ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「そうりゅう」型潜航訓練装置〜潜水艦教育訓練隊

2018-04-09 | 自衛隊

 

呉から帰ってきてすぐに「せいりゅう」の入港式典に立ち会ったため、
そちらのご報告が先になりましたが、もう一度呉観桜会の日に戻ります。

観桜会の日、会場入りの前にてつくじで総監ドッグをいただいたわたしたち、
その前に潜水艦訓練基地、通称『潜訓』の見学を行いました。

 

ところで、アレイからすこじまに行けば、係留されている潜水艦を見ることができ、
ここも呉観光の一つのポイントになっているにも関わらず、
その道を隔てて向かいの潜水艦基地についてはあまり知られていない気がします。

潜水艦そのものが「秘密の塊」であることから、おそらくその訓練施設や基地は
まず一般には公開される機会も少ないのだろうと思っていたのですが、
今回その中の訓練施設を見学するという大変貴重な機会をいただいたわけです。

訓練施設については写真の許可を得ておりますので、ブログでの公開についても

「全く問題ない」

と現役自衛官から保証していただきましたので、安心して進めたいと思います。 

わたしたちを乗せた車が第一潜水隊群の門を入っていきますと、
駐車場の端に可愛らしい潜水艇が展示してありました。

潜水艇「ちひろ」です。

先日就役を見届けた潜水艦救難艦「ちよだ」が搭載しているDSRVとは、
何らかの理由で浮上できなくなった潜水艦の乗員を救助するために
潜水艦にドッキングさせ、乗り移らせて救助するものです。

この「ちひろ」はそれらの導入に先立ち、各種研究を行うための実験艦で、
昭和50年、川崎重工によって建造されました。

戦後、レスキューチャンバーという救難装置、つまり脱出カプセルというか
鐘のようなものを潜水艦のところまで降ろして人員を救う、という方法が
それまでの「潜水艦を丸ごと引き上げる」のに変わって編み出されました。

しかしこの方法は、脱出した時に潜水艦にいた人員は、どうしても
深海の圧力に晒されることになり、潜水病の危険は避けられません。

チャンバーは潜水救難艦からワイヤで降ろす方式ですが、その方法では
たとえば潜水艦が横になっていたり、チャンバーが海流で流されても
うまくハッチに接続することはできません。

そこで一歩進んで、自走する潜水艇で潜水艦のところまで行って、
ハッチに被せたスカートを通って脱出するという方法が考えられました。

それが深海救難艇、DSRV(Deep Submergence Rescue Vehicle)です。

「ちひろ」が技術研究本部に導入されてから10年後、DSRVを搭載した
最初の潜水艦救難母艦「ちよだ」が就役しました。

これが先日就役した潜水艦救難艦「ちよだ」の先代となります。

 

潜水艦救難艦の命名基準は「城の名前」です。
個々の潜水艦を城に仕える武士に見立てているようですね。

救難艦でもなんでもないので、この救難艇の実験艦には「ちよだ」「ちはや」、
どちらにも似た、(しかし城ではない)「ちひろ」という名が与えられました。

DSRVが就役を行うことによって、その役目を早々と終えた「ちひろ」ですが、
廃棄されずにここ第一潜水隊軍の敷地内に記念として残されているのは
彼女に対する深い感謝と敬意の表れに違いありません。

見学する「潜訓」の正式な名称は、

潜水艦教育訓練隊本部

といい、国内でここだけのサブマリナー養成機関です。
かつてニューロンドンにある潜水艦基地博物館見学記の一項で、

「グロトンがアメリカのサブマリナーのふるさとならば、
海上自衛隊のサブマリナーの故郷は呉である」

と書いたことがありますが、ニューロンドンの潜水学校のように、
日本の潜水艦乗りも、初級訓練で全員がここに学び、
節目節目でまた戻ってきて訓練を受けることになっています。

「つまり自衛隊の潜水艦乗りは全員ここの出身です」

伺ったところ、現在進行形で訓練を受けているのが全部で200名。
そのうち幹部が約20名といったところだそうです。

「昨今は以前より増える傾向にあります」

 

うーん・・・潜水艦は今、海国日本の最前線だからなあ。

海上自衛隊の潜水艦徽章はしゃちほこのような対の魚です。

潜水艦徽章といえば、ちょっとこれ見てくださいます?

先日扱った、「ダウン・ペリスコープ」(イン・ザ・ネイビー)という映画の
劇中、第二次大戦の生き残りのじーちゃんが、

「生きててよかったぜ!DBF!ディーゼルボート・フォーエバー)」

と叫んでいたことから調べて見たところ、在日米海軍に当時まだ存在していた
ディーゼル式潜水艦の乗組員が作ったこのDBFバッジのことがわかり、
そのストーリーについてはここでもお話させていただいたわけですが、
その後、検索していて
アメリカのミリタリーショップでこれを見つけました。

日本人(横須賀)の業者が作った割には人魚の顔とか雑すぎる気がしますが、
ともかく、これが下士官兵用のDBFバッジの本物です。

人魚の下の6個の穴は貫通しており、「原潜を助けた回数」だけ
星をつけることができるようになっていました。

このように、徽章というのは魚とかイルカ、人魚が必ず
向かい合うデザインが圧倒的に多いような気がします。

 

さて、閑話休題。
本日案内してくれる士官と一緒にこのエントランスを入っていきますと・・、

 

さすがは自衛隊、「愚直たれ」ほどインパクトはないものの、
各課程ごとに指導方針が標語となって書き記されております。

スマホの方のために書き出しておきますと、

幹部専修科潜水艦過程

一、幹部の視点で考え、積極先取の姿勢で臨め

二、幹部に必要な素養を高めよ

幹部専修科潜水艦戦術過程

自己の弱点を把握し克服せよ

第二九〇一期海曹士専修科 潜水艦武器システム過程

技能を磨け

第二九〇一期海曹士専修科 潜水艦救難艇操縦過程

努力を惜しむな

第二九〇一期海曹士専修科 潜水艦過程

一、潜水艦を知れ

二、同期を大切にせよ

三、心身を鍛えよ

 

「努力を惜しむな」とか「技能を磨け」とか、
当たり前のことしか言っとらんじゃないか、などというべからず。
標語というものは本来そういうものなのです。
それを心に刻み愚直に実践することに意味があるのです。

ここで特筆すべきは「潜水艦を知れ」。
出たよノウユアボート。

潜水艦といえばノウユアボート、ノウユアボートといえば潜水艦。
最初にして最後、いわば彼らの「心臓」となる言葉でもあります。

ほら、ここにもありますでしょ?
昭和44年に制定されて、一度たりとも変更されていません。

ということは、今現役のサブマリナーは全員この基本方針で鍛えられたってことね。

実はここの潜水艦基地は、戦前も潜水艦基地でした。
さらにその前はここに神社が祀ってあったということです。

「この階段は昔参道だったのをそのまま使っています」

階段の下左側に見えているのは昔手水に使われていました。

「はー・・・古いですねえ・・もしかしたらあれ防空壕跡ですか」

「防空壕だったところです。
地下には地下道が掘られていて、庁舎まで続いていたという話です」

 自然の崖の斜面を生かして壕を作っていったんですね。
奥の建物も終戦前のもののようです。
窓を取り替えたりしながら使い続けているんですね。

旧海軍時代もここは潜水艦基地で、桜の木が大木となって花を咲かせていました。

小説「海軍」では、主人公(真珠湾の軍神になった横山正治少佐がモデル)
の谷真人が、海軍を諦めて海軍画家となった親友の牟田口がここに案内し、
当時「6号艇神社」として飾ってあった(おそらく『ちはや』の場所)
佐久間勉艦長の殉難潜水艦を見学するシーンがあります。

第6潜水艇は終戦後進駐軍によって解体を命ぜられましたが、
その船体は桟橋となり、一部は密かに残されて、現在同敷地内の
潜水艦教育訓練隊資料室で保存されているということです。

終戦間際にあった呉の大空襲の際、ここは爆撃を受けませんでした。
進駐後、自分たちが使うことを想定していたからです。

念のために案内の自衛官に伺ってみると、今左手に見えている建物も
その時に攻撃一つ受けず、生き残って現在も使用されているものです。

わたしたちが案内されたのは「そうりゅう」型潜水艦の訓練装置棟でした。

真ん中のイラストが、訓練装置の全容です。
上部の構造物そのものが、操舵に忠実に動くようになっており、
潜水艦操縦におけるあらゆるシチュエーションを模擬体験することができます。

建物には靴を脱いで入ることになっていて、このシミュレーターには
ステップから乗り移ります。
まさにテーマパークのアトラクションに乗り込むような感じです。

 

「どうぞお座りください」

「えっ、座っていいんですか」

操舵席に座らせてもらいました。

「動かしても構いませんよ」

「わーい」

調子に乗って一気にぐいーーんと前にレバーを押してみました。
これが本当の『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』だ。
レバーのボールはちょっと小さいみたいだけどね。

しかし何も考えず、気持ちの赴くまま押していると、

「お・・おお?」

床があっという間にものすごい角度で傾き、立ってられないくらいの傾斜に。
わたしは座っていたので大丈夫でしたが、座席の下にサングラスが落ち、
ずずーいと前方に行ってしまいました。

「潜水艦で潜航するって、本当にこんな風なんですか」

「そうですよ」

何を当たり前のことを言うのか、と言う顔をされてしまいました。

何年か前モルジブで遊覧潜水艦に乗ったことはありますが、
こんな急速潜航をしたわけではないので(そらそうだ)
これがわたしの体験した初めての潜水艦の動きと言うことになります。

「うーん・・・なかなか気持ちの悪いものですね」

「潜水艦に最初に乗る前に、学生はここで潜水艦内部の動きを体験します」

 

TOにも操舵を変わってあげました。

このシミュレーターのパネルについても、現地で写真許可が出ていたのですが、
これを公開してもいいかどうか潜水艦関係者にこっそり伺ってみたところ、

まさかとは思いますが、深度計(安全潜航深度までの目盛りがついている
「深深度計」の方です。)にカバーがかかっていることを念のためご確認ください。

と返事をいただきました。

深深度計といわれましても・・・・・ここには写ってませんよね?

「そうりゅう型」シミュレーションとはいえ、例えば最新の「せいりゅう」などでは
もうこんな前時代的な機器は搭載されていないような気がするのですが。

「合戦準備盤」と言う言葉は物々しいですが、自衛隊では普通に「合戦」を
アメリカ軍の「バトル」と同じ意味で使っているようです。

「外から見たほうが、どんな動きをするかわかりやすいでしょう」

と言うことで、一旦退出してから、中に残った人がシミュレータを動かしてくれました。

スノーケルによる吸排気の配線?配管図も、現場に大きなパネルになっていました。
訓練者学習用です。

と言うところで「そうりゅう」型の訓練室の見学を終え、資料室に向かうことに。
途中には「おやしお」型潜航訓練講堂がありました。

ここにも今のようなシミュレータがあるのだということです。
潜水艦の訓練を受ける者は、

「すべからくどちらの型の潜水艦をも知るべし(ノウユアボート)」

と言うことで、両方の潜水艦に関する基礎を当分に叩き込まれます。

海上自衛隊初の潜水艦、それはアメリカから貸与されたガトー級「ミンゴ」でした。
「くろしお」と名付けられたその潜水艦を、海軍潜水隊出身の自衛官たちが
アメリカから持って帰ってきた、という話はここでもしたことがあります。

その「初代くろしお型」のために設置された潜航訓練装置です。

かつてはここに備え付けられて、くろしお型に乗組む潜水艦員たちが
訓練を行ったものですが、戦後初の国産潜水艦「おやしお」が就役した時、
その役目を終えて、撤去されたものと思われます。

 

さて、わたしたちはこの後、ここでサブマリナーとして訓練を行う自衛官たちが
精神的な心構えを学ぶための大切な施設、資料館を見せてもらうことになりました。


続く。




式典と邂逅〜潜水艦「せいりゅう」入港式典 @ 横須賀地方総監部

2018-04-08 | 自衛隊

さて、潜水艦「せいりゅう」の入港式についてお話しするのも最後になりました。
ラインを岸壁と艦の間に渡し、係留して固定する作業が終わり、続いては
全員が上陸する準備にかかります。

艦橋の艦長以下青いストラップの幹部は、一人ずつハッチに消えました。

潜舵の上からどうやって下に降りるかというと・・・、

潜舵横に付けられた足場を降りていくことができます。


潜舵の横から降りていくと、こんなところを通って行かねばなりません。
手すりもついているし床は滑らない素材だとは思いますが・・・。

潜舵に出入りするドアはどちらも解放されていたので、下からは
向こうがドア越しに見えるというなかなか珍しい光景が見られました。

自衛隊の潜水艦は川崎重工と三菱重工で交互に作っていますが、両社の製品は
同じ規格でも微妙に違うのだそうで、例えばこのドアの形状、

「四角ければ三菱製、丸いのが川重製」

と見分けることができるのだそうです。

ちなみに川崎重工業製の「せきりゅう」が呉に入港したとき。
ちょうどここのドアが開いていて、形状が丸いのが確認できますね。

三菱重工業神戸造船所は、商船建造を2012年6月に撤退ており、
同造船所にとって「せいりゅう」は「じんりゅう」進水以降、
2年ぶりの進水式を行った船ということになりました。

作業中に着ていたオレンジの救命胴衣を脱ぎ、全員が艦尾甲板に整列を行います。

入港してくるときに行進曲「軍艦」の演奏を行った横須賀音楽隊、
乗員の上陸にのために演奏したのは自衛隊公式歌「海をゆく」でした。

艦長を除く幹部を先頭に、上陸が始まります。

わたしはてっきり「初入港」というのは形だけのことで、「せいりゅう」は
昨日のうちに一度入港して、いわゆる「立て付け」を行っているはず、と
思い込んでいたのですが、本当のところはどうだったのでしょうか。

 乗員の総数は65名と公表されています。

この日の見学者は招待客、隊員の家族や関係者、水交会などの団体、
防衛モニターといったところだったと思います。
彼らの行進が終わったとき、近くにいた防衛モニターらしい女性が

「あー、鼻血出そうになった」

となかなか斬新な感想を述べていました。

幹部は艦長を入れて5名。
副長、航海長、船務長、水雷長、それから機関長かな?

あれ?さっきラインを岸壁で引いていた人が行進いるような気がするぞ。
ということは、やっぱり事前に立て付けのために上陸していたのかも?

海士の皆さんの帽子の真新しいリボンには

「第6潜水隊」

の金文字が眩しく光っています。
水兵さんの帽子に所属を記すのは帝国海軍からの伝統ですが、
この漢字表記って、外人さんからは結構クールに見えると思うんだな。

第6潜水隊が所属する第2潜水隊群は、先日就役した潜水艦救難艦の
「ちよだ」を直轄艦とし、

第2潜水隊「うずしお」「なるしお」「たかしお」

第4潜水隊 「ずいりゅう」「やえしお」「せとしお」

第6潜水隊「こくりゅう」「せいりゅう」

という編成です。

川崎重工で行われた「しょうりゅう」の進水式の時、新造艦の艤装艦長は、
必ずどこかの艦長を経験していなければいけない、と聴きました。

「せいりゅう」艦長の平間武彦二佐の前職は、奇しくも?同じ第6潜水隊の
「こくりゅう」艦長であったということです。

艦長が横須賀地方総監に着任の報告を行います。

わたしは3月12日、神戸でこの「せいりゅう」の引渡と就役を見届けましたが、
その後、「せいりゅう」は約三週間呉で習熟訓練を行ったのち、
ここ横須賀に着任してきました。

入港式典は非常にシンプルで、総監に挨拶の後は、
横須賀の議員が艦長に花束を贈呈、花を抱いたまま艦長挨拶、
その後は、横須賀市長代理が市長の激励の言葉を代読、というものでした。

それが終わると、岸壁に乗員が整列したまま、式典も終了となります。
終わって、なんとなく自分の家族や関係者をその場で待っている乗員の皆さん。

ここから先はプライベートの時間なので、特に厳密にマスクをします。

わたしが今回初めて入港式典に参加して何よりよかったと思ったのは、
進水式、引渡式では決して見ることのできない、乗組員たちの
久々の家族との再会シーンを実際に見ることができたことです。

制服姿の乗員が久しぶりに会う我が子を愛おしそうに抱く姿は、
こういうことに極めて弱いわたしの涙腺を刺激せずにはいられません。

海士の皆さんはまだ独身が多いので、再会するといっても地元のご両親や
あるいは友達や兄弟が多いようでしたが、中には若いパパもいます。

潜水艦をバックに家族で写真。

「せいりゅう」乗員は艤装中は神戸にいたと思われますし、その後は呉。
家族の顔を見るのは果たしてどれくらいぶりなのでしょうか。

お父さんの帽子を被って敬礼。
将来の海上要員だ。

この男の子は、お父さんの首に手を回してしがみついていたと思うと、

小さな手と顔を制服の胸にしっかりと押し当てたままじっとしていました。

入港作業中艦内の配置で、家族と会うために(多分)いそいそと降りていく
乗員がいれば、かたや当直で、ずっと舷門に立っていなければならない人たちも。

できたばかりとはいえ、進水以来二年間ずっと海に浸かっていたわけですから、
それなりに水垢のようなものが付着しています。

艦首部分にあるこのコブのようなものは、ソナーシステムのうちの一つで、
魚雷警報装置(逆探ソナー)だそうです。

艦体には色々と貼られていますが、これらはターゲット・ストレングス
TSレーダーでのRCSに相当する概念)低減のため、入射音を
音源と異なる方向に全反射させる反射材や水中吸音材です。

そして乗員はほとんどが岸壁に出ていってしまいました。
なんども言っていますが、潜水艦は外殻の厚みを知られないように、
ハッチにカバーをかけて隠してしまいます。

任務に就くときには消されてしまいますが、この日は艦体に

「せいりゅう」

と文字が書かれていました。
この日も来賓で来ておられた女性書家が、自衛隊内で
書道を教えたり、看板などの揮毫をされていると伺いましたが、
この「せいりゅう」もその方が書かれたのかもしれません。

自衛艦に入ると必ず艦名が書かれた木のプレートがありますね。
例えば「いずも」「いせ」はその名前の神社の宮司の揮毫が使われましたが、
横須賀のフネはこの女流書家が引き受けることが多いという話でした。

「そうりゅう」型から採用されたX舵。

それにしても、艦体に付着した藻がすごい・・・・。
まあ、新造艦とはいえ進水して2年経っているので無理もありません。

艦体の素材も反射やら吸収やらでデリケートだからゴリゴリ削るわけにいかないし、
いくら取ってもすぐに付いてしまうので、速力に影響が出るレベルまで放置なのかも。

この「せいりゅう」の文字、それにしてもどうやって書いたのでしょう。

家庭持ちの乗員はずっと家族と一緒に岸壁にいましたが、海士クラスの若い人は
誰も家族が来ていなければ、とっとと艦に戻って行きます。

給汽、というのは気体を供給することで、航空自衛隊には
「給汽員」というボイラー関係の資格職があるそうですが、ここにあるのは
どう見ても船に給気する装置です。
Mpa は空気の圧力の単位で「パスカル」ですね。

でも、具体的にどんな船にどういう目的で給気するものかはわかりませんでした。

程なく、わたしたちは横須賀地方総監部を後にし、メルキュールホテルの一階で
お約束の「ゆうぎりカレー」を早めのお昼にいただいて帰りました。


さて、というわけで、わたしは潜水艦「せいりゅう」の引渡式とその出航、
そしてこの日に配備された横須賀への入港を見届けたことになります。

新鋭艦が生まれ、命を得て、新たな任務に就く瞬間に立ち会えた喜びもさることながら、
何より久しぶりの家族と邂逅する父親、あるいは夫であり子である
乗員たちの素顔を垣間見たことで、自衛官と彼らを支える家族に対する
感謝の想いが一層深まるのを感じました。

 

今回、直前にも関わらず入港式典参加をお取り計らいくださった皆さま、
この場をお借りして心から厚くお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。






繫留作業〜潜水艦「せいりゅう」入港式典 @ 横須賀地方隊

2018-04-06 | 自衛隊

 

「せいりゅう」入港式典、潜水艦が沖に現れてから接岸するまでで
案の定一日を費やしてしまった当ブログですが、皆様方におかれましては
ここはそういうものだと諦めて、どうかお付き合いください。

わたしが前回タグボートのことを曳船と書いたところ、
「自衛隊では押しぶねと言っている」というコメントをいただきました。

確かに見ていた限りこの日は曳船というよりは押す仕事ばかりしていたので、
わたしも今後その日の任務によって呼び方を変えようと思います。


こちら、そのころの艦橋。

いつもこの上の構造はどうなっているんだろうと不思議です。
中はラッタルになっているらしいですが、
それでは上半身出している人はどこに立っているのか。

一度でいいからここに上がってみたいものです。

「そうりゅう」型潜水艦の艦長は二佐職です、
肉眼ではわかりませんでしたが、写真に撮ってみると、
小さな旭日が根元にある「長旗」が揚がっているのに気づきました。

長旗は各艦艇を指揮する士官の旗章として掲揚されるもので、
このことだけは旧海軍と全く変わっていないと思われます。

こんなところに羅針儀らしいものが設置されていました。
ここから操舵に指示を出していた、でOK?

艦首側では接岸の瞬間を待って、サンドレッドの投擲用意がされました。

サンドレッドとは、船舶の太い係留索を陸上に渡すために、最初に
日ービング・ライン(heaving line 引き綱)という細いロープの先端に
遠くに投げやすいようにつけた先端のおもりのことです。


今回の出席をお取り計らいいただいた方に、式典から帰って
無事に参加できた旨連絡をしたところ、

「サンドレッドは一発で届いたでしょうか?」

と御下問がありました。
掃海艇のサンドレッド投擲を見たことのあるわたしには、
はっきり言って潜水艦のがそんなに大変なこととは思えなかったので、
思わず

「あれ難しいんですか?」

と質問したところ、

「初度入港でレッドが決まるかどうかは注目の的で、
モタモタしたら後世まで語り継がれます(−_−)」

海に落とすのも絶対にダメだろうな。
入港の社業は時間の勝負なので、ちょっともたつくだけでも伝説になっちゃうのか。
それは大変ハードルが高いぞ。

右から2番目、そして5番目が投擲を行うレッドマンと呼ばれる人です。
普段の入港ならともかく、これだけ観客が多い初度入港でサンドレッドを投げる
レッドマンは、「ある意味艦長以上に緊張するもの」なのだそうです。


緊張、してますかー?

 

ヒービングラインは太いラインに繋がれて、舫杭にかけられます。
船は係留の際、

前後に動かないように バウ及びスターンライン
横に動かないように ブレストライン
前後および横に動かないように スプリングライン

という舫の掛け方をすることになっています。
潜水艦は小さいので普通の船よりラインが少ないようです。

こう言った入港作業の間、音楽隊はずっと演奏を続けていました。
華やかな音楽付きで、しかも皆が写真を撮りまくっているこの状況、
いつもと同じ作業には違いありませんが、艦隊の皆さんはどんな気持ちでしょうか。

これは明らかに着岸の瞬間を「今っ」と指示する人だと思われます。
それと同時にサンドレッドが投げられるのでしょうか。

インカムの人は着岸と同時に国旗を揚げる用意をしています。

彼が指差しした次の瞬間、右の海士くんがサンドレッドを投げたのだと思われますが、
当方この時状況が読めず、国旗の揚がる瞬間も投擲の瞬間も撮り損ないました。

艦上と岸壁ではハンドサインが交わされているようです。

その頃、仕事を終えた一隻の押し船はあばよっと去っていくのでした。
お疲れさま〜。

艦尾側の子はまだお仕事中です。

あれ、ラインが黒いぞ。

相変わらず状況が読めず、またしても艦尾側の第1投を撮り逃しました。
しかし最初のサンドレッドが岸壁に届いた瞬間、ラインマンたちが
ものすごい勢いで走ってレッドを回収。

全員で輪になって、順番にヒービングラインを拾っては離し、
また後ろに行っては拾うという方法でラインを引き揚げていきます。

入港作業は自衛官たちにとっては日常作業ですが、一般人には
はっきり行って、これはちょっとした派手な見ものです。

自衛官たちの躍動感ある走りをご覧ください。

いつの間にか艦首側の国旗じゃなくて艦首旗が揚がっています。
潜水艦用の可愛らしいサイズです。

延々と写真を撮っていますが、経過時間はだいたい2分くらいの間の出来事です。
写真の記録を見たら、着岸が1000と決まっていたらしいことがわかりました。

そして太い舫を舫杭に掛けている後ろでは、艦尾側二人目のレッドマンが投擲。

サンドレッドは岸壁のラインマンによってすぐに拾われ、
すでにヒービング・ライン(細いロープ)を引き揚げて・・、

チームその2によってまたぐーるぐるが始まります。

なんか楽しそうに笑っているようですが、そう見えるだけの人かもしれません。
(そういえば、笑ってないのに笑っちゃいけない時に笑った!とか
マスコミにいちゃもんをつけられた
自衛隊のトップがいたという話を最近聞いたな)

この「ヒービングダッシュ」(わたし命名)をするのは海自だけでなく、
入港先の地本の人(大抵陸自)が参加したりすることもあります。

レッドマンは全部で四人でしたが、全員がいっぺんに投げると
ラインマンの人手が足りなくなるので、何回かに分けて行います。

 

あとはヒービングラインに繋いだ太い舫を杭に掛ける作業があります。
待機している二人が持っている舫は、流石に新造艦だけあってまだ真っ白です。

潜水艦は、艦首と艦尾で2本ずつラインを係留するようです。
大型艦になると、これが8本くらいになります。

たった今調べたところ、索を巻きつけているのはボラード、
左の索を引っ掛けているのは一種のフェアリーダーだと思うのですがどうでしょうか。

係留索の呼び名は様々で、係船索・ロープ・ホーサー・もやい・ムアリングラインなど。
自衛隊では舫と呼んでいるかもしれません。

舫杭に「せいりゅう」の舫が掛けられました。

押し船に「ご安航」の信号旗が揚がっていたことをこの写真で知りました。

艦尾側でも皆でこれから岸壁に繋ぐ舫を引っ張る作業です。
決して広くもないこんなところで力仕事、なかなか大変な作業です。
作業をする全員が救命胴衣を付けるのも、転落の可能性がゼロではないからです。

艦尾の舫なのでこれも「スターン・ライン」というんでしょうか。
全員で運動会の綱引きのように引っ張ります。

「オーエス!オーエス!」

という声が聞こえて・・・きませんが、これではまるで綱引きそのもの。

ところでこのオーエスってなんなんだろうと思っていたのですが、たった今調べたところ、
フランス語の「オーイス(Oh, hisse)」ではないかという説が有力で、

「hisse」:(帆や旗などを)揚げる・巻きあげる 

だそうですから、今現在のこの状況にはまさにぴったりですね。
ただわたしは、綱引きを明治時代に伝えたのがイギリス人であることから、
実は「オーエス」は

「Oh, yes! Oh, yes! 」

だったんじゃないかと思っていますが。

その時、米軍基地からやってきたのはアメリカ海軍の巡視艇。
わざわざ回り込んで「せいりゅう」の手前でユーターンしていきました。
これ絶対新しい潜水艦見に来てるよね。

君たち、「DBF」(ディーゼルボート・フォーエバー)って知ってる?

 

水上艦で舫を扱う人は皆手袋をしていたと記憶しますが、この日は皆素手でした。
楽々とやっているようで舫の係留作業は大変危険なこともあるらしいので、
手袋なしで大丈夫なんだろうか、と見ていて少し心配になりました。

潜舵の上の人たちは、この間もずっとここに立ちっぱなしです。
潜水艦は、例えば関門海峡なんかを通過するときに、必ず

「航海保安配置」

として艦橋から見張りを行いますが、その際にはこの潜舵にも
艦橋とは別に見張り員が上がるということです。

この日の潜舵の見張りはお天気も良く気持ちがよかったと思いますが、
荒天の時にはまともに波を被りそうです。

というわけで、舫を掛ける係留作業が完了いたしました。
「せいりゅう」艦上の士官が小さなメガホンで指示を行うと・・・・、

直ちに岸壁に用意されていた舷梯を掛ける作業が始まります。

皆、作業時着用していたオレンジのベストを脱いで、
ハッチから中に入れています。

潜水艦用のラッタルには専用の木の階段を設置して完成です。

この後乗員は上陸し、入港式典に臨みます。

ちなみに、着岸の瞬間からラッタルがかかるまでの所要時間はジャスト10分でした。

 

続く。


潜水艦「せいりゅう」入港式典@横須賀

2018-04-05 | 軍艦

呉地方隊観桜会関連のシリーズがまだ終わらないのに、
またしても皆様にお伝えしたいイベントに参加してきました。

先日、神戸三菱で引渡式を見届けたばかりの潜水艦「せいりゅう」。

呉での慣熟訓練を終えて、母港である横須賀に入港するにあたり、
好例として行われる式典に出席が決まったのは、前日の昼でした。

今まで、進水式や引渡式には何度か参加してきましたが、
恥ずかしながら、自衛艦を母港に迎え入れるに当たって、

このような式典が行われていることを、わたしは

「せいりゅうの入港式典に行くのなら連れていってもらえまいか」

というイベント友達の依頼を受けて初めて知ったという次第です。


そこで、同じ職種つながりならなんとかなるかも、と潜水艦関係の方に
恐る恐るお願いしてみたところ、返事をいただいたのは翌日。

なんとそれは「せいりゅう」入港の前日でした。

当日午前中に入っていた歯医者の予約はあっさり変更し、
(のっぴきならない用事ができた、と本当にその通り言った)

わたしは急遽横須賀に駆けつけることになったのです。


予約受付時間の1時間前には横須賀のスターバックスで知人と合流。
本日のカメラは相変わらずの単焦点レンズとNikon1+望遠と広角レンズです。

やはりというか、再会するなり単焦点レンズを見とがめ?られ、

「ズームレンズ買いましょうよ・・」

と呆れたように言われてしまいました。

4月4日というと、例年桜の満開かまだちらほら、という時もあるというのに、
この日はまるで初夏のような陽射しの照りつける1日となりました。

帽子が欲しかったな、などとチラッと考えながらヴェルニー公園を歩いていくと、
横須賀地方隊の岸壁が見えてきます。

いつもなら DDH「いずも」のいる岸壁には、これから
「せいりゅう」が入港するらしく、艦の姿はありません。

ヴェルニー公園に設置された戦艦「陸奥」の主砲です。

「陸奥」主砲設置に際して募金を募っていたことをここでご紹介しましたが、
その後芝が植えられ、周りを鉄柵で囲んだ立派な展示が完成しました。

門のところで名前を告げ、首から下げる許可証をもらって横須賀地方隊敷地に入ります。

入港予定の岸壁には潜水艦に架ける舷梯?が用意され、すでに
入港作業を岸壁で行う自衛官が待機していましした。

向こうにいるのは艦番号107、「いかづち」です。

「いかづち」は、映画「亡国のイージス」で「うらかぜ」の役をしましたが、
何かと験を担ぐ海自が、よく沈められるフネのモデルを許可したものだと思います。

まあ、「バトルシップ」で「みょうこう」(の役をしたあたご)も沈んでますけどね。

こちらはお向かいにいたアメリカ海軍第7艦隊の「マッキャンベル」。

2007年と言いますからもう10年以上横須賀に勤務していて、
東日本大震災では「トモダチ作戦」に出動してくれたミサイル駆逐艦です。

甲板に結構たくさんの人影が見えていますね。

この部分には我が自衛隊の「しお」型潜水艦が二隻。

同行した知人(ミリオタかつ事情通)によると、潜水艦基地は
もうすぐ移転になって、ヴェルニー公園から姿を消すとかなんとか。

「今のままだとあまりにも人目が多すぎるから奥に隠すんですかね」

と冗談のつもりでいうと、

「そうらしいですよ」

と返事が返ってきてびっくりしました。
本当にそうなのか?

横須賀音楽隊がバスから降りてきました。

ブルーのチェッカーフラッグが、舫杭の場所を示すために置かれています。

ほとんど風はなく、午前9時半というのに太陽が照りつけて気温は上昇中。

「せいりゅう」入港を支援するタグボートが出勤してきました。

その時、場内にアナウンスがありました。

「せいりゅうが沖合に現れました。
到着まであと20分くらいかかります」

曳船はまっすぐ「せいりゅう」に向かっていきます。
潜水艦の上部に乗員が立っているのは、この時はまだ肉眼ではわかりません。

岸壁の入港支援隊が(というのかどうか知りませんが)整列休め。
右端二人が士官です。

沖の浮き灯台のところを通過していく「せいりゅう」。
やはり新しいだけあって、艦体がピカピカしています。

あまり数多くはありませんが、赤リボンの招待客もいました。

実は、前日というのに出席を取り計らってくださった、この日のスーパー恩人が、

「招待席は必要ですかと(横須賀地方隊に)聞かれたのですが、
バックステージで動き回れたほうがいいだろうと思いまして」

と気を遣って?招待者扱いを断ってくださったのでした。
確かに言われてみればその通りです。

おかげで、気兼ねなく立ったまま写真を撮ることができました。

「せいりゅう」を迎えに行った二隻の曳船は、後ろにくっついてきています。
これを見て思い出したのがてつくじの「あきしおカレー」。

ちょうど二頭のクジラに見立てたハンバーグが、カレーの海を泳ぐごはんの
「あきしお」を追いかけていましたが、あれと同じ構図です。

「あきしおカレー」もハンバーグを「曳船」ということにしたら、
もっとリアリティが出ると思うがどうか。(お節介)

横須賀音楽隊は、進水式や引渡式などのようにきっちりと決まった曲ではなく、
隊長が状況を見ながら曲名をその都度その場で伝えながら
(近かったので聞こえた)演奏を行なっていました。

音楽隊によってこういう時に選ぶ曲も若干の違いがあるようです。
例えば横音は、呉音楽隊が必ず演奏する「国民の象徴」はやらないとか_φ(・_・

嬉しかったのは、「せいりゅう」到着を待つ間、演奏された曲の中に

「サンダーバードのテーマ」

があったことです。

わたしは昔からこの曲を、サビからの転調の繰り返しだけでいうと
ユーミンの「中央フリーウェイ」に匹敵するマジ神曲、と思っていますので、
植田隊長に駆け寄り、手を取って感謝を述べたいくらいでした(最後だけ嘘)

艦番号の509は「そうりゅう」型9番艦という意味です。
ちなみに先日進水式を行った10番艦の「しょうりゅう」が510です。

「そうりゅう」型はこの510で終わるのではないか、という噂もありますね。
問題は次の艦名ですが、まさか、「つる」・・・?

511「しょうかく」512「ずいかく」513・・・あれ、もう思いつかないや(笑)

それじゃ511「ひりゅう」でそこからは「ひりゅう」型ってのはどうだろう(提案)
潜水艦はやはり鶴より龍の方が親和性ありと思うんだな。

いつの間にか艦上の人たちが回れ右して向こう向きになっています。

「せいりゅう」は取舵を取り、艦首をこちらに向けて岸壁ヨーソロです(適当)

それにしてもフィンの上の二人、気持ち良さそうだなあ・・。
左の人は岸壁のチェックに余念がありません。

「かーちゃんと子供は来てるかなー・・あ、いたいた」

え・・・違う?

神曲「サンダーバード」の他で耳?を引いたのは、「聖者が街にやってくる」でした。
さすがジャズも得意とする横須賀音楽隊です。
そしてこの選曲からも、入港の儀式のカジュアルさが伺えますね。

音楽隊は、定番の「宇宙戦艦ヤマト」もきっちりと演奏した後、
いざ入港という時になって行進曲「軍艦」を演奏しました。

後ろを付いて来ていた曳船が、回り込むように「せいりゅう」に近づき・・、

左に回頭した艦体にほぼ直角に接触するべく待ち構えています。

二隻の曳船で艦首と艦尾部分をじわじわ押していって着岸させるのです。
互いの間で舫を受け渡しして、いつの間にか曳船と艦体が連結されました。

押した時に艦体が離れていかないようにつなぎとめたのでしょうか。

曳船からは黒煙が時々噴き上がります。

潜水艦と曳船の間の舫がピンと張られ、完全に艦体と曳船が連結された状態になりました。
長年の経験の蓄積により出来上がった、合理的かつ安全な方法なのでしょう。

操艦を指揮するセイルの上から、時々フィンの上の人にも指示が飛びます。

岸壁が近づくと、艦上の入港作業準備が始まります。
二人が手にしている白いものは、岸に向かって投げるサンドレットです。

じわじわと艦体が岸壁に寄せられていくのを、
岸にいる人たちは今はただ見ているだけ。

あと数メートルで着岸です。

つい一週間前(3月27日)着任したばかりの横須賀地方総監、渡辺剛次郎海将
到着するなり、ご挨拶に来られました。

渡辺海将の職種は回転翼機の操縦で、前職は教育航空集団の司令だそうです。

サンドレッドを持っている乗員は艦首側に二人、艦尾側に二人、計四人います。
掃海艇で投げていたものより小さくて、投げにくそうに見えますが・・・。

さて、これから岸壁への繋留が行われます。

 

続く。




呉総監ドッグ(愚直たれ使用)を喫食 @ てつのくじら館

2018-04-04 | 自衛隊

呉地方隊で観桜会が行われた週末、西日本の自衛隊基地では
少なくとも聞く限り、舞鶴と由良基地分遺隊でも観桜会が行われたそうです。
どちらも満開の桜日和であったということで、まずは喜ばしいことです。

観桜会がうまくいくと、新年度が幸先いいという気がしますものね。

さて、観桜会の日、わたしはここでも皆様にお約束した

呉総監ドッグ

を是非とも味わって皆様に報告をするべく、観桜会開始時間の
たっぷり4時間早く到着する便を取りました。

わたしとTOとで観桜会までてつのくじら館でも見て時間を潰そう、
と計画していたのですが、諸事情により、いつの間にか
到着後、潜水艦基地で「潜訓」と言われる訓練施設を見学、
さらにてつのくじら館で総監ドッグをいただきその後観桜会という、
海自主導のパーヘクトな計画が立案されていたのでございます。

その分刻みの進行表に監督印まで押してあるのを見て、わたしたちは
海上自衛隊呉地方隊の緻密さおそるべし、と震撼しました(嘘)

 

というわけで、今日は潜訓見学記に先立ち、てつのくじら館に行った話を。

またもや無駄に大きな画像ですみません。
通称てつのくじら館、略称てつくじ、海上自衛隊呉資料館の前の
潜水艦「あきしお」の尻尾の下にやって来ました。

つまり、許可を得た車しか入れない駐車場で下ろしていただいた訳です。
この角度の「あきしお」の写真が撮れるチャンスはおそらく最初で最後。

ここに来て初めて、スクリューの下に、鎮座する際のつっかえ棒になる
構造物(なんて言うのか知りませんが)があったのに気がつきました。
本職でもこの部分を下からまじまじ見たことがある人はそういないと思われます。

昔この「あきしお」について、

「展示保存されることになった時一番嬉しかったのは、
『あきしお』に乗ったことのあるサブマリナーに違いない」

と書いたことがあるのですが、つい最近、実際に「あきしお」で
水雷長として勤務していた、という方を知りました。

ご本人によると、潜水艦というものは寿命が短いだけに、
自分が乗っていた艦が半永久的に残されるのは嬉しいものだそうです。

しかもこの方の場合、勤務時代自分が1年半もの間寝起きしたベッドが
艦内に入ってすぐのところにあって、公開されているそうです。

てつのくじら館に行くたびにかつての自分のベッドで寝てみたくならないでしょうか。

さて、もう一度、話を「愚直たれ」から始めることにします。

この観桜会に招待された客には、もれなく封筒に入ったこの
「愚直たれラベル」がプレゼントされました。

このラベルは観桜会でも紹介された呉地方隊のカメラマンである海曹の作品です。

火柱が呉総監の正帽からまっすぐ立ち昇ってメラメラと燃え上がっている、
というのがいかにも

「脳天を突き抜ける」

がごときパンチのある辛さを予想させて秀逸です。
これをまじまじと見るまで気づかなかったのですが、総監のバックにあるのは
・・・もしかしたら護衛艦かなんかの一部でしょうか。

ただ「呉といえば鎮守府庁舎」、シンボルとなっている庁舎を使えばいいのに、
という気もしますが、歴史的建造物を燃やしちゃ縁起悪いってことかしら。


このラベルの裏には『万能調味料「愚直たれ」とは』としてまずその説明があります。

第43代呉地方総監 池 太郎 海将の指導方針「愚直たれ」を隊員に周知させるため、
「ユーモアは一幅の清涼剤である」という旧海軍の伝統を元に、
隊員からラベルおよびレシピを募集したものである。

多数の応募から選考されたラベルは呉地方隊の各部隊で掲示されるとともに、
レシピは呉市内の10店舗に池海将の在任期間中提供され、好評を博している。

 

全国ネットで「愚直たれ」が放映された時、呉総監の元にはたちまち中央から

「あれはなんだ」

と御下問があったらしいのですが、経緯を説明すると
何の問題もなく、了解というか承認されて終わったそうです。

もしかしたら、こういうのも海自ならではなのかもしれません。


空自の指揮官はそもそも「愚直たれ」的な愚直な標語とは無縁に見えますし、
陸自は、司令官のお言葉をこんな風に弄ってしかも広報が製品化、
などということにはまず絶対にならないでしょう。
たとえ誰かが思いついても、それを上に提案し、上が了解したうえで
本人が率先して宣伝、なんて体質じゃなさそうです。

わたしにとって、この「愚直たれ」の成立にまつわることどもは、
東郷大将に向かって「そこどいてください」と甲板掃除の水兵が声をかけ、
同行の陸軍高官を驚愕せしめた、という旧海軍のエピソードを彷彿とさせます。

「フネという運命共同体にあればこそ、下の者も意見具申可」

のリベラル精神が、大げさなようですが、垣間見えるような気がするのです。



さて実はこのカード、愚直たれレシピも載っております。
せっかくなのでそれも掲載しておきます。

【材料】

コンソメ(粉)・・   2.5g
水  ・・・・・・・・25cc
上白糖 ・・・・・・・ 10g
ガラムマサラ・・・・・3g
カレー粉・・・・・・・10g
マヨネーズ ・・・・・50g
ごまドレッシング・・100g

【作り方】

1、コンソメ、水、上白糖をよくかき混ぜながら火にかける

2、沸騰したら火から下ろす

3、カレー粉をフライパンで1分間乾煎りする

4、ガラムマサラをフライパンで30秒乾煎りする

5、マヨネーズを器に入れて3と4を混ぜる

6、5にごまドレッシングを混ぜる

7、6に2そ加えて混ぜる

 

市販のごまドレを使う段階で、あまり厳密に分量を守らなくても
そこそこ美味しいものができるような気がします。(主婦の勘)
ポイントは粉を乾煎りすることですか。
わたしはこれ、上白糖でなく今話題のココナッツシュガーでもイケると思います。

わたしたちは鉄のくじら館入ってすぐ左のカフェ、その名も

JMSDF CAFE

に案内されました。

ここの館長に当たるという方が出てきてご挨拶したのですが、
制服をきた普通の?自衛官でした。
裏の駐車場の誘導をしていたのも自衛官だったし、改めて
ここが海自の広報施設であることを認識した次第です。

今まで、資料館に来たら時間の全てを展示を見るのに使ってしまい、
カフェの方には足も向けないで終わることが多かったのですが、
今回はここが目的です。

ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」の作者竿尾悟氏のサイン入りハンカチ。
ハンカチはここで売っているもののようです。

左は竿尾氏の、右は原作者の柳内たくみ氏のサイン色紙。

あきしおケーキとは、自衛艦旗を立てたフォンダンショコラケーキに
あきしおの形のクッキーを添えたもの。

やはりフォンダンショコラであきしおの形を作るのは不可能だったか・・・。

人気のあきしおカレーは売り切れていました。

ご飯の潜水艦がカレーの海を泳ぐという斬新なアイデアです。
これはぜひ食べてみたいよね。

この写真からはよくわからないのですが、潜水艦の後方には
ハンバーグのクジラが二頭並走しているという設定です。
白い波頭に見立てたガーリックチップスがいい味のアクセントになりそう。

何より、サラダが付いて850円というお値段が嬉しいではないですか。

あきしおカレーも関係者の認定証付きです。

第10代あきしお艦長の福永一佐の名前で認定証が授与されていますが、
その認定基準が具体的には何がポイントなのかは明らかにされていません。

第10代あきしお艦長「美味しいです。合格!」

それだけか〜い!みたいな?
左に立っている海自の制服姿のしろくま?はどこかで見たことがあるけど
なんだっけ?

で、出た〜!呉氏関連商品。

ソーダに呉氏のクッキーがぷかぷか浮かんだものだそうです。
クッキーの形そのものを呉氏にすることは・・・できなかったのかな。

あと不思議なのは、海を思わせるブルーのソーダが
オレンジ風味であるということ・・・・。

自衛隊の旗や階級章についた桜のことを

櫻星(さくらぼし)

というのだそうです。
今まで”さくらぼし”というと、イワシやキスを開いてみりん醤油に漬け、
干した、
いわゆる「みりん干し」のことだと思って生きて来た
このわたしにとって、
この事実は大変な衝撃でした(嘘)

櫻星スカッシュはその名の通り桜の味とのことです。

てつのくじらはもうすっかり呉のみならず広島のランドマークです。

「愚直たれ」の認定店舗には、呉地方総監名でこのような
認定証が授与されることになっています。

あきしおカレーの認定もそうですが、お堅いはずの自衛隊が
こうやって真面目に遊んでくれることで、市民は一層
その存在を身近に、親しみを感じるという絶大な広報効果があります。

「せいりゅう」引渡式の時に副官に手渡された衝撃的な呉総監ドッグの宣材名刺。
てつのくじら館のカフェに「愚直たれ」認定証が授けられているのは、
この総監ドッグに愚直たれが使われているからなのです。

てつのくじら館でしか食べられない呉総監ドッグ、今回は
わざわざわたしたちのために取り置きしてくださったそうです。

わたしとTO、案内してくださった一尉の三人分が、一枚ずつ
呉総監ドッグカードを添えて用意されました。

この専用紙皿は、まさにホットドッグを食べるために開発された優れもの。
上のポスターで池総監もこのお皿から食べておられます。

さて、どんなお味?

ぱく。一口め。

「美味しい〜」「美味しいね」「美味しいですねー」

三者ともに第一声はこれ。
シャウエッセン風のウィンナーソーセージのパリッとした歯ごたえも上々。
ところが、「愚直たれ」の宣伝文句にもあった

「脳天を突き抜ける辛さ」

といったものは、えてして後から猛烈に効いてきます。
わたしは3口目くらいからその辛さがじわじわときて、
たまらず、あっという間にコップの水を全部飲んでしまいました。

一尉も

「これは・・・辛いですね・・・」

と言いながらやはり水を口に運んでいます。
ところが、美味い美味いと言いながら、一口も水を飲まずにTOは完食し、
おかわりに行こうとするわたしに

「お水あげようか?」

と平然と言うので呆れました。
辛さに対する
感度って本当に個人差があります。

いいです、と断って、カウンターにいったついでに、
ホットドッグに混入していた、カリッとした食感のものが
なんだったのか聞いてみました。

「あれはクルミです」

なるほど、愚直タレの味が強烈なので風味はほとんど感じないものの、
食感を楽しむためにナッツが投入されているというわけですか・・。

ついでに、お店の方にミニインタビューを決行しました。

「どういう風にこのレシピが決まったんですか」

「愚直たれを使ったメニューを考案してほしいという依頼を受け、
こちらのキッチンで考案したのがこのドッグでした」

なるほど、最初から総監ドッグを作ってくれという依頼ではなかったのね。

他の協力店舗と同じように、愚直たれメニューを開発したところ、
それがたまたまホットドッグであったということのようです。
もしかして、それが特に呉地方総監のお気に召したから、
「呉総監ドッグ」という
メニュー名が特に与えられたのかな?

 

というわけで、この呉総監ドッグ、池海将就任期間は日本でただ一箇所、
てつのくじら館でのみ食べることができます。
これが美味しいことは、このわたし(どのわたしだ)のお墨付きです。

さあ皆の者、呉に行ったら、てつのくじら館に走れ!
そして今しか食べられない伝説の呉総監ドッグを試すがよい。
 

ただし辛いのが苦手な人はミルクティーかなんかと一緒にね。 

 


旧呉鎮守府庁舎 地下壕作戦室

2018-04-03 | 海軍

 

さて、というわけで、観桜会の模様をお伝えいたしましたが、今日は
その前に見学した呉鎮守府時代の地下壕の内部をみた話をします。

その前に、我が家の自慢の桜が満開の様子を。
桜が満開の時だけ、寝室のカーテンを開けて寝たりします。

昔この敷地には何かの長官校舎があったとかで、
この桜二本はその名残です。

呉地方総監庁舎前からもう一度。
ちなみにこれはNikon1で撮影したものです。
このあと受付をして、庁舎の間の坂道を降って行くように指示されました・

この桜の向こう側が、庁舎の海側に面した「表門」の前庭であり、
今回の観桜会会場となります。

坂道を下っていくと右手に見えてくるのがこの小屋です。
天井につけられた通風換気口の形状といい、屋根といい、
作られたのはまず確実に鎮守府時代だと思われます。

窓が小さく、消火栓があること、さらには扉は鉄なのに、天井は抜ける素材。
可燃物あるいは爆発物を収納していたのではないでしょうか。

小屋の向こう側に石段が見えていますが・・・・、

ここを上っていくと、観桜会会場への近道となります。
明かりが用意されているようですが、夜に備えてわざわざ設置したのでしょうか。

地下壕司令室の入り口はわざわざ土で覆い、芝を生やしてカムフラージュ。
これは特に上空の飛行機から見え難くしています。

地下壕の下に立ち、上を見上げたところ。
ここを入っていったところに作戦司令室があります。

作戦司令室はこちらから見ると一階にあることになりますが、
長官庁舎のところから見ると「地下三階」ということになります。

かつて地面に植えた蔦が、コンクリート面を覆い隠していたのでしょう。
それにしても不思議なことに、ある高さから下には全く蔦が這った形跡すらありません。
いったいどんな事情でこんな造形になってしまったのでしょうか。

日本の城の銃を出す穴のような、鉄扉の覗き窓がいくつかあります。

「地下壕プロジェクト」は一応の完成を見たようです。
壕の入り口には全天候型の説明看板が設置されていました。

グーグルマップを加工したらしい地図と地下通路の所在を合わせたものです。
この前に見学を行なった潜水艦基地の説明の方が、

「昔はここから総監部まで地下でつながっていたという話です」

とおっしゃっていたように、地下道は鎮守府を中心に広範囲に
張り巡らされていた時代があったのです。

ここに書かれている解説を書き出しておきます。

「昭和17年、日本は米軍機による初空襲を受け、昭和19年ごろからは
連日のように空襲を受けるようになり、爆撃の被害を避けるため
日本海軍の地下施設は地下に建設されるようになった」

うーん・・・記述内容はともかく、この文章にいい点はあげられないな・・
って何様だよ、と言われそうですが、それはともかく。

「当確施設は、呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を
切り開いて建設されており、昭和b17年設計、昭和n18年夏頃に着工、
昭和20年4月ごろに完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。

また、空襲による被害を最小限とするため、当確施設完成ごは重要書類なども
『地下作戦室』で保管されるようになった」

これは去年のサマーフェスタで初めて施設が一般公開された時に配られたパンフの一部です。
今回入っていくのが「旧地下作戦室」ということになります。

この番号6番は、この時観桜会が行われていた会場の真下になりますが、
ここは掘りかけてやめた趾があるのだそうです。

ここに限らず、掘りかけはあちらこちらに見られるのだとか。

呉海軍、ただの防空壕にとどまらず、ワクワクしながら一大地下要塞、
「少年探偵団・僕らの秘密基地」を作ろうとしていたんじゃ・・・。


なお、4番は地方総監庁舎の脇から出てすぐのところにある
地下道へ続く階段があります。
庁舎で執務をしている人たちが、素早く地下に避難するためです。

実は去年、わたし、この階段を降りかけてやめております。
観桜会の時でひどい雨が降っており、しかもよりによって
後ろ下がりの白いスカートを履いていたもので、階段を三歩おりた途端、
裾に階段の泥がべったり付いてしまい、それ以上進むのを諦めたのでした。

壕への入り口は大人なら屈まなければ入れません。
階段は50段で、大変急なものです。

地図でいうと3番、急な階段を降りていって、作戦室に通じる道を
進んでいくと、地下道が崩落してしまっている部分があります。

 

庁舎の脇を通り、坂道が始まる辺りの地下にも道が掘り進められていますが、
そこは地下水が染み出し、地面がぬかるんでいるそうです。

どこからともなく湧いて来る地下水のせいで、地下壕の湿度はいつも高いのだとか。

去年は扉越しに中を見せてもらいましたが、
確か撮影はご遠慮ください、と言われました。

外側は大きなレバーで施錠する頑丈な鉄の扉(変形しないような工夫あり)、
それを開けて内側には普通の木の扉が残されています。

「火気厳禁」の文字が往時を偲ばせるレトロな字体です。

レバーを回すと上下にわたしたバーがどうにかなって、
(どうなるんだろう)扉がしっかりと閉まる仕組みのようです。

木の扉はかつて赤に塗られていたのでしょうか。

それ以外の部分はどうも最近補修したように見えます。

ここが地下作戦室。

地下壕の中で一番広いこの空間は幅約14m、高さは最大で約6m。
空港からここに来る時に必ず通る休山トンネルとほぼ同じくらいの大きさです。

戦時中は呉鎮守府司令部が作戦指揮の会議をするのに使っていました。

見学のために入っていけるのは、入口の平方10メートルほどのスペースだけ。

内部に立ち入ることができないように柵が設けられています。

左のほうに見えるのが元々の床だったのではないでしょうか。

中に入っていけないその理由が、この天井です。
プロジェクト進行中の段階で聞いていたところによると、天井が
ところどころ破れていて崩落しかねない状態であるため、
見学者には全員にヘルメット着用を義務付けるとか、
そういう案も出ていたようです。

実際にメディアに公開した時にはヘルメットを着用させたとも聞きました。

最終的に、入り口から内部を見るという展示法に決まり、
観覧場所の入口付近上部には足場を組んでそこだけ屋根を付け、
剥離による崩落の対策としました。

左奥の扉は後から作り直したもののようです。
 OD色の金属らしい構造物がありますが、これが何かはわかりません。

この階には会議室の他に発電機室、換気施設、排水施設がありました。

二階部分に通路があって、鉄の扉の開け閉めを行えるようになっています。
壁にも天井にもいたるところにワイヤが見えていますが、たとえ直撃があっても
崩壊しないような堅牢な作りになっているのでしょう。

この灯りの支柱は昔のままのようですね。

ここが作戦室だった時、奥の壁一面には西日本の作戦図が掲示されていて、
敵の飛行機が飛来すると、その地図上のランプが点滅して、
瞬時にその進行方向を把握することができたそうです。

庁舎横の階段を降り、地下通路を抜けるとこの扉の向こうにやってきます。

ただし、

扉は錆びついてしまって開けることは不可能です。

外部を封鎖した時のために、分厚いコンクリートの壁(厚さ1m以上?)に
空気を流通させるためらしい穴が穿ってあります。

この堅牢さにより、昭和20年の呉大空襲の際、庁舎が爆撃されても
壕内は全くの無傷で、保管されていた重要書類等も無事でした。

こ見学のための入口部分を保護するために設置された屋根のパイプです、

作戦室の前は玄関のエントランスのようなスペースがあります。

エントランス脇には部屋が二つありました。
奥の部屋は先ほどの新しい鉄扉から出入りできます。

その一つの部屋がこれ。

もう一つの部屋。
なぜか室温計が設置されていました。

入口を入って右側には二階に続く階段があります。

作戦室の上部は吹き抜けになっていて、通信室、事務室、映写室、
それから休憩室があったということです。

ここで夜を明かすこともあったのかもしれません。

地下壕の設計が始まったのは南雲忠一が呉総監だった時です。
完成したのは昭和20年の4月なので、南雲はもちろんその時には
とっくに転勤し、のみならずサイパンで戦死していました。

完成当時長官だった沢本頼雄中将はすぐに転勤しているので、
結局壕の恩恵に浴したのは、呉鎮守府長官として大空襲を経験した
金沢正夫中将ただ一人だったということになります。

これを左に入っていくと、さっきの分厚い扉の向こう側。
おそらく換気施設と排水施設があったものと思われます。

去年の夏、サマーフェスタで配られたパンフの表紙。

今回、地方総監の提唱によって、これだけの整備が行われました。
観桜会でも話題になっていましたが、現在、呉の観光コースの一部に
この壕見学を組み入れるという計画もあるようです。

 

プロジェクトに取り組んだ呉工業高等専門学校の学生と教員有志の皆さん。

何れにしても、誰も手をつけなければ、陽の目を見ることもなく
もしかしたら朽ち果ててしまっていたかもしれない地下壕を、
調査と修復によって公開できるまでにしたことは
後世に残す偉業であったとわたしは心から賞賛せずにはいられません。

何より実行を決断された呉地方総監と、プロジェクトに携わられた方々、
呉地方隊には、国民の一人として心からお礼を申し上げたいと思います。

 

 

 

 


平成30年度 呉地方隊観桜会

2018-04-01 | 自衛隊

暮地方総監部で行われた恒例の観桜会にご招待を受け、行ってまいりました。

去年は3月末の異例の寒さに見舞われ他だけでなく、空港付近は雪が積もり、
桜もほとんど咲いていない教育隊の体育館で宴会が行われる、という
非常に残念な観桜会になってしまったものですが、今年は幸い
天候も気温も、桜の咲き具合もパーフェクトなタイミングです。

わたしはこの日のために買った(そうなのか?)単焦点レンズを
Nikonの810に装着し、広角レンズを付けたNikon1との2本持ちで、
「桜と錨」を写真に収めるのを楽しみに、その日を迎えました。

 

早めの飛行機で広島入りして、某所で見学を済ませ、すでに開場が始まっている
呉地方総監部までやって来ました。

受付のテント前にはすでに人がたくさん・・・・
皆自分の受付番号前に並んでいるようです。

「招待状なんてもらった?」

「もらった・・・ような気がする」

「持って来てないの」

「うう・・忘れた」

なんか同じメンバーで前にも全く同じような会話をしたような気がするぞ。
しかしなんだってこう、何度同じことをしても学習しない夫婦なのか。

「仕方ない。こうなったら顔見知りのいつものウェーブさんを探そう」

周りを見回しても見つからず、仕方がないので受付に並んだら、
その探していたウェーブさんがそこにおられました。
彼女はご挨拶するなり即座にわたしたちの名札を持って来てくれました。
なまじこういう行き届いた自衛隊の気遣いが、わたしたちのような
向上心のない人間を一層怠惰にするのではないかと思った一瞬です。

 

受付終了後、テント受付の近くに、

「地下壕見学をされる方はお申し出ください」

と書かれていたので、わたしだけが見にいくことにしました。
呉地方総監の肝いりで就任直後から取り組まれていた地下壕プロジェクト、
調査を経てのち、地下壕司令室の一般公開を目標にしてきたのですが、
去年の観桜会の時点では入り口の扉の外からしか見学できなかったのが、
今年はついに中に入ることができるまでになったのです。

地下壕はこの道を降りて行って普通に見られます、と言われて、
花見会場であるいわゆる「表玄関」を左上手に見ながら坂を下りて行きました。

赤レンガの庁舎の角の樹木脇にに木の杭があって、

「呉造修補給所開所十周年記念植樹」

と書いてあります。

造修補給所というのは、海上自衛隊における後方支援組織の一つで、
各地方隊隷下に置かれ、造修、すなわち
艦船等の修理・整備、
及び各部隊への補給を主な任務とする部隊です。

当初は、造修を主任務とする「造修所」、補給を主任務とする「補給所」
は別々の部隊でしたが、1998年(平成10年)に統合され造修補給所となりました。

この「開所十周年」ということは、2008年に植樹されたということになります。
呉造修補給所は、工作部と吉浦の貯油所に分かれて存在しているようです。

地下壕のところまではこの坂を下って行きます。
坂の上には桜が大きくその木の枝を伸ばし、向かいの桜と手を取り合っているようです。

地下壕の見学については項をあらためるとして。
見学を終わり、会場に続く階段を登っていくと、総監部庁舎の前をぐるりと繞らした
桜の木が、まるでスクリーンのように会場を囲んでいました。

これらの桜の木は紛れもなくここが呉鎮守府となった時代からここに根付き、
毎年変わらぬ色の花を咲かせて来た歴史を持ちます。

おそらく観桜会という催しも、海軍時代から続いていて、
年に一度のその日には、今や歴史に名前を残している海軍大将たちが
同じ場所で桜を愛で、ひとときの宴に興じたのに違いありません。

前にも書きましたが、呉地方総監部の表玄関は、海です。
桜に囲まれたこの前庭からは長い石段が続いていて、今ここに見えている
桟橋の横にある小屋で、将官たちは出航までの時間を待ったのでした。

桜で囲まれた前庭には宴席が設けられ、開始を待つ招待客が
自分に割り振られたテーブルの周りで笑いさざめいています。

桜の木近くの地面に不思議な構造物があるのに気がつきました。
地崩れでも起こしたので補修したんでしょうか。

満開の桜越しに臨む呉の町と自衛艦艇。
教育隊が訓練で使用するデリックが岸壁に並んでいます。

今回の撮影に当たっては、案の定勉強は何もしておりませんが、
とりあえず素人考えでピンクが美しく出るように色度調整はしてみました。

呉音楽隊選り抜きの精鋭チームによるバンドが、時折女性ボーカルも加え、
軽快なボサノバやジャズなどを中心に会場を彩ってくれました。

わたしは習慣でアドリブソロになるどんなところにいても、
何をしていてもなんとなく耳を傾けて聴いてしまうのですが、
ピアノが特に上手いなあと思ってそちらを見ると、なんとクラリネットの奏者でした。

ど〜〜〜〜〜〜〜んと大きな舟盛り。
いわゆるメインテーブルに一隻?だけとはいえ、流石に海自、刺身が豪華です。

鯛は爪楊枝で無理やり口を開けさせられていました(涙)

伊勢海老のお造りに丸一箱の雲丹、イクラ。
ちなみにこの雲丹に最初に箸をつけたのはこのわたしです。

「かしま」のレセプションでは、雲丹はもちろん、刺身もすでにありませんでした。
そもそもここでは開演前に食べ物に箸をつける人など皆無です。

またしても飾りスイカが・・・。

つい先日同じようなものを見たわけですが、明らかに技量はこちらが上。
このバラの花びらの彫刻の繊細なことよ。

しかも別の面にはこれ。
ちゃんと日の丸と旭日の赤が浮き出るようになっているという・・・。
特に旭日の部分のカットにものすごいテクニックが必要ような気がする。

それと、今気づいたのですが、桜の木を立てている鉢もどきは実はかぼちゃで、
こちらにも親の仇のように飾り彫りが!

呉地方隊給養にはとんでもない手練れの”匠”がいると見た。

舟盛りの「幟」には「呉地方隊観桜会」の文字。

TOとわたしは勿体無くも焼きそばの近くに名札を置いていただきました。
結果的に政治家の先生方と同じテーブルを囲むことになり大変恐縮です。

そしてまず呉地方総監池太郎海将のご挨拶。
総監はまず、ご自分が就任されたからのプロジェクトであった
鎮守府時代の地下壕の整備と一般公開についての説明をされました。

ここで地下壕の公開にあたって事前に現地調査を行った方が紹介されました。

各テーブルには例の「愚直たれ」が一つづつこのように置かれていて、
何にでもかけられるようになっていました。

総監の指導方針「愚直たれ」がそのままたれになったという経緯について、
わたしは当ブログでも何度かお話ししてきたわけですが、
激辛カレー味のこのたれを提供する呉市内の店は今では10店舗。

最初は年度末ということなのか、この三月いっぱいまでの契約だったそうですが、
この度池総監の任期中は継続して提供することが決まったということでした。

この「愚直たれ」、テーブルに置いてありましたが、わたしは個人的にこのソース、
実は一番美味しいのはキュウリなど生野菜にドレッシングとしてかける方法、
と思っていますので、掛けたいものが近くになかったのは少し残念でした。

寿司や唐揚げ、しゅうまいやサンドウィッチじゃソースのかけようがありません。

生野菜以外では、やはり愚直たれ掛けオススメはホットドッグです。
今回その噂の「呉総監ドッグ」をいただいてきましたが、その話はまた後日。

左のカメラマンが、総監がメラメラ燃えている「愚直たれラベルコンテスト」の、
右の女性が”たれ”そのもののレシピコンテストのそれぞれ優勝者となります。

このお二人の名前が改めて紹介されました。

続いてこのマイクの持ち方もおなじみ、国会議員寺田稔先生のご挨拶。
国会が長引いて気を揉んだけど、「なんとか間に合った」ということでした。

なんと!呉市長がいつの間にか小村和年氏では無くなっていました。
去年11月の選挙で当選した無所属の新原芳明(しんばらよしあけ)氏は、元財務官僚。

ニコニコと実に嬉しそうに、

「こんな素晴らしい観桜会に来られて、本当に市長になってよかったと思いました」

実感なんでしょうねえ・・(意味深)

宴会が始まると同時に総監や寺田先生の前には行列ができてしまいました。
総監の右側におられるのは確か元海幕長でいらしたかと。

会場から望む休山(ですよね)の斜面にはいたるところ
自生した山桜のものらしいが色づいています。
この日関東では桜はすでに葉桜になりかかっていましたが、
呉では満開のど真ん中という素晴らしい桜日和でした。

この宴会で、わたしは加入している防衛団体の地元地本の自衛官が
着任したばかりということでご挨拶させていただきました。

陸自の方はなんとレンジャー!過程出身でした。
わたしは生のレンジャー隊員とお話するのが2回目だったので、
今までここで書いてきたいろんなことを思い出し、つい盛り上がってしまいました。

「レンジャーのビデオ観たんですけどー」

というと、

「そんなものを観る人って本当にいたんですね」

と呆れたような顔をされました(´・ω・`)
ちなみに蛇は決して美味しくないけど、イノシシなんかより数が多く、
カエルより捕まえやすいから食料にするそうです。

「えっ、養殖の蛇を持っていくんじゃなかったんですか」

と聞くと、

「そんなことしませんよ」

帰りに車で送ってくれた自衛官にその話をすると、

「わたしも養殖の蛇だと聞いたことがありますが」

「あー、その方の頃は野生だったってことなのかも」

野生の蛇を食べて病人がでたから禁止になったとかかしら。
どなたかご存知の方がおられたら・・・・いるわけないか。

 

それから、地本の海自の方は、花粉症が辛そうにしていて気の毒でした。
聞くと、家族全員がなんらかの花粉症で、しかもアレルゲンが皆違うので、
時間差で誰かが必ず苦しんでいるという悲惨な状況だそうです。

提供されていたカレーは呉教育隊オリジナルでした。

ふと気づくと、太陽が西に沈みかかっています。
落日前の空を撮りたくて、この後人垣の間を縫って、
桜の木の向こうまでたどり着いたのですが・・・・・、

太陽が落ちる最後の瞬間は本当に早く、カメラを構える一瞬前に沈んでしまいました。
皆夕日が沈む瞬間をスマホで撮るためにここまで来ていましたが、すれ違った人が

「鉄塔が邪魔でダメだー」

いや、このマジックアワーに浮かび上がる鉄塔のシルエット、素晴らしいじゃないですか?
ちなみにカメラのホワイトバランスはオレンジを強くしてみました。

呉地方総監庁舎もレンガの色に夕日の残照が溶け込んでオレンジに染まりました。

鉄塔の向こうに陽が沈んだ瞬間は1830でしたが、その11分後、
国旗の降下が行われることになりました。

皆国旗の方向に正対し、「君が代」に耳を傾けます。
後ろから見ていると、明らかに自衛官の立ち姿には一種の緊張があり、
握った拳や伸ばした背筋、肩の線は、一般人と全く違います。

「国家に仕える軍人」

という言葉がなぜかこの時頭をよぎりました。

しばらくすると、桜にライトアップが行われました。
ただし、ほとんど同時にお開きの時間となりました。

以前「北の馬鹿者」発言をされた水交会の会長によるご挨拶で締めです。

人の流れに乗って退出口まで歩いていくと、総監夫妻がお見送りしておられました。

地方総監部庁舎の重厚な石造りのエントランスは、ライトアップされると
まるでギリシャかローマの神殿のような神々しさ。

駐車場からみた庁舎。

こうして見ると、旧海軍の施設は呉にとって大変な観光資源であることがわかります。
地下壕の見学をコースに組み入れた観光ルートをアピールしていこうという動きや、
カレーグランプリや今回のドッグ、タレのような地元とのコラボも相変わらず盛んです。

呉という街が、旧海軍と海上自衛隊にイメージの多くを負っていることを
あらためて思った一夜でした。

最後になりましたが、観桜会の参加におきまして手厚いご配慮いただきました
呉地方総監部の皆様方に心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。