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洋の東西、国家、人種、宗教を超える普遍的真理

2015-05-31 21:54:09 | 内奥への旅



 僕の教会で発行されている新聞の過去のものを読んでいたら、とても興味深いものを見つけた。


 『神、直使にすがっていれば、まずはかなしい運命実体が出ないように、偉光のなかで抑えていただけます。
 そして、自分自身の心得違いをざんげし、わびながら、神の教えを守って暮らす努力をしてゆくところに、浅いものから少しづつ悪い因縁が断ち切れ、よい運命が引き出されていくのです。

 悪い因縁を断ち切るには、何か月、何年と時がかかるものです。
子孫に残さないように、生涯を通して祈願し続けなくてはならない。代々流れる深い因縁もあります。

 しかし、いかに悲しい運命実体であっても運命の神にすがり続けていれば、必ず開運していただけるのです。』



 まず、「運命実体」とは教会の言葉で、仏教的な言葉に直せば因縁(カルマ)とでもいえるだろうか。「偉光」とは神の力のこと。
この文章の中で僕の気を引くのは、「浅いものから少しづつ悪い因縁が断ち切れ」という部分である。

 霊的真実・法則に興味のない人、知らない人が読むとなにがなんだかわからないと思う。
僕らは普通、自分の人生は自分の完全な自由意思で生きていると思っている。
ところが、霊的真実の観点から言うと、それはそう思わせられているだけで、じつはその人その人固有の過去世から今世にまで至る因縁・カルマによってその人が今世でどんな人生を歩むかが、大まかには決められている。

 よくスピリチャルな世界の人がこの世に偶然はない、すべては必然、というがそれである。
職業を選ぶときも、結婚相手を選ぶときも、友達を選ぶときも、自分の自由意思で選んでいるように見えて、実は運命の意図に操られた結果「選ばされている」というのが、霊的世界の観点から言うと真実に近い。

 ここでいう「悪い因縁」とは、たとえば、どんな仕事を選んでもなぜか人間関係で悩み長続きをしないとか、選ぶ仕事がすべて劣悪な環境な職場だったりとか、結婚相手であれば、なぜか遊び人を選んでしまうとか、友達だと悪友ができてしまうとか、最も具現化しやすいのがやはり人間関係であろう。
 嫌な上司がいるから転職しても、なぜか新しい会社に行っても「同じような上司、同僚」が現れるとか。

 要はそういう人がいる会社を、自分で選んでいるように見えて実は運命(カルマ)の糸によって「選ばされている」のである。
この真理を知ってしまうと、ぶるぶるっと震えが来るほど僕などは恐ろしくなる。
しかし、どうもこれは真実らしいと云う事が、さまざまな書籍や古今東西のスピリチャルな分野にいる人々の云う事を聞いているとわかってくる。

 それらの人々は生きている時代背景も文化も異なるし、国も、宗教も異なる、特に現在では特定の宗教に属してない人も大勢いる。
それだけ多岐にわたる背景を持っている人々が言っていることに、ある種の共通性があって、ここにあげた因縁(カルマ、因果応報)の霊的真実もその際立った共通事項の一つである。

 時代も、文化も、宗教的背景もみんな異なる人々がいっていることに、これだけの共通性があると云う事は、それは「真実」であろうと類推するのが論理的な思考だと思う。

 僕がこの僕の教会の新聞に書かれた文章を読んで、ある種の畏れ(おそれ)に近いものを感じながら思うのは、「浅いものから」という言葉である。
ということは僕らにはもっと「深い」因縁(カルマ)というものを持っているということを示唆している。
 さらには「代々流れる因縁」という言葉まである。

 よくあの家系ではなぜか悲劇が続く、と思うような家系というものがある。逆にいい因縁というものもあり、なぜかあの家系の人々は幸運な人が多いという家系もある。
まぁ、そういうことを考えるとちょっと怖くて生きていられなくなるが、どうもその背景にはこういう真理があるらしい。

 そしてこの因縁があるために、それを断ち切るために僕らは何回も輪廻を繰り返さなければならない。
ではどうやってそれを断ち切れるのか、というと、「自分自身の心得違いをざんげし、わびながら、神の教えを守って暮らす努力をしてゆく」しかないと云う事が書いてある。

 この部分もまた、とりわけ仏教で説かれていることと全く一緒である。それが神であるか仏であるかの違いでしかない。
そして西洋でも20世紀最大のサイキック(超自然能力者)といわれているアメリカのエドガー・ケイシーも全く同じことを説いている。
彼はキリスト教徒であり、彼が催眠状態にいるときに降りてきた言葉の主も、僕はキリスト教的世界の存在だと思っている。
 そして、僕の信仰している神は日本の神であり、言うまでもなくブッダは2500年も前のインドの人である。

 そしてさらに興味深いのは、この霊的真理というのはなにもブッダが最初に発見したのではなく、彼が修行した古代インドの宗教、哲学界ではすでに広く説かれていた教えであると云う事である。

 つまり、洋の東西、時代の古い新しい、地理的な場所、の違いを問わず、そこには一貫して流れる共通した霊的真理が存在していると云う事。
この現実から、この教えにはなにか普遍的な霊的真理が存在するのではないかと考えるのが論理的である。

 話がそれたが、その「浅いものから」深いものまである我々の因縁・カルマを解消するにはどうするか、といえば、そこには近道などはなく、ただただ、誠実にまじめに、自分の心得違いに「客観的に」気づき、それを改めていくしかない、言い換えれば霊的人格の向上しかない、と云う事である。
 
 そしてこれは2500年前にブッダが何度も何度も弟子たちや、インドの大衆に解き続けてきたことでもある。

 この世を見ると時に悪が栄え、強い権力をもち、善人が虐げられて、一体全体神も仏も本当にいるのだろうか?と思う時がこんな僕でもある。だが、確かに「この世においては」そう見える。そう見えるが、それはあくまで断片的、一元的な現実に過ぎず、もっと(時間的空間的に)巨視的な視点から見れば、すべて善悪の帳尻はあっている、という事である。

 言い換えれば、霊的世界(この世も含む)を貫く最優先の真理、到達点は、つまるところは『善 Good』であるということである。
このことを思う時、なにかほっとしないだろうか。

 ブッダの最後の旅になった時のことを記録した大パリニッバーナ経というものがある。
この経典は仏教経典の中でももっとも正確にブッダの生前の言動を記録したものといわれている。
その中にとても興味深い部分がある。


 第4章、一生の回顧、バンダ村へ
 『修行僧たちよ。四つのことわりをさとらず、また通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 その四つはどれどれであるか?
 【1】修行僧たちよ、尊い戒律をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 【2】修行僧たちよ、尊い精神統一をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 【3】修行僧たちよ、尊い智慧をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 【4】修行僧たちよ。尊い解脱をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。

 修行僧たちよ。しかし(いまは)この尊い戒律がさとられ、通達され、尊い精神統一がさとられ、通達され、尊い智慧がさとられ、通達され、尊い解脱がさとられ、通達された。

 生存に対する妄執はすでに断たれた。生存に導く(妄執)はすでに滅びてしまった。もはや再び迷いの生存を受けると云う事はない。』

 ~中略~
 「戒めと精神統一と知恵と無常の解脱と、これらの(四つの)法を、誉れ高きゴータマは、覚った。
ブッダは、このように良く知って、修行僧たちに法を説かれた。
苦しみを滅した人、眼(まなこ)ある師は、すでに束縛をときほごされた。」と。』


                                                   ブッダ最後の旅 中村 元訳 岩波文庫



 ここでつかわれている「束縛」ということばは、上述した僕らは自分の自由意思で生きているように見えながら、実はなにをするにしても自分が過去世や今世で積み重ねてきた因縁・カルマによって「操られている」という霊的真理と符合する。
 ブッダは生涯を通じて、この考えようによっては恐ろしい「束縛」からどうやって離脱して、「真の自由=解脱」を得ることができるか、ということを人々に教え続けた。

 実は冒頭にあげた教会の新聞の記事が僕の目に留まった昨日から今日にかけて、偶然、家に帰って開いた大パリニッバーナ経のページに、上記の記述を見つけたのだ!
 偶然にしてはあまりにも…である。

 

 


 
 
 

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