■「ワット・サ・ボー・ケーオ」ビルマ様式の寺院でビルマ人が、1894年に建立された「ワット・チョム・サワン」と同時期に建立し、当初は「ワット・チョン・クラン」と呼ばれていました。この寺院はビルマ僧が経典を学ぶためにやって来ます。
大理石の仏像はマンダレーからもたらされ、ビルマ人が住職をしています。
■「ワット・チョム・サワン」、旧市街の外にあるビルマ様式の寺院で1894年の建立です。
山門を入った左手に古びた仏塔が建っています。1902年のギャオ(タイヤイ)の反乱で廃墟となりましたが、後にタイヤイ族によって再興されました。
仏塔の龕に祀られているビルマ様式の仏像です。供えられた線香を見ると、参拝の人は多いようです。
総チーク造りの本堂です。
「ルアンポー・サン」と呼ばれる仏陀は竹を編んで黒漆で造形し金張りをしたものです。
天井が高く、板の間に座るとひんやりとし心が休まります。
本堂入り口の柱に下に置かれていた水です。
蓮の花を浮かべたのは良く目にしますが、この寺院ではリーラー・ワディー(プルメリア)が浮かべてあります。
■ギャオの反乱(ジョン・ギャオ・ムー・ペー)
ラーマ5世統治下の1902年7月24日、中央政府から派遣されたプラヤ・チャイヤブーン知事(1897年~1902年)の行政に対してギャオ(タイヤイ)族4、50人が反乱、警察署を急襲、武器を奪い通信施設を破壊、刑務所の囚人を解放、武器を渡して300名の勢力になり、翌25日にはプレーを制圧しました。
行政組織を襲撃、知事、副知事、財政官、検察官、裁判官等の駐在中の中部タイ人を大量殺害しました。制圧後のプレー統治には、ギャオの反乱部隊に食料、武器、弾薬、軍資金や兵員の支援をしたとみられる国主ピリヤチャイ・テパウォンを擁立しました。
中央政府は近隣都市から鎮圧軍を出動、8月11日ギャオ反乱軍は抵抗しきれずに敗走しました。
8月20日、政府軍はプレー入城し、事件を平定し協力者を処刑しました。
プレーの一般住民や国主の家族は断罪はされませんでした。
国主はルアンパバーンに逃亡、タイに戻ることはありませんでした。
緑色の洋館、ムアン・プレー博物館は国主ピリヤチャイ・テパウォンの住宅で前庭には銅像が建ってあり、「仏教に帰依し、プレーで善政を布き、学校設立、地方経済の発展に寄与した・・・。」と国主ピリヤチャイ・テパウォンを称える石碑があります。
事件をみると、旧体制の都市国家から中央集権国家に移行して、中央政府が官僚組織を派遣、実権を奪われた国主がギャオ族を使い反乱を企てたようにもみえますが、反乱後の防衛などの計画もなく単純犯罪のようにもみえます。では、中央から派遣された知事の悪政に対する反乱かと思えば、事件後に死亡したプラヤ・チャイヤブーン知事は、国王ラーマ5世から特別昇進を賜り、現在市内には銅像も建ってあります。結局ギャオ族に全ての責任を転嫁して解決した事件なのか良く分からない事件です。
大理石の仏像はマンダレーからもたらされ、ビルマ人が住職をしています。
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■「ワット・チョム・サワン」、旧市街の外にあるビルマ様式の寺院で1894年の建立です。
山門を入った左手に古びた仏塔が建っています。1902年のギャオ(タイヤイ)の反乱で廃墟となりましたが、後にタイヤイ族によって再興されました。
仏塔の龕に祀られているビルマ様式の仏像です。供えられた線香を見ると、参拝の人は多いようです。
総チーク造りの本堂です。
「ルアンポー・サン」と呼ばれる仏陀は竹を編んで黒漆で造形し金張りをしたものです。
天井が高く、板の間に座るとひんやりとし心が休まります。
本堂入り口の柱に下に置かれていた水です。
蓮の花を浮かべたのは良く目にしますが、この寺院ではリーラー・ワディー(プルメリア)が浮かべてあります。
■ギャオの反乱(ジョン・ギャオ・ムー・ペー)
ラーマ5世統治下の1902年7月24日、中央政府から派遣されたプラヤ・チャイヤブーン知事(1897年~1902年)の行政に対してギャオ(タイヤイ)族4、50人が反乱、警察署を急襲、武器を奪い通信施設を破壊、刑務所の囚人を解放、武器を渡して300名の勢力になり、翌25日にはプレーを制圧しました。
行政組織を襲撃、知事、副知事、財政官、検察官、裁判官等の駐在中の中部タイ人を大量殺害しました。制圧後のプレー統治には、ギャオの反乱部隊に食料、武器、弾薬、軍資金や兵員の支援をしたとみられる国主ピリヤチャイ・テパウォンを擁立しました。
中央政府は近隣都市から鎮圧軍を出動、8月11日ギャオ反乱軍は抵抗しきれずに敗走しました。
8月20日、政府軍はプレー入城し、事件を平定し協力者を処刑しました。
プレーの一般住民や国主の家族は断罪はされませんでした。
国主はルアンパバーンに逃亡、タイに戻ることはありませんでした。
緑色の洋館、ムアン・プレー博物館は国主ピリヤチャイ・テパウォンの住宅で前庭には銅像が建ってあり、「仏教に帰依し、プレーで善政を布き、学校設立、地方経済の発展に寄与した・・・。」と国主ピリヤチャイ・テパウォンを称える石碑があります。
事件をみると、旧体制の都市国家から中央集権国家に移行して、中央政府が官僚組織を派遣、実権を奪われた国主がギャオ族を使い反乱を企てたようにもみえますが、反乱後の防衛などの計画もなく単純犯罪のようにもみえます。では、中央から派遣された知事の悪政に対する反乱かと思えば、事件後に死亡したプラヤ・チャイヤブーン知事は、国王ラーマ5世から特別昇進を賜り、現在市内には銅像も建ってあります。結局ギャオ族に全ての責任を転嫁して解決した事件なのか良く分からない事件です。
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