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急降下爆撃の父 アル・ウィリアムズ少佐〜アメリカ海軍航空の黄金時代

2020-06-25 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館の「海軍航空の黄金時代」シリーズ、
海軍航空のパイオニアを紹介するコーナーは前回で終わったのですが、
別のコーナー、つまり当時盛んに行われた飛行機の性能を競う
エアレースで有名だった飛行家たちを紹介しているところに、
海軍軍人の名前を見つけたのでついでに紹介しておきます。

彼、アル・ウィリアムズの名前は、エアレーサーの一人となっていました。

■ エアレース

エアレース、そしてエアショーはいわゆるゴールデンエイジにとって
最も視覚に訴え、かつ刺激的な見せ物のひとつでした。

エアレースそのものは航空技術の進歩にさらに勢いを与えるもので、
競技者と彼らの乗った航空機は、軍事航空、あるいは航空発展の分野で
大いなる栄誉と名声を得たものです。

国際的なエアレースが最初に行われたのは1920年のことでした。

「ピュリッツァー・トロフィーレース」というのが最も大掛かりなもので、
これは年に一回定期的におこなわれるようになりました。

1930年に始まった短いコースを競う「トンプソン・トロフィーレース」
いわば航空のクロスカントリーである「ベンディックス・トロフィーレース」、
水上機専門の「シュナイダーカップ・レース」というものもありました。


1922年のシュナイダーカップレースが行われたのはイタリアのナポリです。
優勝したのはイギリス軍のビアード大尉でした。

シュナイダーカップに出場したスーパーマリンS.6E
これもイギリスチームの飛行機です。

この水上機は時速644キロの新記録を出した機体です。

そしてこの人物が1925年のシュナイダーカップ優勝者。
これ、誰だと思います?

ボルチモアで行われたレースでカーティスR3C-2に乗り勝利したのは、
アメリカ陸軍大尉、ジミー・ドーリットルでした。

ドーリットル、まぢで天才的なエアレーサーだったようで、
1931年、第一回ベンディックス・トロフィーでも優勝しています。

スーツ着てますが、これで飛行機乗ったんでしょうか。

このエアレースを描いた絵は、当時の新聞に掲載されたもので、
タイトルは、

「ジェームズ・H・ドーリットル トンプソントロフィーレース 1932年勝者」

なんと、ドーリットル、トンプソンカップでも優勝していたのです。
絵に描かれた飛行機の機体のずんぐりとしたシェイプ、これは

Gee Bee モデルR スーパースポーツスター

という機体で、彼が優勝したことで有名になりました。

右の方でおまわりさんが男の子の腕を掴んでいますが、
この二人の少年はドーリットルの息子たち、ジェイムズJr.とジョンです。

彼ら兄弟もまたパイロットになり、弟は空軍大佐で退官しましたが、
兄は1958年、陸軍少佐のときに38歳で自殺しています。

偉大な父の名前が重荷になったとかいう理由でないことを祈るばかりです。

 

さて、エアレースが盛んに行われたのには、仕掛け人がいました。

クリフ・ヘンダーソン(Cliff Henderson1895-1984)
は、こういった国際エアレースのマネージングディレクターで、

各種エアレースのスポンサーを集めてくる天才的な才能を持っていました。

Cliff Henderson (Clifford William, 1895-1984).jpg

ベンディックスもトンプソンも、この人の企画によるもので、
女性だけのエアダービーの仕掛け人でもありました。

陸軍の世界一周飛行をアレンジしたのもこの人です。

ついでに奥さんは女優だったりします。

女性ばかりのレースは「見せ物」として大変人気を博し、
アメリア・イヤハートなど有名な女流飛行家が排出されました。

その女性飛行家の中でエアレースの世界記録を塗り替えまくったのが、
当ブログでもかつてお話ししたことがある、

ルイーズ・セイデン Louise Thaden 1905-1979

です。
涼しい顔をして記録を次々と塗り替え、各種大会に優勝し、しかし
若いうちにあっさり引退して航空に関する著述を行っていました。

この人の凄いところは、男女混合のレースでも優勝していることです。

女流飛行家列伝「タイトル・コレクター」

 

■ アル・ウィリアムズ

さて、本日冒頭のスミソニアン博物館による似顔絵は
海軍軍人であり海軍パイロット、エアレーサーだった

アルフォード・ジョセフ・ウィリアムズ
Alford Joseph Williams(1896-1958)

中尉時代

です。

1917年にアメリカ海軍で航空士になったウィリアムズは、
1923年のピューリッツァートロフィーで速度新記録を樹立し優勝しました。

海軍航空のみならず、航空のパイオニアでもあったわけです。

ウィリアムズは米海軍だけでなく、米海兵隊、および米陸軍航空隊にも
所属していましたが、その経緯については後述します。

ちなみに彼が世界記録を立てたのは海軍のテストパイロット時代です。

彼はこの頃の手探り状態の軍航空における研究および試験パイロットとして
積極的な役割を果たしました。

彼本人もレースの優勝者として「スピードキング」というあだ名を奉られたほどです。

 

 

ニューヨーク州ブロンクスで石工の息子として生まれたウィリアムズは、
フォーダム大学の法学部(KKさんの在学しているところですね)に入学しました。

青い目に薄茶の髪、身長178センチメートル、体重66キロという
恵まれた体型をしていた彼は、卒業後2シーズンだけ
ニューヨークジャイアンツでプロ野球選手をしていたそうです。

彼の軍歴はその後ニューヨーク州兵に私兵として入隊し、
歩兵部隊に配属されるところから始まっています。

第一次世界大戦が始まり、彼は海軍予備役(USNRF)に2等級として入隊し、
マサチューセッツ工科大学の海軍航空部隊で航空訓練を受け、
訓練終了後の1918年、海軍少尉に任官します。

その後少尉のままペンサコーラで砲術および主飛行教官を務めた後、
テストパイロットに任命されることになります。

中尉任官後ピューリッツァートロフィーレースに出場するために
高速飛行機を割り当てられ特別な訓練を行うようになったとき、
彼は海軍の主任試験パイロットという重職にありました。

 

ところでいつの時代も組織というのは内部で対立があるものですが、
このころのアメリカ海軍航空は特に母数が少ないだけに
色々と覇権争いやら意見の食い違いによる摩擦があったようです。

ウィリアムズは前回お話しした「海軍航空の父」であり飛行船事故で亡くなった
ウィリアム・A・モフェット少将の弟子筋に当たると目されていたのですが、
このモフェット(当時大尉)とのちに海軍大将になるアーネストJ.キング大尉
当時親の仇同士のように対立している関係だったせいで、ウィリアムズは
その真ん中に立ってえらいとばっちりを受ける羽目になっています。

モフェット大尉が第一次世界大戦でヨーロッパにいる間、キング大尉は
自分の天敵であるモフェットの弟子、ウィリアムズ中尉を航空からはずして
なんと海上任務に移してしまうのです。

怒ったウィリアムズは辞表を叩きつけて辞めてしまいます。

いやいや、そういうことならモフェットになんとかして貰えばいいんじゃね?
と今の我々は考えてしまいがちですが、当時は通信手段が手紙しかなかったので、
モフェットがそれを知ったとしても遠隔地からはなんともしようがなかったのでしょう。

そこでとっとと海兵隊に移転したウィリアムズは大尉からキャリアを始め、
前歴を考慮されてすぐに少佐に昇進しました。

そして海兵隊にいた1930年代に、新しい戦闘機の戦術に取り組み、

「ダイビング爆撃」の手法の開発を担当しています。

つまり、彼は艦爆の「急降下爆撃の父」なのです。

この発明と開発にはアメリカ軍にとって計り知れない価値がありました。
来たる第二次世界大戦で、まさにそれが証明されることになります。

急降下爆撃を最初に行ったのは海兵隊、ということは知っていましたが、
これはウィリアムズがもしキング大尉に意地悪されていなければ、
海軍にその「栄誉」が与えられていたかもしれない、ということでもあります。

 

しかし、ウィリアムズはその海兵隊で任務を全うすることはありませんでした。

彼は独立した空軍の存在を肯定するという立場でしたが、
それを言ってはまずい場所(具体的にはどこかわからず)で率直な見解を述べたため、
口が災いして

海兵隊を辞任することを余儀なくされました。

二つ目の軍隊を辞めざるを得なくなったら、大抵の人はもう軍隊はいいわ、
ということになりそうですが、彼はそうでなかったのです。
それだけ航空、軍事航空の世界にどっぷりと浸かって足抜け?できなかったのでしょう。


そんな折、第二次世界大戦が始まってしまいました。

1941年、彼は陸軍航空隊に志願し、ベテランパイロットとして
数千人の陸軍パイロットに技術を教える教官という適職を得ることができました。

 

というのが、彼が海陸海兵隊の三隊を全て経験した理由です。
逆に、彼がもし航空という分野に執着していなければ、いずれの場合も
辞めるというまでには至らなかったに違いありません。

もし最初の水上艦への移動を受け入れていたとしても、
味方のモフェット少将は飛行船の事故で死ぬ運命でしたから、
彼が航空に戻れる可能性はまずなかったものと思われますし、
海兵隊をやめた理由も、独立空軍の創設という
航空愛のなせる止むに止まれぬ思いであったからです。

通勤風景

陸軍引退後、彼はピッツバーグの航空会社の営業マネージャーとなり、
F8Fベアキャット戦闘機の民間版ともいえる

グラマン G-58 ガルフホーク

を売りながらそれに乗って通勤していたそうです。

ガルフホーク展示場にて。

彼が乗っていたグラマン「ガルホーク」複葉機は、UHC、
スミソニアン別館の展示で見ることができます。 

彼はさらにその後、ガルフ石油(アメリカの大石油会社)
の航空部門に迎えられることになりました。

 

ところで彼はドイツ空軍のメッサーシュミットを実際に操縦したことがあります。
彼はレポートでその優秀さ、繊細さを熱っぽく語りました。

「そこにMe 109がわたしを待っていました。
実際にコックピット内の装備器具を研究する初めての機会です。


コントローラーは軽くて触ると繊細でした。
エンジンはまるで夢のように聞こえ、空冷ラジアルのような振動はありませんでした。

パラシュートを所定の位置に固定し、タキシングを行いました。

素晴らしかった。
離陸位置に向かいながら、垂直尾翼とラダーがかなり小さいにもかかわらず、
ラダーのプロペラブラストが驚くほど心地よい反応をもたらすことがわかりました。


離陸はスムーズであり、離陸までの距離はホーカーハリケーンの半分、
スーパーマリンスピットファイアの約4分の1であると推定しました。


空中で約130キロまで減速し、機首を引き上げ、落下させました。
エルロンは優れた制御を行いました。

メッサーシュミットの最も楽しい機能は、コントロールに対して
敏感でありながら機体の軸が
全くブレないということです。 
それは、ピアニストのタッチが忠実に再現される楽器のようでした。
荒っぽい操縦のパイロットは、きっと自分が恥ずかしくなるに違いありません。


メッサーシュミットMe109は今まで飛行した中で最も優れた飛行機です。
ドイツ第一線の単座戦闘機の一つを勉強する機会を楽しんだことは、
わたしにとってとても幸せな日となりました。

知る限りでは、わたしは空軍のメンバー以外でMe109を操縦した
唯一のパイロットになったはずです。


わたしは飛行機を美しく操縦することができたと思います。

 15分の時間を使って計器とコントロールに慣れ、その後、ロール、ダイブ、
インメルマンなどのさまざまなタイプの操縦に15分を費やしました。
30分後、着陸し、再び離陸し、フィールドを周回しました。


109は、飛ぶのと同じくらい簡単に離陸し、着陸する飛行機でした。」


彼がねっからのテストパイロットであったことが、この
まるで恋人のことを語るような興奮したレポートから伝わってきます。


海軍航空のパイオニアシリーズ 終わり