ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成29年 阪神基地隊 年末行事〜阪神淡路大震災と阪神基地隊

2017-12-10 | 自衛隊

 

阪神基地隊は呉地方隊隷下で、主に大阪湾や播磨灘を中心に警戒を行うことを目的に
1954年、名称を「大阪基地隊」として発足した基地隊です。

わたしは神戸に生まれ長年阪神地域を地元としていながら、
この辺に自衛隊の基地があることをつい最近まで知りませんでした。

昔から酒造で栄えた灘五郷の海岸側の埋め立て地には工場か
せいぜい酒造会社しかなく、自衛隊?自衛隊なんてあったっけ?程度の、
阪神地域に住むほとんどの人々と同じような知識しかなかったのです。

この阪神基地隊にある第42掃海隊の後援をしている方からのお誘いで
隊司令の講演と艦艇見学、懇親会のため訪れたのが最初の訪問ですが、
2回目となる今回は恒例行事である年末の餅つきが名物?の「年末行事」に、
TOと二人でご招待いただき、参加することとなりました。

基地隊では今日日曜日、前日の招待による年末行事に続けて一般に開かれた
ウィンターフェスタが開催されたそうで、
写真のテントはそのためのものです。

で店の他にもライブステージもあり、なかなか楽しそうだったんですね。

年末行事が行われた体育館と食堂、売店などがある建物。

呉、横須賀、佐世保、舞鶴と旧鎮守府系地方総監部しか
知らなかったわたしとしては、失礼ながら最初、
阪神基地隊の規模のあまりの小ささに驚いたものです。

しかし、あの阪神大震災が発災した時、阪神地区に所在する海上自衛隊の
唯一の部隊である阪神基地隊の存在は実はとても大きかったといわれています。

地震発生の17分後、基地隊司令は呉地方総監に被害情報をすぐさま報告し、
掃海部隊を姫路港に急派し、陸上自衛隊の派遣後の神戸進出に備え、
水中処分隊に神戸港岸壁付近の水中状況を調査させました。
これは来援部隊の為の岸壁を確保を目的としていました。

震災によって埋立地にあった当基地隊自身も液状化現象の被害を受けていましたが、
海上自衛隊艦艇部隊、基地隊等から約260名の隊員を派遣し、
同連隊長の指揮下で人命救助活動を行い、その結果8名の被災者を救助するなど
初動から一貫して現地で大きな活動の成果をあげることに成功しています。

神戸新聞 震災10年特集記事

阪神基地隊の阪神淡路大震災における活動

ここには阪神基地隊の復旧の過程が報じられています。

 阪神・淡路大震災による阪神基地隊等の復旧への取組

 

わたしも当時関西在住で被災後は毎日のようにニュースに接しましたが、
しかし当時のニュースでは自衛隊の活動はあまり報じられなかったと記憶します。

当時の貝原俊民知事の”派遣要請が遅れたのは自衛隊のせい”発言や、
震災復興記念館に自衛隊の災害派遣についての写真や記述が全くないなど、
実際の被災者の自衛隊への感謝の大きさと比して、あまりにも
国を含め自治体の扱いが冷淡なのには今でも割り切れない思いが残りますが、
こういったイベントのありようを見ると、地元における阪神基地隊の知名度が

徐々に高くなっている様子が伺い知れます。

そして、社会の自衛隊に対する見方が特に東日本大震災のあとから
大きく転換したこととそれは、決して無関係ではないだろうと思うのです。

懇親会場の垂れ幕には「年末行事」とあります。
この時期に行われるのなら実質忘年会なのではないかという気もしますが、
まだ年を忘れるのには早すぎるということでこのタイトルでしょうか。

阪神基地隊の特徴は、小ぢんまりしていて入り口に入ると艦艇が全て把握できることです。
隷下の第42掃海隊の掃海艇、「なおしま」と「つのしま」。

そしてこの日のために?護衛艦「しまかぜ」の姿も。
今日は佐世保からわざわざお越しいただいております。

わざわざといえば、先日の練習艦隊帰国行事の時に
横須賀にいた「あたご」さんですが、なぜわざわざ舞鶴から?
と思っていたら、先日横須賀に行く高速道路の上から
JMU磯子の岸壁にいるのを発見しました。

あのあとすぐドックに入ったと思われます。

わたしたちは0700の伊丹行きで大阪に入り、レンタカーを借りました。
かつて住んでいた頃を懐かしく思い出しながら阪神高速を運転すること30分少し。
基地隊に到着した時には9時30分くらいでした。

11時半の懇親会開始までまだ時間はたっぷりあるので艦艇を見学することにし、
まずは阪神基地隊の所属である掃海艇に乗り込みます。

乗艇するなりゴムボートの日の丸ペイントなど超細部に注目するわたし。

たまたま乗艇した時、地本開催のツァーと思しき若い人たち団体の
艇内ツァーが始まったので、わたしたちはくっついて行きました。


わたしはなんども掃海艇にはお邪魔しているので、ほとんどのことは
耳新しいことではありませんでしたが、この時説明の方がPAP-104について

「これはフランス製です。
フランス海軍ではこれを使い捨てにしてますが、

自衛隊では高いので大事に整備して使ってます」

とおっしゃっていたことがその後二人の間で話題になりました。

「使い捨てってどゆこと?」

「国が買い支えるため、それか企業の技術を維持するために、かな」

「日本は輸入してるんだから使い捨てるなんてできないよね」

そもそも輸入でなくとも、掃海具使い捨てなんてことはありえません。
「もったいない」精神を尊ぶ日本の、しかもお金のない自衛隊が()
そんなことをするわけないじゃないですか。

現在の新型掃海艇は国産のS-10(Sは掃海のS)を搭載していますが、
これを使い捨てにするなどということは同じ理由で決して起こらないでしょう。

ただし、説明の方に聞いたところによると、掃海具が紛失するということはあるそうで、

「ラインが切れて行方不明になり、後日どこかに打ち上げられていた、
ということならあったという話です」

とのことでした。
紐で繋がってるだけなのでそれが切れたらもうおしまいなんですね。

それにしても掃海具、10キロくらいあるのに沈没せず打ち上げられてしまうのか・・・。

説明を受けている間、艇内の通路を撮っておきました。
他の掃海艇と同じ作りであるならば、この階には艇長室、
食堂、調理場などもあるはずです。

案内ツァーについていくと、前甲板にやってきました。

緑のネットはおそらく一般公開用に臨時でつけたものでしょう。
今日は招待客の大人だけですが、明日には一般公開となり
小さな子供を連れてくる親などもいるはずだからです。

ブリッジの上を二階建て上下車線で走っているのは阪神高速湾岸線。
阪神淡路大震災の時にはこの一部が落橋したというのが未だに信じられません。


ところでこの写真では確認しにくいですが、この日阪神高速神戸線を
西に向かって走っていて、六甲山が
うっすらと白いのにわたしたちは驚きました。
住んでいた頃にはほとんど見たことのない景色だったからです。

あとで聞けば、この日六甲山は初冠雪があったということでした。

「なおしま」のマストには隊司令旗が翻っていました。
隊司令旗(乙)は編成上二等海佐以下をもって充てることとされている
隊司令の乗り組んでいる自衛艦に掲揚されることになっています。

この場合は第42掃海隊司令ということになりますが、隊司令がこの時
本当に艇内にいたかどうかは謎です。

機雷掃討に使うバルカン銃の説明中。
地本のツァーで来た青少年たちには興味津々の物件ではないかと思うのですが、
何か質問は、といわれても誰も反応なし。

ここに限らず、掃海具の説明の後も、艦橋でも誰一人質問しません。
皆それなりに自衛隊に興味があるから来ていると思うんですが、
恥ずかしいのかそれとも何を聞いたらいいのかわからないのか・・。

「なおしま」というと今年のお正月にいった瀬戸内海の「直島」を思い出します。
実際に「なおしま」の名前はそこから来ているのですが、これはまた、長閑で風光明媚な
島のイメージとはちょい違う、
ブラックデスメタル的な艇のトレードマークです。

NはなおしまのNだと思うけど、なぜローズ?
綺麗な薔薇には棘がある的な?

ちなみにこのパネルは諸元表を隠すためのカバーでした。

こちらも一層デスメタル風、おどろおどろしい系のロゴです。

ちなみに「なおしま」が進水したのは1999年10月ということなので、
彼女はうちの息子と全く同じ歳ということになります。

MKは18歳で、人生これからというところにいますが、「なおしま」は
他の「すがしま」型掃海艇と同じく艇体が木造でできており、
20年目をめどに順次退役していくはずなので、平成20年度には
その役目を次々と生まれるFRP素材の掃海艇に譲って引退する予定です。

赤と青、2色のカバーのかけられた椅子を見ながら、見学者である高校生らしき男の子が

「2佐以下(の椅子の色)は皆赤と青なのかな」

とつぶやいていました。
彼はどうも、この椅子に艇長も座るのだと勘違いしたようです。

この椅子は2佐職である掃海隊司令の座るものであり、
掃海艇艇長である3佐あるいは1尉は青一色のカバーの椅子です。

(ということを知っていても、おせっかいと思い黙っているわたし。
まあ、興味があれば調べればすぐにわかることだから)

ジャイロ越しに六甲山と高速道路陸橋を臨む。

窓際に鵜戸神社のお札が立てかけてありますが、これはおそらく
毎年日向灘で行われる機雷掃海訓練で日南にいった時、隊員が
安全祈願にいってもらって来たものだと推察されます。

テーブルの上にはカポックとテッパチ(正式名称知りません)
が見学者に見せるために並べてありました。

改めてカポックを見るとダウンベストのようですが、衝撃吸収が目的なので、
首の周り、そして肩周りを特に保護する作りになっています。

「あんなところにラッパがある!」

天井の梁に二本ラッパがきちんと並んでかかっているのに、
掃海艇初体験のTOにいわれて初めて気がつきました。

今まで乗った掃海艇のキャビンで見た覚えのない国旗等収納ラックです。
左から自衛艦旗、指揮官旗、国旗の順で
上に「新」、下に「古」が収められています。

新しいのと古いのを二枚用意するというのはどういう理由でしょうか。
やっぱり「普段用」「よそ行き」「雨用」とか分けているのかな。

ツァーはまだまだ続きそうでしたが、後ろの「しまかぜ」を見ることにして、
わたしたちは「なおしま」を降りました。

阪神基地隊シリーズ、後半に続きます。

 

 


映画「ペチコート作戦」〜オペレーション・アンダーガーメント

2017-12-09 | 映画

 映画「ペチコート作戦」最終回です。

ところで、英語のコメディ映画というのはその面白さがわかりにくい、
とよくいうところですが、今回これを書くためにセリフをチェックして、
改めて翻訳が面白さを阻害しているということを実感しました。

例えば、前回の豚泥棒のシーケンスでの会話には、一見普通の表現なのに、
『ピッグ』という単語を含む言葉が選択されていて、それがシャレになっています。

しかし日本語では全く普通の表現として翻訳されてしまうので、
字幕では面白くもなんともないということになってしまいます。

英語のコメディはそのほとんどが外国人にはその面白さの
4割くらいは理解できていないと思っていた方がいいかもしれません。

1941年12月31日。

セブで新年を迎えることになった潜水艦シータイガーの乗員たち。
ピンクの潜水艦上ではニューイヤーズ・イブのお祝いの宴会が行われています。

「いい肉ですよ。いかがですか艦長」

「いや、ホーンズビーとは一緒にいすぎて情が移ってしまった」

宴席でシャーマン艦長は看護部隊隊長ヘイウッド少佐から

「クランダール中尉があの一件以来艦長のお怒りを買ったとしょげているので、
艦長からせめて宴会に出るように言ってやってほしい」

と相談され、魚雷誤射の件を怒っていないというために部屋にやってきました。

うーん、しょげているという割にはクランダール中尉、
ウッキウキしながら
髪の毛をアイロンでセット中なんですけど?

「艦長・・・色々と失敗してしまってすみません」

「わたしも短気だったよ。謝る」

いや、謝ることはないぞ、艦長。こういう人はまた同じようなことを・・

ほらね。
クランドール中尉が置きっぱにしたヘアアイロンの上に座ってしまい・・。

ちなみに前回書き忘れましたが、潜水艦「ボウフィン」はタンカーを攻撃した魚雷が
陸に打ち上がってしまいバスを「撃沈」してしまったことがあるそうです。

もちろんクランドール中尉のような人が間違えてスイッチをおしたのではありません。

こちら宴会場。
自然発生的に看護師たちにはお相手ができ、いがみ合っていたはずの
トスティンと少佐も
機械の整備の話ですっかり打ち解けています。

そんな中トルピードマンのモーが歌い始めたのは「オウルド・ラング・サイン」。
日本語で言う所の「蛍の光」を全員が神妙な調子で唱和します。

この映画唯一のホロリとくるシーンです。

救命ボートが一隻なくなり、さらにホールデン中尉とデュラン中尉が行方不明、
と聞いていた艦長、二人がボートで(正確にはデュラン中尉が泳いで)
どこかの島から帰ってくるのを目撃します。

二人きりで小さな無人島に行ってイチャイチャ、までは良かったのですが、
デュラン中尉、結婚してくれると思っていたホールデン中尉には
実は婚約者がいると本人の口からはっきり言われて大激怒。

結婚は「ビジネス」なので、貧乏人同士が結婚しても決して幸せにはなれない、
というのがホールデン中尉の持論です。

「君みたいな美人にはもっと金持ちの男が似合う」

「だからずっといい友達でいようよ」

あーでた。友達という名のセ●レに確保しておこうってことね。

その時敵機来襲。
日本軍がついにこの地にも進出してきたのです。
なぜかカウリングを赤く塗った(多分日の丸とマッチングさせてる)
零戦21型がまたしても空襲にやってきました。

このころの零戦は強くてね・・。連合軍に恐れられてたもんですよ。

しかしこの映画、海軍の全面協力で制作されただけあって、
真珠湾攻撃に緑の零戦が出てくるあの大作なんかよりずっとちゃんとしてます。

せっかくのご馳走を甲板に放置したまま潜航準備が始まりました。

ところで向こうの方に駆逐艦らしき姿が3隻も見えるんだけど、
零戦としては潜水艦より向こうを狙うのが定石なんじゃあ・・・。

この撮影はサンディエゴの海軍基地で行われたということですから、
もしかしたら当時現役の軍艦が写り込んだのかもしれません。

いつもギターで辛気臭い歌を歌っている水兵は、命の危険を犯して
ギターを取りに戻りましたが、銃撃にやられてしまいます(ギターを)

その時、なぜか現地のカジノ(つまり物資を調達してきた補給処)の
ディーラーの
家族(身重の女性二人、子供多数、親戚)が乗り込んできます。

例によってホールデン中尉が便宜を計らってもらう代わりに
勝手にオーストラリアに連れて行く約束をしてしまったのでした。

零戦の空襲から逃れるためにシータイガーは潜航。

とにかく、急いで出航したため、宴会の後ペンキを塗り直すこともできず、
シータイガーはピンクのまま太平洋を航行する羽目になってしまいました。

ディーラーが子供にミルクを飲ませるために連れてきたヤギも一緒です。
ちょうどその時、艦内で出産が始まり、めでたく男の子が生まれました。

「おめでとうございます!艦長!」

「・・・・・・・」

おまけにもう一人の身重の女性も陣痛開始。
なんで二人示し合わせたように同時に出産するんだよー(笑)

乗員は全員が父親のように心配して陣痛を見守ります。

さて、海上航行中、シータイガーはラジオ「東京ローズ」を受信しました。

「次のメッセージはセレベス海を航行中のピンク潜水艦に向けて。
みなさん、新年の休暇をとって、降伏なさい。
何のつもりかわからないけど、そのピンクではすぐに見つかるわ。
あなたたち、死にたいの?

それではそんなあなたたちにふさわしい曲を」

そしてエロール・ガーナーの「I'll remember April 」が流れます。

すごいなと思うのは、この曲がリリースされたのは1941年の暮、
つまりまさにこの映画の1942年のお正月にヒットしていたということです。

東京ローズのいう「ふさわしい」というのは、この曲は戦争で
愛しい人を失った者の気持ちを歌っているということにつきましょう。

東京ローズはこうやって日本軍が掴んでいる情報をネタに米兵士に向けて挑発し、
戦意を失わせたり不安にさせたりといった工作を行っていたわけですが、
驚くことに、この逸話も実は本当にあったことでした。

1945年12月10日、シータイガーのモデルになった潜水艦「シーライオン」が
日本軍の爆撃で燃えた時、隣にいた「シードラゴン」SS194も甚大な被害を受け、
自分自身が爆撃を受けただけでなくシーライオンの燃える熱を受けて、
艦体はこげ、黒い塗装は溶けて気泡を生じました。

それでしばらくの間シードラゴンは赤い下塗装のまま任務についていたのですが、
東京ローズの放送でシードラゴンは彼女に

「レッド・パイレーツ・サブマリン」

と嘲られたということがあったそうです。

なお下塗りに赤色が足りないとピンクになってしまうことも可能性としてあるそうです。

東京ローズの放送は米太平洋艦隊にも警戒を与えました。
つまり、「ピンクのサブマリン」は実は日本の潜水艦であり、それを隠すために
東京ローズはあえて放送で挑発してみせたのではないかと考えたのです。

「その手には乗らんぞ。
全艦隊に布告、ピンクだろうと他の色だろうと、
国籍不明の潜水艦は直ちに撃沈すべし!」

そしてついにシータイガーが手ぐすねを引いている米駆逐艦に発見される日が来ました。

「浮上したぞ」「例のピンク潜水艦だ」

「爆雷攻撃用意!「逐次発射!」

ちょ・・・・(笑)

信号を送ろうとして甲板に上がった艦長が見たものは味方駆逐艦の艦砲攻撃でした。

「急速潜行!」

すっかりやる気の駆逐艦、全速前進で今度は爆雷攻撃を・・・。

潜行するシータイガーを爆雷の雨が襲います。

「2番潜望鏡パッキン破損!」

シータイガーを攻撃している駆逐艦は艦番号568「レン」(WREN)
1944年の就役ですから、開戦当時には存在していませんが、
まるでこの船を宣伝するかのように大々的に番号が映されます。

電気系統に海水がかかり、両舷停止してしまったシータイガー。
絶体絶命の危機です。

しかもそんな時に二人目の妊婦が双子を出産し、艦内に赤ん坊の泣き声が響き渡りました。

駆逐艦のソナーはすぐさまそれをキャッチします。

「新型兵器かもしれん」

ってそんなわけあるかーい!

なんとしででも赤ん坊を泣き止ませねば。
というわけでホールデン大尉が両手に赤ちゃんを抱くと、
あら不思議、同時にピタリと泣き止むではありませんか。

これも本物だよね。

ここでシータイガーは備品以外を全て発射管で打ち上げ
潜水艦が沈没したと見せかける作戦に出ました。

「沈没に見せかける罠かもしれん」

その通り。ただしそれをやってるのはあなた方の味方なんですけどね。

「爆雷を続けろ」

容赦ない爆撃に機関室で抱き合って恐怖に耐える二人。

この時役立たずのはずのホールデン中尉にピコーンとアイデアが閃いたのです。

「艦長!我々は送るサインを間違えました」

「看護兵はすぐに部屋に戻って下着(アンダーガーメント)を脱げ」

「ホールデン中尉がすぐに集めに行く」

そして発射。

ぷわわわ〜〜〜んと艶かしいサックスの音色をBGMに、
あんなものやこんなものが海中を漂い・・・

そして浮上。

「引きあげろ!」

「早くこっちによこせ!早く!」

駆逐艦艦長、そんなに焦らなくていいのよ?

林間学校に参加する生徒じゃあるまいし、アメリカ海軍では
下着に名前を書かないといけなかったのか、という疑問はさておき。

クランダール中尉の名前が書かれた下着です。(なぜ階級まで)

そして駆逐艦艦長はそれが同胞の潜水艦から発射されたものであることを
即座に看破したのです。

「Japanese has nothing like this!」(日本の女ならこんなのつけない)

おいいい!艦長!貴様その発言で日本中の女を敵に回したぞ。
というかもうすでに日本人は敵になってましたけどね。

「攻撃中止!」

って命令を出した後もいつまでもしみじみ眺めてんじゃねーよ艦長。

というわけで、駆逐艦に守られてはなばなしく帰還となったシータイガー。

「艦長、夜間に入港すべきでした」

この撮影はサンディエゴで行われました。
彼らは潜水母艦「ブッシュネル」のおそらく本物の乗員だと思われます。

ブッシュネルって、あれよね。「ブッシュネルの亀」の。

ちなみに1941年にはまだ「ブッシュネル」は就役しておらず、
これは映画のミスとされています。

そのときまたしても1番エンジン出火。

そんな思い出を日誌に呼び起こされた艦長、いや海軍少将シャーマン。
感慨深げに日誌を手にし、艦長室を後にします。

そのとき岸壁にシータイガーの最後の艦長がタクシーで到着しました。
美しい妻と二人の黒髪で青い目の男の子も一緒です。

艦番号393の潜水艦は実は当時現役だった「クィーンフィッシュ」です。

阿波丸を沈めたことでも日本人には悪名高い?潜水艦ですが、
1959年の映画製作時
彼女はちょうどサンディエゴにいたことがわかっています。

彼女は実験艦として現役生活を終え、1963年には殊勲潜水艦として
スクラップではなく「ソードフィッシュ」の雷撃で海に沈むという
誇り高き最後を遂げたということです。

そしてシャーマン少将に敬礼をする最後の艦長は・・・・
あら、ホールデン中尉・・・じゃなくて少佐じゃないですか。

あれ以来すっかりやる気になって、潜水艦一筋でここまで来たんですね。
しかも、

「新型原子力潜水艦が1ヶ月後就役する。
名前はこれと同じ『シータイガー』だ。
君を艦長に推薦しておいた」

1959年ごろ竣工された新しい原子力潜水艦というと、実際は
「ジョージ・ワシントン」 SSBN-598ということになります。

あのホールデン中尉が原潜の艦長をするくらい優秀な軍人になったのか・・・(棒)

シャーマン少将は、船から持ち出した艦長日誌をホールデン少佐にわたし、

「君に思い出をあげるよ。
息子さんたちには大きくなって理解できるようになるまで見せないほうがいいが」

シータイガーを降りると、岸壁にはホールデンの家族が待っていました。

なんと、この金髪は・・デュラン中尉じゃないですかー。

「ところでわたしのワイフは?」

ワイフ、やってくるなり公用車に派手に追突。

「やっぱり家内だ」

かつてのドジ看護士クランダール中尉の16年後の姿でした。

彼ら全員の出会いとなったシータイガーが最後の出航を行います。

相変わらずのシャーマン夫人をみて微笑むホールデン。
もし富豪のお嬢様と結婚していたら彼の今日はなかったでしょう。

 しかし最後の最後まで・・岸壁をはなれるや、シータイガーエンジン出火。

「また1番エンジン・・・ついに治らずか」


エンドタイトルにはアドバイザーとして

ルシウス・H・チャッペル少将

の名があります。
チャッペル少将はかつて潜水艦「スカルピン」の艦長として
ネイビークロスを授与された
筋金入りのサブマリナーでした。

この映画の本職も注目する細部のリアリティは、チャッペル少将の助言、
そして海軍の全面協力によるところが大きいでしょう。

 

それからわたし個人の感想を一言だけ言わせていただくと、
戦争を題材にこんなコメディ映画が作れるというのは羨ましい、に尽きます。
日本では未来永劫制作不可能なジャンルだと思いました。


最後に、このタイトル。
正確にはあれ、「オペレーション・ペチコート」じゃないですよね?
まあペチコートも中には含まれていたのかもしれないけど・・。

 

終わり


映画「ペチコート作戦」〜看護士部隊、潜水艦に乗る

2017-12-08 | 映画

映画「ペチコート作戦」、二日目です。
今日が真珠湾攻撃が行われた日であることとこの映画にはなんの関係もありません。


さて、コメディにはトラブルメーカーは付きもの。
この映画におけるトラブルメーカーその1であるホールデン中尉は、
制服めあてに海軍に入り、その甲斐あって絶賛婚約中。

全米の株シェアナンバーワンを誇る企業のお嬢さんに見初められ、
提督の覚えめでたく側近にまで上り詰めた身でありながら、
実は物資の闇調達(つまり窃盗)が得意という胡散臭い青年です。

そんな彼がシャーマン艦長の潜水艦シータイガーに乗り込んで来ました。

トラブルメーカーは得てして新たなトラブルメーカーを引き寄せるものです。
今日はそのきっかけから。

1941年12月22日、潜水艦「シータイガー」はマリンデュケ島に接近します。
艦長は役立たずのホールデン中尉をいい厄介払いと島の偵察にほうり出すのですが、
ホールデン中尉、大変なものを連れて帰ってきてしまいました。

女性です。

エドナ・ヘイウッド少佐以下5名のNC、USAR、つまり
陸軍予備看護士部隊の看護士たちでした。

シータイガーの艦橋は珍客の出現に騒然となります。

「我々は何故戦うか。答えはこれだ」

哲学的に感動するトルピードマン「モー」。

彼女ら看護部隊を乗せた飛行機が緊急離陸した島に日本軍が迫って来たのですが、
その飛行機はなぜか彼女たちを置いてけぼりにしたまま行ってしまったのです。

彼女らが困り果てていた時にやって来たのが白馬に乗った王子ならぬ
ホールデン中尉であったというわけです。

それを聞いて乗艦を断るわけにはいきません。
艦長は彼女ら輸送し、セブ島で陸軍に合流させることにしました。

しかし、いきなりこれからの波乱を暗示するかのように、一人の看護士が
パンプスのヒールを甲板に挟んでしまいます。

男性にはお分かりにならないと思いますが、
歩道の敷石の継ぎ目や排水溝の溝の幅がヒールの太さと同じか細い時、
すっぽりとかかとがはまって靴が脱げた経験は
ハイヒールを履く女性なら一度くらいはあるものです

ただし、自衛隊の艦艇公開でも口を酸っぱくして言われているように、
船、特に潜水艦に乗るのにヒールはご法度です。

そもそも南方の戦地にいる看護士がいくら制服でもヒールを履いて
脱出用のゴムボートに乗ってくるわけがないんですが。

とにかく、この看護士がドロレス・クランダール中尉。
のちにそのドジっ子ぶり(死語?)でシャーマン艦長を悩ますことになる
トラブルメーカーその2だったのです。

彼女たちが艦内に入って行った後、思わずホールデン中尉を睨みつける艦長。
いくら調達が得意でも、究極のいらんものを背負いこんでくるとは。

「いいかみんな、セブに着くまで彼女たちの存在は無視すること」

渋い顔で言いかけるや否や、衝突警報のサイレンが鳴り響きます。

案の定、クランドール中尉がラッタルを降りるときに
ボタンを「ぎゅっと掴んで」しまったのでした。

「いいですか、全てのボタンには機能があるんです」

「とにかく何も触らないこと!」

子供に言って聞かせるように注意をしていると、

ヘイウッド少佐「わたしたちは大人ですよ!」

艦長「大人だからだから言ってるんです。心配なのは”大人同士の情報の交換”・・」
(Exchange Information)

ストーバル少尉「あはは」

 

「・・・・・・#」「・・・・」

ストーバル少尉を演じているディック・サージェントは、この少し後、
「奥様は魔女」の二代めダーリン役で有名になりました。

ストーバル少尉による「艦内ツァー」の始まりです。

「シャワーは一人1分半です」

「無理よ」

「節水にご協力ください」

「二日に一度にすれば3分よ」


「ここは俗にいう・・・ヘッド(トイレ)です」

それはですね、昔帆船だった時代には、舳先(ヘッド)に開けた穴から
直接海に落ちる方式の「水洗トイレ」だったことからなんですよ。

一方野郎どもは女性の乗艦に浮き足立って大騒ぎ。

ホールデン中尉の主催による

「女性部隊に着てもらう服を寄付する権利」

の抽選会が開かれております。

ところで水上艦ではなく潜水艦に女性を乗せて航行する、
こんなことが実際にあったのでしょうか。

この映画のエピソードには実際に大戦中にあったことがしばしば登場しますが、
実はこれも、潜水艦「スピアフィッシュ」が、コレヒドールで
一人の海軍の看護士、数人の陸軍看護士を乗艦させ、
彼女らをオーストラリアまで運んだという史実から着想を得ています。

切羽詰まった状況で仕方なくそうなったという事情は映画と同じですが、
死ぬか生きるかの危険な航行とはいえ、その時のスピアフィッシュの乗員も
おそらく女性の乗艦に騒然となったと想像されます。

もしかしたら「制服を貸す権利をくじ引き」も本当にやったかもしれません。

さて、これは十分予想されたことですが、ホールデン中尉、
早速クールビューティのデュラン中尉に目をつけ、
自分のテニスショーツやパジャマなどを貸してやって露骨に接近中。

潜水艦隊司令の部屋から盗んできたシャンペンで君の瞳に乾杯・・・
おっと、誰か来たようだ。

さてこちらは兵員のバンク。

「クラウス、お前の服誰が着ているんだ」

「希望としてはあのでかい・・」

「やめろ!彼女は女だぞ」

「それが?」

「俺のお袋も女だ」

「それで?」

「いや・・イメージがダブるんだ」

兵たちはのんきでいいですが、大変なのはシャーマン艦長。
何かとガサツなクランドール中尉の数々のドジぶりに悩まされ続けます。
(冒頭漫画参照)

「艦長〜、ブラシくださいなー」(シャワー中手を出して)

エンジンルームの主、トスティンも怒り心頭です。

洗濯物を機関室に干すだけでなく、機関室の操作に口を出してくる
妙に機械に詳しいヘイウッド少佐にイライラ。

「セイラー!」

女のくせに、という態度を隠さぬトスティンですが、相手が少佐では

「イエス、マム」

と返事をせざるを得ません。

その頃シータイガーの乗員の中には体の不調を訴えるものが続出していました。

皆コロンの匂いをプンプンさせて診察の列に並んでいます。

「看護兵、君がなぜ寝ている」

「あうあうあー」

 

この後も艦内では事件が続出。
着替えを覗いてしまったレード中尉が覗かれた方のハンクルを殴るわ、
バネの代わりにガードルを機械に使用した少佐にトスティンが激怒するわ、

壁ドンでホールデン中尉がデュラン中尉に迫るわ。

「僕らはやかんだ。点火すると内圧が高まる」

(やかん)「ピーーーー」

お二人、艦長が火の元の見回りに来てますよー。
それにしてもホールデン中尉、あんた富豪の婚約者がいるんじゃなかったのか。

 

その時、シータイガーに緊張が走りました。
日本の8000トン級タンカー、しかも荷を積んだ船がカモネギ状態で
まるで撃ってくれと言わんばかりに現れたのです。

不幸続きだったこの潜水艦が初めての金星をあげるチャンスです。
艦長は魚雷戦を決意しました。

「3番魚雷発射管装填」

魚雷に「MOM」と書き込む例のマザコン水兵(笑)

「方位」「026」「距離」「2300」「1700ヤードで発射」

「3番管準備よし」

「距離2100」

「3番管前扉開け」

「発射準備よし」

「距離1900」

「最終距離」

「マーク」「1800 」「スタンバイ3」

水雷士の手が発射ボタンにかかります。

駄菓子菓子、そこになぜか現れたトラブルメーカークランドール中尉。

「艦長、お薬(白髪に効くビタミン剤)の時間ですうー」

「畜生、下に行ってろ!」

「きゃっ」

ぽちっ(魚雷発射管ボタンを押す音)

魚雷はタンカーを外れ、陸に上がってトラックを撃沈しました。

その日の艦長の日誌より:

「これまでの人生で初めて女性を殴りそうになった。
クランドール中尉は日本軍のスパイかもしれない」

反撃されて這々の体で潜航してそのままセブに逃げたシータイガー。
怒りのシャーマン艦長はそこで女性たちを現地に押し付け、
厄介払いしようと思ったら、現地の司令官にはつれなく断られてしまいました。

敵が明日にもやってきそうなところにさすがに女性をおいてはおけません。

しかもセブには物資がなく、補給もままならず・・・

そこで艦長、背に腹は代えられんと、再びホールデン中尉に
「調達」を依頼するのでした。

「勝手ですね("Doggy dog")」

と艦長に嫌味を言いつつも、ホールデン、現地に駐留している兵士たちから
個人的に「買い付け」を行ってたちまち物資を集めてしまいます。

なんかバッテリーとか明らかに官品を売りに来てる人がいるんですけど・・。

上官に対する敬礼はどんなシチュエーションでも欠かせません。

それだけでなく、ホールデン中尉とハンクル、再び行き掛けの駄賃で
現地農家の豚を一匹拉致して車に乗せて来てしまいました。

「新年のご馳走にしよう」

早速MPに車を止められ誰何されます。

「ブヒー」

「なんですか?」

「彼はホーンズビー水兵だ。具合はどうかホーンズビー」

「ブヒー」

「彼は調子が悪くてね。飲みすぎだ。
でも彼が唯一の通信士なんで何かあったら大変だ」

この後車を見送ったMP同士で会話があるのですが、軍曹は

「ホーンズビーとかいうのが病気でさ、あれ一見の価値ありだ。
潜水艦のことをピッグボートというわけがわかったよ」

(正確には I don't want to call submarine's pig boat.
Men, He was the ugriest! )

ピッグボート、で調べると=潜水艦、と出て来ます(笑)

しかしホーンズビー騒動はこれで終わりませんでした。
豚を盗まれた現地人が、MPを連れて乗り込んで来たのです。

「彼が豚を盗まれたというトラックにはホールデン中尉とハンクル、
そしてホーンズビー水兵が乗っておりました」

「ホーンズビー水兵?」

ホールデン、ピーンチ!

「ホーンズビー水兵はどこか、中尉」

「し・・・・士官用のトイレです」

艦長「・・・・・・・」

ホーンズビー「ぶひー」

「諸君、確かにホーンズビーが盗んだらしい。
彼は飲むと手がつけられない野郎 (スワイン)でね。
(Swineは豚の意もある)
明日になったら彼には『焼きを入れ』(good roasting)てやりますよ」

「彼の身柄をこちらに」

「いや、彼には飲まずにいられない理由があるんだ。
明日、ホーンズビーは大変危険な任務に就く。
おそらく生きて帰る可能性は大変低いだろう」

「そうですか・・・・なら仕方ありません」

艦長、案外はなせるぅ!
パァァァ(*´∀`)゚となるホールデン中尉。

ただし、豚の所有者にはホールデン中尉のゴルフバッグ、ダンスシューズ、
テニスラケット、マッサージ器、そして規則違反の靴下やサックス5thアベニューの
ショーツなどを豚の代金として全部供出させる鬼畜米英なシャーマン艦長でした。

さて、物資の困窮は補修後のペンキにも及び・・・、
下塗りをするのに赤と白のペンキしかなく、一時的にとはいえシータイガーは
ピンクのサブマリンになってしまいました。

そして、この「ピンク」が、彼女とその乗員(プラス看護士部隊の女性たち)
を生存の危機に陥れることになるのです。

 

続く。

 

 

 

 


映画「ペチコート作戦」〜社交界の人気者、潜水艦に乗る

2017-12-07 | 映画

今までいろんな映画を紹介してきました。
主に戦争映画ですが、中でも潜水艦映画は個人的に大好物なこともあって
日本のもの、アメリカのものといくつか取り上げてきました。

先日の潜水艦探査の学会での言葉ではありませんが、潜水艦はその特殊性ゆえに
映画の題材としても大変好まれ、洋の東西で名作がたくさん生まれました。

というわけで「ペチコート作戦」。
オペレーション・ペチコートです。

この作品を名作というのかというとそうでもない気がしますが、
ケーリー・グラントとトニー・カーチスの共演、ついでに音楽は
ヘンリー・マンシーニという豪華陣なので、アメリカではそれなりに
お金もかかった有名な作品という位置付けなのでしょう。

今回この映画をご紹介することになった経緯は、たまたま某所でお話しした
潜水艦を職種とする自衛官にオススメされたのがきっかけでした。

潜水艦乗りが勧める潜水艦映画なら、さぞかしすごい戦闘シーンが、
と期待をして見始めたのですが・・・・。


冒頭漫画で皆さんもどういう映画かうっすら察しがついたと思いますが、
1941年12月10日、真珠湾攻撃直後の太平洋を描きながら、
この映画はコメディもコメディ、戦争コメディだったのです。

というか題だけで薄々察しろよ、という声もあるかと思いますが、
この「ペチコート」も、実は製作者の配慮というか忖度の末こうなったのであり、
映画を観終わった後には、違うタイトルがあなたの脳裏をかすめているであろう、
ということだけ予告して、紹介に入らせていただきます。

そうそう、こんなおふざけ映画をいくら潜水艦が舞台だからといって
どうして本職が評価しておられたかについても、
紹介しながら解き明かしていきたいと思います。(できるだけ)

まずタイトルロールが洒落てますでしょ?
(潜水艦のではないですが)窓から海洋生物が順番に顔を出す趣向。

アシカが可愛い〜!

ウツボが可愛くない〜。

 

さて、1955年ごろのあるアメリカ海軍基地。
今日廃棄処分になる潜水艦「シータイガー」に一人の海軍少将が乗り込んできました。

マット・シャーマン少将は、かつてこの「シータイガー」の艦長でした。

艦長室で一人、かつての艦長日誌を眺めながら思い出に耽ります。

1941年12月10日。
真珠湾攻撃直後のフィリピン、カビテ海軍工廠で、シータイガーは当時イケイケだった
日本海軍の戦闘機の空襲に遭います。

ちなみに零戦21型を演じているのは、やはりテキサン、T−6です。

なすすべもなく繋留されたまま轟沈してしまうシータイガー。

ちなみにフィリピンのカビテ基地で繋留されたまま日本軍の攻撃を受け
沈没した潜水艦「シーライオン」 SS195をモデルにしています。

「損傷だと?撃沈されとるじゃないか。
潜望鏡付きのスクラップメタルみたいなもんだ。
解体して別の潜水艦に乗れ」

「いえ、乗員でなんとか直してみせます!」

まだ就役して1年、開戦後3日で一度も交戦せず沈没では
あまりにシータイガーがかわいそう・・・というわけで、

全員でまず沈没した潜水艦を引き揚げる作業からです。
指揮官先頭、なんと艦長が潜水して海中のパイプ作業を。

乗員の力だけで2週間以内にフィリピンからオーストラリアの
ポート・ダーウィンまで行けるようにする、と
司令官に向かって豪語してしまったからにはやるっきゃありません。

銃を積んだりしているのですが、どうも作業そのものや働いている人が
本物っぽいんですよね・・・。

総員一斉に奮励努力の甲斐あって潜水艦浮上。
みんな歓声をあげて喜びますが、部品が足りないことには違いありません。

「部品が欲しいぜ」とぶつくさ言いながら潜望鏡を眺めていたXO
 (先任下士官?)のワトソンが、その視界に発見したのは・・・。

まるで掃き溜めに鶴。
この修羅場のような現場に純白の第二種軍装で現れた新任士官の姿が。

「ちょっと艦長、見てくださいよこれ」

「なんじゃあありゃあ」

「新しい補充の士官ですな」

「ちょ・・・勘弁してくれー」

「どわっはっっは」

社交界の寵児(ダーリン)で提督の夫人とダンスのペアを組み、
ボールルームダンス選手権で2年連続優勝、というふざけた情報に、
シータイガーの連中が艦長を筆頭に大笑いしているのも知らず、
颯爽と場違いな格好でやってくるホールデン中尉。
みんなの視線を一斉に浴びながらの華々しい着任です。

やはり飾緒は左肩につけていますね。

ちなみに英語では「ルテナント」としか言わないので、字幕では
「大尉」とされているのですが、ホールデンの階級章は
「ジュニア・ルテナント」、つまり中尉です。
慣例的に「ジュニア」は省略して呼称することが多いのです。

 

そもそも彼がなぜシータイガーに配属されたか?

提督の側近(副官兼夫人のダンスパートナー)であるため、
提督視察の準備のためにここにきていたら運悪く開戦してしまい、
視察は中止になり、自分だけが取り残されて、しかも人数合わせで
シータイガーに乗ることになってしまったという悲しいストーリーを
彼は眉を曇らせ語るのでした。

念のため艦長が聞いてみたところ、潜水艦、銃砲関係経験、
航法、通信一切経験なし。

「海軍で何してたんだ」

「アイデアマンです」

「アイデアマンって何」

「パレードや娯楽施設の企画とか、連絡係も」

「連絡・・どこと」

「ハリウッドです」

「ああ」

「ホノルル勤務も」

「水上艦に乗ったのか」

「駆逐艦に1週間乗りましたが間違いだったらしく呼び戻されて」

「提督夫人のご希望だな」

 

こんな見かけだけの役立たずをこの非常時に乗せなきゃならんのか、
と内心うんざりのシャーマン艦長。

ところがこの色男、意外な才能があったのです。

左の水兵ハンクルは資材調達の係。
6ヶ月前に見本付きでトイレットペーパーを補充するように手紙を出したのに
未だに返答がない、と艦長に訴えます。



「USSシータイガー艦長より海軍補給処担当士官へ 潜水艦隊総司令官経由
サブジェクト、トイレットペーパー」

ちなみにこの書簡は、 USS「スキップジャック」の艦長、ジェームズ・ウィギンスが
実際にメアアイランド海軍工廠の補給部門に出した嘆願書そのままだそうです。

「一つ 1941年6月6日 本艦より150ロールを請求
1941年12月16日 品目不明の付箋(ペーパー見本)とともに請求書が返送される

二つ 艦長は本件につき理解に苦しんでいる
資材部では当品目無くして何を代替品に使用されるのか」

陳情の手紙を艦長がハンクルに口述するのをつまらなさそうに聞いていた
ホールデン中尉、

「艦長、そんなやり方はラスベガスでは素人だとバカにされます」

「なんだって?」

「わたしに任せてください」

「甚だ疑わしいが君を補給将校に任命する。頼んだぞ」

この際中尉に調達を任せ、力強く肩をたたく艦長でした。

で、これだよ。
ホールデンのいう「調達」というのは倉庫から勝手に持ってくること。

MPに見つかると、

「軍則41982号、海軍軍人たるもの顔を黒く塗らずに夜間外出すべからず。
ニミッツ元帥からのお達しで夜間は顔を黒く塗ることになった!」

と靴墨を渡して逃れます。
慌てて顔に靴墨を塗りたくるMPでした。

もしかしたら中尉、こっちの方面に異常に才能があるんじゃ・・?

必要なものはなんでも持っていく。そう、指令室の壁でもね。

しかもホールデン、トラックを「調達」させた海兵隊員を
勝手にシータイガーの乗員にすることを約束して連れてきてしまいます。
彼、ラモーンはコックの立場を利用し横流しをして捕まった脱走兵ですが、

「有能の証拠ですよ。島中の闇屋の敬愛の的です」

「しかし脱獄囚を・・・」

「乗艦を断れば今回の”調達”が通報されますよ?」

どうみても脅迫ですありがとうございま(略)

ここでまた零戦2機にまたしても襲われ、シータイガーは
ここを出発してセブまで潜航することを余儀なくされました。

出航準備などの描写は非常に迫真に迫っております。

部品が足りない状態なのでエンジン出火。

最後の置き土産ならぬ行き掛けの駄賃として潜水隊司令官の金庫まで盗み出した
ホールデン中尉が雇った、悪霊払いの祈祷師の祈りが効いてエンジン始動。

ちなみにこのシーンの撮影は、フロリダのキーウェスト海軍基地で行われました。
映画の作成は海軍が全面的に協力したということです。

兎にも角にも出航し、バッテリーと2番エンジンをかばいながら航走する
シータイガーの艦橋で、副長がシャーマン艦長に

「愚痴を言うわけではありませんが選択を間違えました」

「何だ」

「ウェストポイントに行けばよかった」

この後の潜行の操作も、コメディとは思えないくらい詳細で、
さすがは海軍の全面協力によるものだと感心します。

潜水艦出身の自衛官がこの映画を評価している理由は
もちろんこういったディティールの確かさにあるのだと思われます。

せっかくですので号令を英語日本語取り混ぜてそのまま記します。

「潜行用意」(クリア・ブリッジ)

「ナンバーワン・ダイブ!」「ナンバーツー・ダイブ!」

ウーウー、ウーウー、(サイレン)

艦長「深度58フィート」「アイサー」

58フィート」

「水準器」

「通風孔閉鎖」

「半速前進」

「トリムよろしい」

艦長「水漏れを調べる。深度100フィート」

「全速前進」

「傾斜度6度 潜航」

「水漏れをチェック」

「防水扉閉鎖 隔壁弁閉鎖」

「宜候」

「換気装置作動」(レバーがゴルフクラブのヘッド)

「水漏れなし」

「OK、防水扉を開けろ」

かたや総員が固唾を呑んで深度100フィートの艦体のきしみに耐えている間、
のんきにベッドでマッサージ器を使用しつつ朝食を運ばせるホールデン中尉。

シャーマンは部屋を急襲し、彼を叱責します。

「皆と一緒に任務に就かんか!」

翻訳はされていませんが、艦長はお小言のついでに

「君の制服は規則違反だぞ」

「あー、僕は制服をサックス5thアベニューで仕立ててるので・・
でもユニフォーム以外のことなら・・
ベッドでの朝ごはんも毎朝ってわけじゃありません。
夜明けに潜航すればちゃんと仕事してご覧に入れますよ」

それに対して艦長は漫画の冒頭のセリフを言うわけです。


トニー・カーチス(本名バーナード・シュワルツ)は
ユダヤ系の移民の息子で、1941年の真珠湾攻撃に続く開戦ののち、海軍に入隊、
実際に潜水母艦「プロテウス」(フルトン級)に乗っていました。

ホールデン中尉のように、海軍士官の制服で逆玉結婚をし、
富豪の娘に2千ドルの時計を買ってもらうために入隊したのではなく
他でもない潜水艦映画「デスティネーション・トーキョー」
ケリー・グラントの演技に感銘を受けたからだったそうです。

彼は終戦後、プロテウスの甲板から降伏調印式を目撃しています。

そんなカーチスにとって、ケリー・グラントは「神」。
そもそもこの映画は、有名になったカーチスの、「デスティネーション」のような、
「グラントが潜望鏡を覗く映画」に一緒に出演したい、という希望の元に制作され、
彼はこの大俳優と共演することを心から楽しんでいたと言われています。

当時カーチスは「お熱いのがお好き」でスターダムにのしあがり、
人気絶頂の頃で、だからこそかつての夢を叶えることができたのでしょう。

ちなみに、カーチスは「お熱いの・・」で共演したマリリン・モンローと
関係があったことを、死の前年の2009年にカミングアウトしましたが、
それまでこのことを秘匿していたことについては、漢気(おとこぎ)を感じます。


さて、ホールデン中尉です。
こんな見かけだけの士官が調達(と言う名の窃盗)以外に何かの役に立つのか。

艦長ならずとも行く末に不安を感じずにはいられませんね。

というか、彼ならきっと何かをやらかすに違いありません。

続く。






「ホット・ショット」〜フォートポイント・サンフランシスコ

2017-12-05 | アメリカ

 

ゴールデンゲートブリッジのあるサンフランシスコの最西北端は、
真珠湾攻撃後、ここに多くの砲台が設置され、
まるでハリネズミのように太平洋から向かって来る外敵を排除する
防衛の要所であったことをお話ししたことがあります。

元々は南北戦争の時に陸軍が沿岸防衛のために要塞を作った場所で、
今でもその史跡が「フォート・ポイント」として公開されています。

いつもサンフランシスコに来たら一度は散歩するクリッシーフィールド。
昔陸軍の飛行場があったフィールドにはまだ格納(手前)も残されています。

うっすらと向こうにアルカトラズ島が煙っています。

この日もクリッシーフィールドからフォートポイントまで歩き、
往復しようと歩き出しました。

ダウンベストにマフラーのスタイルですが、8月の映像です。
気温の低く風の強いここでは夏でも防寒着が必須。

「プリンセス・ダイアリー」という映画では、ハイスクールのパーティが
ここで行われたという設定でしたが、あれを見て

「あそこで、しかも夕方、こんなピラピラのドレス無理だって」

とここの気候を知っている人なら皆思ったでしょう。

今日は全体的に快晴で、ブリッジだけが霧で隠れています。

午後には晴れることが多いですが、午前中はだいたいこんな感じです。

Caspian Tern、オニアジサシという水鳥がいました。

日本でも旅鳥として飛来することがあるそうですが、
大抵単独でやって来るのだそうです。

ダイサギもご飯を探し中。

ペリカンが何か捕まえた!と思って写真を撮ったら海藻でした。
ミネラル補給のために海藻も食べるんでしょうかね。

観光地なので自転車を借りて走る人もあり。
彼らはゴールデンゲートブリッジをバックに家族で記念自撮り中です。
子供がつまらなさそう(笑)

犬の散歩のメッカ?でもあります。
フィールドの小道沿いには始末用のプラスチックバッグ供給スタンドがあり、
バッグに入れればトラッシュボックスに捨てても構いません。
ゴミは1日一度、必ず自治体の清掃車が集めに来ます。

いつも思うんですが、日本の自治体って、住民一人一人の道徳心に
甘えすぎというか、頼りすぎって気がします。
犬を飼ったことがないのでわかりませんが、散歩に出て
いちいち袋を家まで持って帰るというのは、いかに愛犬のものといえど
結構煩わしいものではないかと思うんですよね。

ちなみに、この近くには陸軍がいた時代からのペット墓地があります。

サンフランシスコ・ペット・セメタリー

古い墓石には「大佐」「少佐」など、必ず階級が書かれていて、
ペット所有者が軍人であることを表しているのだそうです。

おなじみ、犬の散歩業者。
契約した家の犬をピックアップしてまわり、散歩させる専門業です。

いろんな意味でアメリカにしか存在しなさそうな職業ですね。

霧が少し晴れて、ブリッジの頭が見えてきました。

こんな日は行き交う船の汽笛が数分おきに鳴り響きます。

鵞鳥が綺麗なV字を描いて飛んでいきます。

いつもこのポジションはどのように決まるのだろうと不思議です。
先頭を飛ぶ鵞鳥は明らかにリーダーだと思うんですけどね。

フォートポイントが見えてきました。
元々ここは海面5mまで切り崩されていたため、花崗岩を巧みに組み合わせ、
その隙間を鉛で塞ぐという工法で護岸壁が構築されました。

以来ここで100年以上荒波を防ぎ驚異的な強度を誇ってきましたが、
1980年代に再建築するとともに、強大な波の力を弱めるために防波堤を設置しました。

さて、写真を撮りながらクリッシーフィールドを突き当たると、そこはフォートポイント。
もちろんブリッジができる前に建造されたレンガの要塞です。

大抵は閉鎖されているのですが、この日は珍しく公開されていました。

入ってみることにします。
ちなみに要塞の入り口はここだけです。
「出入り口」と呼ばず「出撃路」と呼んでいたのが要塞ならではですね。

「太平洋沿岸全域へのキーポイント」

と言われたこの場所には難攻不落の要塞が必要とされました。

入り口上部のアーチ部分のレンガの積み方は、海軍兵学校のレンガの生徒館、
元呉鎮守府の庁舎と全く同じ方法です。
兵学校の生徒館は1888年、こちらは1861年と、20年の開きはありますが、
ほぼほぼ同時代の建築ということでレンガの積み方には共通点も多いのです。

一つしかない入り口から入り、ゲートを抜けるとそこは建物に囲まれた広場です。
全体は三階建ての回廊式で、堅牢に城壁が周りを囲んでいます。

ちなみにこの博物館、見学は無料。
ゲートが開いていれば入ってくることができますが、こういうところの常として
常に寄付を募っていますので、入ったところにある寄付金箱に
いくらか寸志をいれてから見学した方が良いかもしれません。

この写真に見えている一つ一つのドームが砲郭になっています。

一つの砲郭につき一基ずつ大砲を備え、窓から砲口を外に向けます。
こちらの鉄製は台座のみ。

これを見る限り、砲口を出せば窓がふさがりますが、どこから敵を見て
目標を定めたのか不思議といえば不思議です。

こちらは南北戦争時の木製台座と上に乗っているのは「コロンビヤード」砲。

重い砲弾を高角・低伸いずれの軌道にも投射する能力をもち、かつ
大口径・前装式、長い射程を誇る滑空砲で、沿岸用警備兵器に重宝されました。

1811年、アメリカ陸軍のジョージ・ボンフォード大佐が開発し、米英戦争から
20世紀の初頭まで使用されていたものです。

地面のピヴォットのレールを見ればわかる通り、稼働角度は180度未満ですが、
中には360度回転させることのできる砲台もあることはあったようです。

砲台は重量が重く、いちど据え付けられたものは移動せずにそのまま使用しました。

こちらは火器士官であったトーマス・ジェファーソン・ロッドマン
「コロンビヤード」砲を改良開発した進化形、「ロッドマン砲」

圧力により砲弾を打ち出すことによりより爆発が強力な方式を開発しました。

ミニチュアの可愛らしい砲ですが、もしかしたらこれも本物?

南北戦争の写真や映画で見覚えのある大砲といえばこれでしょう。
「12インチナポレオン砲」というそうです。

敏速に馬で移動させることができるように、大砲に大きな車輪をつけ、
さらに実弾、榴弾、キャニスター弾など多目的に撃つことができ、
革命的な野戦兵器と言われた傑作です。

砲郭に展示されていた説明板。

「ゴールデンゲートの防衛」というタイトルですが、内容は
当時の砲兵がいかに大変な任務であったか、ということにつきます。

それによると・・・・、

一つの砲を担当する砲員5人は、連日、朝から晩まで
通称「42パウンダー」の装填と発射の厳しい訓練を行いました。
堅牢なレンガの壁は耳をつんざくような爆発音を始終反響させ、
発砲されるたびにあたりを鉄粉が充し、視界がなくなるほどだったと言います。

また、暴発や砲身がノッキングすることによって怪我する可能性など、
彼らの訓練には命の危険がつきものでした。

幸いだったのは、ここで実際に戦闘が行われるような状況にはならず、
厳しい訓練が結論として実戦に役立つ日が来なかったことでしょう。

当時の大砲による艦船攻撃の方法を書いた図がありました。
なんと驚くことに、砲弾を直接船に当てるのではなかったようです。

穏やかで波のない海面にはね飛ぶことによって、砲弾は威力を失わず
確実に大きな船舶の船腹に命中させることができたはず、だそうです。

本当にこうなるのかは、実戦に至らなかったので永遠の謎ですが。

砲身に弾を込める装填棒が立てかけてありました。

要塞には当初141門の大砲が装備されることになっていましたが、
1861年10月の時点で、24ポンド、32ポンド、42ポンド砲および
10インチと8インチのコロンビアード砲、合わせて69門の火器が
要塞内および周辺に設置されていました。

南北戦争後、軍はロッドマンが開発した強力な

「10インチ ロッドマン式 コロンビアード砲」

を要塞底部の砲郭に導入しました。
これらの大砲は、128ポンドの砲弾を使用し、2マイル以上の射程を誇りました。

かくも重武装されていたこの要塞ですが、さらに強力な兵器、
「ホットショット」なるものを使用することが可能でした。

そういえばチャーリーシーンの映画にそういうのがあったわね、
と思い出したりしたわけですが、最近観た映画の中でも、

「イケてる人」

という意味合いで" You're hot shot. "と使われていましたっけ。

武器としての「ホットショット」とは専用の砲弾用加熱炉です。
鋼鉄製の 砲弾を真っ赤になるまで加熱し、 大砲に装填・発射すると
木製の敵艦 を燃え上がらせることが可能でした。

加熱した砲弾のことも「ホットショット」と称したようで、転じて

急行貨物列車  、有能な[ぶる]人 、やり手、偉い[ぶる]人

(スポーツの)名人 
例:He's a hotshot at archery. 彼は弓術[アーチェリー]の名手だ

有能な[ぶる]、やり手の、得意がる、気取った

という意味で現在は使われています。

 

赤くなるまで熱した砲弾をどうやって装填したんでしょうか。

とにかく、サンフランシスコ防衛の要として、どんな敵をも撃退するため、
厳しい訓練を通じてそんな兵器も扱えるようにしていたということです。

去年車で走っていて偶然発見した、ブリッジを渡った向こう岸、
サウサリート側の
「ライムポイント」、そしてこの「フォートポイント」が、
サンフランシスコ湾内に敵を入れないための最初でかつ最重要な砦であることが、
この図を見てもお分かりになると思います。

それは敵が「北軍」の時代から「日本軍」と変わっても全く同じでした。

横から見た架台とコロンビヤード砲。

次回は建物内部の展示と兵士たちの生活についてお話しします。

 

続く。

 

 

 

 


海底に斜めに突き刺さる伊58潜水艦〜海没処分潜水艦調査

2017-12-04 | 海軍

イベントが重なって喉風邪をひいてしまい、まだ本調子ではないのですが、
知人よりこんなイベントがあると聞いて聴講してきました。

五島列島沖合に海没処分された潜水艦24艦の調査

海底に斜めに突き刺さる伊58潜水艦ー

ラ・プロンジェ(フランス語で”潜水”の意味)深海工学会という団体が
独自に行なっている海底調査についての報告で、内容はタイトル通り。

終戦後、日本海軍が保有していた艦艇は潜水艦も含めそのほとんどが
廃棄処分になりました。

「長門」が水爆実験(クロスロード作戦)でその生涯を終えたのは有名ですが、
日本の技術を結集した伊、呂、波型の潜水艦は五島列島沖、
戦艦大和が眠る地点からそう遠くない海底に沈められたことがわかっています。

当学会はこの現場を探索し、現代の科学で可能になった探索データをもとに
それらのアイデンティファイを行なっている団体です。

もちろん国からも一切支援が出るわけではないので、全て寄付金から
活動資金をまかなっており、そのため
幾度となくこうした公開の場で
その進捗状態と活動そのものを広報しているというわけです。

というわけで、講演の行われる横須賀の記念艦「三笠」にやってきました。
ここに立つのはずいぶん久しぶりのような気がします。

最初に来た時にこの「軍艦の碑」の写真を撮って、そのことについて
ログをアップした日、東日本大震災が起きました。

それからしばらくの間掲載をストップしていたのもずいぶん昔のことに思えます。

前回来た時(米軍基地のフェスタの日だったかな)にはなかった案内。
なんとご親切にも30分コースと1時間コースのご提案です。

今日の講演は中甲板艦首にある講堂で行われます。

ところで、これまで何度か来て気づかなかったのに、今日、
ラッタルを上ろうとすると、どこかにセンサーがあるのか
「ホーヒーホー」とサイドパイプの音が鳴り響いたのには驚きました。

乗客全員に東郷平八郎元帥になった気分を味わってもらおうという趣向です。

講堂のある艦首側に向かって歩いて行く途中に建造当時の甲板あり。
(巾広い部分)と言われましても・・・どこのこと?

砲撃中の砲郭の実物大模型も健在です。
ちなみにこれらの砲は全て模型です。

時間があったので中甲板展示室も少し見学しました。
軍神広瀬中佐が使用していた柔道着。

測距儀も、わたしはここで見たのが最初だった覚えがあります。

なんと、最新式の海戦ゲームが導入されておりました。

三笠に乗ってバルチック艦隊と戦ったりするわけですか。
じゃ東郷ターンを使わずに勝てるかどうか、などというシミュレーションも楽しめるんだ。

艦内には外国人観光客(白人系、多分ロシア人)が結構いて、彼らが
楽しんでいたのがバーチャルゴーグルをつけて行うゲーム。

時間があればちょっとやって見たいと思いました。

まず最初に代表理事の浦環氏が(男性です)調査結果を淡々と報告されました。
つまり海底に眠る潜水艦をスキャンして解析し、それが
なんなのかをこれまでの研究から特定して行く過程、その結論に至った理由などです。

本講演のタイトルにもなっていた「海底に斜めに突き刺さっている」伊58の画像。
ほぼ半分が海底に突き刺さっているわけですが、一体どういう経過で
このように直立することになったか想像を巡らすだけでワクワクしてしまいます。

呂号50は鎮座している状態です。

これらのスキャンのために器具を曳行したりする作業を行なった日本サルベージの船。

この日はニコニコ動画の生放送も入っていました。
以前にも海中のカメラ画像をインターネット衛星を通して配信したことがあります。

初めて知りましたが、過去の探索の様子は、当時生放送でたくさんの人が鑑賞し、
その調査結果に注目していたということなのです。

海没処分にされた潜水艦は全部で24隻。
皆ひとところに次々と廃棄したらしく、こんな感じで海底に散らばっています。

そして、演者は代わり、どうやって艦名を特定していったかの詳しい説明が続きます。
もし興味がおありでしたら、ニコニコ動画でご覧ください。

建造時に残された写真を解析し、艦橋の形、窓、穴が空いている場所など、
沈んでいる潜水艦と照合して特定していくのです。

大変な仕事ですが、わたしにはこういうことに夢中になる気持ちはよくわかります。
さぞかし楽しんでやっておられるんだろうなと思いました。

各艦の細かいアイデンティファイについては、当日会場で販売されていた
資料集に事細かに載っています。

さて、次にこの探索を行ったガジェットについての説明が
技術者の立場から行われました。

スキャニングの方法は大まかな方から三通りあります。

まずどこにあるかの初期的な探索を行うための方法。
船を当確海域に走らせて海底を上からスキャンします。

水深が20mくらいならかなり鮮明な画像が得られますが、200mとなるとこう。
「潜水艦らしきものがある」という感じですね。

潜水艦の場所が特定できたら、ソナーを船で曳航し、
横からのスキャニングを行う方法でアプローチします。

しかしここまででは各潜水艦の特定をするほどの情報は得られません。
そこでROV(遠隔操作型の無人潜水機)を投入して詳しい画像を得ました。

これで伊58、呂50が特定できたというのが「←今ここ」なのですが、
これらの報告を聞いていて思ったのが、特定を阻む要素、つまりその艦体が
なんであるかを見極めるのを阻害している原因の一つとして、

「漁網が絡みついて」

という文言がほとんどの艦に当てはまるくらい出てきたことです。

漁網というのはそんなにあちこちに絡みつき、放置されるものなんでしょうか。

この後一番右の勝目純也氏(潜水艦関連の著書多数)が
特定された潜水艦についての戦歴などを説明されました。

項目を箇条書きしておきます。

●昭和21年4月1日に米軍によって五島沖で廃棄処分された潜水艦は24隻

●日本海軍の潜水艦の歴史は明38〜昭20までの40年

●その間海軍が保有した潜水艦は241隻

●実戦に参加したのは3年8ヶ月、154隻参加し127隻が戦没

●戦果は艦艇撃沈13隻、撃破撃破8隻、船舶撃沈撃破220隻

●戦没艦127隻中114隻が全員戦死、戦死者総数10,817名

●兵学校60〜70期の配置別戦死率78.1%(飛行機70.9% 水上艦40.5%)


「潜水艦は撃沈されたら全員が運命を共にする」

というのは、当ブログでも常々書いてきたことですが、勝目氏は
そのことにより一層悲劇性を感じる、とおっしゃっていました。

五島沖で処分された潜水艦たちは消耗率の高い潜水艦の中でも
奇跡的に生き残り終戦を迎えた「強運艦」だったというわけです。

伊号第36潜水艦(横須賀、2代目艦長は神戸商船大出身)

伊号第47潜水艦(佐世保、回天特攻金剛隊多々良隊を発進)

伊号第53潜水艦(呉、アンダーヒルを撃破)

伊号第58潜水艦(横須賀、橋本以行艦長、回天戦でリー撃破)

呂号第50潜水艦(三井玉野、揚陸艦1隻他撃沈)

このように戦果を多数挙げてもいます。

この後

「まとめ 日本の潜水艦の伝承は継承されている」

として、2016年の2月に海上自衛隊で行われた
日本国潜水艦運用100年、海上自衛隊潜水艦部隊創設60周年の
式典の様子、そして先日の「しょうりゅう」進水式の写真が紹介されました。

せっかくですのでわたしが進水式執行者の呉地方総監部から送っていただいた
生写真をここぞとばかりに掲載させていただきましょう。

潜水艦を建造する技術を持っている国は世界でも少なく、
それを戦前からほぼ途切れることなく続けてきたということは
日本のものづくりの底力とその継続力を表しているというお話でした。

最近しかし、製造業の現場に不祥事があいつぎ、日本人の原点である
ものづくりの心が失われつつあるのではないかという危惧もある、
というようなお話もありました。

今後のプロジェクトとして、舞鶴湾の海底にある呂500と、
日本郵船の大洋丸についても探索を行うそうです。

艦内の通路に壁全面を使った艦艇のモデルコーナーが設えられていました。
前には見た覚えがありませんので、最近新しく設置されたようです。

後半のパネルディスカッションでは、高校生らしき男性が、先日
ポール・アレン氏の調査チームがスリガオ沖で「山城」を発見したことの
感想を求めていましたが、主催の浦氏は

「こういう調査はどこも補助が出るわけではないので、寄付金に頼るか
ポール・アレンのような大富豪が道楽でやるしかない。
こういう人がこういうことをやってくれるのは大変ありがたい。
日本にはポール・アレンのような人がいないので、
我々の活動に賛同された方はぜひ寄付をお願いしたい」

と訴えておられました。

同学会では、今後全24潜水艦を詳細画像の撮影と特定を行い、
2年後くらいには

「24潜水艦記念バーチャルメモリアルの構成」

を目指しています。
そして最終的にはそこから

「戦争のない世界の実現」

に結びつけていきたい、ということを謳っておられます。
皆様ももしかしたらそうお感じなるかもしれませんが、
正直わたしのようなプラグマティストには、即座に真顔で

「いやそれは無理だろう」

としか言えない飛躍的かつ実現不可能な目標です。

(というか、バーチャルメモリアルの構成を戦争のない世界に
どう繋げていかれるおつもりなのかそのメカニズムに大変興味はあります。
講演でどなたかが『潜水艦を作る技術力と保有していることは抑止力であり
戦争を起こさせないために有効だ』と言っておられたので、おそらく
お花畑的イマジン的なストーリーを思い描いての文言ではないでしょう)

まあこれも穿った見方をすれば、戦時、軍事遺産を保存しようとすると
必ず「軍国主義の復活」とか「いつかきた道」、「軍靴の足音」が
見えたり聞こえたりする特殊なバーチャルリアリティが体験できる方々に向けての
「魔除けの呪文」というところなのかもしれません。

ともあれ、こんな活動を通して歴史を次世代に残そうとする
プロジェクトに興味を持たれた方はぜひニコニコ動画をフォローして、
彼らの活動に賛助をぜひお願い致します、と主催者に勝手に成り代わって
ここでお願いしておきます。

HPによると、Tシャツも販売しているということです。

ラ・プロンジェ深海工学会

 

 


メキシコでの文化交流〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

2017-12-03 | 軍艦

 

さて、大正13年度遠洋航海もパナマ運河通過という前半の山場を無事に終え、
次の寄港地へと向かいます。

■ 艦内生活

 

「腐敗を防ぐ唯一の芳香剤は精神的純潔あるのみ」

見よ、懊悩もなく虚飾もなく只直覚と想像との
幸福なる生活の平和の微笑を。

止めどなく繰り出さるる音楽、あるいは新知識みなぎる艦内新聞、
愛嬌溢るる小鳥「ペリコ」。
さては故国よりの楽しき音信等。 

そは如何許り我等の生活に湿潤と愉快と慰安とを与えし事ぞ。

 腐敗を防ぐ唯一の芳香剤は精神的純潔あるのみ!

うーん、思わず繰り返して大きく書いちゃった


「ニコニコと読む彼、早速返事を出す我」

手紙で故郷に息災を知らせたり、その故郷から手紙を受けることの喜びは
航海中であれば何よりも心を喜ばせるものとなったことでしょう。

これぞ冒頭に言うところの「幸福なる生活の平和の微笑」です。 

上の文章にある「ペリコ」というのは緑色で頭の色だけが違うインコのことです。
この水兵さんが現地で購入した「豆インコ」を現地ではペリコと呼んでいたのでしょう。

教えこめば言葉を喋るペリコは、航海中の乗員にとって
何にも増して面白いおもちゃ(しかも可愛い)となり、彼らは夢中で
自分のペリコに誰よりも早く言葉を仕込もうとしたのに違いありません。

 つまり、ここに書いてあるように「一生懸命」なのはインコではなく・・?


大正13年度、帝国海軍遠洋練習艦隊の次なる寄港地はマンザニヨとあります。
実は、それから約100年後の2017年になっても、海上自衛隊の遠洋航海は
同じマンザニヨに寄港しているのです。

この太平洋に面するメキシコの都市は、日本語では

「マンサニヨ」「マンサジージョ」「マンサニーニョ」「マンサニージョ」

といろんな読み方をされていますが、(自衛隊はマンサニージョ)原語では

Manzanillo

で、「little apple」のスペイン語なんだそうです。

 ■ マンザニヨ

 

(自1月12日 至 1月16日)

 

バルボアを出航せし艦隊は 再びメキシコの地に航し
「マンゴウ」茂るマンザニヨに入港す。

威風堂々艦隊先ず一斉投錨すれば湾内に入りたる鯨は
岸近きのあたりに巨大なる姿を不沈せしめ、湾を繞る連山の仙人掌
かざす紅花は微笑みて我等を迎う。 

おゝ、緑鮮やかなる此の地、明快なる大日輪の炫き。
そは我等を待つ心温かき墨国人の象徴にはあらざるか。

 

今ではメキシコシティ圏にある港湾都市として物流も盛んな大都市であり、
リゾート地としても賑わっているマンザニヨですが、この頃は港といっても
大きな船が付けられるような岸壁がある港ではなかったことがよくわかります。

上陸場といいながら単なる岩を積み上げた「岩壁」です。

ところでこの「上陸場に群がる市民」ってなんか失礼な書き方じゃないですか?
歓迎してくれてるのかもしれないんだし・・・。

このような立派な市庁舎前での陸軍軍楽隊による歓迎も行われました。
この「陸軍」とはもちろんメキシコ陸軍のことです。

マンザニヨの港がメキシコに正式に参入されたのは1908年のことです。
それからこの時にはもう16年経っています。

今ではそこそこ中規模の(ホームデポもある)港町のようですが、
当時は「土人」と日本人が呼んでしまうような、家よりも椰子の木が多い
風光明媚な土地であったらしいことがわかります。

 

 

仙人掌というのはサボテンのことです。
漢の武帝の時代に作られた巨大な像で、仙人が大きな皿を持った掌を
差し伸べているのにサボテンがそっくりだということから呼ぶようになりました。

 

写真の候補生が抱きついているサボテンはトゲがない種類らしいですね。

 

 

■ グワダラハラ市見学

 

マンザニヨ碇泊中の市民の歓迎は大変温かなものだったそうです。
平成29年度自衛隊練習艦隊も同じ「マンザニージョ」に寄港し、
太平洋艦隊司令部を表敬訪問したという報告がありましたが、
この時もメキシコ側はグワダラハラ行きの特別の列車を立ててくれ、
准士官以上の乗組員が招待されたということです。

グワダラハラは現在メキシコ第二の都市であり、中米屈指のグローバル都市です。
その美しさからメキシコ人をして

「西部の真珠」

と誇らしく言わしめるほどだといいます。

 

グワダラハラ女子商業学校の見学。
グアダラハラはマンザニーニョから内陸に入っていったところにあり、
教育についても一流名門校であるグアダラハラ大学を要し、
グアダラハラ国際ブックフェアや映画祭などが行われる文化都市でもあります。

国の威信をかけた学校を作ることこそ投資を誘致し、経済発展を則し、
競争力のある専門家を育成するための経済活動であるという考え方から、
開発の段階からそれを最重要として都市部と同じレベルの教育を目指してきました。

この時に女子商業学校を見学することになったのも、当地の「誇り」であり、
自慢の教育組織を異国から来た海軍軍人に見せたかったのでしょう。

 スペイン風の豪壮な石造りの建物が残るグアダラハラ。
21世紀となった今もそれらは変わらないままです。

スペイン人が1500年から築いてきたグアダラハラは古都でもあり、
その関係で日本の姉妹提携都市は京都です。 

 メキシコ陸軍の騎兵隊の訓練を見学。 

 現地の「有力な日系人」の私宅で行われた茶話会。
日系人と言いながらも顔の濃い人たちばかりです。

百武練習艦隊指令は中列の左から3番目にいます。
背の高い人はメキシコ海軍の軍人のようです。
日系人の血縁関係だったのかもしれません。
この軍人の子供が前の三人で、妻が前列の美人だと思われますがどうでしょう。

 

グアダラハラに行く途中にある内陸の町「コリマ」。
艦隊の乗員が横一列で歩いていきますが、寒いのかマントを着ている人がいます。

 

これもコリマの中央寺院の写真です。
大一種軍服に帽子は白、なぜかマント着用の候補生が多いですね。
冬でも二十五度くらいが日中の平均気温ですが、内陸なので
夜との寒暖差が激しく、マントが必要なのだろうと思われます。

 

寄港地のマンザニーヨでは、旗艦「浅間」に現地のメキシコ人を招待し、
柔道や剣道などの武技を見せて文化理解をしてもらいました。

 「これからご馳走」(笑)

もちろん、旗艦での艦上レセプションは毎日のように行われたでしょう。

艦上における剣道の模擬試合を、現地の人を招いて見学してもらいました。

「永劫の過去より培われ来たりし大和魂の深遠さを
崇高に厳粛に思考し推察したようであった」

とキャプションがあります。
まあ言いたいことはわかりますが、少し上から目線すぎるような・・。

不鮮明なのでわかりにくいですが、真剣による居合も披露されました。
これを初めてみたらそれは確かに「大和魂の深遠さを厳粛に推察」したことでしょう。

ところで、我が日本国の練習艦隊も、90年前と全く同じことを
寄港地で行なっていたことが報告会にいってわかりました。

写真は平成29年度遠洋艦隊がハバナに寄港中行われた「文化交流」。
現地の剣道愛好家を交えて剣道の試合などが行われた時のものです。 

こちらはチリの寄港地バルパライソにて。

剣道の試合を見守るのは艦艇見学に来た現地の人たちでしょうか。

剣道ではありませんが、文化交流の一環として向こうでは太鼓演奏を披露しました。
陸自の自衛太鼓が有名ですが、海自も太鼓のクラブがあるんですね。

 

こうしてみると、自衛隊の練習艦隊における

「日本及び海上自衛隊に関する正しい理解を深め、その国に存在感を定着する」

という目標は、この頃も全く変わりはありません。
というか、この頃にそういった目的が確立されたと考えるのが良さそうです。

 

続く。

 

  


攻撃精神棒倒し〜平成29年度 防衛大学校 開校記念祭

2017-12-03 | 自衛隊

さて、平成29年度の防大開校記念祭における棒倒し、
いよいよ決勝戦となりました。

第一試合の勝者大4大隊対第二試合で第3大隊を下した第2大隊の対決です。

グラウンドで柔道の組み手や応援団の演舞が行われている間、
学生舎の屋上には決勝進出する第2大隊のブルーが見えました。

最後の試合に向けて秘策を練っているに違いありません。

そしていよいよ選手が入場してきました。
先ほどは気がつきませんでしたが、写真の手前には応急セットと
怪我人を搬送するための担架がスタンバイしています。

棒倒し責任者を先頭に拳を振り上げ、掛け声とともに入場。

棒倒し舞台の後ろには応援団が伴走してついてきます。

この大きな旗を持って走る人は大変そう。
この日は風がそんなに強くなかったのでよかったです。

後ろ姿・・・・あれ?靴を履いている人がいる。
棒の周りを抑える人は靴着用可だったのですね。

それからズボンのお尻の部分を白いテープで補修している人が・・。
破れちゃったのか、それとも裂け防止?

試合に先立ち真摯に礼。

攻撃隊が膝につけているパッドは、膝の怪我防止と、
膝そのものが凶器になることを予防するためでしょう。

交互に気合を入れて相手を威嚇する儀式です。

第4大隊の気合入れは中腰で手をぶらぶら。

わたしの後ろには防大生の一団が立って見学していたのですが、
(応援団の紹介の時に『めいも〜ん』と言っていた人たち)
口々に「第四大隊〜!」「頑張れ〜!」と声援を送っていました。

海軍兵学校の棒倒しは毎週一回、全校生で行われましたが、防大では年一度(ですか?)
だけで、参加するのは全学生の半分くらいと聞いたことがあります。



試合前のセレモニーも終わり、やる気満々で自陣のスタート地点に移動です。
ところでふと気がついて2013年、つまり4年前の棒倒しの写真を確認すると、
攻撃隊のこのニーパッドはその時にはまだ使用されていません。

この4年の間に膝が原因で何か事故でも起きたんでしょうか。

ヘッドギアも昔はもちろんなしで戦っていて、脳震盪や鼻血は日常だったのですが、
まず耳が切れるのを防ぐために布の帽子をかぶりだしたのが30年前。
しかし所詮布なので終わった時には脱げてしまっていたということです。

しかも、これはわたしの推測ですが、布の帽子はあご紐を首で結んで着用するので、
外れて喉を締めてでもしたら変危険ということになったのではないでしょうか。

もう一つついでに気がついたところをいうと、彼らのシャツのデザイン、ネックに
V字の切れ込みを入れてありますが、これは5年前から変わっていません。
いざとなると裂けてネックの輪に首が吊られるような事故を未然に防ぐためです。

棒倒しでシャツがビリビリになるシーンはもうおなじみですが、
ふつうのTシャツより裂けやすくなっているからなのです。

ディフェンスがラーの祈りをやっている間にも攻撃隊が出陣準備。
この走る順番も厳密な計画の上に決まっていると思われます。

腕の力だけで体を軽々と持ち上げる「上乗り」の人。
あっ、ズボンのお尻を補強していたのはこの人だったのか。

上乗りに続き、棒の周りを立って固める四人が準備をします。

そして競技開始!
平成29年度防大開校記念祭、棒倒しの今年の勝者を決める戦いが火蓋を切りました。

敵陣に全力疾走していく攻撃隊。
合戦ならば鬨の声を上げつつ突進するところですが、棒倒し競技は
昔から「無言で行うべし」と定められているので静かです。

しかし、無言ならではの迫力がこの瞬間からグラウンドを支配し、
人々はその空気にただ飲まれたようになって勝敗の行く末を見守ります。

グラウンド中央で攻撃隊同士がすれ違う瞬間。

サークルに近づいた途端「キラー」と呼ばれるオフェンスの先鋭隊が
カウンターをかましに出てきました。

走りながらいきなり膝蹴りをカウンターにくらわそうとしている人もあり。
(なるほど、それでニーパッドが必要になったのか)

「キラー」には武闘系のクラブに入っている者が選ばれますが、
左で構えている学生もそんな雰囲気がしますね。

上乗りは指差しで防御に注意を与えながら・・・・ってこれ聞こえるんだろうか。

正面突破するチーム、横に回り込むチーム、そして後ろから・・、
と、攻撃隊は細かく役割分担して作戦を練ってくるようです。

昔たまたま第2大隊の学生舎の中庭のようなところで、棒倒し隊が
背中からサークルに駆け上る特訓をしている光景に遭遇し、
写真を撮ってしまったのですが、別大隊の作戦を偵察するべく
スパイを送り込むことも(おそらく意図的に)行われていて、
しかももしそれが発覚したら捕まって大変なことになるとか・・。

それからこの写真で気がついたのですが、彼らが持っている布ベルトは、
腰に巻いたものを隣のディフェンスが左手に握り肘の先に巻きつけて
棒周りの結束を強めるために使うらしいですね。

つまり棒の周りの「サークル」は、その結束を解くわけにいかず、
サークルを駆け上ってくる敵の攻撃を右手だけで阻止しなければなりません。
「四天王」はその敵を棒に寄せ付けないようにする武闘派なのです。

サークルの芯に迫ろうとする攻撃隊を引き剥がそうとするキラー、
そうはさせまいと二人掛かりでキラーを抑える攻撃隊。

サークルに駆け上るための「台」を形成しようとしているようです。

うっわーわかりやすっ。

背中を踏み台に何人かで作った「人間のラッタル」を、今
4名の攻撃隊が駆け上っていきます。

次々と駆け上ってくる第2大隊の攻撃陣。
なんか気のせいかもしれないけど、今までの試合で一番作戦が
作戦として成功しているように見える。

わたしの座ったところからは向こうのサークルがこんな風にしか見えません。

第4大隊の攻撃と第2大隊の防御の様子を望遠でなんとか一枚。
サークルに駆け上る通路で捨て身のディフェンスをしている模様。

こちらではサークルの反対側にも馳けあがるための踏み台が作られてしまいました。

防御の四天王は右側からの攻撃隊によって引っ張られ、
逆側から侵入した攻撃隊が棒にたどり着きます。

二人掛かりで棒を引き倒すつもりですね。

第2大隊、棒に完全に一人が抱きつく態勢になりました。
勝負がつくのも時間の問題か?

棒に抱きつく人を肩に乗せている縁の下の力持ち。
第2大隊が勝ったら功労章はぜひ彼に差し上げて!

サークル右側では次々と駆け上る攻撃隊を引き摺り下ろそうとするオフェンス、
それを抑える攻撃隊がもみ合いに。

ついに攻撃隊の手が棒の先にかかってしまいました。

せめて棒を倒させまいとする防御の肩を掴み邪魔している攻撃隊。

棒の周りのせめぎ合いがすごい。
ついに脚をかけ、体重を思いっきりかけるところまできました。

えーと、一人ぼんやりしているように見える人がいるけど気のせいかな?

これだけ倒れたらもう勝負あった、って思うでしょ。
それがなぜかホイッスルが鳴らないんですよ。
「30度角で3秒」の3秒ルールでいうとまだダメみたいです。

ここで全体像を俯瞰してみますと・・・。

サークルの足元で倒れてる人、大丈夫なのかしら。

今度こそ!と4人がかりで棒を引き倒しにかかります。
逆摺鉢山の4人。

地面での個別戦闘も平常通り行われております。

初段からイケイケで早くから勝機を掴んだと思われましたが、
ここにきてなかなか棒を倒しきれない何秒間が過ぎていきます。

どうなる第2大隊!

と、そのとき。

勝負あったのホイッスルが鳴り渡りました。
攻めあぐねていただけにハッとして自陣の棒を確認する選手。

わたしの目には勝負はもう少し早く着いていたと思われるのですが、
ここにきて青の第2大隊の勝利が確定したのです。

万歳ではなく、終了後の「空手チェック」のため皆が手を挙げて。

サークルの下でまだ立ち上がれない人もいます。

そして平成29年度棒倒し競技、青の第2大隊の勝利で幕を閉じました。

礼が終わって初めて感情を爆発させる勝者の第2大隊。
あちこちで抱き合って喜びを分かち合っています。

確か昨年度の優勝も第2大隊ではなかったですか?
ということは、彼らは優勝旗を守り抜いたということになります。

棒倒し責任者がなんか言ってますが、溢れ出る喜びを隠すこともできず。
防御隊のシャツは切込みから裂けてしまっていますね。

帰りを急いでいたのでわたしはこの後の表彰式は見ずに家路につきました。

 

棒倒しを見ると、海軍兵学校の同窓会に参加した時に元生徒さんたちが
何かと言うと「軍歌演習を行(おこ)のう!」という一声のもとに
必ずみんなで歌っていた「兵学校数え歌」の二番を思い出します。

ニツトセ

踏んだり蹴ったり殴ったり

攻撃精神棒倒し

ソイツァ 豪気だネー

戦後も70年経ちましたが、兵学校の象徴たる棒倒しを引き継いだ
防衛大学校は、この平和の世において相変わらず

「踏んだり蹴ったり殴ったり」

の「手荒な儀式を行のう」ことによって、未来の戦闘指揮官としての覇気を養っています。

戦後社会らしい人権意識があまねく浸透し、防具の機能発達やルール改変が
兵学校時代と比べると確かに全てをマイルドにジェントルに変えてきましたが、
この日グラウンドに横溢した彼らの「攻撃精神」そのものは、
兵学校時代のそれに
全く劣らないものだったに違いありません。

わたしはその興奮の余韻を噛み締めながら小原台の長い坂を降りていきました。

 

防衛大学校開校記念祭シリーズ終わり




5年後の棒倒し〜平成29年度 防衛大学校 開校記念祭

2017-12-02 | 自衛隊

防大名物棒倒し。

これはいうまでもなく、発祥は海軍兵学校です。

兵学校を描いたものには必ずこの棒倒しについての言及があるのですが、
中でも兵学校の英語の先生だったセシル・ブロックがこの棒倒しについて
外国人の目で素直に感動したことを述べています。

ブロック先生に限らず、江田島を訪問した海外の武官は、やはり皆
この棒倒し競技に驚愕し強い印象を受けて帰るのが常でした。

自分の過去ログに()ブロックが見た棒倒しの記述を発見したので貼っておきます。

紅白に分かれ、約百メートル離れて対峙した一団は、
在校生を二分した同数の攻撃隊と守備隊に分かれています。

防御隊は、高さ2メートル半、直径15センチの丸い棒を中心に、
その周りを幾重かのスクラムを組んで固めています。
棒の周りには頑強な体格の者ばかりが選ばれます。

下級生たちの肩の上には一号が乗って、敵の攻撃隊と直接戦うのです。
そして、その棒のてっぺんに刺さっている旗を取るのですが、
その棒の根元には、
二人の特に頑丈な生徒があぐらをかいて棒を支えています。

 

昔は頂上の旗を取れば勝ちということになっていたのですが、今では

「3秒間30度の角度に傾けば勝ち」

というルールに変わっています。
さらに、昔は時間制限はなく、とにかくどちらかが取るまで行われましたが、
今は2分と決まっているそうです。

最初にこれが2分、しかも大抵は時間制限内に勝負がつくと聞いた時には
その短さに結構驚いた記憶があります。

さらに、昔は棒が倒れなくとも旗を取れば勝ちだったので、
厳密には棒倒しではなく「旗取り」というべきだったのですが、
今は倒せばいいだけなので名実ともに「棒倒し」となっているのです。

予選第二組は緑の第3大隊対青の第2大隊。
抽選によるものか、寒色系同士、暖色系同士の予選となった訳です。

慣例に従い、両チーム交互に気合いを入れるタイム。

こちら青の第2大隊は、攻撃隊と防御隊で交互に万歳?をするスタイルです。

ところで、確認のために自分のブログから防大の棒倒しの記事を探してみたところ、
昔(2012年だからもう5年前)当時の棒倒しは

「対決前に両大隊の棒倒し責任者が出てきて中央で睨み合う」

という儀式をやっていたっぽいんですよ。
プロレスラーとかボクサーが試合前に顔の距離1センチのところで
互いの目を睨みつけるパフォーマンスに近い感じのを。

あれから5年、何が起こったのか、このにらみ合いはなくなっていました。

競技が始まる前には、地面に描かれたサークルのきっちり真ん中に
棒倒しの棒が横たえてあります。
2m50cm、直径15cm、規格は兵学校のを踏襲しているようですね。

団体の中央で一人ヘッドギアなしなのが「棒倒し責任者」。
昔は「棒倒し総長」といいましたが、暴走族が社会問題になった頃、
まるで暴走族のリーダーのようだ、ということで「責任者」になりました。

これも世論を忖度する防衛省的謎の圧力の被害と言えなくもありません。

前にもいったことがあるように、わたしなど、責任者という名称は
どうにも役所的で棒倒しの実態にはそぐわないと思ってしまいます。

さらに本来なら責任者同士でメンチを切り合う(この文章もなんか変)はずが、
いつのまにかそれを無くしてしまい(たぶん不良の喧嘩みたいで柄が悪いとかで)
何のために両チームの火元責任者、じゃなくて危険物取扱責任者、でもなくて
棒倒し責任者がヘッドギアなしで出てくるのか、すでにその理由が失われていることを、
わたしはこの日、草葉の陰でじゃなくて上で一人考えずにはいられませんでした。

防大生の気質も5年も経てば変わってくるのは当然ですが、それが
より一層ジェントルに、ソフィスティケートされ、荒々しさの対極へと
変化していっているその実証の一端を見た気がしたからです。

いや、いいんですよ。
紳士たれがモットーでもある防衛大学校としては。

ただ、たとえ形骸的にであっても荒ぶることが許されているはずの棒倒しですら
徐々に徐々に牙を抜かれ、お行儀のいいスポーツへと変遷しているようで、
普通の学校ならいざ知らず、戦闘指揮官養成学校でこれは如何なものか、
と「ぼんやりとした不安」を感じずにはいられなかったのも事実です。

いずれにせよ、例えば今日から5年後、ここ防大グラウンドでは
どんな棒倒しが行われることになるのでしょうか。

 

合戦前の準備が始まりました。
総員配置につきます。

棒を立て、「上乗り」が頂点に軽々と飛びつきます。
簡単そうに見えますが、実はそうでもない気もします。

 

下にいる人たちが皆で手を上げている様子は、まるで太陽神ラーの祈祷とか、
ムウ帝国のマンダに捧げる祈りみたいですが、これは推察するに「空手証明」、
爪が覆われて武器を隠し持っていないことを証明するための動作です。

これも5年前は整列している時に手を前に出して、それを審査員が
歩いて見て回っていたのが今回なくなっていたのでそう解釈したのですが。

開始の合図があり、青の攻撃隊が一斉に駆けていきます。

そしてたちまち敵のオフェンスがサークルを攻略せんとやってきました。
手前の4人はサークルの後方から攻めようとしていますが、そうはさせじと
サークルの後ろには武闘系の学生を配置します。

棒の周りを立って固めるのは四人。
勝手に「四天王」と呼んでいたのですが、どうも本当にそういうらしいです。

兵学校の頃は、これは上級生の役目と決まっており、四号生徒(1年生)は
大体が下で棒を支える係に配されていたようです。

あっ、緑の攻撃隊がサークルを割ろうとしてますね。

ちょっとこれ一体どうなってるの、と一見思ってしまいました。

オフェンスが肩の高さに浮遊しているように見えますが、
これはサークルに取り付くようにして背中を向けている攻撃隊の背中に
駆け上がろうとしてジャンプした瞬間なんですね。

そして、四天王はいつのまにか一人が脱落して3人に・・・。

手前、大体6人くらいで(笑)乱闘となっております。
攻撃隊が一列に並んでいるように見えるのは、連続してサークルに突入し、
活路を開こうという作戦に違いありません。

手前の海自迷彩の審判が何かアクリルのボードを掲示しています。

向こうからサークルをよじ登ろうとする突攻を
果敢にも足蹴にして撃退する四天王(のうちの二人)。

左、サークルに突撃していこうとする突攻を二人掛かりで
引きずり出そうとしているオフェンス。

右は緑勢がサークルの外側から人員を剥がして突破口を作ろうとしています。

棒の周りを固めているサークルを緑が覆い隠すような状態になってきました!
どう見ても緑が優勢。

しかし棒の上の上乗りは健在。
上乗りがいる限り棒を倒したことにはなりません。

ずっと上から自分を引き摺り下ろしにやってくる
敵と戦う味方を見ているのってどんな気持ちなんでしょう。

張り手?を食らう人、突攻を羽交い締めする人の脚にしがみつき
足止めをする人、ウレタンのギアが壊されてしまう人・・・。

しかし次の瞬間・・・、

青の第2大隊の攻撃が棒を倒したらしくホイッスルが鳴りました。
すごくいいところまでいっていたのですが、青組が早かったようです。

勝敗が決したらさっさと自陣に戻ります。
真ん中の人、ノースリーブになってしまいました。

試合が終わり、両者定位置に整列して礼。

礼が終わるなり思わずガッツポーズ。
第2大隊対第3大隊は第2大隊の勝利となり決勝進出を決めました。

ここで観客に向けてアトラクションタイムです。
柔道部が二人ひと組で投げ技を披露しました。

えー、これは背負い投げでいいのかな?

単なる「型」とはいえ、全員が相手を地面に叩きつけた時、
観衆からは驚きのどよめきが漏れました。

投げられる方も受け身ができているとはいえ、
硬い地面に体を落とされて痛くないんでしょうか。

しかもその中に女性が一人混じっていました。
投げている方の柔道着には63期と刺繍されていて、4年生なので
投げ役を最後にしているらしいのがわかりますが、観客としては
女性が男性を投げ飛ばしているのをちょっと見たかったかも(笑)

 

迷彩服でベートーヴェンを華麗に弾く男子がいれば武闘系柔道女子もいる。
なかなか防衛大学校とは人材豊富な集団だと思った一日です。

続いて防大応援団による演舞が行われました。
「あおざくら」を読んだばかりの知識によると、応援団の訓練は凄まじく、
これに耐えて一人前になるのが「男の証」みたいな風潮があるとか。

持ち上げるだけで大変そうな巨大な大団旗を見ただけでその気迫を感じます。

応援団の団員については出身高校と氏名が紹介されたのですが、例えば

「埼玉県立川●高校出身」

というと、後ろで見ていた防大生の中から

「めいも〜〜ん」

「東京都竹●高校出身」

「めいも〜〜ん」

その日家でその話をTOにしたところ、

「それ、応援団文化。学校をいうとめいもーん、というのが約束なの。
旧制高校時代で高校イコールみんな名門だった頃の名残りなんだよ」

と教えてくれました。

「なんだ、川●高校と竹●高校が本当に名門なのかと思っちゃった」

わりかし失礼なことをさらっというわたし。
生徒が防大に入るくらいだしどっちも名門に決まってますよね?


 

続く。