、

横須賀地方総監部の管理下にある以上、管理人を置いたり、
ましてや見学料を取ったりすることができないのでそれもやむなしです。
この近くには横須賀地方総監の官舎もあった(はずな)ので、
不特定多数の人々が立ち寄るようになると警備の点でも困るでしょうし。 


ところで、地方総監というのは旧海軍でいうところの鎮守府長官です。
つまり、海自は旧海軍で長官庁舎だったところの近隣に
現在も地方総監の官舎を構えているというわけですが、何か理由があるのでしょうか。

これは想像でしかないのですが、ここは昭和37年まで横須賀に進駐していた
米海軍の長官公舎として使用されていました。
この頃までには海上警備隊から名前を変えた自衛隊はすでに横須賀地方総監を
この地に置いていましたが、米軍がまだいたためここを使用することができず、

したがってわざわざ近隣に地方総監用の官舎を建てたのではなかったでしょうか。

当時の地方総監は初代から始まって全員が海軍兵学校卒でしたから、
(防大1期が総監になったのは1989年のこと)我々が思う以上に
この鎮守府庁舎の意味は彼らにとて大きかったのではないかというのがその理由です。

しかし結局、旧鎮守府長官庁舎に自衛隊の地方総監が入居する日は二度と訪れませんでした。




大きな意味、というのは海兵出身の海軍軍人にとって、これらの有名な海軍の先輩が
ことごとく住んでいた官舎に自分も住む、という感慨でもあります。

例えばここには日露戦争では「三笠」の砲術長だった加藤寛治がいますね。

加藤と同級生の安保清種も日本海海戦のとき「三笠」砲術長でした。
この人が、ドミトリードンスコイ=「ごみ取り権助」の張本人、じゃなくて
発案者です。(いわれてみればいかにもそんなことを言いだしそうな顔です)

のちに総理大臣になって226事件では邸宅を襲撃された岡田啓介
「大角事件」で軍拡路線の邪魔になりそうな山梨勝之進、堀悌吉らを
追放して今日やたら評判の悪い大角岑生の顔も見えます。



海上自衛隊の父となった野村吉三郎、そして最後の海軍大臣米内光政
開戦時の軍令部総長であった永野修身、近衛内閣時の海軍大臣及川古志郎

及川といえば、東條英機に「戦争の勝利の自信はどうか」と聞かれた時、
「それはない」と答えた話が有名ですが、彼に限らず海軍の上層部は
皆このくらいのことはわかっていたんだろうなという気がします。



27代から30代までが一人を除きビッグネームで、以降が戦史的に無名なのは、
横須賀鎮守府長官は「これから出世する役職」であったからだろうと思われます。

第44代の塚原二四三は、終戦直前に大将になった人で、なんというか
本人には気の毒なのですが、「大将になりたい」ということしか
(あんな戦況の最中)眼中になかった、という風に書かれています。

すでに同期の出世頭だった沢本が19年3月に大将に昇進し、
南雲も同年7月にサイパン島での戦死して大将に昇進したこともあり、
実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて
戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。
時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、
塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。
昭和20年(1945年)5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が
海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に大将に昇進。
「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、
塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。(wiki)

井上成美のような意見はどちらかというと少数で、大抵の軍人は
中将まで行ったらできれば大将で軍人人生を終えたい、と思うのが
普通というか、人間ってそういうものだと思うのですが、
どうしてこの人だけがここまで非難めいて言われるのか、
どなたかその理由をご存知ないでしょうか。




さて、そんな代々の横須賀鎮守府司令長官たちが毎年この季節に見た桜。
おそらく戦前にはここで今のように「観桜会」が催されたに違いありません。



庭の広さは13,000㎡。
桜を始め、百日紅、紅葉などの古木が残されています。
今咲き誇る桜は、この100年間、毎年同じ時期に花を咲かせてきました。



この長官邸のその時その時の居住者が、同じ桜の薄紅色に
それぞれどのような思いを込めながら見入ったのか・・。
野村吉三郎は、米内光政は、及川古志郎は、そして塚原二三四は・・(´・ω・`)

そんなことをつい考えてしまう場所です。




今年の一般公開の期間、この地方はずっと花曇りでしたが、
晴れた空と陽の光の下で見る桜とは又違った風情が楽しめました。



染井吉野だけではなく、濃い紅色を持つ種類の桜木も咲き誇っていました。



というわけで、庁舎をあとにして出てきました。
タクシーの運転手さんから一応電話番号をいただいていましたが、
町並みを楽しみながら歩いて行くことにしました。

この画面の、異様に高い丘の部分はなんでしょうね。
木が残っているので、かつて山の斜面が削られた跡かもしれません。



そしてこれ。
塀の向こうに、明らかに昔からあるらしい建造物が・・。
昔は防空壕だったとか?



タクシーの運転手さんは、ここに行くには「旧裁判所跡」といってもいい、
と教えてくれましたが、その跡のようです。
そんなに老朽化した建物ではないような気がしますが。

簡易裁判所は平成24年に新港町に移転したばかりだそうです。



帰り道発見した古い魚屋さんの看板。
もう営業は行っていないようですが、古くからここにあったのでしょう。



さらにこの近くには、現在も営業中(多分)の八百屋さん。
長官庁舎があったせいでこのあたりは空襲を受けなかったため、
このような建物が戦災で失われることなく残ったんですね。



通りがかりの男性が(多分一般公開に来た人たち)大正か昭和初期のものだろう、
と話し合っていました。
看板の文字が右から書かれているのでその通りだと思われます。

さて、わたしはこのあと、商店街を眺めながら横須賀中央駅付近に帰ってきました。



「みかさ」というショッピングアーケードに横須賀土産の店があるので
入ってみたら、3階はなんと展示室。
写真を撮るのを忘れましたが()旧海軍の制服や、なぜかこのような
意味ありげな(これなんだろう)コーナーがあり、



地元の模型クラブの作品が展示されていました。
ちなみにこれは昭和19年に行われた松号輸送作戦を再現したもの。

松輸送はこの時期にしては奇跡的というくらい損害がなく成功した作戦で、
米潜水艦からの攻撃を受けた艦があってもそれらが不発だったり、
あるいは発射した魚雷が円を描いて戻ってきて自分に当たる(ガトー級タリビー
などという信じられない日本側の幸運が相次いだことでも有名です。



階段の踊り場には、原画が飾られていました。

「史実ではたった10日で沈んだ幻の鑑」

・・・ったら「あれ」しかありませんよね?

横須賀で起工し、艤装を完成させるために回航中
米潜水艦に攻撃され沈没した・・・・

「あれ」がなぜ沖縄決戦に???

どなたかこの作品の詳細をご存知の方おられますか。



台詞の部分に字が貼り付けられているので、原画だと思うのですが、
どんなに眺めてもペンや塗ったあとが見えませんでした。

それにしてもプロというのは凄い絵を描くものだと改めて驚愕しました。



このお店で購入したお土産・・・といっても全部食べるものですが・・。
写真を撮るのを忘れましたが、これ以外にわたし自身のために錨を模った
ピンバッジを購入しました。

「肉じゃがカレー」「江田島海軍カレー」など、海軍カレーの発展形?
というコンセプトと思われる新商品が出ていました。

このなかで食べるのが一番楽しみなのが「陸軍さんのライスカレー」。
なんで横須賀で陸軍さんなんだよー。



さて、級横須賀鎮守府司令長官庁舎の庭にある見晴台からは、
こんな光景が臨めます。
向こうに見えているのは観音崎。

ここの主が海軍軍人であったころ、まだここには東京湾を防衛するための
砲台が装備されてはいたものの、ほとんど何もない土地でしたが、戦後、
ここに指揮官育成のための教育機関たる防衛大学校ができることになります。


かつての司令長官たちはこの季節、必ず一度はここに立って同じ景色を眺めたでしょう。

同じこの場所で103回目に咲いた鎮守府の桜。

激しい変遷を伴って泡沫のように過ぎた時間が信じられないくらい、
それはまるで奇跡の如く昔と変わらず鮮やかに、そこにありました。


 


「望郷のスタインウェイ」〜横須賀鎮守府長官庁舎

2016-04-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

桜の咲く旧横須賀鎮守府長官庁舎一般公開、
見に行った方はおられますか?
さて、今日は建物内の装飾や展示などについてです。



建設当時の家具配置図です。
この図に示されている通り、家具などはどこに何を置くか、
きっちりと決められており、変えることは許されなかったようです。

赤い部分は「敷物」で、食堂のテーブルの椅子は全部で22とか、
玄関に入ったところには両側に帽子掛けを置くとか、
サンルームとベイウィンドウの椅子の配置まで決まっています。
縦書き文字の図面のせいか、カーテンのことは「窓掛」と書かれています。 



上の家具配置図の一番下に示された場所には当時からあったと思われる
作り付けのようなサイズの家具が配されていました。
おそらくこのくぼみに合わせて特注されたものに違いありません。
時代を感じさせる歪みガラスには、この建物のそちこちに散りばめられた
小川三知の手によると思われるステンドグラス風の装飾があしらわれています。



東郷平八郎元帥の像だけが飾ってありました。



昔鹿の首が飾ってあったところには、その東郷元帥の書がありました。
「海気集」という耳慣れない言葉は「海の気を集める」という造語でしょうか。



昔よりかなり豪華なシャンデリアがあしらわれていました。
これは美しい・・。



この日は庭に面したサンルームが開け放され、皆ここから出入りしていましたが、
このサンルームのベイウィンド寄りに、南極の石が置かれていました。
寄贈した元統幕長の板谷隆一氏については、先日第二術科学校の展示で
海上自衛隊の歴史について触れた時に名前を挙げたと思いますが、
兵学校60期の恩賜組で、菊水一号作戦では軽巡「矢矧」の乗り組みでした。
板谷氏は海幕長になる前、横須賀地方総監司令を務めています。

時代が時代であれば、この官舎の主になっていたということなんですね。



石といえば、中庭にあったこの石。
なんか意味ありげな形をしているのですが、これは一体・・・?



正面玄関を入ってすぐ左の、昔は「応接室」とされていた部屋は
現在ガラスケースなどにちょっとした資料が収められています。
達筆すぎて名前以外はほとんど読めませんが、山本五十六元帥の自筆ハガキ。
右側はかろうじて「海軍航空本部」と読み取れます。

山本元帥が海軍航空本部の技術長に就任したのは46歳の時で、
は1930(昭和5)年から
3年間にわたって務めました。



福田三之助と云う人物に当てられた山本元帥の手紙。
海軍大将の名前であっても検閲されてしまうというのがご時世ですね。
「海軍大将 山本五十六」だけが印刷になっていますが、海軍製作の公用箋でしょうか。
何かのお知らせだと思うのですが、これも読めません(汗)



これは海軍少将時代の一筆箋による手紙。
「お礼」なのか何なのかわからない上、「勤勉」しか読めません。
達筆すぎて何が書いてあるかわからないぜ山本五十六。



当時からここに飾ってあったらしい東京湾の地図。
ただし表記は「相模国」「上総国」「安房国」ですから、装飾地図でしょう。



横須賀港の古地図。
「相模国横須賀之図」とタイトルがあります。

 

さて、先ほどコンソールのガラス装飾で少し触れましたが、
この長官舎の至るところに見られるステンドグラスは、当時日本で
ステンドグラス作家としては日本一と言われた小川三知の手によるものです。
応接室には現物が展示してありましたが、その精緻なこと!

小川三知は慶応3年(1867)静岡の藩医の息子として生まれました。
家業の医者を目指すも、芸術への思いは断ちがたく、東京美術学校に転校して
日本画を勉強し、アメリカに留学中にステンドグラスに興味を持ちます。

帰国してから慶応義塾大学の図書館のステンドグラスを依頼されたのをきっかけに
彼はステンドグラス作家としてあちこちの仕事に携わりました。

鳩山一郎邸、柊屋(京都)や氷川丸の一等船室など、多くを手がけていますが、
その多くは関東大震災で逸失してしまって残っていません。
そもそも当時はステンドグラスは「建築の一部」だったため、
芸術作品として作者が有名になるということもありませんでした。

小川三知が評価され始めたのは戦後、彼が死んでから30年後のことになります。



洋館部分上四面に貼られたステンドグラス。



これを裏から見たところ。
内部は梁がそのままで、物置として使用されていただけだったのがわかります。
ステンドグラスは内側から光を通して見てこそ価値があるので、
このあしらわれ方はもったいないといえば勿体無い気がしますね。



食堂部分からサンルーム方向に立って天井をみたところ。
ここに半円状のステンドグラスが二枚はめ込まれています。



葡萄の垂れ下がる模様があしらわれているのがアールデコ風ですが、
小川は日本画を基礎として学んでいるので、どの作品も
日本風のテイストが感じられるのが特徴となっています。



これなど、まるで「墨流し」(の色付き)をしたようです。
ぜひ中から光を透かして見てみたいですね。



羽を広げた孔雀というモチーフを小川は好んだようです。
「棚板ガラスモザイク」と説明がありましたが、現物には気づきませんでした。
どこにあったのでしょうか。



さて、庁舎のパンフレットで「リビングルーム」と呼ばれている部屋の
(上の家具配置図では『客室』)一隅には、グランドピアノがありました。



一目見てかなり古いものであることがわかるスタインウェイ&サンズ製のピアノ。

このピアノはフルコンサート(CF)ではなく、同じC型でもセミコンといわれる
上からに番目に大きなクラスのもので、鍵盤は今では製造・輸出入禁止されている象牙です。

この長官庁舎は、進駐軍撤退後、1964年からは使用されないままでした。
1994年に復元されて、各種行事に使われることになったのですが、
当時の防衛政務次官だった栗原裕康議員がこの横須賀地方総監視察を行い、
改装されたばかりの庁舎で会食を行ったときに、ピアノに目を止めました。
当時の讀賣新聞記事には

「(栗原次官が)塗装にヒビが入り、弦が錆びたピアノを発見した」

とあるのですが、こんな大きなものをしまっておくような場所はないし、
ただその場所に置かれていたのに目を留めて話題にしただけではなかったのか、
とわたしは思います。どうでもいいことかもしれませんが。

そのとき、栗原次官が「戦前は軍艦にピアノを持ち込んだこともあった」
などとうんちくを披露し(多分)たことから、総監部で来歴を調べたところ、
1920年代にバイエルンで製作されたものであることが製造番号から判明しました。

当初総監部ではこのスタンウェイを粗大ゴミとして処分することを考えていた、
というのですが、象牙の鍵盤のスタンウェイがどんな価値があるのかを
知るものにとっては、これはもうとんでもないことです。(ですよね?)

修復にはドイツから部分を取り寄せるなどして250万かかったそうですが、

そもそもこのクラス、スタインウェイはセミコンでも新品は1000万円が相場です。
フルコンは1500万、250万で買えるピアノなどヤマハの音楽室用がせいぜい。

新聞記事が「250万もかけて」という論調なのはモノの価値を知らないからで、
ここは「たった250万円でスタインウェイのセミコンが手に入った」
と安さに喜ぶべきだとわたしなど思うのですが。


おまけにこのピアノ、ただのピアノではなく歴史的価値のある骨董品でもあります。
廃棄処分にして世間に嗤われるようなことにならかったのは、なによりです。



ピアノの横に飾られていた横須賀音楽隊の女性隊員達の写真。

先日、横須賀音楽隊の定期演奏会を聴きに行き、当ブログでも雑感を述べたのですが、

横須賀音楽隊におかれましては、光栄なことに皆様にお目通しいただいたそうです。
励みになるという隊長のお言葉まである方を通じてお伝えいただき恐縮しております。

それはともかく、ここに写真があるということは、小規模な
横須賀音楽隊のメンバーによるコンサートがここで行われたんでしょうね。

中川麻梨子士長の日本の唱歌や歌曲など、ここで聴けたらさぞよろしいかと存じます。

それにしても、彼女らの写真、特に中川士長の写真がなんというか・・・、
もう少し歌手らしくというか、演出してもいいという気がするのですが。



さて、このスタインウェイ、むやみに廃棄されずに本当によかった、
と思われる後日譚があったのでした。
改装を施された時点では、ここにある由来まではわからず、

「旧海軍が戦前に持ち込んでずっとここにあったか、アメリカ海軍が
同庁舎を接収していた17年間の間に持ち込んだものと考えられている」

と当時の新聞にも書かれているのですが、正解は前者だったのです。

この記事が掲載されたとき、
昔ピアノを海軍に寄付した人物の娘が名乗り出たのです。
それがこの新聞記事写真でピアノを連弾しているご婦人二人でした。

森田郁子さんと島崎秀香さん(旧姓野坂)姉妹の一家は
大正9年にサハリン(樺太)の日本人居住区に住んでいたのですが、
帰国するときに現地のロシア人女性からこのピアノを譲り受けました。

彼女らの父親が海軍の従軍カメラマンだったこともあって、ピアノは
軍艦で持って帰ってきたのだそうです。
(わたしの知人の父親も軍艦でスタンウェイを持って帰ったという話が。
軍艦って結構現地裁量しだいというか、ゆるかったんだなあと思う)

帰国後一家は横須賀に住み、姉妹は娘のピアノで練習に励んだものだそうです。
しかし、昭和4年、父親が写真館を開業することになり、移転先の新居に
ピアノが入らなかったため、父親は海軍に寄付してしまった、とのことでした。

写真は、郁子さん、秀香さん姉妹が、総監部の計らいで70年ぶりにピアノと対面し、
「さくらさくら」「埴生の宿」「故郷を離れる歌」などを二人で
鍵盤の感触を確かめるように弾いているところです。


わたしも好奇心に負けて少し鍵盤を触らせていただきましたが、(触っただけね)
古いピアノ特有の、指を下ろすとさらに一段下に落ち込むような重いタッチでした。
弾きやすいかどうかといったら、決してそうではないと思いましたが、
音色はこれも古い建物の内部と反響して、深みのある美しい響きを創っていました。


この長官庁舎に昭和4年からあり、海軍士官たちの耳に届き、

ときには彼らによって奏でられてきた、歴史を知るピアノであると知っていれば
余計にそのように思われたかもしれません。




このピアノ、演奏会や発表会などの目的で借りることができるだけでなく、
個人の練習という目的でも使用することができるそうです。
ぜひこの音色を聴いてみたい、もちろん弾いてみたい、という方は
地方総監部にハガキで申し込まれるといいかと思います。


続く。


 


「可愛い魚雷」〜潜水艦「グラウラー」

2016-04-06 | 軍艦

ニューヨークはハドソンリバーのピアにある「イントレピッド航空宇宙博物館」。
見学通路に沿って見たものについてお話ししています。



通信室に続いてはこの艦内図でいうと「CREW'S MESS」、兵員食堂です。
MESSという言葉は普通「部屋が散らかっている」などに使いますが、
どういうわけかアメリカ軍に限りこの言葉を食堂として用いています。



奥の説明板には「SCULLERY」(食器洗い台)とあります。
ここでは食器や鍋などを洗いました。
調理や食べ残しで出た残飯は船外にチューブごと排出されますが、
残飯が海に浮くと敵に存在を悟られるので、チューブには重りが付いていて
海面に浮かないようになっていたということです。 



パンケーキなどの粉やソースを混ぜるためのミキサー。
この形にも何か合理的な理由があったに違いありません。



潜水艦の中で火は厳禁ですから、調理には電気プレートを使いました。
右側の鉄板のようなものはこの上がそのまま熱せられたものと思われます。



現在でもアメリカでは普通に使われているドリンクサーバー。
左の丸いのは「高い」「低い」の二段階調整しかないつまみ付きで、
どうやら熱で料理を保温しておくのに使ったように見えます。



いわゆる科員食堂兼娯楽室、といった感じでしょうか。
テーブルと椅子は作りつけで、いかにも狭そうです。
アメリカ人の規格からいうとお腹がつっかえる人の方が多そうですが、
海軍の潜水艦乗り、しかも若い水兵にデブはいなかったってことで。

テーブルにはゲーム盤を広げなくてもいつでも遊べるような模様入り。



続いて兵員寝室を通っていきます。
上の写真で言うところの「CREW'S QUARTERS」ですね。
一部屋にベッド一つの艦長室、天井まで手が届かない士官寝室と違い、
ここは普通に三段式になっています。

呉で見学した自衛隊の潜水艦もほとんどこんな感じでした。
海上自衛隊の人は「ガバッと起きる」のが習い性となっているわけですが、
「ガバッと」といっても決して体を起こさない(頭を打つから)という
基本姿勢が身についていそうですね。 



一応鍵のついた引き出しなんかもあったりします。
が、各自の持ち物については、せいぜいロッカーにいれていただけで、
鍵を管理するなどということが果たして行われていたのかどうか・・・。

人の集まるところ必ず盗難する人というのが一定数に一人現れるものですが、
荷物の管理やプライバシー、そういう問題についてはどう解決していたのでしょうか。



兵員寝室にあった大きめのロッカー。
「グラウラー」のこのセクションには、全部で46のバンク(ベッド)と、
それぞれの小さなロッカーが設えられています。

またまた映画「Uボート」で、劇中、水兵がベッドが人数分ないことを

「後に寝るもののためにベッドを温めておくのさ」

と説明していましたが、これはアメリカ海軍の潜水艦でも同様で、
この慣習を「HOT BUNKING」と称したそうです。
階級が下のものや新兵は、ベッドをシェアしなければならないので、
自分が寝るときには前の者の温かみが残っているというわけです。
つまり、Uボートの水兵もそれが歓迎すべきこととは思っていませんが、
反語的にこのあまり嬉しくない「寝床温め」の慣習を新入りに説明したのでした。


「グラウラー」にこのようにベッドをシェアしなければならない習慣はなかった、
というのですが、それでは78名の兵員のうち、ここにベッドのない32名もの人は
一体どこに寝ていたのでしょうか。




クルーの浴室とトイレのあるゾーンです。
「Enlisted man」がこのトイレとシャワー室を使用できた、とあるので、
どんな特権階級だろうと思ったら、「Enlisted」というのは下士官のことでした。

 

なんでも「グラウラー」はエンジンルームやギャレーへの新鮮な蒸留水は
ふんだんに配給されるように設計されていたのですが、シャワーに関しては
海水というわけにいかなかったので、下士官にとってもこれはたまの贅沢でした。

アメリカ人というのは日本人と違って湯船につかれば満足する人種ではなく、
とにかく鼻歌歌いながらシャワーを出しっぱなしにして体を洗う人たちです。
自衛艦のように、海水のお風呂に浸かって体を洗うのと潮を落とすのだけ
洗面器いっぱいあれば十分、というわけではないので、どうしても
シャワーの制限そのものが規制されてしまうというわけです。



これも護衛艦のトイレと同じく、水を流すのはバルブ式。
いわゆる「コンテンツ」はある程度貯まったら海中にドバー、だったそうです。

昔はこんなもんだったんですね。



洗面所の下には髭剃りや歯ブラシを入れておくための引き出しあり。



これが噂のDISTILLERS、つまり蒸留水製造機。
海水をくみ上げてそれを沸騰させ、塩分を取り除いて使いました。

飲食、洗濯用だけでなく、エンジンの冷却と潜水艦のバッテリー水に使われました。



そしてその後方にあるのが、エンジンルーム。
開けられたハッチの下に、エンジンの部分が見えているのがお分かりでしょうか。
「グラウラー」の推進は、

Fairbanks-Morse Diesel engines, 2 Elliott electric motors

によるもの、と英語のウィキにはあります。
フェアバンクス・モースディーゼルエンジンは1930年に開発された2ストロークエンジンで、
ドイツの航空機ユンカースと酷似しており、オハイオ級原子力潜水艦にも採用されました。

博物館の資料には、

「グラウラーは三つの新型アルミニウムブロック・フェアバンクス-モース・ハイスピード
ディーゼルエンジンを搭載し、これは他艦船からの探索を避けるための静音性を備えていた」

と説明されています。



エンジンルーム・コントロールルームはrestricted area、制限区域。



当時は最新式であったレバー式の機器のいろいろ。

エンジンはジェネレーターに連結され、そのどちらもで「グラウラー」のモーターと
バッテリーのチャージャーを動かしていました。

ディーゼルエンジンは一般に新鮮な空気を取り入れるための換気を必要とします。

「この部屋では、グレイのディーゼルジェネレーターと、あなたの立っている
艦尾真下にあるエレクトリックモーターをご覧になることができます」





と言われましても、グレイのものが多すぎてどれがジェネレーターか分かりませんが・・。



マニューバリングルーム、という説明があります。
ここでは下士官兵が受け持って、コントロールルームから出される命令に従い、
艦のスピードを操作していました。

護衛艦ではマニューバーは指令を出す艦長なり航海長の真後ろで行いますが、
潜水艦となると全く別の区画で操作がされるということです。

ちなみに「グラウラー」の最大速度は潜行時12ノット(14mph/22kph)。
海上航行においては20ノット(23mph/37kph)でした。 



上の艦内地図で言うところの最後尾、「AFT TORPEDO ROOM」、
艦尾魚雷発射室です。

21インチ魚雷がいまだに一基展示されています。
「グラウラー」の魚雷発射管は前後合わせて8門が装備されていました。
魚雷発射室にもそれなりに大きなベッドが幾つか備わっていて、当時のアメリカでも

「可愛い魚雷」(軍歌『轟沈』より)

を地で行っていた係がいたことを偲ばせます。



艦尾の魚雷発射管の上に外に出る階段が(もちろんハシゴではない)あり、
ガラスの出口を通って艦の外に出るようになっています。
本来はハッチだったのですが、それを取り去ってしまったので、
艦内に雨風が入り込まないように設えられたようです。


これをもって潜水艦「グラウラー」の見学は終わりましたが、
「イントレピッド」でまだ見ていない部分がまだたくさんあります。
 




続く。 


潜望鏡とソナー〜潜水艦グラウラー

2016-04-05 | 軍艦

ニューヨークはハドソンリバーの岸壁にあるイントレピッド航空宇宙博物館。
この博物館の展示の一つである潜水艦「グラウラー」についてお話ししています。

魚雷調整室、士官室と潜水艦の前の部分から後ろに向かって進むのが見学コース。



士官コーナーを出るハッチをくぐり抜けると、
そこはちょうど潜水艦の艦橋ともいうべき「セイル」の真下です。



ふと上を見ると、セイルに続くラッタルが。
見たばかりなので、またしても映画「Uボート」の話になりますが、
当時は潜水艦といえども、換気と充電の問題があったので、
普段の航行は潜行せずに、移動には基本的に海上航走で行っていたようです。

ただし、敵の艦船に見つかる危険性を考慮して、いつも3人か4人、
セイルのてっぺんに人が立って、四方を双眼鏡で見張りしながら進むのです。
たとえ大荒れの海で波が高くとも、潜行するよりはその方が潜水艦にとっては
「楽」なことらしく、敵が見つかるまでずっとその状態で航走を続けます。

Uボートのセイルは、上の先端が下に向かって逆U字になっており、
下からの波をある程度遮るようなデザインなのですが、波が強いと
そんなものなんの助けにもならず、セイルの上の4人は波をかぶりっぱなし。

ときには頭から海水を浴びて潮にむせたり、ひどいときには波にさらわれ、
下に落ちて怪我をしたり。
そして、その間もセイルから艦内に海水がふんだんに入りまくります。

「灰色の狼とかなんとか言われても俺たちの扱いは酷いもんだ」

と思わず乗組員が呪詛の言葉を吐く超ブラック任務。

敵を発見、あるいは敵に発見されたときには、「注水・潜行」が叫ばれ、
全員がセイルから海水とともに飛び込んでくる感じです。

以前、「潜水艦下克上」というエントリで、潜水艦勤務になったら、
艦長であろうがほとんど皆と同じようなところで戦うことになるので、
年齢的に動きの鈍くなってきた艦長(20代の水兵に比べればですが)は、
もたもたしていて頭を蹴られたり上に人が落ちてきたりして怪我をした、
というエピソードについて書いたことがあります。

「Uボート」を見ると、文章で想像していたよりも10倍くらい酷い環境で、
しかも深海の圧力に耐えるとき、敵の爆雷に耐え、ただ向こうが諦めるのを待つとき、
総員の緊張と恐怖のマックスになる様子は、見ているだけでこちらがハラハラしました。

ここにある潜水艦は、そんな全時代的なものよりもかなり「人間的」で「乗員に優しい」
仕組みとなっている上、結局は実際の戦闘を行わずして引退していることから、
艦内に乗員の「怨念」のような不穏な空気はまず感じずに済み、観る方も
かなり気楽な気持ちで見学できたような気がします。



セイルのすぐ下は「コントロールルーム」となっています。
つまり操舵室ってことでしょうかね。

金色の扉には「running & anchor」のためのスイッチのパネルと書かれています。
右上の艦位を表すモニターはまだ生きているらしく、「グラウラー」が現在
南南西を向いて係留されていることが表されています。

その下の赤いパネルにはただ「危険」とだけ書かれています。



これがこの潜水艦の潜望鏡スコープ 。
潜水艦の目であり、これを覗いて戦闘指揮を行う艦長の緊迫した姿を
潜水艦を描いた映画で見ないことはありません。


ここが「コントロールルーム・攻撃指揮所」です。



潜望鏡の横にあるボードには、1962年6月30日(火)の日誌が。

CONN LT.(操舵士官?)はマーフィ
コース・154、スピード15ノット、行き先、パールハーバーまで

日の出・0645、日の入り・1921 同行艦なし

状況・1107、潜航中スキップジャック級潜水艦を認む
0550、海面において商業用タンカーとビジュアルコンタクト

SS-2 secured (繋留したの意?意味わからず)

深海潜行 600’ 1600時間

潜行600というのは600フィート、約183mのことかと思われます。
「Uボート」では敵の攻撃によって浮上ができず、どんどん沈んで
ついには240mの目盛りが振り切れ、260mの海底に擱座する、
というシーンがありましたが、沈んでいく間乗組員の顔が引きつってきて


「頼む、止まってくれ、頼む・・・・!」

という神頼みモードになってきたのが、200mくらいからであったと記憶します。
この潜行訓練は、この深海に1600時間、つまり 66,6666日、2ヶ月いたということ?

幾ら何でもそんなことはあり得ないという気がしますので、
もしこの数字の意味をご存知の方は、是非教えていただけないでしょうか。 



これは床にあったさらに下の階に続くハッチ。
当時はもちろんこのような網目のものではなかったと思われます。

下の階にも灯りが見えていますが、展示では下の階までは公開していませんでした。
上の方の艦内マップによると、ここはちょうどセイルの真下にあたり、
おそらくはこの地下を通ってエンジンルーム(ブルーの部分)で
エンジンのメンテナンス作業をするためにある通路ではないかと思われます。

「Uボート」でもエンジンルームの様子が幾度となく出てきましたが、
幾つものカムが
一斉に動くとものすごい騒音を発します。
このタイプではエンジンだけが艦底に鎮座する形で据えられているため、
そこへのアクセスを階下に作る必要があったのかと思われます。

ところで、わたしたちがこのコントロールルームにやってくると、
元乗員と思われるベテランの老人がここに立っていました。(冒頭写真)
通り過ぎる人たちに、「何か質問があったら聞いてください」と声をかけていましたが、
とりあえずわたしは何を聞いていいかわからず、 しかも前にいる誰も質問しないので、
列が比較的順調に進んでしまい、あっという間にこのベテランの前を通り過ぎました。

こういうときにいつも、前もってこんな機会があると知っていたら、少しくらいは
展示艦について下調べして、その歴史ぐらいは頭に入れていき、

「ベトナム戦争のときには乗っていたんですか」

くらいは聞いてあげられたら(むしろこのベテランのために)、と後悔するのでした。


 
コントロールルームにはソナーが据えられています。

「グラウラー」では潜航中、他の艦艇との通信にパッシブ&アクティブソナーを使いました。
ソナーとわたしたちは普通に単語として使うこの言葉、実は

SOund Navigation And Ranging

の省略形であることをご存知でしたか?
自慢ではありませんが、わたしはフルーティストのマルセル・モイーズの
著書などで見る「ソノリテ」=sonorityと関係あるものだと、
今の瞬間まで思っていたので、この事実に大変驚いてしまいました。

これだと、「音響」との言葉の相似性は、ほぼ偶然だったってことですよね。

パッシブ・ソナーは海中における音を探査し、その間、アクティブ・ソナーは
音声のパルスまたは「ping」を発し、その反射音を聴きとります。

一般に潜水艦というのはより多くパッシブソナーを頼りにするそうです。
その理由というのは、静謐性を保ち、艦艇の位置を正確に把握することができるからです。



レィディオ・ルーム(radio room)、無線通信室。
「グラウラー」の乗員に許された、海上の艦艇と通信する唯一の方法が無線でした。


超長波(VLF, very low frequency)は3-30kHzの周波数の電波のことを言い、
海中にいる「グラウラー」が受け取ることのできた唯一の電波です。
深さおよそ10 - 40m(周波数と水の塩分にも依存)の水中を透過することが出来るため、
水面付近の潜水艦と通信を行うためにも用いられました。

もちろん「グラウラー」がそれに対して通信を返すことはできませんでした。

ついでに、この超長波を送するための通信設備は非常に大規模なものとなり、
有事には攻撃を受けやすいという欠点があったことから、アメリカ海軍は

TACAMO(Take Charge And Move Out)計画

のもと航空機による通信中継を行うこととしました。
この「TACAMO」計画によって、VLFの装置が搭載された機体として
開発されたのがE-6 マーキュリーであったということです。




続く。 


 


横須賀鎮守府庁舎一般公開〜桜花と旭日旗

2016-04-04 | 海軍

桜の花が満開の庁舎と、当時は「軍艦旗」と称したこの旗が掲げられている光景は。
おそらく百年前からほとんど変わらぬ眺めなのに違いありません。

桜の季節とともにこの庁舎を一般公開なんて、粋なことをするねえ海自さん、
とおもわず呟いてしまいそうです。
雷蔵さんのご報告によると、この少し前に観桜会が行われたようですね。
わたしがいった時にはほぼ満開でしたが、観桜会の時は8分咲きくらいだったでしょうか。

現在、この田戸台分庁舎は横須賀地方総監部によって管理されており、
自衛隊で賓客を招待しての会合やこの観桜会、一般公開以外にも、
申し込みによってコンサートなどが行えるスペースとして利用できます。

つまり自衛隊関係者以外にもそんなに敷居の高い設備ではないということですね。




さて、この写真を見ていただければ、この建築物の作りが

「洋風と和風のフュージョン」であるというのがよくわかるかと思います。
応接室などパブリックスペースは海軍の施設らしく完璧に洋風、しかし
長官の寝泊まりにはやはり和室で行うことを目的にした作りで、
呉の旧海軍長官庁舎と全く同じです。

同じ建築家(桜井小太郎)が造っているので当たり前かもしれませんが。
 


このとき、サンルームを開け放っていたため出入り口は二箇所ありましたが、
こちらが正規の玄関となります。

 
みたところ、昔のままのエクステリアは全く残されていません。
腰板というか、土台部分は洗浄したようですが。



建造されてから100年の節目である2013年に取り付けられたプレート。
全面改装は平成5年といいますから、もう22年も前に行われています。



この時の大改装で、外装はタイル張りになり、
管理人食堂とそれに続く和室が全部配膳室になりました。


今立っているのは、この図で言うと図左側の矢印の部分です。
正面に玄関ホールがあり、パブリックスペースは
そこを中心として配されています。



玄関ホールに立って左側を眺めた状態だと思われます。
この写真にも写っている左の「記念館」に行ってみますと、



まるで書斎のようなスペースとなります。
一般公開で土足の人たちが上がってくるため、床には保護シートが貼られています。



暖炉が右に見えているので、これが昔のこの部屋だと思われます。
イギリス風に壁には壁紙が貼られているのがわかります。
小さな椅子がアトランダムに置かれて、談話室のようにも見えますね。


これがおそらく昔のままの焚き口を残した暖炉。
鏡に映った写真を撮っている人()の後ろにあるのは、
建築家の桜井小太郎氏の胸像ではないかと思われます。
(写真を撮り忘れたのですが、瓜生外吉中将の可能性もあり)

この部分は昔装飾だったのですが、米軍進駐時代に鏡に変えられたそうです。



ダイニングルームに行ってみましょう。
一般公開に際しては、ダイニングルーム横の「サンルーム」を開け放ち、
そこから出入りできるようになっているので、最初にここから見学する人もいます。
こうしてみるとかなりモダンな形の椅子が導入されているようですね。



同じ部屋を、上の画面の左手から見るとこうなります。
右側の窓からの逆行が強くて分かりにくい写真ですが、
右側に、現在もそのまま残されているステンドグラスが写っています。

左の、今は東郷元帥の額がかかっているところになんと鹿の首があります。
この鹿の首を暖炉の上に飾る(昔は暖炉だったと思われる)というセンスは、
建築家がイギリスで勉強してきたことと関係があると思います。

我が家は友人であるアメリカ在住のイギリス人カップルが結婚式をした時に
築1000年という古城でのパーティに呼ばれたことがあるのですが、
その暗くて窓のないお城の壁には、これでもかと鹿の首が飾ってありました。
暖炉は床に掘られた掘られたものも(掘りごたつならぬ堀暖炉)あったと記憶します。



続いて、パンフの間取り図で言うところの「リビングルーム」へと。
旭日旗がたくさんまとめて置いてありますが、観桜会のときに使われたからでしょうか。
この暖炉の部分は昔どうだったかというと、



これですよ。なんでこんなに変えてしまうかな。
ちなみに暖炉の煙突は閉じてしまっているらしく、
マキは電気式ストーブのの偽木となっていました。
まあ実際に暖炉として使っているだけましか・・・・。 




ここでもう一度外からの写真。
この、外に張り出した多角形の部分は、「ベイ・ウィンドウ」といいます。
壁より外に突き出して、一階とその上の階が同じ形をしている形式のことですが、
その内側がどうなっているかというと、



こうです。
四面の窓ガラスのうち右側の一面だけが室内(サンルーム)に
向いていて、ほぼ半円のような印象になっています。
この邸宅の中でも最も美しいコーナーであると思います。
観桜会でビュッフェの食べ物が置かれたあとなのか、楕円形のテーブルに
ビニールのクロスがかけられているのが、激しく興を削いでおります(笑)

ここがダイニングルーム全体に光を取り込んでかなり明るくなります。
上のダイニングルームの写真で逆光となっているのがこの部分です。



さて、ここまでが洋風建築の部分。
これらの後ろ側に廊下があり、和風建築の建物に接続しています。
その廊下の窓から坪庭のようなのが見えているのですが、なにやら謎のオブジェのようなものが。
昔は本当に坪庭のようになっていて小さな池でもあったのかなあという気がします。



廊下を渡っていくと、二階に続く階段がありましたが、
そこから先は非公開で上がることはできませんでした。
レンズに埃がついていてすみません。



二階の「ベイ・ウィンドウ」の部分は、なんと倉庫だったようです。
ちゃんとした部屋ではなく、屋根裏なんですね。



横須賀鎮守府長官はベッドで寝ていたのか?と思ったのですが、

よく見るとこの写真は「米軍進駐時のもの」と説明があります。

この建物は大正の関東大震災の時にもビクともしなかったわけですが、
空襲などの戦災にも遭いませんでした。
というのは、米軍はここにそのような建物があることを知っており、
西欧建築はできるだけ破壊しないというポリシーに沿ったこともあり、
また戦争が終わった暁には進駐軍の司令部の居場所が必要となるので、
先を見越して絶対に爆弾を落とさない地域が決められていたからです。

そして案の定、この鎮守府長官庁舎には、昭和21年の4月から
在日米海軍の司令官が9人、昭和37年の引き揚げまでの間住みました。

なぜ無傷だった庁舎建物なのに住むのに半年も間があったかというと、
その間、米軍はアメリカ人が住むための大幅な改装を施したからです。
彼らはすべての部分に土足で上がるため、畳の部分に絨毯を敷き詰め、
和室にはこのようにベッドを置きました。

それだけでなく、たしか呉の長官庁舎も同じようにされたと記憶しますが、
外壁と内壁をすべて白く塗り替えてしまったといいます。

呉鎮守府の内壁には、金唐紙という特殊な壁紙が使われていたのですが、
彼らは芸術的
価値など全く認めませんでしたから、真っ白に塗り潰しました。

ちなみに、呉鎮守府に駐在したオーストラリア軍の司令官たちは、
建物を改装しまくり、
(組み木の床にリノリウムを被せたり欄間を外したり)
和室であろうが畳であろうがどこでも土足で歩いただけでなく、帰国時には
一切合切
家具を持って帰った、という香ばしいエピソードまでありました。


もともと鎮守府庁舎は、司令長官の執務、軍政会議、迎賓施設でもあったのですが、

米海軍の居住者はここをすべてプライヴェートな公邸として住み、
南側を接客部分にし、北側(中庭より向こう)を日常部分に使っていたそうです。



一階の和室部分は、よく温泉旅館にあるのと全く同じような作りです。
もし音楽イベントなどでここを借りる時には、ここが出演者の控え室として使えるそうです。


旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開は、この火曜まで行われています。
もしお時間が許せば、近隣の方は桜を見に気軽に出かけられてはいかがでしょうか。


続く。

 


横浜鎮守府長官官舎一般公開〜瓜生外吉と繁子夫妻

2016-04-03 | 海軍

第二術科学校の見学で英語の教官だった芥川龍之介のことを
取り上げた時に、「蜜柑の碑」のことをさんぽさんに教えていただき、
その時に貼っていただいた「横須賀シティガイド」をみて、
横須賀鎮守府の長官官舎が一般公開されることを知りました。

HPを調べてみると、桜の頃の週末から週明けにかけて公開、とあります。
うちの桜(といっても共同住宅の敷地内にあるという意味ですが、
寝室の真ん前で咲き誇るのでもうほとんど独占状態)が8分咲きになり、
お花見をする少し気の早い人も近所ではいそうだなというある日、
この一般公開を御目当てに横須賀に行ってみることにしました。



横須賀中央駅から歩けない距離ではなかったのですが(帰りは歩いた)
何しろ行ったことがないところなので駅周辺に車を止め、タクシーに乗りました。
ここは「田戸台」というのですが、なんとなく勘違いしていて、運転手さんに

「たどころだいの横浜鎮守府庁舎お願いします」

と言ったところ、

「たどだいですよね?たどころだいじゃなくて。
たどころってのはないんですよ。たどだいのことですよね? (略)」

とご丁寧に何回も間違いを認めさせられました。(−_−#)


車は門の前まで行ってもらえます。
門のところには、公開の間じゅうずっと入り口で警衛をしなくてはいけないらしい
海曹が、時折スマホをチェックしながらユルい感じで立っていました。
(別にこんなイベントのときは構わないと思いますよ?)
ここでは折しも桜がほぼ満開で、見学にお花見も兼ねられます。



内部に昔の写真があったので、すかさず比べてみましょう。
あれ?これ、真ん中の石の柱なくなってませんかね?
昔は人が通る門と車が来たら開ける門に分かれていたようですが。

あとは門柱のてっぺんや根元が当時は新しいせいか白っぽいことや、
地面が全く舗装されておらず、砂利が敷き詰められているのが違う点です。
 


入った途端、妙に綺麗な外装でまるでスキー場のロッジみたいなので

「オリジナルを壊して造り替えてしまいおってからに・・・」

と思ってしまったわけですが、実は昔の写真を見ても
ほぼ同じ、つまり駆体は変わっていないらしいことがわかりました。




はいその証拠。ほぼ同じ角度から撮った写真です。
さすがにレンガや屋根、窓枠は変わっているようですが。
左の方に見えている和風建築には、当時は管理人が住んでいました。


しかし、建物周りの木を地面の舗装と共にほとんど失くしたのはいただけないわ。



この鎮守府長官庁舎、1913(大正2)年に建造されました。
企画設計に当たった桜井小太郎
もう少し先に、舞鶴訪問のときに知ったジョサイア・コンドルについて取り上げますが、
ロンドンで留学後、そのコンドル設計事務所で実務を学んだ人です。

海軍の技師として、呉鎮守府長官宿舎、大湊要港部水源地堰堤などを手がけ、
また三菱銀行や丸ノ内ビルヂングなどの設計を行った建築界の偉人ともいうべきで、
現存する建築のなかでは静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)、
旧横浜正金銀行神戸支店だった神戸市立博物館(国の登録有形文化財)があります。


この建築計画が持ち上がったとき、横須賀鎮守府司令長官だったのは、
第12代の瓜生外吉海軍中将でした。



左上がそうです。
で、その後この長官庁舎の主となった歴代長官の写真が続くわけです。
第3代に伊地知季珍という名前がありますが、「三笠」の艦長だった方ではありません。
第7代に、雅子妃殿下のご先祖だった山屋他人大将、そして第8代には
広瀬武夫と同期で恩賜の短剣だった財部彪大将がいますね。
(山本権兵衛の娘を嫁にもらって出世し、”財部親王”などと言われた人です)

で、もう少しこの写真を慎重に見ていただくとわかりますが、ここの最初の住人は、
東伏見宮 依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう)なのです。

東伏見宮中将は第16代鎮守府長官。

つまり、ここに初代住人としてお住まいになった時には、宮様はまだ
鎮守府長官ではあらせられなかった
ということになるのです。

ここに、皇族の依仁親王を差し置いて他の長官を先んじるわけにはいかない、
と海軍が配慮した様子がみえます。
それが証拠に、依仁親王は3年後、間に3名の鎮守府長官を挟んで、
実際に横須賀鎮守府長官を拝命されてから、もう一度第5代の主となっています。


そしてもう一つ特筆すべきは、この庁舎が建設される時に横須賀鎮守府司令官で
この企画建築に深く関わった瓜生中将はここに住んでいないということです。

施工が終了した大正13年には瓜生中将はもう司令官ではなかったからですが、
それでは宮様を立てるために誰が「割を喰ったった」かというと、
第2代居住者の山田彦八中将(大正2〜大正3在住)でした。

鎮守府長官の任期は概ね1年というのが相場で、瓜生中将が3年と長かったのは
この鎮守府長官庁舎の設計の責任者となったせいだったからと思われます。
しかしさすがに4年もやらせるわけにいかないので、建築が終了した年には
長官の役職は第13代となる山田中将に移っていました。
そして、第2代居住者、山田中将の司令在任期間だけが2年間と長くなっています。

これは、おそらくですが、せっかく完成した長官庁舎に住まないまま
長官職を失うのはあまりに山田中将に気の毒というか中将の面子の問題もあるので、

「宮様を一番先に住まわせないといけないからそうするけど、
君の任期を2年にするから、
在任期間の後半ここに住んでね」

ということで手打ちとなったのではないか、と推察されます。
こういう人事をみて思うのですが、海軍でトップをすぐに交代させたのは
主にできるだけいろんな軍人にその地位を与えなくてはいけないから、
というのがメインの理由だったのではないでしょうか。


ところで、このときに現地でもらってきたパンフレットには、
このような一文があります。

「田戸台分庁舎は瓜生ご夫妻と桜井小太郎氏三人の博識と
創造力による合作であります」

瓜生外吉が庁舎建造のプラニングに参画した理由は、
(というか、プロデュースも瓜生だったと考えられる)
瓜生が加賀藩の藩士であり、海軍兵学寮入学後、抜擢されて
アメリカの海軍兵学校、アナポリスを卒業しており、6年の滞米経験から
海軍きってのアメリカ通であったことからであろうと思われます。

そして、わざわざ「ご夫妻」とあるのは、彼の妻があの津田梅子
大山捨松らとともに新政府の第一回海外女子留学生として渡米し、
10年間の海外在住経験を持つ瓜生繁子(旧姓永井繁子)であり、

長官庁舎建設にあたってはその経験からアドバイスを行ったからです。

wiki

留学時の繁子は左端。右端が大山捨松で津田梅子は彼女と一緒にいる少女です。
繁子はアメリカの名門大学、ヴァッサー大学の音楽学部に進みました。
彼女が専攻したのはピアノだったようです。

10歳からピアノを始めるというのはこの楽器を習熟するのには「遅すぎる」のですが、
それでも他にピアノの奏法を知っている日本人は当時いなかったため、帰国後、
彼女は音楽取調掛(後の東京音楽学校)の教授として破格の待遇で迎えられています。

ここで瓜生中将と繁子夫妻二人の経歴を比べてみると、
瓜生が1875年から1881年の6年間、繁子が1871年から1881年の10年間、

それぞれの留学で滞米しており、二人の結婚は帰国後の1882年となっています。

これは、二人がアメリカで知り合ったということですよね?
瓜生は帝国海軍少尉、繁子は芳紀芳しい十代の少女として。

つまり、彼らは当時珍しい恋愛結婚で結ばれたらしいということなのです。

異国の地で知り合い、心惹かれた相手がお互いに相応しい身分であったこと
(繁子の父は幕府の軍医)は若い二人にとって大変幸運だったと言えましょう。



繁子と津田塾の創設者となった津田梅子、鹿鳴館の花と呼ばれた大山捨吉

(大山巌の妻)らが再会したときの写真が残されています。



左から津田梅子、アリス・ベーコン(津田塾の教師・教育家)、
繁子、そして大山捨松。
津田梅子は生涯独身を貫きましたが、女子留学生のうち有名になった
三人(後二人は一人が若死、一人が行方不明)のうち二人が
青年士官と、いずれも熱烈な恋愛で結ばれているというのは興味深いですね。

さらに余談ですが、瓜生中将と繁子の間に生まれた息子のうち一人、武雄は
海軍兵学校33期に進み、卒業後35期卒業生の遠洋航海のため
「松島」に乗り組みましたが、ここでもお話ししたことのある
1908(明治41)年、遠洋航海先での「松島」の爆沈事故により死亡しています。

調べたところ、瓜生武雄の卒業時の成績は6位。
このときの首席は豊田貞次郎でした。


さて、横須賀鎮守庁舎から離れて余談ばかりしてしまいましたが、
元に戻ります。







これも同じ角度から見た昔と今の庁舎。
手前の紅葉?は当時からの古木のようですね。

呉の鎮守府長官庁舎と同じく、この庁舎も洋館と和風館の接続住宅で、
洋風館の部分は木造平屋建て。
屋根は亜鉛葺きの切妻(2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状)となっています。



屋根の軒部分には、「ハーフ・ティンバー」様式の特徴である

「柱をそのまま見せて、その間の壁を漆喰で埋める」

という施工方式で仕上げられた部分を見ることができます。 
わたしが一目見て「大幅に作り変えおって」と激怒する(嘘)原因になった
レンガの妙にツルツルした質感は、改装に当たって外壁を
年月に耐えやすい煉瓦タイルにしてしまったからですが、
もとは下見板張り (建物の外壁に長い板材を横に用いて、板の下端が
その下の板の上端に少し重なるように張る)だったそうです。

まあ、それなら仕方なかったかもですね。板じゃ風化に耐えないから。
ただ、最初の写真がどうも煉瓦に見えるような気がするのはわたしだけ?



さあ、それではいよいよ中に入ってみましょう。


続く。
 


「ガミガミ言う人」にあらず〜潜水艦「グラウラー」

2016-04-01 | 軍艦

ニューヨークの「イントレピッド航空中博物館」にあった
潜水艦「グラウラー」(wiki表示ではグロウラー)の館内ツァー、続きです。
さて、レギュラス・ミサイルのミサイル倉の中を利用したエントランスから
入ってきた我々は、改装時に取り付けられたと思われる階段を降りて、
下の階の魚雷管制室までを見学しました。



魚雷関係のコンソール。
椅子が備え付けてありますが、随分座りごごちが悪そうです。

いきなり余談ですが、わたしはこのシリーズを始めるにあたって、
ドイツ映画の「Uボート」を鑑賞しました。
そういえばいままで、日本の潜水艦ものはいくつか見てきましたが、
海外の潜水艦ものは「K-19」しか観たことがありません。
特にドイツ制作のUボートものは初めてだったので、
大変興味深く最後まで観させていただきました。

いやー、もう当時の潜水艦、大変すぎ。
まず、哨戒活動に出るのはいいけど、全然敵がいないわけ。
何日間もただ海の底をウロウロ、海面を航走すれば波に顔を叩かれ、
ストレスマックスで何かに遭遇したと思ったら味方のUボート。
一旦は喜んでしまったものの、次の瞬間、

「なんでこんな広い海でUボートが2隻同じところをウロウロしてんねん!」

ということに気づき、怒り倍増。
無能な上層部の配置命令、どんだけ適当なことをしてるのか、ってところですか。
やっと船団を発見し、みんなひゃっはー!状態で盛り上がったと思ったら、
今度は船団を護衛していた駆逐艦に無茶苦茶やられて這々の態。

心理戦になったとき、皆が黙り込んで天井を見上げる(なぜ潜水艦乗りは
敵が来たときに上を見るのか)中、敵のソナーが不気味にピーピー鳴り、
潜行状態に入れば、兵員は前に走ったり後ろに走ったり(錘の役目)のてんやわんや、
索敵を恐れて深海に沈めば、ボルトが水圧で飛んでそれで怪我をする。

昔の潜水艦乗りであれば、どれもあるあるというネタだったに違いありません。


それにしても、「Uボート」や日本の潜水艦ものを見ると、暗い狭い臭いの3拍子に加えて、
一度何かあれば一蓮托生の戦死、というのが暗い画面によく現れていましたが、
実際に見るアメリカの潜水艦に、ああいった小汚さがあまり感じられないのはなぜでしょうか。
 


「グラウラー」はユーボートなどからは時代的にもずいぶん後なので、
設備もずいぶん近代的です。



ぼけてしまいましたが、これが士官用のトイレ。
護衛艦のトイレと同じく、バルブを開放して水を流すようになっています。



Officer's Quaters、士官居室の部分にあった officer's stateroomの文字。
ステートルームとは、列車や客船の中の「特等室」という意味があります。
士官のコーナーの中でも「特等室」がここだったのだろうでしょうか。



これが・・・・・「特等室」。
まあ、潜水艦の中では、そう言っても不当表示ではないレベルの豪華さではあります。
なんといっても上の段だけとはいえ、起きても頭を天井で打たないのは素晴らしい。

「グラウラー」の士官は二人または三人ワンセットで寝ていました。



天井にも送風感やボイラーのダクトがあるなどというのとは大違い。
これはかなり快適に寝られるかもわからんね。
下の士官とはおそらく日替わりで場所を交代しあったりして。




Wardroomというのは軍艦における上級士官室のことです。
家具類は極限の狭さにフィットするように細心の注意でデザインされています。
たとえばデスクトップとかシンクは折りたたみ式、椅子は物入れにもなります。

士官たちは食事、ミーティング、社交を全てこのワードルームで行いました。
士官の食事はギャレーで作られ、まずワードルームのパントリーまで運ばれ、
そののちちゃんと各々にサーブされました。

テーブルの天板など、木製の家具が多いのは「アトホーム」な雰囲気を演出するためで、
しかし全ての家具や壁はプラスティックでラミネートされていました。
ラミネート素材やビニールのシートなどは全て第二次大戦以降の発明です。
 


なんと、髭の剃り残しなどがないように、鏡の両側にライトがついてます。
鏡は画像の歪み具合からみてガラス製ではない模様。



なんてこった。
潜水艦と言いながらこの間見た掃海艇の艇長室並みに広いではないの。
コマンディング・オフィサーつまり司令官(CO)用寝室。

「グラウラー」艦内でプライベートな空間をキープできる個室はここだけです。
このベッドは持ち上げると壁にぴったりと収納することができ、その下にある
向かい合わせのソファを使用することができます。

ベッドの上にある電話からは、艦内の各部署全てと通話することができます。

 

ベッド用の扇風機までついているぞ。
電話の上の穴の空いたドラム型の器具は、どうも電話交換のように
コードをつなぐことができる仕組みの模様。

 

あくまでも階級式なので、CPOつまり下士官のベッドは3段になります。
この写真によると、6人の下士官たちが寝られるコーナーです。

「Uボート 」では映画のセリフによるとベッドは総員の数より少なかったようです。
全員が同じ時間に寝ることなどあり得ない、つまり誰かが寝ている時には
誰かが必ず起きているので、合理的といえば合理的な考え方だったのかもしれませんが。

 

yeomanというのは米海軍の用語で「下士官の書記」のこと。
ここはヨーマンのオフィスとなります。

ヨーマンはクルーの管理や事務的な業務を行う係で、
報告書などの作成を含む文書作成に責任を持ちます。

作成された文書の管理なども全てこの係がここで行います。




コンパートメントからコンパートメントに移る際には、
どの潜水艦でもそうですが、このような小さなハッチをくぐり抜けていきます。

観たばかりなのでまたも「ユーボート」の話ですが、航行中爆雷を避けるために
急速潜行を行うときには、若い水兵さんたちが

「後方へ行け!」 

と命令されると全員がだーっと生けるバラストになるために走っていくのです。
その際、のんびりとこんな調子でハッチをくぐるものは一人もなく、
全員がハッチ上部を掴んで両足ごと次の区画に飛び込んだり、
ジャンプして次の区画でくるりと一回転していたりしました。
本当にこんなだったんだろうか・・・? 



ところで、説明が遅れましたが、「グラウラー」-GROWLER-という艦名は、
 
1、うなるひと、ガミガミ言うひと、不平屋

2、小さい氷山のこと

という意味があります。
実は「ガトー」級の潜水艦に限り、このどちらの意味でもないのですが、(正解は後日)
この響きはどうやら大変好まれるものらしく、船以外にも電位戦機の名前にもなっています。

そこでふと思い出すのが「うろうろするひと」の意味であるPROWLER(ノースロップ・グラマン)
で、このEA-18G「グラウラー」の飛行機の方は、どうも「プラウラー」と
対でネーミングされたのでは、とたった今思いつきました。こちらはグラマン製ですが。



もともと4輪馬車のことを指す名称と成っていたので、船、飛行機、列車(いずれも軍用)
 ぬいぐるみに仕込む、傾けると音がなる仕掛けや、ロシア軍では
地対空ミサイルにもこの名前が使われています。

GLOW (輝く)という響きに近いのが好まれるのかなと思ったのですが、
英語ではRとLを日本のように混同しないので、たぶんこれは違うだろうな。



続く。