懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

不美人の思想?

2008-02-17 23:23:23 | Weblog
ベルリン国際映画祭の話から転じて、題材の連合赤軍事件の話になってしまったが、この映画の賞受賞のニュース映像を見た時、図らずも、役を演じる女優さんの「かっこよさ」が目に付いて、そこから忘れていた話を思い出していた。

その役の連合赤軍幹部の永田洋子さんと言う女性に、やけに同情めいた感情を禁じえないのは、その事件の後の言われようが、かなり「酷かった」ことのために尽きる。

今で言う、「セクハラ」。
つまり、美人ではない、まあ、不美人である、ということで、ここに書くには耐えないようなことを、マスコミに色々書かれていた。世の中そういうもんかもしれん、と納得してはいけない。世の中えてしてそういうもんだったとしても、それはちっとも正しくない。犯した犯罪と、美人とか不美人とかは、関係ない。

そんな彼女が、数十年たつと、映画の中で一種かっこいい女性に変貌している。
風化も、こういう風化ならたまにはいいもんだと思う。

「ブス」ということで、この数十年でもっとも印象的だったのは、作家の林真理子さんの発言だった。

彼女は若い頃、とにかく「ブス」だということで、作家になって有名になった後も、色々な思いをしたらしい。

なんでも、道を歩いていて、反対側からこちらへ歩いてくる見知らぬ若い男が、
「あっ、ハヤシマリコだ~!」とわかると、数十メートル先からでも、度し難い負の感情を、ぶつけてくるというのだ。

そんな悔しい思いをした林さんが決意したのは、作家として名を挙げ、偉くなってそんな理不尽な世間を見返してやる、ことだった。それはなるほどと思う。が、それだけでは足りず、「結婚」した。ステイタス重視の人なのだろう。世間がどうやったら自分を認めるか、を優先した人生選択の人なのだろう。

そんな林さんが、「やせてきれいになったハヤシマリコさん」とのコピーで雑誌「アンアン」に出たりするのは、ユーモラスでもある。個人的には自分なら、(たとえそれが逃げだろうと)めんどくさいから、さきに整形でもして美人になってから人生考え直すと思うけど。

たかがツラの皮一枚で、人生が変わってしまうのだ。それは神様がそれぞれにくれるものなので、当たり外れはルーレットのようなものだ。その与えられたものによって、世界の見え方が異なるとは。ハヤシマリコさんの書く、どんな小説よりも、自分にはその話の方が参考になるのだった。

林さんの描く男女関係が、どこか表面的で、(つまりお互い深く愛し合ってはいなくて)彼女の強烈な原体験の方が、根っこがあるからだ。彼女にしか語れない、真実を一番付いているように思うので。

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日本映画、ベルリン国際映画祭で受賞

2008-02-17 02:43:44 | Weblog
今年はなぜか映画の「日本アカデミー賞」発表を、テレビのゴールデンタイムで見てしまった。こんな番組あったっけ?自分が知らないだけか?

こんな番組があったなら、「パッチギ!」の沢尻エリカと井筒監督の時のを見たかった。(当時は、無かったのかも?)「虎ノ門」の毒舌・井筒監督に、オーディションの時「日本映画を変えたい」と言い放ったエリカ嬢。あのコンビもスパイス2乗で面白い。

さらにNHKで「ベルリン国際映画祭で日本映画2本が受賞」のニュースをやっていた。

で、も、・・。

そのひとつが、「連合赤軍のあさま山荘事件」を題材にした若松孝二監督のもの。つまり、今風では全然無い。映画監督自身のこだわりを追及した作品なのだろう。

今の時代が「創造性」の面ではいまいちな時代らしく、リバイバル物が多いと思う。日本の過去を振り返る作品が多い。

何でか知らないけど、昨年冬の長瀬智也主演のテレビドラマも、日本の戦後の復興期が舞台で、やけに「その時代の再現」に熱が入っていた。回顧したい人たちがいるんだろうか。

さて、若松監督の、その映画について。

たまたまドストエフスキーの小説がブームだそうで、つい本屋で立ち読みしたら、売れてる「カラマーゾフ兄弟」よりも、つい「悪霊」の方を見てしまった。

ネチャーエフ事件。そう、「悪霊」の題材となった、「大義のために同志を殺す」、という実在の事件。(私は詳しく知らない。亀山先生なら、当時の時代背景等、考証ばっちりだろうけど)

若松監督ら、「映画人」に、青春を過ごした「あの時代」への思い入れがあるのは、事実としては判る。でも。やっぱり、「連合赤軍」の事件は、せめてネチャーエフ事件との類似等とも比較対象して論じられる位の、透徹した見方が必要だと痛感する。

愚の骨頂だったのは、その事件に対する、作家・島田雅彦の「狂気」というコメント。そんなどうでもいい凡庸極まりない話を聞いてられるほど、私たちは暇ではない。

当時は皆を驚かせた事件でも、犯罪の手口の残酷さだけなら、今では「それ以上に驚愕させられる」事件を、テレビのワイドショーが視聴率ほしさに連日報じてる。「新潮」「文春」やそれに追随する週刊誌その他で、とにかく男女関係その他の、半分私にはどうでもいいかもしれない他人の、個人的な身の毛のよだつような「犯罪」の報道が後をたたない。

身の毛のよだつような「犯罪」の記事などは、ついうっかり読んでしまうと、後味が悪く後悔するものが多い。また、犯罪を犯した男女の個人関係について、どうでもいいくらい詳細に、あることないことかかれている。ああいうの、記者の人たちは、平気なんだ~、と思ってしまう。

ワイドショーやニュースのキャスターは、身の毛のよだつような犯罪や、気の毒な犠牲者の話を、なんでもない顔で話し、すぐ、次へいける。無神経と言うか、平気なんだ~と、思う。私にはそれが疲れるので、経済ニュース「ワールドビジネスサテライト」辺りに行ってしまう。

「連合赤軍事件」の時代と、今は違う。
昔は凄いことでも、今は凄くなくなってしまった。

やはり思想的に、或いは人間理解の深度を上げることでしか、連合赤軍事件へのアプローチはできない。作家、島田雅彦の発言の裏には、おそらく「自分は『事件』の人々のようなことはしない」という思い込みがあると思う。でも。

それは島田センセイの「世界の狭さ」でしかない。
連合赤軍事件を単体として扱えば、それは「狂気を持った、自分とは別の特殊な人々の事件」で終わると思う。しかし、そこに例えばネチャーエフ事件との相関を意識するだけでも、その辺が違ってくるのではあるまいか。

人間には、色々なことが起こり得る。つまり、状況いかんでは・・・。
世界の広さを知ることは、自分の狭さ、小ささを知ることだ。
自分の無力を知ることも、時として無意味ではないと、私は思っている。
限界を知ることは、危機を回避する可能性を見出すスタートにもなるから。

若松孝二監督の問題に戻ると、連合赤軍事件の映画を撮ることは、若松監督自身が問われることだと思う。過去の時代を撮った幾つかの作品に共通するが。

「パッチギ!」が優れていた点のひとつは、「あの時代を撮る」ことに、全然「負けていない」こと。監督自身が思い入れのある時代のはずなのに、そういう立脚点をもつものにありがちな、「ついノスタルジーにひきづられた」調が全く無い。回顧調、ノスタルジーでなく、「確かに『あの時代』が映ってるのに、視点が優れて現代的である」ことに感じ入った。また、普遍的な価値をストレートに表現していることも爽快だ。

連合赤軍事件の時代、時代の熱に浮かされて「俺たちもなにかやらなくちゃ」とおもっていた青年たちが大人になっての映画、ならば、青春の卒業のような映画になるのかなと。それはそれで価値が無いとはいわないが、私のような後の時代のものにとってそれは、その人たちの、個人的な思い入れの集積でしかない。

(ってばっさり切りすぎかしらん。その世代の人が思い入れがあるのは判ってるんだけど。古館一郎さんとかも)

「俺たちもなにかやらなくちゃ」ではなく、もっと上のことを考えてた人たちはいると思う。どっちかと言うと、私はそちらに興味がある。

「ネチャーエフ事件」では、判らない人向けに言えば、フランス革命のロベスピエールの粛清あたりにまで遡ればわかり易いかもしれない。

ようは、高潔な理想を持って立ったはずの人々が、気がつくとかなり極端な粛清などに走るのは「特殊な人の奇怪な行動」という理解よりは、人間はある一定の状況によって、こういうこともやるもんだ、と捉える方が上のレベルの人的理解だと思ってる。そして、「なぜそうなるのか」を解明するのが、論考の仕事だと思うから、島田発言を「時間の無駄」と思うのだった。

とりあえず、「連合赤軍事件」を語りたい人は、事件の首謀者の一人とされる永田洋子(ひろこ、と読むのに、知人の教授は、名を間違えて読んでいた。年配の先生なんだから間違えないで欲しい。最近、漢字を正しく読まない人が周囲にも増えて困る)死刑囚著の「十六の墓標」位は読まなきゃ、ダメ。これは読んでない人は論考者としては問題外。

著者は几帳面な性格なのか、事実をかなり正確に綴っている。読んでいても相当疲れる文だった。書いた方も疲れたと思う。これを書いて脳の癌になったんじゃないかと思った位。

ついでに、この本の解説を書いた瀬戸内寂聴の、傲岸な口調には呆れた。
文が事実を正確に記していることについて、淡々と冷静に語り、いまひとつ文学的に踏み込めてないようなことを言って、筆者を鞭打っていた。「寂聴何様のつもりか」と、後年、彼女がどういう人生を生きた女性かを知って、思った。

自分がつきあったあと自殺した男のことを、懺悔でもしてから言ってほしいというか。一人殺せば犯罪者で、多くを殺せば英雄だと、昔チャップリンが皮肉ったが。

永田洋子死刑囚は、彼女のやるべきことをやった。「事件の記録を残すこと」。
組織から、ありがちな「彼らにとって都合のいい作文」を総括として認めるよう要求され、拒否。永田死刑囚が、自分の利益のために「彼ら」の要求をのみ、「作文」を認め、本を出版しなければ、事実は藪の中だった。

拒否したことで、過酷な不利は受けている。用語忘れたが、刑務所での接見がなくなったんだったか。しかし、刑務所で過酷な生活の人間に、利益をえさに自分らの都合のいい要求をする組織も組織だが。どこの組織も(一般企業と会社員の関係だってそんなもんか)そんなものか・・・。

やるべきことはやった人間に、男にとって、どうやら褒められた女性とはおせじにも言いがたい寂聴センセイが、身の程知らずなお説教たれる。やっぱ、センセイとよばれ、出家もすれば、それなりにえらそうなお説教癖が常態化する、ということなのだろうか。(当時出家までしてたか知らないが)

十数人殺した永田死刑囚と、つきあった一人の男が自殺してるらしい寂聴センセイ。(ぜんぶ彼女のせいではないとか、関係ないとかはいえるけど、でもでも)

世間では、十数人殺した方が上の犯罪だけど、男を壊滅的に、性的なことも含め、傷つけるのは、個人的には、あまり好きになれない、評価もできない女ということになる。瀬戸内寂聴の本を読んでいて時々感じるのは、この書き手の女性は、男よりも性的充足の方が好きだということだ。男は、女がセックスするためだけに存在してるわけじゃない。或いは女が利用するためだけに存在してるわけじゃない。

寂聴の本からは、男の、向こう側にある、つまりセックスの向こう側にある、人間性が見えてこない。女が男を尊敬する念も見えてこない。愛というのは、性もあるけど、それだけではないと、私は思うのだけど。(換言すれば、性の中で相手の人間性も見えてくることもあるのだけど。)もちろん、溺れる生活の中で性がすべてな男女関係もあるのは、わかるけど。

脱線したが、寂聴さんは、やるべきことをやった人というのとは違う気がする。同じ所を堂々巡りな気がする。ま、まわりに害毒をまち散らしながら、本人はいたってお元気、ってやつ。

永田死刑囚は本を書き、力尽きた。人間のできることの限界を行ったと思う。脳の癌になっちゃったし。

ついでに「事件」に興味ある人は、このリアリストの永田死刑囚と、観念的なリーダーの森恒夫との、資質の違いも見逃せないと思うべき。森恒夫は、事件の最後に自決した。週刊誌ネタかもしれんが、逮捕後も身体を鍛えてたというから、永田死刑囚の理解のような「現実逃避の自殺」とは異なる。

指導者として権力に自分を裁かせずに、自分が、(集団の指導者として)自分を裁いた。
つまり映画「連合赤軍事件」のような「物語化」を、自らの死を持って拒否したわけなんだけど。

この森恒夫と、こういう観念的な物事の捉え方が全くできない永田死刑囚。
彼女が、事件から何年たっても、死ぬまでこのリーダーの考え方を理解できないのは、不幸で残念なことだ。リーダーを信じて行動したはずなのに、「彼は逃げて自殺した」と捉えるのと、是非はともかく、リーダーの自決の真意を理解することでは、「なぜあの事件は起こったのか」考えざるを得ない彼女の立場では、理解が大変違ってくるはずなのに。

連合赤軍には、もうひとり別の意味のリアリストがいた。他のメンバーは粛清にあたって、リーダーに何か言われると、悪い意味で「誠実に」受け答えしているけれど、一人だけ「自分がどう思うか」ではなく、リーダーは「なんと答えたら満足するか」という観点でものを見ていたメンバーがいた。(こんな事実も、克明な手記「十六の墓標」があるから、判るのだが)

今の若者なら、こういう観点を持つものは多い。

「空気を読め」と言う言い方からして、実はそうだ。

自分の意見や、思いを素直に述べるのではなく、「なんと言ったら周囲は満足するか」でものを言っている。いや、若者どころか、主婦の知り合いもよく考えて見ると、そんな感じだ。

脱線だらけだが。まとめ。

連合赤軍事件を語るなら。必見書籍。
1.永田洋子著「十六の墓標」
2.ドストエフスキー「悪霊」
3.寺山修司「自殺紳士録」(だったと思うが森恒夫の死について事件直後に書いてた。本のタイトルではない。それは失念)

(メンバーの坂口と言う人の手記も出ていたが、これは感情的で、とても読めたしろものではなかった。誰でも書けそうな文。事件からかなりたっての主観的なもので、参考にならない。)

参考書籍。

1.大江健三郎「河馬に噛まれる」(小説とはこういう視点をいうのだ、とわからせてくれる。事件の参考と言うよりは、事件を見るものの観点をリフレッシュ)

まあ、こんなところでしょうか。

NHKのニュースでの若松監督のこの映画の、映像。永田役らしき女性が、やけにかっこよく勇ましく映っていて、いいのかなあ~と、片腹痛い思いでした。やっぱり青春なのか、彼らにとっては?





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