スミソニアン博物館の「海軍航空の黄金時代」で紹介されていた
海軍航空のパイオニアたちを紹介しています。
今日は、武器としての航空機を操縦する技術を極限まで昇華させ、
限界に挑んだひとりのヒコーキ野郎についてお話ししましょう。
アポロ・ソウセック Apollo Soucek
高高度飛行記録保持者
1924年 アメリカ海軍航空士
1929年5月 普通機による高高度記録39,140フィート達成
1925年6月 水上機による新記録達成
1930年 新型水上機で43,166フィートに記録を塗り替える
1937年 「レキシントン」の第2戦闘機部隊司令官に
ソウセック(Soucek)という苗字からおわかりのように、彼は
現在のチェコ共和国の移民の息子です。
チェコ語で発音すると「ソウチェック」となりますが、英語では
「ソウセック」「スーセック」のような発音になると思われます。
彼の父親は鍛冶屋でしたが、ボヘミア(当時のオーストリア=ハンガリー)
からアメリカに来て、アメリカで子供を儲けました。
長男にアポロ、そして弟にはゼウスという気宇壮大な名前をつけましたが、
どちらの息子も海軍航空で限界に挑むという選択をし、
決して名前負けしない人生を送ったと思われます。
【高高度記録挑戦】
1929年5月8日。
この日、アメリカ海軍のアポロ・ソウセック中尉は、ライト・アパッチXF3W-1で
連邦航空局 (FAI)の高高度世界記録を樹立しました。
ワシントンDCのNASアナコスティアから飛び立ったソウセック中尉のアパッチは
高度11,930メートルに達したという公式認定により、
この功績に対しフライング・クロス勲章を授与されました。
しかしながら、本人はこの日12.192メートルまで行った、と主張していたそうです。
というのは彼はその飛行中、大気温度-51°Cを確認したから、というのが理由です。
ちなみに彼の乗ったライト・アパッチを見てみましょう。
・・・・・ちょっとお待ちください。
コクピットは外にむき出しですよね?
こんな飛行機で気温マイナス五十度の吹き曝しに生身の体を晒すなんて
どんな罰ゲーム?
と思ったら、チャレンジのために特別な装備を用意していました。
せっかくの男前もだいなしです。
ちなみにこの毛皮のフライングヘルメットはスミソニアンに所蔵されています。
彼の着ている革のスーツは裏が毛皮になっており、本人によると
素肌に毛皮が直接触れるようにしていた(つまり下着なし?)そうで、
エスキモーの衣装から着想した特別あつらえなのだそうです。
後ろから見たところ。
ところで彼の弟ゼウス(何度見てもすごい名前だな)もまた海軍航空士になり、
記録に挑戦した人物なのですが、アポロの高高度記録挑戦にあたって、
彼はゴーグル内の湿気が氷結するのを防ぐための電気加熱式ゴーグルを開発しています。
これらの装備一式は全て高高度に達した時の寒さに照準を合わせたので、
地上温度32℃という猛烈な暑さの中、さらに彼は
「装備の途方もない重荷の下で汗をかく」
という苦痛に耐えながら離陸しました。
ですからむしろマイナス50度の寒さには楽に耐えられた、ということですが、
この頃の飛行記録挑戦は文字通り人間の体力と耐久力の限界への挑戦でもあったのです。
寒さはともかく、よくぞ30度の気温でこの装備を身につけ、
熱中症を起こさなかったものです。
当時は飲み物を持ち込むことなどきっとできなかったでしょう。
彼は高高度記録への挑戦を2度目は水上機で行いました。
最初の実験から1ヶ月後、450馬力のプラット&ホイットニーR-1340を搭載した
アパッチの水上機バージョンで13,157 mの記録を樹立しています。
【海軍でのキャリア】
彼は海軍兵学校を卒業しています。
在学中のあだ名は「Soukem」。
兵学校時代の「Soukem」
「信頼できる男が欲しいとき、Soukemがそこにいれば、
彼はきっと何かしてくれる」
とアナポリスの仲間に言われるほど頼れる男だったようです。
兵学校では野球とサッカーを課外活動に選びました。
ところこれを作成している現在、警官によってアフリカ系アメリカ人が
逮捕の際窒息死させられたという事件をきっかけに暴動がおきているわけですが、
アメリカの黒人差別というのは公民権運動まで公的に行われていました。
軍における差別問題については、セグレゲート(分離)によって編成された
タスキーギ航空隊やバッファロー大隊について何度か触れた関係で
当ブログでも何度か扱ってきましたが、黒人部隊の指揮官育成のために
ごく稀に国策としてアフリカ系が士官学校に入学することがあっても、
その扱いは周りの学生からのものも含めて非常に微妙なものであったと聞きます。
しかしながら、彼の時代、移民の二世であってもヨーロッパの白人系ならば
普通に軍学校に入学し、周りから特別視されることもなく、(むしろ慕われて)
その後エリート中のエリートである航空士にもなれたということのようですね。
陸軍士官学校でも、アイゼンハワーやブラッドレーがいた「星の降り注いだクラス」には
史上初のプエルトリコ人学生、ルイス・エステベスが在籍していました。
エステベス
エステベスはその後クラスで一番先に少将にまでなっています。
つまりアメリカの軍隊は(海軍でも艦艇に普通にアフリカ系がいた)
一般社会よりかなりリベラルで、特に黒人以外、ヨーロッパ系であれば特に
出世に何の支障もなかったということになります。
さて、ソウセックは兵学校卒業後、少尉任官しました。
最初に乗った艦はUSS「ミシシッピ」です。
そのあとペンサコーラで航空士官としての訓練を受け、海軍最初の空母
「ラングレー」にパイロットとして乗り組みました。
ラングレー
その後は偵察員として戦艦「メリーランド」、機雷敷設艦から
大西洋横断航空のための航空士の休息、給油、メンテナンスを行う
「エアクラフト・テンダー」となった「アローストック」、
空母「サラトガ」、「レンジャー」、「ヨークタウン」と、
航空司令官として空母の勤務が続き、第二次世界大戦中は
戦没した「ホーネット」の飛行長でした。
サンタクルーズで日本軍の飛行機にめためたにされている「ホーネット」(-人-)
「ホーネット」沈没は、確かアメリカ軍が放棄したため、日本軍が
魚雷を打ち込んで引導を渡したと記憶するのですが、この戦いで
スーセック大佐は戦闘中の行動に対してシルバースターを授与されています。
しかし何をして授与されたのかまではわかりませんでした。
大尉時代のアポロ・ソウセック。
1932年、USS「サラトガ」にアサインされたVF-1のボーイング F4B-2前で。
スーセックの少将昇進は1947年、イギリスの駐在武官、艦隊司令を経て、
航空局長の職にあるとき心臓発作を起こし、退職希望を出した18日後、
現役の少将のまま自宅で亡くなりました。
58歳と早い死ですが、自分より先に愛妻に先立たれたことが原因だったかもしれません。
彼は死後海軍中将に昇進し、夫婦共にアーリントン国立墓地に埋葬されました。
ちなみに、ちょっと気にしている人のために、彼の2歳下の弟、
ゼウスの写真も見つけてきました。
海軍兵学校は1923年クラスで、卓越したサッカーとラクロスの選手でした。
あだ名は「ジーク(Zeke、零戦かよ)」とか兄と同じく「ソーケン」だったようです。
彼が挑戦したのはPN-12水上飛行機の滞空記録で、36時間1分の世界記録を立てました。
そして、もう一つおまけに。
アポロ、ゼウス兄弟には妹がいたことが判明。(お墓コーナーで見つけました)
この名前もすごくて、なんと
ヴィーナス(Venus Soucek)
ただし、彼女は1904年に3歳で死亡しています。(-人-)
続く。