の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ユネスコ世界文化遺産 バーン・チアン遺跡へ行く

2014年01月16日 | ウドン・ターニー

■バンコクへ戻るコースは幾通りもありますが、今回は「ナコーン・パノム」から国道22号線を西へ「サコン・ナコーン」を経由して、まず「ウドン・ターニー」へ出ることにします。約260kmの距離です。「ウドン・ターニー」からは国道2号線を南下して「ナコーン・ラーチャシーマー」、「サラブリー」、「アウター・リング道路」でバンコクに入ります。ウドン・ターニーからバンコクまでは約590kmです。
帰路の沿線を紹介します。

「ロイ・ルア・ファイ」(灯明舟流し)の翌日のメコン川は昨日の喧騒もなく静まり返っています。

ベトナム時計台です。ベトナム戦争で戦禍を逃れてこの地へ来たベトナム人が、戦争終結後、帰国するにあたり、受け入れてくれたタイに感謝して1960年に寄贈したものです。この一帯にはベトナム戦争以前からもたくさんのベトナム人が移住しており、市街南部にはベトナム独立の父、ホー・チ・ミンがフランス軍の追及を逃れて、1928年から2年間隠れ住んだ家があり、記念館として公開されています。



道路標識が示す通り、ベトナムまでは145kmしかありません。バンコクまで最短で740kmです。中国までと大差がありません。

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国道22号線を35km程進むと「ワット・プラタート・マハーチャイ」という案内標識があり、寄ってみました。幹線道路から2km程はいった「パラ・パック」の村にあります。
お寺の縁起は書かれていないのでわかりませんが、水曜日生まれの人が参拝する仏塔で、商売に大変なご利益があるそうです。
ナコーン・パノムは生まれた曜日毎にお参りする仏塔が分かれているようです。「プラタート・パノム」はさる年生まれの仏塔ですが、曜日別では日曜日生まれの人、「プラタート・ター・ウテーン」は金曜日、タイの三大美人を出生している町「レーヌ・ナコーン」の「プラタート・レーヌ」は月曜日というように七曜日の仏塔が定められています。
そういえば、灯明舟流しの会場に七基の仏塔のミニチュアが安置されていましたが、あれはお祭りに来た人が各地に点在する仏塔まで足を運ばなくてもよいように、との配慮からだったのでしょう。




この建物は博物館になっています。





大太鼓です。模様が面白くアップしました。

大太鼓の側面です。

国道22号線を西へ進み、サコン・ナコーンへ入ると「クッスッマン」の町役場が国道沿いにあって、敷地内に「タイ・ソー文化センター」があります。この地域の出土品や民具を展示した小さな博物館です。

タイの博物館は入館すると、まず国王なり、その地のかっての国主、または仏像が祀られています。「タイ・ソー文化センター」にも国主「アラン・アサー」と明示した像があります。人物の詳細は没年1924年ぐらいしかわかりません。

上段はラーンサン時代の古銭、下段はソンクラーム川流域陶器です。



発掘した壺であることと、発掘者の名前が書かれています。





「ムアン・カオ」の寺院跡から出土した500年前の仏像という説明がありますが、様式から見てもっと後の時代の仏像でしょう。

民具です。他に薬味などを入れる木箱がありました。

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■「ウドン・ターニー」の手前50kmに1992年、ユネスコ世界文化遺産に登録された前史時代墓墳遺構のバーン・チアン遺跡があります。
発掘当時は7000年前の世界最古の青銅器文明と話題になったそうですが、その後の調査で紀元前3600年から紀元前1000年の新石器時代、紀元前1000年から紀元前300年の青銅器時代、紀元前300年から西暦200年までの鉄器時代へと連なる文明跡と確認されています。
1967年に発掘を行ったペンシルベニア大学が幾層にも重なる遺跡を大雑把に掘り返し、7000年前から5000年前の遺跡と誤った年代を発表したようです。

バーン・チアン村の入り口にあるモニュメントで、バーン・チアンで発掘された幾何学模様の彩文土器があがっています
バーン・チアンはソンクラーム川上流の「ナ・カーム川」と「バン川」の間にある東西1.5km、幅500m程の村です。2本の川は村の下流で合流します。

出土品を展示する「バーン・チアン国立博物館」です。





「バーン・チアン」で有名なのは墳墓から副葬品として大量に出土した彩文土器です。幾何学模様の描かれた彩文土器は紀元前300年から西暦200年頃に造られています。
バーン・チアンを中心にウドン・ターニー、サコン・ナコーンのメコン川支流の河川沿いの土地で彩文土器や先史時代の遺構が124カ所確認されています。
バーン・チアンから少し離れた土地の知人の話でも、昔は農地から出土した土器片を建築材の補助資材として煉瓦の隙間に埋めていたようです。
バーン・チアンも同様で地元の人は出土した土器を種入れなどに使っていたようですが、現在は発掘状態のままで保存展示されている「ワット・ポー・シ・ナイ」近くの医師が、1957年に自宅を建設中に発掘された3個の壊れていない彩文土器を地元の小学校の校長に贈ったのが契機で、校長はその後発掘される土器を小学校に収集して展示したのが始まりのようです。

1966年イサーン地域の人類学研究のため現地を訪れたハーバード大学の学生「ステファン・ヤング」が木の根に躓き、倒れた所に彩文土器片が露出しており、掘り返したのが大発見となったという逸話がついています。
彼は土器片をペンシルベニア大学に送り調査を依頼、1967年の発掘となったようです。
ペンシルベニア大学は1974年、75年に芸術局と共にに再調査をおこなっています。





黒色刻文土器は初期の紀元前3600年から紀元前2500年頃の新石器時代に造られていたようです。

奥は儀礼用の水牛でしょうか。その横には乳棒、手前にはるつぼと青色のガラス玉が展示されています。
加工して装身具に使った貝殻やガラス玉はこの地方にはなく、紀元前3000年頃にはメコン川を使った交易ネットワークでもたらされたようです。特に、インドから輸入されたガラス玉がイサーン北部まで分布しています。
(ガラスはインドからという先入観で書きましたが、タイでもガラスの生産が行われていた可能性があります。)

銅を溶かするつぼです。発掘された銅の純度は85~90%で10~15%の錫を入れ融点を下げているようです。
原料となる銅はバーン・チアン北西約100kmのメコン川沿いのノーン・カーイ県、サムコーンにあるプーロン遺跡で紀元前1000年頃に採掘が始まっています。「プーロン」では銅鉱石を石製ハンマーで採掘した坑道跡や鉱石の粉砕、製錬、そして斧の鋳型も発見されており、製品の鋳造まで行われていたようです。こうして生産された青銅のインゴットや製品はメコン川やメコン川支流を利用して運搬されたようです。
また、発掘された青銅装身具や鉄製装身具には麻、綿で織られて染色された布片が付着しています。

発掘された人骨も展示されています。
人骨からはどのような人種が居住していたのかは特定できないようです。



発掘時の様子が復元されています。



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博物館前には土器の複製品が売る土産物店が並んでいます。大きめの壺でも200バーツ前後と、非常に安価です。



博物館から出て左へ1km程行った寺院(ワット・ポー・シー・ナイ)の境内に発掘した状態のままが展示されています。入館すると係員が何かごそごそと探しているなと思ったら、しばらくして中国語の解説が流れ出しました。
中国人でないことを説明して、放送を中止してもらいました。



ずいぶん浅い地層に遺跡があります。
余談ながら2003年にこの一帯を襲った大洪水は、この遺跡にも大被害をもたらしています。発掘時の状態とはかなり異なったものになっているのではないでしょうか。サンカロークの古窯址も大量のグラスウールで新しく作り直していましたが、掘り下げた土の表面は自然のようには見えません。
国立博物館は洪水被害によって大改造され、展示品も増加し、明るく見やすくなっていました。





人骨の上や周りは、副葬品の土器で埋め尽くすのが特徴のようです。





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宿泊はウドン・ターニー市街の外れにある「チャルーン・ホテル」です。一泊朝食付きで900バーツです。ホテルの窓から見る夕景です。