コロナはまだまだ続いている。緊急事態宣言の発令も近いという。
戦争以外でこういうものが発令されることはないだろうから、今はやはりよほどの危機的状況だということであろう。
僕の同僚でこんな時でもパチンコに行っている人がいる。それを聞いたときは一瞬憎悪に近い感情を覚えたが、やはり人口の一定割合にはこういう人がいて、こういう人が感染を広げるというのは避けられず、だからこその緊急事態宣言なのだろう。
さて、感染状況だがどうしても興味を引くのは、アメリカやヨーロッパでの感染拡大と死病者数の多さとそれに対するアジアでの両者の低さの対比だ。前回の記事で日本の医療水準の高さゆえだろうと書いたが、それはもちろんそれもあるだろう、しかしどうもそれ以外にもありそうな気がしている。
一部では日本やその他のアジアの国々で接種してきたBCGが効力を発揮しているのではないかという説を説く人がいる。
実際、感染者と死亡者の多い国と少ない国を地図上で比較すると、ほんとうに前者はBCGの接種をすでにやめたかしておらず、後者の国々ではBCGの接種をいまでもしているというふうにほぼぴったりと分かれていることに驚く。まだ医学的に証明されたわけではないが、この地図を見ると偶然とするにはあまりにもぴったりと明確に分かれており、かなりの説得力を感じる。
このウイルスはおそらく何千年、あるいは何万年もの間、その発生源といわれる蝙蝠などのエキゾチックな動物と共生してきたのだろう。にも拘らず、その幸福な共生関係を壊して、蝙蝠とウイルスを食べ始めた人間にたいして復讐の機会を狙っていたのかもしれない。自然界の神秘的なメカニズムによってようやく蝙蝠から人間、人間から人間に感染させるように変異することに成功した今、つもりつもってきた積年の恨みを晴らしているようにも見える。
ウイルスにとって人間の中で増殖しその宿主である人間を死に追いやってしまえば、自分たちも死ぬことを意味する。いいかえれば、それほどの犠牲を払ってまでも自らと蝙蝠などの発生源とされる宿主を守ろうとしている、といえなくもないだろう。実際、これ以降もう蝙蝠を食べるようなことは少なくとも中国ではほぼなくなると思う。
アメリカやフランスのリーダーはこれは戦争だといっているが、蝙蝠やその他の動物たちを殺して食べ始めたのは人間のほうであり、先に戦争を仕掛けたのは人間のほうであろう。彼らにとってはあくまで自己防衛のための戦いであるともいえる。
事実、このウイルスの流行でそれまで犬や猫を食べる習慣のあった中国のある地域では、もうそのような習慣をやめることになったというニュースを見た。犬や猫を食べる……考えるだにおぞましいほどの非情さ、冷酷さだが、そのような人間の蛮行に対するウイルスたちの反乱は、そういう形で奏功しているともいえる。
人類の歴史の中でパンデミックといわれるウイルスや細菌の流行は、ほぼ人間が手なずけ、食べてきた家畜などから発生しており、学者などはそのような病気のことを「家畜がくれた死の贈り物」と呼んでいるという。
動物や、ましてやウイルスなどのほぼ知的能力のないものにそんな復讐とか、人間の行動への抑止行動などができるはずがないだろう、というのが大方の考えだと思う。
僕は違うと思う。なぜかというと、生物の進化の歴史というものを見ると、そこにはあきらかに「何らかの知性」というものが介在しないと説明ができない変化というものがあることに気づくからだ。それはかならずしも「その生物の」知性ではないかもしれない、しかし、生物の進化の過程を見ていると、その生物のものであれ、それいがいのものであれなんらかの知性というものが関与していない限りどうしても説明できない変化というものが明らかにある。
ぼくはダーウィンはそれに気づいていたと思う。だが、彼の時代はまだキリスト教の影響力が強く(この影響力の強さというのは中世以降形骸化した仏教圏でいきてきた僕ら日本人には多分理解しにくいと思うが)、19世紀のイギリスでさえ神による種の創造という概念を覆すようなことを公言するとほぼ社会的に抹殺されてしまう(場合によっては命さえ)ような時代だった。
進化論を解くだけでもそれだけのリスクがあったのに、ましてやそのような知性の介在というようなことを言えば、まさに神に対する冒とくということで、ほんとうに命の危険もあったはずだ。
今回、このウイルスの大反乱というものを目の当たりにして、ぼくはどうしてもこのようなことを考えざるを得ない。
もちろん言うまでもなく、今回このウイルスによって引き起こされた惨禍をみてほんとうに悲しいし、亡くなられた方々には心からの哀惜の情を抱いている。
ただ、視点を少しずらして人間の外側に置いてみると、また全く違った風景が見えてくるということを言いたかっただけである。