つい最近、信長が細川藤孝にあてた書状がみつかった。
全文を読んだわけではないのでニュースにあった「いまこそ大事な時です。「南方辺」(山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください」とか「あなただけが頼りです」とか「今年は「京衆」(将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物をよこしてきません。その中にあってもあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」などという言葉を読むと今川義元が侵攻してきた時以来の人生最大の危機?にあたって、かなり気弱になっていることが感じ取れる。
今ざっと1572年当時の状況や勢力図を見てみたのだが、やはり信長がこういう心境になったのはわかるような気がする。あの当時、信長を取り囲んでいる大名家がすべてほぼ同時期に信長領国に攻め込んでくれば、たぶんだが織田家は滅びた可能性が高い。信長にとって幸いだったのはやはり通信伝達手段が原始的だったこともあり、そのようなかなり離れた勢力同士の協調した同時攻撃ということは難しかったことだろう。
実際、この時が、義元の侵攻時を除けば、信長以外の勢力が信長を倒せるほとんど唯一の機会だったのではないかと思う。
だが…信長にとってはさらに幸いなことに最大の強敵だった信玄が西上途上で死んだ。よくユーチューブの動画などを見ていると信玄が後10年生きていたら…などというものがあってこの仮定は確かに面白いと思う。
どうだろう…信玄が後10年生きていたらほんとうに織田家は滅んでいただろうか。そこまではわからない、世間では信玄存命時の武田は戦国最強だったといわれているが、ぼくはその点についても本当にそうだったのかということについては少し懐疑的である。やはり戦術家としての力量、才能という点で見れば信玄よりも信長のほうに優位性があるように僕には感じられるからだ。
信玄と信長が同数の兵力で戦えば、双方相当な被害は出たと思うが、やはり信長に軍配は上がるのではないかと思う。
「それにくわえて」鉄砲という要素もある。これはしかもかなりおおきな影響力を持つ要素だ。畿内に近いところを支配していた信長はより多くの鉄砲を手に入れられる有利な立場にあった。設楽が原の戦いのときも信長と勝頼の所持していた鉄砲の数に圧倒的なといっていいほどの差があり、それは間違いなくあの戦いの結果に大きな影響を与えたからだ。それはおそらく1572年前後でも同様だったのではないか。
このことは武田と織田との間にはすでにその経済力にもかなりの差があるということを示している。畿内に近いところを支配しているということだけではないだろう。武田がどんなに領国を広げようとも、その領地のほとんどは山岳地帯だ。日本でも有数の石高を誇る尾張と美濃を支配している信長のほうに圧倒的な利がある。1572年当時ではすでに武田単独では信長を攻め滅ぼすことはできなかったに違いない。
ただ、信玄が死なずにあのまま西上していればそれに呼応して周辺勢力も決起して次から次へと雪崩を打つようにして織田領内に攻め込んでいったかもしれない。そうなったら…いかに信長といえどもお手上げになっただろう。このとき信長が恐れていたのはまさにこれだっただろう。
これは完全に僕の個人的な感覚でいうのだが、同数の兵力と武装で第三国からの攻撃がない状況下で戦って信長に勝つ可能性のある武将が当時どれだけいたかというと…上杉謙信と前年に死去した毛利元就、そして、信長の同盟者だった徳川家康の3人だけだったと思う。
いつも思うのだが、信長にとってやはり家康という同盟者がいたことはこれ以上ないほどの幸運だった。智謀、勇気、戦略戦術眼すべてにおいて一流であり、かつ、けっして己の損得利害で同盟者を裏切らない仁・義(現代では変なニュアンスを持つ言葉だが、今の僕にはこの言葉以外に家康という人を表す言葉はない)を持っていた。これほどの同盟者はほかにいない。
話を最近発見された信長の書状に戻すが、信長はこれ以外にも信玄にあてて、もし自分の配下の者があなたに失礼を働いたときはすぐにおっしゃってください、というご機嫌取りのような書状を出している。おもうに、もし信長があの時代ではなく鎌倉時代や、江戸時代など平和な時代に生まれていたら、やはり、普通の(ちょっと変わった変人とみられたかもしれないが)ごく普通の、上の者に細かい気を遣う地方の小領主として、おそらく人並みの気疲れをしながら生涯を閉じたと思う。
まさにあの時代が彼にあのような運命・宿命を与えたとしか言いようがない。
よくドラマなどで描かれるような傍若無人で人を人とも思わないような悪漢のような人物ではもちろんないだろう。それは彼の肖像画を見ても感じ取れる。非常に繊細な神経を持った人物であろうことは容易に見て取れる。ただ、一つだけ世間一般の評価とたがわない部分があるとすれば、それはあの肖像画にもはっきりと顕れている背筋に氷でも入れられるような怜悧な側面だ。あの肖像画を描いた画家がだれなのか僕は知らないが、その画家はそれを本当に見事に描きだしている。
いずれにしても、そんな様々な幸運に恵まれた彼の人生を突如終わらせる最大の不運は外からではなく内からもたらされた。それをもたらしたのはかつて彼が最も高く評価し、また、彼にだれよりも恩義と敬意を抱いていた男だったのは…数奇としか言いようがない。光秀はもしあのようなことをしなければ(させられるところまで追い込まれなければ)その能力から言って、家康を支え続けた井伊直政か本田正信のような名参謀の役割を担っていたかもしれない。そのことに関しては家康が晩年に残した書状の中で簡潔ながら実に深く精確に洞察しているように、まさに信長という人格が背負った、ある意味そうなるべくしてそうなった、宿命と呼んでいいだろう。
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