ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

甲板とユニオンジャック〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

2017-01-11 | 軍艦

さて、場つなぎで取り上げた映画「ヘルキャット・オブ・ザ・ネイビー」
は、これから取り上げるシリーズのいわば前座となりました。
(そういうつもりはなかったのですが、気づけばそうなっていたという感じ)

 

シリーズ前回お話ししたミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」と、
これからお話しするつもりの「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」の間に
係留してあるこの潜水艦SS-298「ライオンフィッシュ」についてです。


ところでこの潜水艦について調べていて、「USSライオンフィッシュ」
という映画があることを知り、なにっ!と検索してみたら、

「2013年、ニューヨーク大学で歴史を教える、アル中男ウィリアムズは(笑)
世界大戦で活躍したUSSライオンフィッシュの研究に憑りつかれていた。

1943年に何故か強制引退となり、ハッチは溶接・密封され、桟橋に固定されていた
この潜水艦の引退の謎を解くべく、アル中男はその他大勢と艦に乗り込んだ。

すると、昔この艦に起きたように、艦が突如ロックされ、
調査チームは中に閉じ込められてしまったのである」

で、潜水艦はそのまま時空を超えて1943年に行くというストーリーですが、
映画評がどれも散々なので、多分しょうもない映画なんだと思います。
でも、そんな映画ほど、このブログ的には突っ込みどころが盛りだくさんの
ネタ映画となりうるので、機会があったら観てみようと思います。

というわけで、映画はまったくここにあるバラオ級潜水艦とは関係ない
(バラお灸潜水艦という誤変換に少しウケた)らしいことが、
ハッチが溶接・密封されていなかったことで明らかになりました。

こちらが艦首部分。
水圧で取れてしまいそうな鉄板がぶら下がっていますが、
これはバウプレーンといって、潜水艦には艦尾のスターンプレーンと
前後の2対が装備されて、潜水をコントロールするものです、

 

バラオ級潜水艦という名称は、大東亜戦争中の当方の艦艇の
被害を調べていてやたら目につくのですが、これもよく見る
「ガトー級」(GATO=正確にはゲイトー。『グリーンホーネット』
のKATOをケイトーと発音するようなもの)を改良したもので、

当時アメリカの潜水艦の中では最も出来の良い潜水艦と言われ、
計120隻と大量生産されたからなのです。

ちなみに先日お話しした「勝利への潜行」で扱われた潜水艦は
「ガトー級」であり、実写の部分にも本物のガトー級が使われていました。 


アメリカ海軍の潜水艦には魚の名がつけられますが、 
一度ここでもお話ししたバラオ級である「パンパニト」はアジ科のパンパニト、
「ライオンフィッシュ」はミノカサゴのことです。

1942年12月に起工し、1944年に就役した「ライオンフィッシュ」最初の艦長は
スプルーアンス提督の息子、エドモンド・スプルーアンス少佐でした。 

建造されたのはフィラデルフィアのクランプ造船所
バラオ級潜水艦のほとんどはカリフォルニアのメア・アイランド
(今回ここも見学してきました。いつお話しできるか全くわかりませんが)
あるいはエレクトリック・ボート社などで建造されましたが、
大量生産で工場が間に合わなくなってクランプに製作を任せたところ、
納期は伸びるし不具合が多く、何隻かは注文を取り消されているのです。

 「CRAMP」には「痙攣」という意味があるので、きっと海軍では

「あいつらボルトを打つときに痙攣起こしてんじゃないのか」

などという悪口が叩かれたんじゃないでしょうか(想像) 


それがこの「ライオンフィッシュ」、その評判の悪かった
クランプ造船所の出身なのです。

そう言われて工期を見てみると、

起工から進水まで11ヶ月
さらにそれから就役まで12ヶ月

何が遅いのかと言われそうですが、例えば前述の「パンパニト」は

起工から進水まで4ヶ月弱
進水から就役まで3ヶ月3週間


であり、これがバラオ級の平均建造日数だったといいますから、
この「ライオンフィッシュ」は、海軍がクランプ社の
納期の遅さに見切りをつける前になんとか完成した
最後の発注分だったということになりますね。

さあ、それではその評判の悪いクランプ社で、時間をかけて
ゆっくりと作られた潜水艦に乗り込んでみます。

このころの潜水艦というのは今と違って「沈む船」みたいな感じで、
甲板も狭いながら全部を歩き回れたりします。

名前こそ魚類ですが、形態は最近の潜水艦の方が圧倒的に魚類です。
艦腹に、海水を流入させる小さな窓がいっぱい空いているなんて、
さぞ航行していてもうるさかったんだろうなという気がしますし、
こんな風に甲板に砲があったりするんですね。

潜水艦は沈みますから(そらそーだ)砲口に蓋つき。
スペックには5インチ砲とありますが、5インチ25口径単装砲のことのようです。

写真で検索したら、何年か前見学した人の写真では砲が
全く別の砲口を向いていました。
どうもまだ動かすことくらいはできるようです。 

コニングタワーの下から見あげてみると、左から

1番潜望鏡

2番潜望鏡

レーダーSDアンテナ(棒の先のコの字型アンテナ)

が確認できます。 



また詳しくお話ししますが、昭和19年の11月に就役した当艦は

終戦までを対日本戦にのみ投入されました。

つまり、この潜望鏡から、ある時は日本近海で、ある時は東シナ海で、
虎視眈々と日本の船を屠るべく監視をしていたのです。

本体ごと海に沈んでしまう対空見張り用の双眼鏡。
レンズが片方破損してしまっていますね。

こんなところからアメリカ人男性が出入りできるのか?

と思うくらい小さなハッチ。
まあ、脱出用のトランクとハッチであると思われます。


ところで、今現在も潜水艦乗りになるのは身体条件が厳しく、
航空よりもはねられる志望者が多いと聞いたことがありますが、
(聴力とか耳鼻咽喉に問題があるとまずダメだとか) 
アメリカの場合はこれに「ハッチを潜れること」という条件が加わります。
今ほどデブの多くなかった当時のアメリカでも結構狭き門だったでしょう。

そういえば、サンディエゴでも幾つか潜水艦見学をしましたが、
見学の前に地上に丸い穴を穿ったボードが置いてあり、

「これを潜れない人は見学をご遠慮ください」

と警告してあるのには笑いました。
中でつっかえると、後ろの人が全部外に出ないと
後戻りすることができないからですが、これ、過去何度か
中でつっかえて動けなくなる人がいたんだろうな・・

昔の潜水艦はこんな上部構造物を乗っけていたんですね。
これはいかにも水の抵抗が大きそうだ。
階段があって制止されていないので上に登ってみました。

 

これがいわゆる甲板の2階部分。
架台だけが残っていますが、機関砲があったのでしょう。

潜望鏡などが立っている部分。
謎の装備が据え付けてあります。

向こう側に説明があって、

TBT(Target Bearing Transmitter)

大戦前半頃まで潜水艦に装備された魚雷統制システムとあるので、
これがそうなのかもしれません。
(ライオンフィッシュが配備されたのは1944年ですが・・・)

戦争後半(つまり43年以降?)のほとんどの潜水艦の魚雷攻撃は
夜間浮上して行われました。

TBTにはトルピードデータコンピュータ、つまりTDCと呼ばれる
アナログコンピュータの魚雷管制装置から情報が送られました。

TDCは標的と自分の艦の現在位置、速度、進路などのデータを
入力すると、標的の将来の位置が割り出され、
計算によって魚雷の発射角などを導き出すことができました。


目標に肉薄すると、オペレーターはグリップを握るだけ。
TDCの情報をもとに目的に対する発射角はもう決められています。 


最小限の双眼鏡を使ったトレーニングでの習得が可能で、
さらに光源の弱いところでも使用することができたので、
ほとんどの潜水艦は当初TBTを搭載していました。
 

 

もう一度下に降りて臨む艦首部分。
ここにも前方の脱出用ハッチが見えます。


というわけであんがい甲板がだだっ広かったりするわけですが、
バラオ級の全長は95mと、そうりゅう型よりも11mも長いのです。
ただし幅はそうりゅう型は1m近く広く、昔より丸っこくなっています。

ちなみに原潜バージニア級は全長約115m、最大幅10.4mだとか。

なお、見学用に安全柵が取り付けられていますが、
戦闘時の写真をみると、手すりは全くありません。

酔っ払った伊潜水艦の艦長が小用を足していて落っこち、
気がついたら甲板でマグロのように転がされていた、という話を
昔漫画にしたことがありますが、

記念漫画ギャラリー

手すりが甲板にあるならこんなことにはならないよねってことで。

さらに艦首部分。
柵がなかったころにはこのキャプスタンが使われていたのでしょうか。
今回見たほとんどの艦首旗は「私を踏みつけるな」でおなじみ?
紅白のストライプに蛇がいるファーストネイビージャックというものでしたが、
ここのは珍しくブルーに白い星の「ユニオンジャック」です。

星の数はアメリカの州の数によって変わりましたが、
右端に星が5つ縦に並んでいることから考えて、これは
2002年9月11日以降、海軍艦艇が「私を踏むな」の旗を揚げているのに対し、
非海軍艦艇が揚げているユニオンジャックであろうと思われます。

かつての海軍艦ですが、もう海軍に籍がないので一般艦艇と
同じ扱いになっているわけですね。
 

甲板に2本立っている黒い柱はデリックだったりします?

 

同じバラオ級の「パンパニート」も、艦首と艦尾に入り口と階段を作り、
一方通行で客を誘導するようになっており、ドアの部分には屋根をつけるなど、
改造してありましたが、これも見学用の改造である可能性高し。

いくら昔の潜水艦でも、悠長に階段をおりて入るなんてありえませんし、
ガトー級の図面を見ても、階段などどこをさがしてもありませんから。


扉の上には目立つ青い看板があり、そこに

「天井が低いので頭上に気をつけてください」

とあります。
さあ、それでは艦内に入っていきましょう。
頭上に気をつけながらね。 

続く。



映画「勝利への潜行」 後半

2017-01-09 | 映画

本日冒頭画像ですが、ある事情があって、丸一日費やしてしまいました。

バックの潜水艦内をかなり細かく書き込んだ画像を製作し、
あとはアボット艦長の左側の潜望鏡を描けば出来上がり、
というところで、なんの前触れもなくペインターがクラッシュし、
一瞬にして何時間かかけた絵が消えてしまったのです。 

前回同じようなことが起こって「戦火の馬」のために描いた大作が
消えた時には、PCが古くて調子が悪かったせいだと思っていたので、
まさか真新しいPCでダウンロードしたばかりのソフトがクラッシュするなんて
予測もせず、セーブもしていませんでした。 

 

調べてみると、コーレルペインターには「得てして起こりうる事故」で、
(”秋になると落ち葉が落ちるようにペインターが落ちるのは自然なこと”
という名言さえあり) しかもこのシステムは自動セーブ機能がないので、
何人もの人々がこの不条理に泣かされていることを知りました。

 

脱力感と無念の涙にまみれながらも、自然の摂理なら仕方ない、
と0から作画し直したのが冒頭画像です。

2回目というのは手順が慣れているのでできるのも早いのですが、
何しろ気力がかなり削がれ、やる気が30%くらいになってしまい、
したがってバックの描き込みも前作の30%くらいの手抜きです。

実は、この作画中にも”秋の落ち葉のように”ペインターは落ちたのですが、
(しかも3回)さすがのわたしもこまめにセーブしておいたので、
大きなロスもなく、なんとか最後までたどり着いた次第です。

 

消えてしまったバージョンより背景を手抜きして人物中心の構図なので、
いっそのことセピアの思い出写真風にしてみました。

1945年6月9日というのは、この映画によると、作戦決行された日です。

 

さて、前半のエントリを自分で読み返してみて気がついたことがあります。 

水中処分員のウェスが、出撃前に「フリッパー」と「スリッパー」をかけて

「へい、シンデレラ、お前の魔法のスリッパーだぜ」

とフリッパー(足ヒレ)を仲間に投げつけられていたシーンは、実は

「ウェスはこのあと潜行に間に合わず、海に取り残される」 

つまり、彼がこのあと、シンデレラのように、時間が来れば魔法が解けてしまう
運命にあることを予感させる伏線だったことです。

 

あと、前回魚雷発射のアメリカ海軍の掛け声をご紹介しましたが、
裏コメで教えていただいたところによると、自衛隊の戦後の潜水艦隊は、
掃海艇として継続していた水上艦と違って一旦歴史が途切れ、
アメリカから供与された潜水艦でリスタートしたという関係で、
掛け声は例えば1番発射筒であれば

「1番管、ファイアー!」

なんだそうです。
これってアメリカ式の「Fire One!」そのままですよね。

もちろん水上艦では帝国海軍時代からの掛け声

「1番管用意。撃てぃ(テー)」

となるわけですが、水上艦の人たちはこれでないと力が入らないので、
潜水艦の「ファイアー」、あれは違うだろ、と内心思っているそうです。
(一部情報です)

 

さて、続きと参りましょう。
自艦と60名の部下を死に追いやった艦長のアボット(レーガン)。

副長のランドンは、ウェスを見捨てた件でも艦長を許していません。
こんな艦長の下にはいられない、と副長から艦長にしてくれるよう
上に頼みに行きますが、彼が艦長として乗るはずだった「シーレイ」は
なんとアボットが艦長、ランドンは又しても副長になる予定である、
と聞かされ、ショックを受けます。

しかも、アボットは彼を「艦長として不適任だ」と上に報告していました。

 

病院に文句を言うために押しかけていったランドン副長に
艦長は、

「君は緊急時に非情な命令を下すことができない。
だから艦長にはなれない」

その時、18歳の水兵フレディが目覚めたと言う知らせが。

彼はウェスの件で艦長に反発していましたが、その後
艦内で頭を打ってずっと意識不明となり、入院していたのです。

「仲間は・・・帰ってきますか」

「ああ・・皆君に会いに来る」

ついつい嘘をついてしまうアボット艦長。
フレディは艦長に自分の暴言を謝罪します。

「私の誤解でした。艦長は私を助けてくれた」

ランドンもフレディも、所詮艦長の命令を人間的な感情に基づくものだとして、
責めたり感謝したりしている、と知り、アボットは複雑な気持ちになります。

艦長の判断は部下が思っているような贖罪とか、
ましてや個人的好悪などとは無関係であるはずなのに・・・。

今日は楽しい公聴会。

公聴委員はアボット艦長に

「レーダーも探知機も故障したあと、命令にない行動をとって
日本の商船を見つけ独断で追跡したわけ」

を問いただします。

「 日本海への安全な航路を見つけることは作戦上重要です。
艦のダメージは作戦に支障ないと判断しました」

部屋の隅で怖い顔をしてメモを取っている副長のランドン。

「君は反対したそうだが、 艦長の命令は義務の無視あるいは放棄だったと思うか」

聴聞委員に意見を聞かれますが、彼は言明を避けます。

 

結局アボット艦長は不問に処されました。
潜水艦隊司令の意見によると、

「積極性や英雄的行為は無謀や命令無視と紙一重だからおk」

日本だとそれより艦長と副長が死ななかったことを問題にしそうですが。 

日本海出撃への命令発令と激励が行われ、アボット艦長は
「シーレイ」艦長として出席することになりました。

海軍の錨マークがついたカップに、黒人のボーイが注ぐコーヒーを
楽しみながら皆が歓談していると、ニミッツ提督がご入来。

冒頭のニミッツは本物ですが、劇中のニミッツ(昨日の冒頭画像に描いた人)
は、セルマー・ジャクソンという無声時代の俳優が演じます。

この人は晩年のニミッツに似ていて、2年後の映画「ザ・ギャラント・アワー」
でもニミッツ提督役で出演しています。

作戦はヘルキャッツ隊が3グループに分かれて日本海に侵入し、
対馬海峡で児童疎開の船を通商船を攻撃し輸送物資を断つというもの。

ちなみに字幕では「H・P・B」のグループとなっていますが、
英語では「ヘップキャッツ・ポールキャッツ、ボブキャッツ」と言っています。

ここでニミッツ提督からのありがたい一言。

「勝利を得るには物資を止めることだ。
諸君は日本国民に日本海ですら米海軍のものだと示せ」

生きて帰れないかもしれない任務。
恋人たち(ナンシーとレーガン)の最後の語らいですが、この時にレーガンが言う、

「戦後は武器を納入する仕事について、機雷を買い占め、
月の人間(The man in the moon )に売る」

の意味がいまいちわかりません。
月面に現れる顔(マンインザムーン)は「雨の海」「晴れの海」
が目、「雲の海」が口に見えることから、

「海軍相手に商売をする」

と言っているのでしょうか。 
これに対しブレア中尉は

「月には水はないわ。いつも一人で見ていたからよく知ってるの」

 

さて、出撃したものの、まだ乗員と馴染がないところに持ってきて、
副長のランドンが、艦長抜きで「スターフィッシュ」の沈没について
皆に説明したり、微妙に反抗的な態度を取り続けたりで雰囲気悪し。

ちなみにこのカップも錨マーク入り。
肉厚で大きくて、このカップ欲しいなあー。

対馬海峡付近、機雷のうようよする海中を進んでいく「シーレイ」。
機雷ケーブルに引っかかった艦体を艦長はうまく操作して切り抜け、
これで乗員の心をがっちり掴みました(たぶん)

しかしこの大海も敵の海、この海原も敵の陣。(by空の神兵)
すぐさま敵の駆逐艦が出現。 

(細かいことですが、日本の船が現れるシーンには一瞬音楽が
東洋調に変わります。相変わらず日本というより中国風ですが)

鎮座してやり過ごすも、容赦なく爆弾が投下され・・

えと、これたぶん実写だと思うんですが、魚雷を落としているのは
日本軍の駆逐艦でよろしいんでしょうかね。

駆逐艦の攻撃を逃れ、機雷原の下を航行して潜んでいた「シーレイ」は
日本の輸送船を見つけ容赦無く沈めにかかります。

魚雷発射がどんなスイッチで行われるのかこれを見て知りました。

ところで今更ですが、この作戦は、「オペレーション・バーニー」と言い、
作戦に参加した戦隊は「ヘルキャッツ」といいました。

「海軍のヘルキャッツ」はあだ名ではなく実際の作戦部隊名だったのです。

日本の輸送船はこの作戦で大打撃を受けました。
記録によると、米海軍の被害、潜水艦1隻沈没に対し、 
日本側は 

沈没   潜水艦1 特設敷設艦1 商船・輸送船 26以上

損傷   海防艦 1

というものです。



魚雷が当たり、「バンザイ!」と歓声をあげる魚雷発射係。
あのなあ、お前ら(略)

「シーレイ」のモデルは、ピアースズ・ポールキャッツ隊の
「スケート」(ガンギエイ)であろうかと思われます。

この作戦による「スケート」の攻撃で、
「謙譲丸」「陽山丸」「瑞興丸」などが沈没しました。

 

このシーンで魚雷戦を見ていると、「ファイア9」「ファイア10」
と発令するなり司令はスルスルと潜望鏡を下げてしまいます。 
その後、時計を見て、爆発音が時間通りにしなければ「ミス」と判断。

このころの潜水艦戦は随分アナログなものだなと思いました。



魚雷を外した駆逐艦が真上にやってきて今度はこちらが攻撃を受けることに。
爆発の衝撃で頭を打ったりして、けが人続出しながらもなんとか切り抜けます。

 

戦い済んで日が暮れて、戦果を和気藹々と話し合う士官たち。

「サンドフィッシュからの連絡がまだない」

とも言っております。
実際にこの作戦で戦没したのは「ボーンフィッシュ」でした。

 

そのとき防御網をくぐり抜けようとしてネットをスクリューに絡ませてしまいます。
脱出はできましたが、ネットをはずさねば艦は動けません。

そこで指揮官先頭、なんと艦長自らが船外に出て、
スクリューに絡まったネットを外すことになりました。

 

ネットを外せたのはいいものの、なぜかそれを自分の体に絡めてしまい(笑)
アボットがもがいているうちに、案の定敵の駆逐艦に発見されてしまいます。

「わたしは動けないから潜航しろ!」

叫ぶ艦長。

「ノー、サー!」

言い張る副長。
ランドンはここにきて初めて

「一人の命と艦と81名の命を天秤にかける」 

辛い選択を迫られたのです。
アボット艦長本人に諭され、潜航を命じたランドン副長は、
泣きながら潜水服の命綱を切り、駆逐艦との戦いに身を投じていくのでした。

見事駆逐艦を撃破し、艦長が生きている可能性を求めて
探査を命じる副長ですが、帰ってきた答えは

「ケーブルの音は聞こえません」

しかし、念のために(笑)のぞいて見た潜望鏡で、
奇跡的に海面にぷかぷか浮かんでいる艦長を発見したのでした。

「ありがとうランドン。
グアムまで泳がなくてすんだよ」

 

そして無事グアムに帰還。
作戦は成功裏に終わりました。

「君がシーレイの艦長になるならわたしは次の艦と副長を探さないとな。
もちろん、わたしには最高の男が必要でもある。
これは極めて個人的なことだが、ドン」

「いい考えです、ケイス」

最後の二人の会話は、艦長と副長だった二人の男が、これからは
ファーストネームで呼び合う友人になることを示唆しているのですが、
日本語字幕では

「君が艦長になると後任を探す必要がある。
君に匹敵する副長はおらんだろう」

「おそれいります」

テキトーに雰囲気で翻訳してんじゃねーよ字幕翻訳者。 
だいたい、いくらランドンが優秀だったとしても、

「君に匹敵する人材は海軍にはいない」

って、海軍が全面協力した映画のセリフでこれはないわ〜。


これじゃ日本では駄作と言われても仕方ないかもなあ・・・。

 

終わり。

 

 

 


 


映画「勝利への潜行」 前半

2017-01-09 | 映画

新春第一弾にお送りする映画のご紹介は、ロナルド・レーガン主演
「勝利への潜行」。

何かを検索していて知ったので取り敢えずCDを買ってみて、
もし面白かったらここでお話しする、 と予告しておいた、
レーガンとナンシー夫人の共演映画です。

 

年末、コーレルの絵画ソフトをアップデートしたので
初めてこれで冒頭の絵を製作してみました。


もっと言うと、本当は陸自降下始めに行く予定をしていたのが、
前日の雨の予報と、同行者が病に倒れたため参加を取りやめて、
その日一日が暇になったということもあります。

今年はグリーンベレーが参戦すると聞いていたので、
直前までは行くつもりしてたんですけどね。

 

さて、この映画、わたしにとっては最近見学したこともあり、
潜水艦の艦内シーンが見られて面白かったのですが、巷には

 
「潜水艦映画にハズレなしというジンクスを打ち破った」

(つまり面白くない)という評価すらあるようです。

 

 


もしそうだとしたらおそらくですが、それは俳優のせいだと思います。

たまたまこの顔がいいだけで、あまり表情筋の動かない主人公役と、
その俳優と5年前に結婚した比較的花のない女優が、
アメリカ大統領とファーストレディになるという未来がなければ、
おそらくこの映画も今以上に有名になることはなかったでしょう。

しかも、あのチェスター・ニミッツ本人が登場しているというのに、
「レーガン夫妻の共演映画」としてしか
映画史に名前を残していないというあたりが、
この映画の実際の評価と言えないこともありません。

 

さて、とっとと始めましょう。

驚いたことに、これがこの映画の冒頭シーンです。
ニミッツがカリフォルニアに住んでいたのは知っていましたが、
なぜかそのポストを映し出すという謎演出。

そしてポストに続き、予想に違わずご本人が出てきて、

「1944年にまだ日本列島が強固な要塞であったころ、わたしが指揮した作戦
(機雷で守られた日本海に侵入し、日本への物資の輸送を断ち
戦意を喪失させる)
には優秀な潜水艦長たちがいた。アボット艦長もその一人である」

てなことを言います。

元帥位には引退がないので、このころのニミッツはすでに72歳ですが、
郵便ポストにもある通り(笑)フリートアドミラルであり、軍服を着用しています。

その時にニミッツの口から紹介される潜水艦隊司令、ロックウッド中将。
この映画は、中将が1955年に著したノンフィクション、

「HELLCATS OF THE SEA」(海の暴れん坊)

をベースにしていて、映画には海軍が深く関与しています。

舞台はケイシー・アボット(レーガン)中佐が艦長を務める潜水艦、
「スターフィッシュ」。 

実際にありそうな名前ですが、仮名の潜水艦です。
イギリス海軍にはS級潜水艦にこの名前のものがあったそうですが。

まず登場するのはドン・ランドン副長
真面目で一途な軍人として描かれていますが、

「(本州に入ったら)ゲイシャガールでも拾いましょうや」

という部下の冗談に、

「ツノの生えたゲイシャ(機雷のこと)をな」 

と答えるような男(つまり面白くないギャグを真面目にいうような)
でもあります。 

「スターフィッシュ」は潜水隊を使って日本の機雷を採取しようとしていました。



時間になっても起きてこない潜水隊員、ウェスを副長が起こしに行くと、
女性の写真を抱いてまだ寝ていました。

その写真というのが・・いやいやいやいや(笑)

レーガン夫人、じゃなくって、この映画の上でもレーガンの彼女、
ヘレン・ブレア中尉。
実はウェス、艦長の彼女と知った上で ヘレンを好きになり、
彼女とデートまでしておったのです。
しかもウェス本人によると、

「She practically sat down in my lap and demanded attention.」
( 彼女俺の膝の上に座って気を引いたんだぜ。ちなみに字幕は
『デートするように俺に命令したんだぜ』となっていて間違い) 

二股かける魔性の女、ヘレン。恐ろしい子・・・!

・・・・にしては、いやなんでもない。

 

そう、この映画をつまらないものにしている原因の一つは、
ヒロインのイメージと女優のそれが一致しないこと。
後のレーガン夫人、ナンシー・デイビスはそこそこ評価された女優でしたが、
そのイメージ通り、役どころは大体良妻賢母的な人物がほとんど。

とても彼氏の部下の膝に乗って誘惑するような女には見えません。 

後の大統領夫人ナンシーは小綺麗で洗練され、若々しく、
絵になるファーストレディに見えましたが、この頃の彼女は
どういうわけか、36歳にして既に姥桜の風格すら出ております。

まあ要するに、俳優としては夫婦共々大したことなかった、
ということなんだろうと思います。 

ちなみに彼女が政治家に転身した夫がカリフォルニア州知事になり、
初めて「ファーストレディ」となったのはこの10年も後のことです。



出撃前、自慢げに「足ヒレ(フリッパー)だけで日本軍と戦った話」
を披露するウェス。 
仲間から途端に

「ヘイ、シンデレラ、お前の魔法のスリッパー(ガラスの靴のこと)だぜ!」

と足ヒレが投げつけられます。
字幕には全くこういうのが翻訳されていないので、面白くないともいえます。
(つまり評価が低いのは日本限定かも)

潜水艦から潜航中水中処分員を出すときのやり方。
人が内側ハッチの外に出たら、中から紐で引っ張って扉を引き下げ、
海中に出る者は二重扉の外側のハッチから出ます。

あ、そういえばこの間見学した潜水艦も二重ハッチになってたっけ。

ところが、機雷採取の任務中浮上していて敵駆逐艦に発見されてしまいます。
しかも、まだウェスが戻ってきていません。

彼が海上に浮かんでいるにもかかわらず、一刻を争う事態と判断し、
潜行を命じるレーガン艦長。

ちなみに日本で「潜航!」というところを、アメリカでは

「Clear the bridge!」

と言っています。 

エンジンを止めて彼を助けようという副長の進言も拒否されます。

容赦無く魚雷戦を命じる艦長。
ちなみにこの時の命令は

艦長「ベアリング」「マーク」

副長「ベアリング2−5−0」

艦長「ファイア セブン(7番発射筒)

で発射、です。

「ファイア ワン」「ファイア ツー」

というたびに金属がはじかれたような発射音が聞こえるのが
「ライオンフィッシュ」を見学してきたわたしにはツボでした。

「スターフィッシュ」は駆逐艦に魚雷を当てることはできましたが、
高速艇は狙いを外し、逆襲されて命からがら逃げます。

戦い済んで日が暮れて。
副長が死んだウェスのベッドに残されたナンシーの写真を見ながら
しんみりしていると、レーガン艦長がやってきます。

「 一人のために85人の命を犠牲にするわけにはいかない。
君もいずれその選択を迫られる立場になればわかる」

とレーガンは言うのですが、副長はついついナンシーの写真を手に

「その時、その男があなたの彼女とワルツを踊ったということが
ベースにあったのではないですか」

と女性ネタで責めてしまいます。
恋敵だったから見捨てたんだろう、と暗に言っておるわけです。

艦内にも微妙な空気が流れます。
19歳になったばかりの多感な青年、フレディは、
艦長が乗組員を見捨てたことが許せません。

 

さて、「スターフィッシュ」はグアムに帰還しました。
ここで艦隊司令のロックウッド中将と会ったレーガン艦長は、

「日本の輸送船を追跡して安全な航路を発見する」

という作戦を具申します。 

そこでガールフレンド、ヘレン中尉(ナンシー)と再会する艦長。
この時すでに彼らは結婚して5年経っていました。
そのせいか二人のシーンは熟年夫婦のそれみたいです。

この時に彼女が説明したところによると、ヘレンは

●バツイチであり、前の結婚は「最悪」だった

●まだ離婚していない時に二人は知り合った

●戦争中ということであなた(レーガン)は踏み込んできてくれない

●あなたが出撃中、自分が現役であることを確かめたかった 

そこでレーガンが

「だからそれをバートン大尉(ウェス)で証明したかったのか」

と問いかけると、

「彼は女の子にモテモテで今まで見た中で一番イケてる男だったけど、
あれは愛ではなかったの。
お互い、どうしてもこの人でなければダメってわけじゃなかったわ」

と浮気がバレた奥さんのようなことを言います。
要は、

「愛してるのはあなただけ。あれは遊びだったの」

というわけですねわかります。
しかし二人にとっての目下の問題は、ウェスが死んだことで
ランドン副長が二人を責めていることかもしれません。

次の任務は済州島の日本軍基地を爆破することでした。

「爆発性危険物」という怪しげな横書きの看板を倉庫にかけた
日本軍基地に「スターフィッシュ」は上陸部隊を送り、
金網を乗り越えているのに音に気づきもしない間抜けな日本軍歩哨のおかげで
基地に忍び込んで爆破に成功しました。

ところがここで日本の商船を見つけたアボット艦長、
先ほどの日本軍の反撃で魚雷発射室が浸水しているというのに、

「機雷のない安全な航路を突き止めるためについていく」

と言いだし、案の定浮上したところを日本の潜水艦に見つかります。

何度リピートしても何を言っているのかさっぱりわからない
帝国海軍潜水艦艦長の命令のお言葉。

ていうかこれどう見ても日本人の顔じゃないだろう。

とにかく、この潜水艦の魚雷が命中し、「スターフィッシュ」は
あっさりと沈没してしまいます。 

これってやっぱり艦長の判断が悪かったってことなんじゃ・・・。

85人のうち艦を脱出できたのは60名、そのうち助かったのは
艦長と副長の乗った救命ボート一隻だけ。

ほとんどの部下を自分の采配ミスで失った艦長は、

「60名も死んだのにわたしは脳震盪か。
こいつはとんだ勲章ものだ」

と自嘲するのでした。

「彼らの家族も、彼らの人生設計も知っていたのに・・・
わかるか」

という問いかけに

「わかるわ。
わたしもあなたが任務中はもう二度と帰ってこないんじゃないかと
毎分毎秒そればかり考えているの」 

って、なんかこの答えピントが合ってなくね?

さて、命令に反して勝手なことをした結果、今度は艦と
貴重な60名の部下の命を失った艦長の運命(処分)やいかに。

 

後半に続く。 

 

 


テルミートミサイルの日の丸〜ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」

2017-01-07 | 軍艦

一応主体は東ドイツ海軍で運用されていた
ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」。

アメリカでこれが見学できるというのも不思議な運命です。 

甲板から階段を下りて中に入ってみました。

まずコンパクトなスイッチ、配電盤が並ぶチャートルーム。

その前方が操舵室です。
規模としてはちょうど日本の掃海艇くらいかもしれません。

ちなみに「ひらしま」型掃海艇は全長57m、幅9.8m。
「ヒデンゼー」は全長56.9m、幅10.2mです。

巡航速度も13ノットと14ノットとほぼ同じくらいです。 

前回も説明しましたが、この艦は、ソ連の造船工場で建造されました。
運用していたのは東ドイツ人民海軍であったわけですが、そのころは
人民海軍の水兵さんたちは必死でロシア語を勉強して、
そのまま使っていたのかもしれません。 

ここにある「ヒデンゼー」にはいたるところにテプラで英語表記してありますが、
これは西ドイツからアメリカが調査のために譲渡された際、
アメリカ人が理解のために貼ったものだと思われます。 

こちらの計器類にもことごとくテプラ(笑)
ところでここで豆知識ですが、テプラを発明したのが日本人って知ってました?

1986年頃、ブラザー社員(当時)によって開発され、
現在ではキングジムが商標登録を持っています。

「ヒデンゼー」がアメリカに調査のためにやってきたのは1991年。
おそらくここに貼られたシールもテプラです。

テプラとは

Timely(いつでも)Easy(簡単に)Portable(その場で)
Rapid(すぐに)Affix(貼り付けられる) 

からきていますが、このネーミングもメイドインジャパンぽいですね。

電気のスイッチ盤。
まあこれではアメリカ人には想像もつきますまい。

一番上の段に左にAK-176とありますが、これが主砲を意味します。

                                                               

鍵がかけられた「セキュリティステーション」。
調査のためにアメリカが身柄を引き取ってから後は、
ここに歩哨が立って船への出入りする人間をチェックしたそうです。 

艦長室だと思われます。
他の船に比べて圧倒的に広いスペースをもらえたようです。
なんと専用冷蔵庫まで部屋に備えてあります。 

この帽子はもしやと思って調べたらビンゴでした。
東ドイツ海軍の士官の帽子です。 

左はドイツ海軍、右が人民海軍のバナー(だと思う)。
真ん中の帆船の絵はおそらくこれが帆船時代の「コルベット艦」です。 

人民海軍の制服など、どこで手に入れてきたのか・・・。

その近くにシャワールームがありました。
おそらくですがこれは艦長専用だったのだと思います。 

もしかしたらドイツ発祥だということでわざわざウェラのボトルを置いてる?

キッチンも船の規模の割には広いものでした。

オーブンの上に鍋類、そして鍋つかみが。

冷蔵庫にはレードルがかけてあります。
調理員の制服とコック帽も。

さらにもう一段下の階に続いていました。

おそらくこの階には兵員の居住区があったはず。

狭いといっても潜水艦ほどのことはありません。
乗員は42名だったそうですが、ここにはせいぜい8人くらいしか寝られませんから 
おそらく下の階にも居室があったのに違いありません。 

ここも小さな船の兵員室にしては意外なくらいの広さです。
艦首にあたる部分の居室。 

再び甲板に出てきました。
艦首に立って後ろを見たところです。
主砲はAK176、76mm単装速射砲 (AK-176 76 mm gun) 。

現在もロシア海軍のミサイル艇や警備艦を中心に多くの艦艇に搭載されており、
アメリカが当時わざわざドイツから譲り受けて研究したかったのはこれかなと。


ソ連製とはいえ(なんていっちゃいけないか。ロケットあげてた国だし)
単装砲ながら
従来の連装砲以上の発射速度(最大毎分120発)を誇り、
オトー・メララ 76 mm 砲に匹敵する高い速射力と追尾能力をもち、
対空・対水上に使用できる高性能な両用砲です。

ちなみに英語のwikiのAK-176のページには「ヒデンゼー」の
この砲の写真が掲載されています。
配備されているのがことごとくロシア、中国といった共産圏なので
資料となる写真はこれくらいしか撮れなかったのかもしれません。

主砲の前、舳先の部分。
キャプスタンがあります。 

となりは潜水艦「ライオンフィッシュ」。
また後日お話ししますが、対日戦で投入されたので、
塔に日章旗と旭日旗がペイントされています。(ここ伏線) 

舳先から右舷を歩いて行くと、もう一つの兵装がありました。
P15テルミートです。

東西冷戦に入った頃、ソ連がアメリカに対抗するために作った
対艦ミサイルで、 固体燃料ロケットで射出した後、
液体燃料ロケットに点火してマッハ0.9の速さで飛行しました。

射程距離は80キロ。
「大和」型の戦艦の射程距離は42キロでしたがそのほぼ倍です。
しかも当時において目的を追尾するという機能を備えていました。

ゆえにアメリカ軍はソ連軍のミサイル艇を脅威とみなしていたのです。
つまりアメリカが研究したかったのはこっちだったということか・・。

ソ連は中国にこの強力な武器のライセンス生産を認めたため、
これによって世界の軍事的情勢が変わったとも言われています。 

で、そのテルミートの発射体がここにあるんですが、
なぜかこの尾翼に日の丸がついてるのよ。

ロシアで建造され、東ドイツで運用されて西ドイツに転籍し、
そのあとアメリカに移譲されて現在に至る。

日本まったく関係ないんですけど?



 


彼女の流転の生涯〜ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」

2017-01-06 | 軍艦

マサチューセッツはフォールウォーターにある世界最大の
戦艦展示を誇るバトルシップコーブ。
戦艦「マサチューセッツ」についてようやく全部をご紹介し終わったので、
その他の艦についてお話ししていくことにします。 

昔海軍の軍港であり「マサチューセッツ」がかつて母港であった
まさにその岸壁にに展示艦となって「マサチューセッツ」は永久展示されているのですが、
その周りにもいくつかの海軍艦が取り囲むように浮かんでいます。

さあ、それでは左奥に「マサチューセッツ」のそびえ立つ艦橋を見ながら、
潜水艦の甲板から繋げたラッタルを今から渡り、
「ヒデンゼー」に乗艦して行くことにいたしましょう。 

 

 

 

おっと、その前に。

ミサイルコルベット艦、というのはあまり耳に馴染みのない艦種です。


わたしなどコルベットと聞いても車しか思い浮かばなかったりするわけですが、
帆船時代には沿岸部のパトロールをする小型の三本マストの船をこう称していました。
「コルベット」という言葉も、もともとはフランス海軍の命名によるものなのです。

定義としては「フリゲート艦より一回り小さく、一層の砲甲板を持つ」とされ、
あの「咸臨丸」もコルベット艦にカテゴライズされます。

時代が下って第二次世界大戦以降になると、イギリス・カナダ・イタリアにおいて、
「機雷掃海や対潜水艦用の艦艇として開発された小型の艦」を
コルベットと称していました。

なかでもイギリス海軍の「フラワー」級(やっぱり英海軍の船って名前が変だ)
コルベット艦は、大西洋において30隻以上のUボートを撃沈しています。

変な名前といえば、ちょっとだけ寄り道ですが、ソ連海軍には

「ポチ型コルベット」(Poti class corvette)

なるかわいい名前のクラスが存在しました。

対潜用の武器は搭載していたものの、対空用が貧弱なため、
航空機に対してはほとんど防御力がないフネと言われていました。

それでもどういうわけか(大人の事情で?)66隻も生産されたそうです。

 

ただしソ連海軍の名誉のために言っておくと、「ポチ」はあくまでも
NATOのchord name、つまり敵側の認識のために付けられたもので、
ソ連での名称は

「204号計画型小型対潜艦」

だったそうです。
しかしソ連海軍も面白くない名前をつけるもんだね。

ここでふと興味を持って、ざっと現在のロシア艦艇の名前を見てみたところ、

941U型、タイフーン型(Typhoon)
ドミトリイ・ドンスコーイ(824 Dmitriy Donskoy、1981年)

あのごみ取り権助がいつの間にか復活しているのに気づきました。
こいつはめでたい権助どん。 

もう一つ寄り道ついでに、「ドンスコーイ」は「ドン川の」という意味で、
「ドン川で武功を立てたイワン1世の孫」( 1350年- 1389年)のことです。

閑話休題。



さて、ここに来られる皆さんのほとんどはすでにご存知でしょうが、
アメリカ海軍はその歴史上
コルベット艦を造ったことはありません。

なのになぜここにあるのかといいますと。

まずこの妙なシェイプの艦尾に書かれた艦名をご覧ください。

この字体を眺めていただくと、これがドイツの「亀の甲文字」であることが
わかる方にはお分かりいただけるかと思います。

この「亀の甲文字」をわたしがなぜ知ったかというと、
ヒットラーとナチスドイツについての本を読んだときに

「ドイツ人にとってヒットラーの功績は二つある。
一つはアウトバーンの建造、もうひとつは亀の甲文字の廃止だった」

という一文が強烈な印象を残したからでした。
亀の甲文字はドイツ語ではフラクトゥーアといい、1941年に
マルティン・ボルマンがユダヤ色排斥の一環として

「フラクトゥーアはユダヤの字体(ユーデンレッテン)である」

と言う理由で亀の甲を公文書から廃止するまで使われていました。

この艦名であるHIDDENSEEをそうと知るまでは何の疑いもなく
「ヒドゥンシー」と読んでいたわたしですが、これはドイツ読みせねばならず、
したがって「ヒデンゼー」と発音するのです。


亀の甲文字は、いまでは装飾用の字体として残っているだけですが、
センスと学のあるバトルシップコーブの学芸員?は、
「ヒデンゼー」の文字を彼女の出身地であるドイツにちなんだのでしょう。

実際には「ヒデンゼー」が竣工したのは1985年、しかも持ち主は東ドイツ。
つまりまったくボルマンの廃止令以前のドイツとは関係ないんですけどね。(爆)


さて、とりあえず後甲板に立ってみましょうか。
多分対空用の銃だったんだろうなー、と想像されるような
「何か」がその痕跡だけを残してあります。

 

ここにあったとされるのは、


 9К32 «Стрела-2»

正式な読み方は

ヂェーヴャチ・カー・トリーッツァヂ・ドヴァー(ストリラー・ドヴァー)

って全然ドイツ語じゃねーし。
なんとこの通称ストレラという歩兵用のミサイル(MANPADS)、
ソ連で開発されたものだったりします。

なぜか。

それはこの船がロシア製だったからでした(再爆)

東ドイツ人民海軍は、

1241RÄ型対艦ミサイルコルベット(Flugkörperkorvetten der Projekt 1241 RÄ)

(えー、一応「ラー」型でいいんですかね?)
この2番艦を ロシア共和国ルィービンスクのヴィーンペル設計局に発注し、
そこで造られたので、このようなことになっているわけです。

しかし、ロシア人も気が利かないっていうのか、顧客がドイツ人なのに
まったく言語をわかりやすくしようとする気配りがないというね。
人民海軍の皆さんも運用にあたってはさぞ苦労されたと思われます。 

当初この船は東ドイツの英雄であった人物の名をとって、

「ルードルフ・エーゲルホーファー(Rudolf Egelhofer)」

という名前で運用されていました。
しかし、彼女が就役してわずか5年後、ベルリンの壁は崩壊し(再々爆)、
東西ドイツは統一されてしまいます。

このとき、東西ドイツ軍の装備がどうなったか興味は尽きませんが、
とにかくルードルフ(略)の同型艦はすべて除籍扱いになり、
ルードルフ(略)だけが除籍を免れて、統一したドイツ軍に籍を移しました。

しかしさすがに共産党の英雄の名前をそのまま使うわけにいかないので、
彼女は名前を「ヒデンゼー」に改称させられました。
ヒデンゼーとはバルト海に浮かぶ面積わずか19キロ平方メートル
小さな小さな島の名前です。

ついでに「ラー」型もその際「ミサイルコルベット艦」と艦種変更しました。
 

艦橋というものはなく、構造物の上には
実に妙な形の機関砲が見て取れます。 

ここには外付けの階段を上っていくことができます。

 

 

おそらくアメリカではここでしか見ることのできない
ソ連の艦載機関砲システムAK-630

砲口を見ていただければ分かりますが、 30mm口径
6砲身のガトリング砲を使用した全自動システムです。

CIWSシステムとしてはもっとも初期に開発されたものだとか。

こんな隣接したところに2基並んでいるというのも
奇異な感じがしますが、とりあえずは旋回角360度、
仰角は-12度〜+88度を確保してはいたようです。

独島クラスに積んだ韓国海軍のゴールキーパーは、
艦尾に積んだヘリコプターを撃つ設計仕様になっているそうですが、 
こちらは腐ってもロシア人の設計なのでそれはありえません。 

ちなみに独島はこれを直すお金がないので、とりあえず
ヘリコプターをゴールキーパーのすぐ下に置いて対策しているそうです。
艦尾にヘリを置けないヘリ搭載艦って一体。

ていうか、ブラックホーク、錆止めをしてなくて載せられないんじゃなかったのか。 

後ろの方にあるクレーンを中心に撮ってみました。
いうまでもありませんが、これはまったく「ヒデンゼー」とは関係ありません。 

この赤い二つの丸、説明がなかったのですが、
もしかしたらAK-60のレーダーかなと思ったり。

一応せっかくなので頂上を征服してみました。
艦尾にアメリカの旗をちゃっかり掲げていますが、彼女が米海軍籍だったことはありません。

「ヒデンゼー」が除籍を逃れたのは、西ドイツが調査をするためでした。
ドイツ海軍では名前まで変えておいて、運用するつもりはさらさらなかったようです。
しかも、西ドイツ海軍に籍があったのはたった半年。


半年ですべてを調査し終わったのかどうかわかりませんが、彼女は
その後ドイツ軍を除籍となり、今度はアメリカに移譲されました。
これもアメリカが敵であるソ連の武器を調査するためだったのです。

 

というわけで、彼女は1991年にドイツからここにやってきました。
その流転の果て、ここで静かに余生を送っているのです。


さて、それでは艦内に降りて行ってみましょう。
居住区も司令室も、甲板より下の階にあります。 
まるで梯子のようにほぼ垂直の階段を下りていきます。

 

続く。




枕でアレルギー騒ぎ〜直島・ベネッセハウス

2017-01-05 | お出かけ

戸内海に浮かぶアートの島、直島旅行記、三日目です。

夜になりました。
「オーバル」に居ることそのものが楽しくて、わたしたちは
暗くなってからも写真を撮りまくりました。 

 

夜のオーバルは、そのプールの部分が黒々とした黒曜石のようです。
照明が水に映る様子もまた面白きかな。 

 

夕食はミュージアム棟のレストランで和食をいただきました。
こんなところを歩いてご飯を食べに行きます。 

こちら、この日のお夕食で最も印象的であった一皿、
オコゼのお造り、顔面添えでございます。

あまりにも魚身が薄すぎて見にくいですが、タイより歯ごたえがあり、
味の濃い実に美味しいお刺身でした。

しかしオコゼの顔をわざわざ飾ってあるのは、外国人客にとっては
なかなかチャレンジングというか、通過儀礼的な一品というか。

彼ら、魚の目がマジで怖いらしいですね。 

ここは文字どおりミュージアムなので普通に作品がゴロゴロしていて、
大抵それらは写真禁止ですが、これだけは禁止されてなかったので撮りました。

床に廃材の木切れを円形に置いただけのアイデア作品。
(その心は手間いらず、 材料費いらず、どこでも設置、いつでも撤去可)

 

次の日には地中美術館という、崖部分の土を掘って、本来地中だったところに
作られた美術館にも行きましたが、全作品もちろん撮影禁止。

地中美術館 

サイト先にあるウォルター・デ・マリアの作品は、教会のような空間の
階段の途中に直径2・2mの巨大な球が 置いてあって、外光を映すというもの。
鑑賞者はそこに足を踏み入れ、自由に歩き回ることができます。

現代美術といってもここの作品は理屈抜きで「くる」ものが多く、
やはりアーティストの創造を満たすだけの空間がふんだんにあるからこそ
説得力のあるものが生まれてくるんだろうなと思います。


ところで、こういうところに来ると写真を撮らないと損したように思うのか、
多くの中国人観光客は人(係員)の見ていない隙に携帯で写真を撮っていました。
いくらiPhoneのカメラが良くても、盗み撮りした画像なんかどうするんだろう、
と呆れながら横目でそれを見ていました。

地中美術館は手前に駐車場とチケット売り場の建物があり、
200mくらいの道を歩いて入館することになっていますが、
小川の道沿いには色とりどりの花が植えられていました。

「こんなところも写真に撮ることができないのかしら」

入り口で写真禁止を言い渡されていたので、歩きながら話していると、
近くを歩いていたおじさんが、

「この花は撮っていいんですよ。どうぞ撮ってください」

と声をかけてきました。
どうもこの花を手入れして居る方だったようです。

昔ガーデニングにはまった経験があるので、自分が手塩にかけた花を
写真に撮ってもらうのは嬉しいものだというのはよく分かります。

花咲く小川沿いの道の向かいには小さなお地蔵様がいました。
第三十八番金剛福寺とあります。

四国八十八箇所霊場の第三十八番札所である立派なお寺ですが、
ここにおられるのは「出張お地蔵様」なのかもしれません。

ホテル内で発見。

コンクリートの隙間から草が芽を出しています。
てっきり手が届かなくて掃除をしていないせいだと思ったのですが、
驚いたことに、これもまたアート的装飾だったのでした。 

夜、オーバル棟に帰るためにボタンを押して呼ぶと、
モノレールが真っ暗な山道を降りてくる様子も見ものです。 

部屋に戻る前に屋上の庭園に上がってみました。

明けて翌日、天候は雨でした。
オーバルに灰色の空から雨が降り注ぎ、中央のプールに
雨だれの作る輪ができる様子を見られたのはむしろラッキーでした。 

オーバルの客のためだけに(この日は3部屋に合計7人半が宿泊)
小さなラウンジがあって、コンチネンタルブレックファーストが取れます。

部屋に食べ物を持ち帰るのはご遠慮ください、ということでしたが、
隣の部屋の白人の男性は寝て居るらしい連れのために堂々と?
食べ物を持って帰っていました。

ラウンジには係の女性がいましたが、見て見ぬ振りを・・。

雨は朝のうちだけで、空が晴れてきました。
チェックアウトを1時間延ばしてもらい、最後まで部屋を堪能します。
 

いよいよオーバルともお別れです。
最後に乗るモノレールがやってきました。 

その夜はそのミュージアム棟に宿泊です。

一応コーナースイートだったりするのですが、
あのオーバルの後では全く平凡な部屋に思えてしまい、
そのことがちょっと残念でした。

部屋から見える向かいの崖の下に、廃屋がありました。
ホテルの人が

昔人が住んでいたようですが、今は無人です」

といっていたのを聞いて、部屋から望遠レンズで撮ってみたのがこれ。 

もやいをつなぐ杭のようなものが見えるので、ヨットかボートか、
自分の船をつないで、ここから出勤でもしていたのでしょうか。

ろくな道もなさそうなここにどうやって家を建てたのかとか、
ライフラインの水やガス、電気にトイレはどうしていたんだろうとか、
誰も近寄ることができないらしい場所で朽ち果てているこの家で
どんな人がどんな暮らしをしたんだろう、などとしみじみ考えてしまいました。

 

この写真では何も運命を知らずに呑気そうにして居る息子ですが、
この部屋に泊まった最終日、夜中にアレルギーの発作を起こしました。

枕に彼がアレルギーを持つそばがらが入っていたのかと思い
次の日確かめて見たのですが、そばではなく、肌触りのために
羽毛の
羽の根元の部分を表面に入れた枕だったそうです。

息子は台湾のホテルでそば粉入りのガレットを食べてしまい、
(ホテルの人がそば粉を使って居ると知らなかったらしい)
その時には全身に湿疹が出てえらい目にあったことがあります。

遡れば、新宿のレピシエ本店だったところで試食のクッキーを食べたら
どうやらそば粉が入っていたらしく、目が土偶のようになったのが
彼の人生初のアレルギー受難でした。 

その後の検査で、そば以外に動物のアレルギーもあることも知っていましたが、
まさか鳥の羽で人生3度目の発作が起きるとは夢にも思っていませんでした。

気道が腫れて咳き込み、二重まぶたの線が腫れでなくなって
別人のような人相になってしまうという大惨事だったのですが、
実はわたしはその夜、熟睡していてその騒ぎに気づきませんでした。

次の朝起きたら、息子がソファーに枕無しで寝ていたので、

「なんでソファーで寝てるの」

「MK、昨日の晩大変だったんだよ」

息子をお風呂に入れ、顔を拭いて水を飲ませ、
ソファにシーツを敷いてやったのは全て父親でした。

わたしは夢の中で誰か咳をしているなあとは思っていたのですが、
彼らは寝ているわたしを起こしても

「別に何もしてもらうことはないから」

ということで放置されていたのでした。
こんな母親ですまん息子。そしてありがとうTO。 

ホテルからフェリー乗り場までは、昨日きた方向とは反対に
ほんの数分くらい走ったところにありました。 

フェリー乗り場にも草間彌生のカボチャがいます。

ここから岡山までは通勤通学、買い物でフェリーが島民の足です。
もしかしたら島民はフェリー料金は無料なのかもしれません。

降りてくる人々を見ると、都会の通勤電車に乗って居る人たちと
何も変わらない服装雰囲気ですし、島から乗り込む人たちは
自転車に後ろカゴをつけたおばちゃんとか、学生服の子とか。
フェリーはここではバスや移動する橋みたいなものなのでしょう。

昔リゾート地だったもののその後低迷していた直島が
アートの街として再出発したのは1980年代後半のことです。

当時の町長と、福武書店の創業者との間でコンセプトが生まれ、以降
「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための
直島文化村構想の一環として「ベネッセハウス」などが建設されました。

当初はいきなり現れた現代アートに島民も引き気味だったそうですが、
その後の島全体を「壊さず生かす」という基本理念の上に行われた改革によって、
徐々に理解が得られるようになってきたそうです。 

人口3000人の島にある飲食業や観光業、美術館などの職場に
本土から多くの人が毎日通勤してきたり、あるいは
この島での活動のために都会から若い人が移住してきたり。

特異なアイデアだったかもしれませんが、町おこしとしては
もっとも成功した例がこの直島なのかもしれません。 

 

ベネッセハウス、近代アートに興味のない皆様にも是非オススメです。

 

 

 


靖国神社に初詣

2017-01-04 | つれづれなるままに

三が日も終了しましたが、みなさま、どんなお正月でしたでしょうか。

我が家は元旦を親子別々に迎えたので、二日は家族で過ごすことにして、
まずはお正月らしく歌舞伎を観に行きました。 

新春公演の初日で、お目当の演目は「大津絵道成寺」。

TOの知人がこの日三味線で出演していたことがきっかけですが、
息子が学校の歴史のクラスで歌舞伎についてのペーパーを書いたばかりなので、
やはり実際にどんなものか見せてやろうと思ったのでした。

今公演の第二演目は、市川愛之助が、息子が論文中扱った「早変わり」
(一人の役者が同一場面で素早く姿を変え,二役以上を演ずること)
を一人五役行うというのが目玉だったのです。 

歌舞伎座が新しくなって来るのは初めてです。

夜公演には吉右衛門、玉三郎、幸四郎が出るようです。

第1演目は、市川染五郎の主演で、なんと大政奉還150周年作品、

「将軍江戸を去る」

最後の将軍慶喜が明日は江戸を去るという日、幕臣の主戦論者にけしかけられて
出発延期を願い出たところ、山岡鉄太郎や高橋伊勢守に

「そんなことをすれば江戸で戦が起こり、罪もない人々が血を流す」

と言われて反省し、水戸へと出港していくまでを描いたもの。

偶然、息子はこれも歴史の宿題で戊辰戦争のテーマを選択したばかり。
聞き取りにくい歌舞伎口調のセリフながら、後で聞いたら

「まあまあ(理解できた)」

といっておりました。
 

おなじみ歌舞伎色の緞帳。

歌舞伎鑑賞というのは、昔は飲み食いしながら行ったといい、
その慣習を未だに引き継いでいることもあって、幕間には
みなさんお弁当やお菓子を席で食べます。(テーブル付きの席もあり) 

その感覚のせいか、上演中、おばちゃんがいきなりカバンの整理を始めたり、
よりによってプラスチックの飴の袋を取り出して破って舐め出したり・・。
クラシックのコンサート会場しか知らないものには
軽くカルチャーショックです。 

幕間には緞帳の紹介も行われます。
スポンサー名が左、製作者名が右に入り、必ずどちらも読み上げられます。

こちら清水建設。 

こちらリキシル。製作は川島織物です。

早変わりを見るのが目的だったので、三つ目の演目はパスして、
お昼ご飯を食べにマンダリンオリエンタルに行きました。

この日の東京は晴れ渡り、三月並みの気温でした。 

マンダリンオリエンタルの「センス」で小さなコースを注文。 

TOのコースにはアワビ付き。 

「センス」の席からは東京の街が鳥の視点で見下ろせます。

ふと気づけば、鳥居があり参拝の列ができていました。
ここには福徳神社というのがあります。

オフィスビルの合間に神社が普通に存在する、これが日本です。

今日の主目的である靖国神社に到着。
わたしは無精?して本殿の近くまでタクシーで行こうとしたら、
TOが

「いや、こういう時には鳥居をくぐって歩いていくべきである」

ときっぱり言い切ったので、ここから歩いていくことにしました。
驚いたことに、参道に出店の類が全くありません。

考えられる理由としては、例の韓国人の爆破事件(ゴミ曰く爆破音事件)?
そういえば、参道いたるところに警官と私服の刑事が立っていて、
今年はかなり警戒態勢を厳しくしているなあと感じました。


息子は大晦日と元旦に友達と友達一家(アメリカ人)と連れ立って
鶴岡八幡宮に参り、

「ヤクザのやってる店(笑)で焼きそば食べた。すげー楽しかった」

と喜んでいたものです。
あの雑駁でいかがわしいとはいえ、日本人の郷愁を誘わずにはいられない
正月屋台の雰囲気が今後靖国でみられないのは残念という他ありません。
 

その代わり?参道には靖国神社の歴史を語る古い写真が
パネルのような壁に印刷?されて展示されていました。

これはタクシーを降りて撮った上の写真と全く同じ場所ですね。
季節は夏、袷を着た母親がカンカン帽を被った女の子と歩いています。 

こちらは昭和18年に行われた臨時大祭への御巡幸の車列が通り過ぎるようす。
向こう側の一般平民は地面に土下座?してまるで大名行列です。
こちら側の人々は立っているようです。
軍人は全て起立して敬礼をしています。

昔は参道からまっすぐ車が外に出る道があったんですね。 

時は下って昭和36年。
88台のトラックの安全祈願を行うなどということもできました。
トラックが全部本殿に向かって綺麗に頭を向けて停められています。
 

そして現在の靖国神社。
わざわざ付け火して、靖国神社を国際問題にしてしまった 
朝日新聞は、先日の防衛大臣の参拝を真剣に非難していましたね。

その朝日、正月早々反日全開。

「試される民主主義ー我々はどこから来てどこに向かうのか」

(勝手に絵まで掲載して・・・ゴーギャンに謝れ!)
という記事で要は安倍首相を選挙で選ばれた独裁者だと決めつけております。
彼らのいう民主主義って、自分たちの気にいる結論ではない場合、
それは「数の暴力」であり「民主主義の否定」だっていう不思議論理。

こんな独善的な考え、たとえネット時代でなくても受け入れられんと思うよ? 

 

それはともかく、靖国神社には新年の祈願を行う良民があふれていました。
この日最後の昇殿参拝を行い、祝詞では全員の名前が読み上げられましたが、
人数を数えていた近くにいた人が言うには(笑)226人だったそうです。
わたしたちのように家族で一人しか呼ばれない場合もあるはずなので、 
実際に本殿に上がったのは300人を超していたと思います。 

今回は欧米系の名前はありませんでしたが、朝鮮系の方が一人おられました。

終わって外に出ると、すっかり外は夜。
三日月の横に激しく明るい一等星が一つ光っていました。 

おみくじを引いて、お振る舞いの甘酒をいただきます。
全員に丁寧に「あけましておめでとうございます」と言いながら
甘酒を渡しておられました。 

遊就館前の特攻隊員の像の前には国旗とお供えがされていました。

例年靖国神社ともう一つ都内の神社に参るのですが、
今年は虎ノ門の金比羅宮に行きました。

港区のビル街にある金比羅宮、なんと1660年の創建です。

手前には琴平タワーという高層オフィスビルが建ち、ビルが参道の屋根になっています。
社務所や神楽殿はビルと一体化しているという融合具合。

主祭神は崇徳天皇、2001年には東京都の選定歴史的構造物に指定されました。

お参りを済ませ、歩いて虎ノ門ヒルズまでお茶を飲みに行きました。

虎ノ門はオリンピックに向けて新駅の建設中でもあります。
この白いドラえもんは「トラのもん」といい、虎ノ門のキャラクターです。 

虎ノ門ヒルズでの好きな場所、アンダーズで軽い夜食をいただきました。
大変お上手なアメリカ人男性のピアニストが

「Everytime we say goodby I die a little」(別れをいうたびにわたしは少し死ぬ)

などをセンスよく演奏していました。 

ところで、元日におせちをいただいたホテルで出された「辻占い」。
この砂糖菓子の中には小さく丸めた占いの紙が入っています。

フォーチュンクッキーみたいなものですね。 

3つづつ取るように言われたので、二人で6個取り、その結果を
苦心して並べてみました。

「ただなんとなく」が、全てを台無しにしている気がします。
「それにつけても金の欲しさよ」みたいな?

 「有は無より生じ、静は熱に勝つ」 

これをせっかくなので”今年の言葉”に採用しようと思います。



「オーバル」に宿泊〜瀬戸内海・直島

2017-01-03 | お出かけ

今回の旅行のハイライトは二日目に安藤忠雄氏設計の
「ベネッセハウス」内でも最も有名な「オーバル」に泊まることでした。

わたしは全く計画に関わっていないので後から聞いたのですが、
どうして3泊4日の旅行の中日に一番いい部屋にしたかというと、
最終日の朝、仕事の関係で午前中には東京に帰らないといけなかったからです。

まずは昨日泊まった「パーク」から引っ越しです。
とはいえ、荷物は部屋に置いておけば次の部屋に入れて置いてもらえます。

この棟は「ミュージアム」と言い、本当にここには美術館があります。
最終日にはここに泊まることになっています。

フロントからはこんな吹き抜けの回廊付き広場が見渡せます。
中央にあるものもアートで、電光掲示板にいろんな言葉が現れるというもの。

下のスペースに降りて作品を間近で見ることも可能です。

オーバルと言われるゾーンに行くには、特設モノレールに乗ります。
ミュージアム棟からルームキーを入れると、モノレール乗り場に入ることができ、
そこで可愛らしいモノレールを呼んでやってくるのを待ちます。

モノレールのドアは自分で開け閉めします。
トーンを落としたセージ色にペイントされています。

モノレールが斜面をちんたらと(本当に遅い)登って行くと、
眼下には島の端の小さな半島が見えてきます。

上の駅に到着。
走行時間は約5分といったところでしょうか。
モノレール脇には山道があって、ホテルの人はそこを上り下りしていました。

「ふおおおお」

「はええええ」

エレベーターから降りるなり声にならない声を上げるわたくしども。
文字通りオーバルに切り込まれた空間の中央には水が湛えられ、
その周りのスカイブルーの壁とひっそり同化して、各部屋のドアがありました。 

ベネッセハウスのシンボルのようになっているオーバルですが、
ここにはたった6部屋しかありません。

今回泊まる部屋は、大きなテラスのついた2部屋のうちの一つ。
壁にある三重丸もアート作品ですが、これを見ることができるのは
この部屋に泊まった人だけです。

部屋には支配人からプレゼントされたシャンパンのボトル有り。

絶景をテラスから見ながらシャンパンを開けてください、
というホテル側からのお心遣いなのですが、
残念なことに誰もお酒が飲めないわたしたちには猫に小判。

ちなみにこれは持って帰ってきて未だにうちにあります。

設計者の意図を反映してドアはなく、テラスに出るためには、
壁のボタンを押すとウィーンとガラスそのものが下がっていき、
そのままその部分が全開きになる仕組み。

全部ガラスを開けないと外に出られないというのもびっくりです。

「すご〜い」「おもしろ〜い」

モノレールからはしゃぎまくっていたわたしたち、ボタンを押しつつ
「サンダーバードのテーマ」を歌ったりしてもう絶好調です。

ベッドに寝ていても海が見えるように、周りの木は低く刈り込まれています。

テラスに出てみる。
テラスの外には柵はなく、断崖のように見えますが、
万が一テラスから落ちても下に転がることはないようになっています。

隣の小さな島は「柏島」と言って、ここも直島町です。

直島町の面積は14.22㎢、人口はわずか3126名(2016年10月現在)。
こんな小さな島が、世界中のツーリストの知るところとなっています。 

ここには人が立ち入ることはできません(物理的に)。
「オカメノハナ」という岬です。

部屋から海岸線を見ていて、こんなテント村を発見しました。
モンゴルのテント「パオ」とか「ゲル」みたいですが、ここも
素泊まり3000円台で泊まることができる施設なんだとか。

もちろんお風呂なんてないしテントだから冬はやってないと思います。

ここから眺めると至る所にアート作品。
これもおそらく井戸と洗面器ではなく、アート。 

「オーバル」の、テラス付きスイート宿泊者だけの特権。
テラスから前庭に降りて前を歩き回ることができます。 

宿泊者の特権?「オーバル」を上から見てみることにしました。

一旦外に出て、オーバル沿いの階段を上っていきます。
オカメヅタが茂って階段を半分隠してしまっています。

ここ屋上庭園もオーバルの宿泊者だけが立ち入りを許された場所。

縦に入ったスリット状のものが、各部屋のドアです。
わたしたちの部屋のドアは右から三番目。

6部屋の宿泊客のために朝食用のラウンジがあります。
ルームサービスがないので、さすがに朝ごはんは
簡単にここで食べられるようにしてあるのです。

そのほかにも、部屋には夜食のおにぎりが差し入れられました。

オーバルの周りにはこのように滝が注ぎ込み・・・、

 

建物の下を流れていくという設計になっています。

下界に降りるときには」、上からボタンを押して呼ぶと、
5分かけてゆっくりとモノレールが上ってきます。

6部屋の宿泊客のためだけにモノレールまで作ってしまうという・・・。

下のミュージアム塔に、「オーバル」建築中の写真がありました。
右から2枚目の写真は、わたしたちが泊まっている部屋のテラスです。

これが安藤忠雄による「オーバル」建築模型。

オーバルの中央の水溜りは、その日の天気によって様々な形を映し出します。

 

写真を撮ったり探検したりして部屋を楽しんでいたら、日が暮れてきました。

息子は「定点定時撮影」ができるカメラで日没の動画を撮っています。

 

空の色の移り変わりを見ているだけでこんなに楽しい場所があるとは。

二日目に初めて気がついたのですが、ここの部屋にはテレビはありません。
テレビや映画など見ず窓の外を見てください、というところでしょう。

夕日に光る海に見える瀬戸大橋のシルエット、その手前の大槌島は
地図で見てもまん丸い島で、まるで甘食みたい。  

直島での二日目の太陽が、今山の端に沈んでいきます。

 

        

 


瀬戸内に浮かぶアートの島、直島

2017-01-02 | お出かけ

 

さて、年明け早々の話題に、年末の旅行記をお届けします。

今回の旅行はわたしは全く計画に参与することなく、
TOとMKがごにょごにょと相談し、いつの間にか決まっていました。
MKは基本旅行が嫌いなのですが、今回は乗り気。
それというのも旅行のテーマが

「瀬戸内に浮かぶ島の現代建築作品でもあるホテルに泊まる」

というもので、建築に興味のある彼のツボだったからです。

まず、羽田から飛行機で向かったのは岡山空港。
はて、つい最近もこの空港に降り立ったような気が・・・。

空港で車を借りて、家内で唯一の免許保持者であるわたしが
ドライブして島まで行くことになっておりました。

空港から、これも先日進水式で行ったばかりの玉野の宇野港に向かう途中、
両備交通の路線バスが走っているのに気づきました。

 

これもネタで取り上げたばかりですが、貴志駅の初代猫駅長、
故たまを大々的にキャラクターにしているのが両備グループ。

なぜ和歌山の駅の駅長猫を岡山の会社が?というと、
もともと経営難だった貴志線を、南海電鉄から経営を引き継いだのが
両備グループであり、岡山電気軌道の子会社である「和歌山電鐵」だったからです。

この路線バスは「スーパー駅長たま」「たまバス」
とペイントされております。

わたしは運転していたので、家族に頼んで写真を撮ってもらいました。

あのー、バスに耳とヒゲがついてるんですけど・・・。

両備グループではこのほかにも関連車両として「たま電車」、
車体を三毛にペイントした「TAMA-VAN」なども走らせています。

自分が計画したわけではないので、時間のことなど何も気にせず、
ちんたら運転していたらフェリー乗り場に到着しました。
船着き場にちょうどフェリーがいて、係の人が

「乗りますか?」

と声をかけてきました。
予定より一本早い便の出航にギリギリ間に合ったようです。

 

宇野港から直島までフェリーでわずか15分。
通勤や仕事らしい車の人は乗ったままでした。

直島に行く観光客は意外なくらい多く、中国人観光客もたくさんいました。


 
あとで地図を確認したら名前のついていない無人島でした。
地元の人は「亀島」などと呼んでいるに違いありません。 

 

熊本船籍の貨物船、新益栄という船です。

こちらはパナマ船籍の TTM HARMONY。 
バルクキャリアー、ばら積み船だそうです。

ここはもう直島の先端の「獅子渡ノ鼻」。
航空写真を見ると、手前が土壌の整備中のようなので、
ここに必要な土か何かを運んできたのかもしれません。 

このあと船はすぐ直島に到着しました。

お昼を食べるところも、TOが前もって決めていました。

島にはコインパーキングなどというものはなさそうですが、
邪魔にならなければどこに停めてもおk、という感じ。
駐車場所を探して少し走ると、巨大なオブジェが出現しました。

頭から煙が出ていてドアがあるので中は飲食店のようです。 

「何このぶどう」

「島全体がアートなんですよ」

あまりに何の予備知識もなくやってきたわたし、ここで初めて

「島全体をアートにしてそれで町おこしをしている」

らしいことに気づいたのです。

道の脇にはかつての防空壕らしき痕跡が。

その「アート」とはこの島のありのままの姿でもあり、
従って古くからの建物も取り壊したりせず残しています。

巨大なオブジェがあるかと思ったら、焼杉の壁に
塩小売所の鉄看板が昔のままに残されていたり。

TOが選んだお昼ご飯のお店も、古い民家そのものです。
手前にあるのは使われていない(多分)井戸。

圧力鍋で炊いたらしい弾力のある噛み応えの玄米と甘い味噌汁、
豆腐に付け合わせと、実に滋味深いお昼ご飯です。

食後にミルクティーを頼んだら、牛乳はないと言われました。
ヴィーガン(アニマルフード禁止)のお店だったのです。

わたしは昔マクロビオティックもやってみたことがありますが、
色々実践している人を見てきた結果必ずしも完璧がいいわけではない
という考えに至ったので、今は菜食寄りの普通食をしています。

紅茶にはミルクを入れるし卵も魚も、外では牛豚も食べます。 

昼ごはんがすんで、いよいよホテルにチェックイン。
ゲートではバックミラーにI.D.タグをつけてもらいます。

本日の宿泊所である「ベネッセハウス」は、
無人だった島の海岸線の広範囲そのものがゲートで囲まれたホテル敷地で、
また全体が美術館でもあるのです。

内部の地図をもらって車を走らせて行くと、
ものすごく見覚えのあるデザインのカボチャが突堤に見えてきました。

当ブログで MOMA、ニューヨーク近代美術館を扱ったとき、
その数奇な半生についてお話ししたこともある草間彌生の作品で、
ベネッセハウスのシンボル的存在でもあります。

皆がこの前に立って写真を撮るので、繁忙期には

「カボチャの前に長蛇の列ができることもある」

ということでした。

ベネッセハウスはいくつかのゾーンに分かれていますが、
ここが初日の宿泊施設のある「パーク」棟です。

わたしは全くその存在をこの日まで知らなかったベネッセハウスですが、
もうオープンして26年になるのだそうです。

ロビー前のエントランスもまるで美術館のよう。

宿泊客に欧米系の外国人客が多いのには驚きました。
彼らが喋っている言葉も英語、ロシア語、ドイツ語・・・・。
実に世界中から観光客が訪れているようです。

著名な世界の旅行雑誌の「次に見るべき世界の七か所」特集で取り上げられ、
それ以降世界各地の新聞や雑誌で紹介されており、
海外での注目度も高い施設であることがよくわかりました。

この打ち込みコンクリートの丸い「打ち跡」ですら、
ここではアートの一環なんだそうです。
熟練の職人が手がけた打ち跡なのでここまで整然と同じ大きさなのだとか。 

初日の部屋は、「パーク」棟のコーナースイートです。

ベランダで朝食をいただきたいところですが、このホテル、
ルームサービスがありません。 

パーク棟には、10部屋がこのように並んでいます。
TOがいうには、本当は三泊のうち一日は「ビーチ棟」という
海沿いの部屋を取りたかったのだけど、空いていなかったそうです。 

ベッドボードの後ろはウォークインクローゼットでした。
うちのクローゼットより大きいかも。

不自然なくらい?大きなお風呂は明かり取りの窓が切ってあります。
ガラス戸のこちら側は洗面所です。

 

この宿泊棟にはいたるところに現代アートが展示されていて
「美術館に宿泊」できるというのが謳い文句です。

部屋に向かう廊下はまるで美術館の回廊。

廊下の窓ガラスの外にも作品。

これらは宿泊客しか鑑賞できません。

部屋からは別の角度からこの作品が見えます。

客室の前には海が広がっています。
自転車が走り回っていますが、中で借りることができるようです。

敷地のそこここにも作品。

夕食の時間まで、部屋から海を眺めたりしてのんびり過ごしました。
八幡丸という漁船らしき船が往き過ぎます。

クレーンを積んだ船と貨物船。
瀬戸内は波がなく、海面は穏やかです。
船の往来は多く、ここが「幹線航路」なのでしょう。 

レストランは「テラス」という別棟にありますが、そこには
このような
それ自身が芸術作品である渡り廊下を通って行きます。

 

この日のディナーの内容までTOが選んでくれていました。

アミューズとして出てきたのは小さな小さなチーズクロワッサンとパン。

小さきことは可愛いこと哉。

コースの魚はタイ。盛り付けがすでにアートです。
ソースは確かケールだったかな。 

メインディッシュは煮込んだビーフの頬肉。
手前の黄色いのはポレンタです。
日本でポレンタはあまり見ませんが、すりつぶしたコーンで、
これをこのようにまとめて揚げたりして食します。

青梗菜は、わざわざ細いものを選んでいたのですが、
なぜか葉っぱの部分を固結びしてあって、しかもこれが
ナイフで切れず、食べるのに大変苦労しました。

アートを優先して食べやすさが犠牲になった例。

翌日の朝ごはんも同じレストランでいただきました。

レストランの前には砂浜が広がっているのですが、海岸線まで
一色に見えるように、デッキが全て灰色に塗装されていました。

「瀬戸内のエーゲ海」と称してギリシャ風の柱を立て白いヨットを浮かべた
バブル時代のホテルが岡山のどこやらにあったと記憶しますが、
どう頑張ってみてもエーゲ海とは全く違う瀬戸内海のくすんだ海の色が
その光景を一層寒々しいものにしていたことを思い出すと、
この海の色を熟知した色選びのセンスは大したものだと感心しました。

「どこそこのエーゲ海」「どこそこの銀座」「どこそこのハワイ」

こういう二番煎じ根性ではなく、そこが「どこそこ」であることを認め、
それから出発しないことには、そこは永遠に「本物」にはなりえません。 

世界中から観光客がこの小さな島を目指してやってくるのは、
ここが「瀬戸内のMOMA」(仮称)だからではなく「NAOSHIMA」だからなのです。

朝の光が作る窓枠の影も作品です。

パーク棟には無料のラウンジがあり、グランドピアノが置いてありました。
アメリカのホテルではよく廊下の隅にピアノが置いてあって、
練習したりしたものですが、日本で鍵をかけずに置いてあるのはまれです。 

わたしはここを通るたびに中を覗き込んで、人がいない時だけ
思う存分ピアノの練習をさせてもらいました。

左手を動かすための練習曲としてショパンのエチュード「革命」、
右を動かすために同じく「幻想即興曲」を弾きながら、
この海の色には合わないなあと感じたので、最後はジャズで締めて。 

わたしにとっては何よりの娯楽となりました。

 

さあ、明日はいよいよ本命の部屋に移動です。

 

 

 

 


横須賀のカウントダウン 2017年

2017-01-01 | お出かけ

みなさま、明けましておめでとうございます。

2010年4月20日から始まった「ネイ恋」も、気づけば今年で
7年目に突入しようとしております。
海軍に興味を持つとほぼ同時に、何もわからないままブログを始めた、
ということは、わたしの「海軍歴」はほぼ7年。
少し遅れて海自に興味を持ち出し、海自歴はほぼ6年というところです。

日記のようにほぼ毎日エントリを重ねてきて、その間、ブログを通じて
様々な人に出会い、様々な土地を訪ねて見たものや感じたことを
心の赴くままに語ってきましたが、「ネイ恋以前」と「ネイ恋以降」では
明らかにわたし自身のものの見方、考え方は変わってきたと思います。

もし「ネイ恋」なしで7年歳をとっていたとしたら・・・?

そのわたしがどんな人間だったのかは確かめる術もありませんが、
もし両者を比べることができたとしたなら、

今の自分の方が少しは人間的にマシで、かつ満たされていることでしょう。

そうであれば、それはブログ上で知り合い、様々なご意見を頂き、
刺激を受け、時にはチャンスをくださった皆さま方のおかげに他なりません。

今年も真摯に精進してまいりますので、どうぞよろしく願い申し上げます。

 

さて、今横須賀メルキュールホテルの16階でこれを作成しています。
先ほどここでのカウントダウンによって無事に年越しを迎えました。

2日前、偶然車を運転していてふりかけさんことミカさんを目撃、
すぐに車を止めて久しぶりに(掃海隊慰霊式以来)話をしたところ、
横須賀のカウントダウンにお誘いいただいたのです。

せっかくなので家族で行こうと思い、TOパワーで前日にホテルを取りました。
が、息子が急遽鎌倉の友達のうちに泊まりに行くことになり、
ディナー付きの部屋をミカさんに供出し、一緒に年越しをすることに。

縁は異なものと言いますが、3日前までは思いもよらなかった展開です。

まずはメルキュールホテルの年越しディナーから始まりました。
最初に出てきたハマグリの上に泡が乗ったアミューズ。

マグロが乗っているのは餃子の皮ではなく、カリフラワーのペースト。
緑色のドットは職人芸の細かさですが、ブロッコリーペーストで描いたもの。

コースの中で一番美味しいと思ったカモのフォアグラ。
フォアグラは苦手な方ですが、絶妙の焼き加減と、
緑野菜をメレンゲにして粉砕した粉とのマッチングが最高な一品でした。

部屋では何年振りかに紅白を見ながら準備をし、
9時過ぎにヴェルニー公園に出ました。

苦手だった夜景の撮影ですが、本日はプロのカメラマンと一緒です。
アドバイスを受けた後の写真はこの通り。 

確か手前は「やえしお」だと通りがかりのミカさんの知り合いが
教えてくれました。
潜水艦のセイルに「2016」と電光で書いてあります。

隣の「ステザム」さんは、アメリカの国旗の色、
赤白青を使っておしゃれしています。

 

横須賀基地の方に向かって歩いて行きました。
「いずも」も艦番号107の「いかづち」も電飾が美しく光っています。
 

いずもの艦腹が見えるところまで歩いてきました。

JMSDFの電飾もこの日だけの特別だそうです。

午前0時1分前に全ての明かりが消えて真っ暗になりました。
港に泊めた船から花火が打ち上がります。

花火は約5分続きました。

わたしはレリーズを持っていなかったので、アドバイスに従って
写真を撮ることをハナから諦め、動画を撮っていました。

そして、先ほどの潜水艦を見てみると、年が明けて
「2017年」に変わっていた(冒頭写真)というわけです。

 

さて、あと4時間で夜が明けるわけですが、今から寝て
(現在午前3時)初日の出は見られるかな?