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「海軍空母の父 」ケネス・ホワイティング大佐〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-16 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館展示に沿って、「海軍航空の黄金時代」というテーマで
話を始めたわけですが、
ここまで進んできても、何を持ってこのころが
「黄金時代」だったのか、正直
いまいちわからないわたしです。

 

そもそも「黄金時代」の言葉のルーツはギリシャ神話であり、ヘシオドスによると、
かつてクロノスが神々を支配し、人間が神とともに生きていた時代のこと。

その世界は調和と平和に溢れ、争いも犯罪も起こらず、(まあ隣に神様がいればね?)
あらゆる産物が自動的に生成され、働く必要もなく(金持ち喧嘩せずの論理)
人々は不老長寿で安らかに死を迎えたというのです。

スミソニアンの定義する「黄金時代」はいつかというと、1930年代まで。
つまり
飛行機というものができてすぐに世界大戦が始まり、
その必要から起こったヨーロッパでの技術革新を受けて

アメリカも後続ながらその潮流に身を投じると同時に、
繁栄に向かって
官民一体で突き進んでいった頃にあたります。

英独のように黎明期の技術を世界大戦である意味疲弊させることなく、
(イギリスでは第一次大戦が終わるや否や飛行機廃止論が席巻し、
負けたドイツは言わんもがな)アメリカの航空は、いわば
人間が神々と
無邪気に暮らすかのような幸福な時期を過ごしたという意味で、
スミソニアンは「黄金時代」と名付けたということなのかもしれません。

ちなみにギリシャ神話では、クロノスに取って代わったゼウスは
白銀時代と呼ばれる次世代の人間を滅ぼしてしまいます。(おいおい)

続く青銅時代神話の英雄が活躍する英雄の時代、さらに鉄の時代となるにつれ
人間は堕落し、世の中には争いが絶えなくなったというのですが、
スミソニアン的には現代の航空機の世界は何の時代に当たるのでしょうか。

 

さて、今日はそんな海軍航空の黄金時代に基礎を築いた
海軍軍人であり飛行家でもある人々を紹介していこうと思います。

うむ、ある意味これは「英雄の時代」でもあったってことかな。

 

さて、最初は冒頭にあげたスミソニアンの似顔絵の人物です。

ケネス・ホワイティング大佐
Cap. Kenneth Whiting 1881-1943

航空母艦開発のパイオニア

Kenneth Whiting - Wikipedia

1914年 オーヴォル・ライトに操縦を学び、海軍航空士に

1918年 ヨーロッパの海軍航空基地司令に

1922年 海軍初の空母「ラングレー」の副長に就任

以降、「レキシントン」「サラトガ」の設計にも参画する

 

彼をして人に「アメリカ海軍空母の父」と呼ばしめることもあります。

最初の6隻の米海軍空母の5隻の設計または建設に何らかの形で関与し、
米海軍に就役した最初の空母「ラングレー」の指揮官代理、そして
最初の2隻の米空母の副長を務めているからです。

米海軍における空母力の開発期、彼は多くの点で革新に導き、
それは今日の空母にも生きているのです。

【潜水艦】

海軍での彼のキャリアは潜水艦から始まりました。

この頃からアイデアマン?だったホワイティングは、乗っていた潜水艦
「ポーポイズ」が6メートルの海底にいるとき、常日頃から考えていた

「潜水艦の魚雷発射管から乗員は脱出することができる」

という仮説を証明するため、皆に宣言して自ら実験しています。

「ポーポイズ」はすぐに浮上して彼を回収し、実験は結果的に成功しましたが、
どういうわけかホワイティングは事後そのことを公言したがらず、
代わりに部下の中尉が「実験の結果」として上にこれを報告しています。

ちなみに海中に出てから浮き上がるまでの時間は77秒だったそうなので、
成功したとはいえ、彼は脱出中あまりの苦しさに、

「こらあかんわ」

と自分の中では失敗認定していたのかもしれません。知らんけど。

 

【海軍航空】

最初に空を飛んだ海軍士官として当ブログで紹介した
セオドア・スパッズ・エリソンもまた潜水艦勤務で、彼の友人でした。

実は海軍が飛行機を取り入れることになり、少数の士官に
グレン・カーティスが航空操縦法を伝授することがきまったとき、
最初に手をあげたのはホワイティングでした。

彼は仲が良かったエリソンに

「一緒にやらないか」

と誘ったのですが、どういうわけかホワイティングは採用されず、
エリソンが結局海軍航空士官第一号になってしまったのでした。

悔し涙にかきくれながら(知らんけど)潜水艦勤務をしていたホワイティングに
今度はオーヴィル・ライトが生徒を取るという話がやってきます。

今度は誰にも言わずに(たぶん)そのチャンスをモノにし、結果的に
ライトの最後の海軍将校の弟子となったホワイティングは、
1914年に海軍飛行士第16号に指定されることになりました。

その後フロリダ州のペンサコーラ勤務となったホワイティングは、
ヘンリー・マスティンと一緒に水上飛行機の設計の特許を取っています。

マスティンは現在横須賀にいる駆逐艦に名前を残した軍人です。

 

【空母を提唱】

 彼は1917年の段階でカタパルトとフライトデッキを備えた船の取得を
国務長官に提訴しますが、その提案はあっさり却下されました。

第一次世界大戦後にアメリカ合衆国に戻ったホワイティングは、
海軍作戦局の航空部門に配属され、マスティンら海軍飛行士とともに
空母の必要性について認めさせる計画を推し進め、USS「ジュピター」
空母に改造するプランをついに認めさせました。

「ジュピター」は改装され、アメリカ海軍最初の空母「ラングレー」になりました。

 

1919年には、戦艦「テキサス」から発進した航空機がターゲットを発見し、
正確に攻撃するという実験を成功させ、艦砲よりも精度の高い攻撃砲であるとして、
その後海軍がすべての戦艦と巡洋艦に水上飛行機を搭載させることに成功しています。

新しく設立された航空局に転勤したホワイティングはさらに空母計画を推進しました。

 1922年1月、彼はこう言っています。

「ラングレーは海軍にとって実験用の空母となるでしょう。
決して完璧ではありませんが、必要な実験には十分に役立ちます。

第一次世界大戦のせいで海軍は空中戦術や航空機の開発ばかりを行い、
対潜戦に焦点を当てて全くこの部分に手を付けませんでした。

空母運用は成功するでしょうし、将来の海軍にとって
絶対に必要なものであることを、わたしの心は少しも疑っておりません。

わたしたちは議会に『適切な設計をされた空母』を求めていますが、
おそらく
それを作るのに3年から4年かかるでしょう。

議会はそのチャンスをくれるでしょうか」

ホワイティングが望んだ「適切に設計された」空母は、
この発言の5年後、

USS「サラトガ」(CV-3) そしてUSS「レキシントン」(CV-2)

として就役することになります。

【ラングレー】

ホワイティングは1922年「ラングレー」の初代副長に就任しました。
同時に最初の指揮官として米海軍空母を指揮する最初の人物となったのです。

ただし「ラングレー」は戦闘艦隊に加わることはできず、その存在目的は
空母作戦の基礎を打ち立てる『実験室』として機能することでした。

ヴォートVE-7を操縦したバージル・C・グリフィン中尉は1922年10月17日、
アメリカの空母から史上初の発艦を行い、

America's First Aircraft Carrier – USS Langley (CV 1) #Warfighting ...その瞬間

ゴッドフリー・シェバリエ大尉が1922年10月26日に
最初の着艦をエアロマリン39Bで行いました。

その瞬間

LCDR Godfrey Chevalier.jpgシュバリエ中尉

そして1922年11月18日、彼ホワイティング自身が操縦する航空機が
世界で初めて空母上からカタパルト発射されました。
使用された飛行機は
Naval Aircraft Factory PTでした。

ホワイティングは「ラングレーツァー」の期間中、空母航空の
多くの基本的なポリシーを確立したとされています。

「ラングレー」にパイロットのためのレディルーム
(控え室、ブリーフィングルームとも)を設置しました。

着艦を評価・支援するために手動のムービーカメラで撮影し、
艦内に備えた暗室と写真ラボで艦上でそれが観られるようにしました。

当時まだ「ラングレー」には着艦を誘導する信号システムがなかったため、
ホワイティングは自分が飛行しない時には、飛行甲板の左舷後部の隅から
すべての着陸を観察していました。

これは、パイロットが機体が着艦のためにアプローチしてきたとき、
ホワイティングの姿が見えればそれは期待の姿勢が下向きすぎで
つまり危険であるという合図にもなります。

ホワイティングはその際 ボディランゲージで合図を送っていましたが、
ベテランパイロットが、その信号を送る専門の係を置くことを提案し、
 " 着陸信号士 landing signal officer "  "landing safety officer" (LSO)
が生まれることになります。

 LSOのコンセプトは、進化し高度な形で今日も空母で使われています。

 ホワイティングはまた、空母指揮官はパイロット資格を有すること
という条件を海軍に決定させるにあたって、多大な影響を与えました。

 

【その後】

1927年にホワイティングは米海軍2番目の空母、USS サラトガ (CV-3)
の建造を監督し、初代
副長として1929年5月までその勤務を続け、
そして1929年、初めて艦長に就任することになりました。

その後、ノーフォーク海軍航空基地司令を経て、1933年6月15日に指揮官として
古巣のUSS 「ラングレー」、空母USS「 レンジャー 」(CV-4)
 勤務後、
USS 「ヨークタウン 」(CV-5)USS 「エンタープライズ」 (CV-6)の計画策定を支援。

そして1934年6月、彼は再びUSS 「サラトガ」に戻り、指揮官を務めました。

その後地上勤務に回りましたが、最後まで現役でいたかったらしいホワイティングは、
1940年6月30日に58歳で退職リストに載せられても現役勤務を続けました。

(当時のアメリカ海軍ではやめたくなければ続けてもよかったんでしょうか)

第二次世界大戦が始まった時にはニューヨークの航空基地の司令でしたが、
肺炎に苦しみ、現役のまま心臓発作で亡くなりました。

彼の遺灰は遺言により、コネチカット州のロングアイランドサウンドの海に撒かれました。

 

彼の名前は、海軍航空基地ホワイティングフィールド、そして水上機母艦
USS「ケネス・ホワイティング(AV-14)」に残されました。

ホワイティングフィールドにある銘板にはこのように記されています。

ホワイティング・フィールドは、ケネス・ホワイティング大佐を
記念してその名前を受け継ぐものである。

彼はアメリカ海軍軍人であり、潜水艦と航空のパイオニアであり、
海軍航空士第16号であり、我々海軍の『空母の父』であり、
1943年4月24日、現役のままで死んだ。

 

続く。