気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

年末をむかえて

2016-12-06 02:59:02 | 日記



 昨日は日ごろたまった疲れた体をいやすために温泉に行った。
ネットで調べてみると東京にも温泉が結構湧いているんですね。驚きました。

 東京で湧いている温泉というのは、数百万年前に地殻変動があった際に閉じ込められた古代の海水だという説明書きがあった。
と云う事は昨日僕が浸かったのは数百万年前の海水なのか…
 数百万年…想像だにつかない。

 僕が毎日通勤している地下鉄のある部分にある大理石には、アンモナイトがはっきりと残っている、それもたくさん。
アンモナイトというと数百万年どころか、3億5000万年前だという・・そんなものを痕跡とはいえはっきりとリアルタイムで目の前で見ていると云う事に、感動を覚える。

 それを思うと人間の一生なんて短いどころの話ではない、一瞬でさえない、あったかなかったわからないぐらいのものである。
その短い人生の中で僕らは喜怒哀楽を経験していく。なんてはかなく貴重なものだろう。

 季節がらクリスマスプレゼントの下見もしてきた。
いつもは服とかマフラーのような平凡なものばかりをあげていたので、今年は少し奮発してジュエリーを買おうと思っている。

 ジュエリーショップというと、男が一人で入っていくと店員は若い女性が多いので「引かれる」場合がある、スゥーッと離れていってしまうのだ(笑)特に日本では文化的にその傾向が結構ある。
 今日もそれを心配していたのだが、幸い1軒をのぞいてみんな店員が話しかけてくれた。まぁ、時期が時期だけに明確にクリスマスプレゼントだと云う事がわかっているからでもあるだろう。もっともそれがありがたかったり、うざかったりもするのだが。

 最後に寄った店で面白い会話になった。
店員が「この時期は男性にとっては頭が痛いですよね」
というので、僕は逆にこうやって選ぶのが楽しいんですよ、と答えたら、「あぁ、そういう考え方はいいですね」と言った。

 考え方も何も、事実こうやってプレゼントを選んでいるその時間は大きな喜びである。
どれをプレゼントすれば相手は喜ぶか、喜んでいる顔などを想像しながら選ぶのは喜び以外のなにものでもない。

 ところがその女性店員にはその心理がどうにも理解できなかったみたいだった。
確かに財布は痛い、痛いがそれ以上に相手を喜ばせたいという思いがずっとまさっている。
 
 自分がどれだけ相手のことを大切に思っているか表現できる、そのことで相手に喜んでもらえる、そのことの大切さに比べればわずか数万円の出費などなんだろうと思う。頭が痛いどころか、そういう喜びを与えられたことを感謝さえしている。

 先日もほぼ同年代の女性(こちらは同僚)数人と食事をした後、結婚の話になった。
その人は離婚した人で、結婚なんてもうこりごり、茶飲み友達がいたら十分と何度も強調していた。

 僕はそれに対して、いやぁ、僕は結婚してみたいですね、と言ったら、彼女は結婚したら大変ですよ、いろいろ縛られることが多くて、と答えた。
今の女性って自分は贅沢なものを食べて、夫にはマックで食事をさせるんだから、と。
 僕は、そんな女性と結婚しなければいいだけだし、仮にマックで食事をさせられたとしても、心のやさしい妻の幸せそうな笑顔を毎日見て生きていかれさえしたらそれで幸せです、と答えた。(本気でそう思っている)

 それを聞いたその女性は、そんな人がいるわけないじゃないですか、というものだった。
先のジュエリーショップの店員と言い、この同僚と言い、なんで「いるわけない」と決めつけるのか、僕にはよくわからない。
なぜ自分の体験だけが絶対的な基準になるのかがわからないのだ。
なぜ、男(女)はこういうものだと思ったら、金太郎飴のようにすべての男(女)がそうなってしまうのかが僕にはわからない。

 ただ、たしかにそういう事を云う女性がどうも多いことを見ると、『そう云う男性(女性)』のほうが多いのかなとは思う。
あるいは、じぶんがそうでない男性と出会えなかったことから生まれる悲哀、絶望、怒りやわらげるために、そう無理やり自分を納得させている(意識的せよ無意識的にせよ)のかもしれない。

 それにしても、そうやって他人を自分の世界に引き込むのではなく、どうして夢(仮に夢だったとしても)を見ようとしないのだろうか。
そのほうが、仮に一生夢見るだけで終わったとしても、ずっと幸福ではないか、とぼくは思う。
 もっとも僕がこう思うのは、僕の貧しい人生体験の中でもほんの数名だが、男女どちらも含めて、とても心のきれいな、純度の高い、穢れの非常に少ない人がいたこともあるのかもしれない。

 芥川龍之介の非常に短い、原稿用紙にしたらたぶん10枚ぐらいの短編がある。確か題は「尾生の信」だったと思う。
それは、ある青年だったろうか、理想の女性像を胸に抱いた男がある女性と会う約束をして、その女性が現れるのをずっとただひたすら橋のたもとで待っているという話である。
結局その理想の女性はまてどもまてども現れず、何年も何年もその橋のたもとで待ち続けたその青年は、だんだん衰弱していき、その橋の下に流れている川で溺死してしまう、というストーリーだったかと思う。

 僕は最初それを読んだときは、悲哀に満ちた物語だと思った。
今でもたしかにそれは悲しい物語だと思う。でも、実はこの青年は幸福だったのではないか、圧倒的多数のあきらめている人々、あるいはそもそもなに(何人)も待っていない人々にに比べれば、とも思うのだ。

 人生はどれだけリアルに見えようと、どうせ幻想であるともいえるし、本当に短い、一瞬のきらめきのようなものであろう。
ならばそれをできるだけ美しいものとして捉え、体験したもののほうが、幸福、と言えないだろうか…
 僕はといえばもちろん、あの短編の主人公のようにただひたすら、毎年クリスマスを迎えるとジュエリーショップに現れ、相手の喜ぶ顔を思いうかべながらジュエリーを選び、生を終えたいと思う…
 

 
コメント
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