気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

困難の意味ということ

2020-09-01 07:18:28 | 内奥への旅

 

 

 

 

 職場で険悪な関係になっている同僚たちがいる。
最近そのはざまに立ってつらい立場にいる人とそのメールのやり取りをした。

 僕がやがて自分の経験からお互いに分かるときが来るでしょうと書いたら、その二人はもう50~60代なのでその人はもうそんな時間は残ってないよといった。僕はこの一生で間に合わなければ、来世かそれでも気づかなければその次の来世で気づかされるでしょうと書いた。
 そのひとはそういうことをまんざら否定する人ではないので、そのメカニズム(カルマのメカニズム)について僕の知っている限りのことを説明した。

 そのトラブっている二人はたぶんこの人生で初めてトラブっているのではなく、前世かその前の何回かの前世で同じようにトラブっているはずであり、彼女たちはそれでも自我強く、自分の非に気づかず相手を責めるばかりだったので、何度も何度も同じシチュエーションを生まれ変わるたびに繰り返しているのですよ、しかも同じ相手(肉体は異なるのでわからないが魂は同じ相手)とと書いた。

 そのはざまにたっている人は、いまも言ったようにあながちそういうことを頭から否定する人ではないため、そのことをそのトラブっている人に説明したらしい。だが…その後のその二人を見ていると、その僕が言ったことは彼女には何の影響も与えていないようだった…

 



 



 

 

 


 もちろん普通の人がいきなりそんな話をされても、?なんか宗教にでもはまってんの?となるだけであり、そんなことよりも悔しい、自分は被害者だ、という想いにだけ支配されてしまい現状は何も変わらないだろう。
 普通の人々のために少し説明すると、カルマや輪廻転生というのは今ではもはや特定のカルト、特定の宗教、特定の文化、国とはかかわりなく、精神世界系の世界では普遍的なもの、常識的なものとして世界的に受け入れられている。

 このことがあって僕はやはり近世になってカルマや転生というものに関する知識を広く世界に普及させることに貢献した偉大な人物について書かれた本を思い出しもう一度読んでみた。それはジナ・サーミナラというアメリカの哲学博士がエドガー・ケイシーの様々なリーディング(彼がクライアントを診たときなどに残した言葉)を分析した「転生の秘密」(Many Mansions)という本である。

 これはとても興味深い本で、もうずいぶん前に読んだ本だが今回また読んでみてまた新たな感銘を受けた。その事例を一つ紹介したい。

 それはケーシーが、ある得体のしれない(病名のわからない)病気にかかっていた34歳の電気技師の相談を受けたときに残したリーディングである。
その病気はかなり深刻で、彼は3年間働けず、目がかすんで読むことも書くこともできなくなり、時々歩行も困難になるほどだった。
 彼のリーディングにはまず医学的用語で病理学上の説明がなされ(ここで注目すべきはエドガー・ケーシーその人には医学的な教育を受けた経験は全くないということ。そのひとが非常に正確に医学の専門用語を使って話しているということだ)、その病気がカルマからのものであるから、心の持ち方を変えて憎しみや敵意を意識から完全に取り除くように、との勧告がなされ、最後に治療法に関する入念な指示を以て終わっている。

 それから1年後、彼から再びリーディングを受けたいとの手紙をもらい、それには指示通りの治療を行ったところ、すぐに回復の兆候が表れたのだが、4か月ぐらいするとまた症状が逆戻りして体力の衰えが現れたということが書いてあった。それに対するケーシーのリーディングの内容が興味深い。

 

『そうだ、この体は前にも見た体だ、なるほど体の中の肉体的な面はだんだん回復してきた。しかし、まだまだしなければならないことがある。前にも言ったようにこれはカルマから来たものである。隣人や物事に対する本人の心の態度を変えなくてはだめだ。
 機械的な手段(医学的な治療)を肉体面の匡正に用いた限りでは、回復は表れている。

 しかし本人があまりに自己満足し、あまりに自己中心的で、霊的なことを拒否してその態度を改めないならば──また憎しみや敵意や不正や嫉妬がある限り──また忍耐や長期の苦しみや隣人愛や親切ややさしさと矛盾する何かが心の中にあるかぎり肉体の治癒は望めない。

 この人は何のために病気を治したいのか、自分の肉欲を満足させるためか、ますます利己主義になるためか、もしそうなら今のまま治らぬほうがよいのだ。

 もし心の持ち方や目的が変わり、口にも行いにも変化を表すならば、そしてそのうえで指示したような物的療法を行うならば本当によくなるであろう。
 
 
だが、まず心情と精神と目的と意図を変えなくてはならない。あなたの目的とあなたの霊魂が聖霊の洗礼(比ゆ的な表現で良心に目覚めるという意味であろう)を受けないならば、あらゆる機械的療法(医学療法)を用いても完全な回復は望めないであろう。この勧告を受け入れるか拒絶するか、それはあなたの心しだいだ。

 あなたが償いをしないならばリーディングをしても無意味である。もうこれで終わる。』

 

 ズバッと一刀両断という感じである。特に最後の厳しい言葉を読むと、僕の眼からはこの人物はかなり品行の悪い人であることが想像できる。
次に、サーミナラ博士の言葉を載せたい。


 『ここで注目されるのは、意識の内容や人生における霊的目的を変えるならば治る見込みはあるといっていることである
~中略~このあからさまな叱責の言葉には、名医の総合的人間観が現れている。~中略~しかしこの例のように、彼がいかに憐れみを持っていても、その病気がその人の道徳的矯正という目的を持っており、その病気の原因である道徳的欠陥を治さなければならぬことを指摘せざるを得ない場合も多くあるのである。

 病気に悩むものは、できえる限りの方法を用いて、それを治すことに努めなければならないが、同時に彼の霊魂の内的欠陥を矯正するために人生が彼に与えてくれたきっかけをしっかりつかまなければならない。
 自然の宝庫や現代医学の生み出した妙薬によって一時的な病気の回復は得られるかもしれないが、カルマという道徳的な力の前には、これらも結局は無力なのである。

 つまるところ、治療は内部から霊的にもたらされなくてはならない。でなければ長くは続かないのである。』

 

 僕の個人的見解ではすべての病気にカルマ的な要因があるとは思わないが、そういう要因から生まれる病気もあるということは十分想像できる。前々から思ってきていることではあるが、僕らが病気に限らずこの世で経験する困難には「なんらかの遠因」があるということである。僕らが目覚めなければいけない何かがあってそれらを経験している可能性が高いということである。

 仏陀ご自身もおっしゃっているように、「私がこれほどまで長きにわたって輪廻を繰り返してきた」理由(仏教用語でいえば因縁)があるということであろう。
 
 このリーディングを普通に読んでしまうと気づかないかもしれないが、自分の内面の過ちに気づきそれを変えることで病気の症状までが癒されてしまうということ。つまり、「カルマから来ている病気の場合」そのひとの肉体的な疾患と人格的、霊的な状態とこれほどまでの強い相関があるということだ。いうまでもなく現代医学ではこれらの相関の存在は認められていないが、ケーシーのリーディングではそれがはっきりあると述べられている。

 僕がこの本を読んで一番強く感じたことは、自分でやったことの責任は『いつかは』自分でとらなければならない、ということである。それが今世であるか来世であるか、そのまた先の来世であるかはわからない、だが、『いつかは必ず』自分でとらなけらばならない、ということである。

 このことを思う時「復讐するは我(神)にあり」という聖書の言葉があるが、わざわざ自分が復讐しなくても、やがてはその人自身が自分自身を罰するときがやってくるということであり(自分ほど厳しい裁き人はいない、といったドロレス・キャノンの言葉を思い出す)、そういう意味ではバランスはとれているのかなと思うし、表面的に見えるこの世の理不尽さもある程度は飲み込めるような気になる。

 ケーシーのリーディングを読んでいて思うのは、僕らは自分の行為にたいして非常に重い責任を負っているということだ。旅の恥は掻き捨て的な生き方は絶対に出来ない、許されない、ということである。そう思うと毎日、毎瞬の自分の行いに対してもっと注意深くなる。そして、これが重要な副産物なのだが、上に述べた「復讐するは我にあり」的な霊的法則というものが存在するということを知ることで、他者に対して寛容になれるということであろう。

 このほかにもう一つ気づいたことがあり、そのことは機会があれば書きたいと思う。

 

 





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