KOFUKUの家から

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南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

「善きこと」

2007-01-09 | KOFUKU日記
なんか突然書きたくなりました(笑)
今日、仲良しのお友達と話していて話題になったのが
「よい」
と言うこと。
「よい」とは普通「良い」と書きます。
でも私はあんまりこの字を使いません。
大体「善い」とあらわします。
わたしは本当はあんまり区別をつける名称が好きではないです。
だから自分達の活動をするときも「本物」とか「真実」とか使うけど
それは本当は好きではありません。
ただ、周りに解りやすいように、って考えると
言葉を使って表現しなければいけなくなるから、
なんだかそういう風になるのでした。
基本的に私はココロくだく行為はすべて「ほんもの」だと思っています。
そこには必ず「愛」が宿っているからです。
だから基本的に「にせもの」はないと思ってるんですよ。
さてそういう私がなんで「よい」にこだわるかって言うと、
それは大きく違うなあって自分のなかで感じるからなんです。
それが皆さんにも当てはまるとは限らないのでご安心を。
あくまでも「あんじゅちゃん語」のはなしです。
あんじゅ語だとですね「良い」って言うのは
「人様がつけた判断基準」をあらわします。
ようするに「レベル」見たいなものですね。
誰かの価値観で「よい」とされる事を基準に判断した結果。
で、「善い」ってのはですね、あんじゅ語では
「神様のつけた基準」をあらわします。
要は誰しもがココロの中に持っているもの。
変わらないもの。真実。疑いのないそのままのこと。
つまり、「良い」は基準がなければ完成しない感覚で、
「善い」は基準なんかなくても万人に理解できる感覚(愛)です。
例えば~、猛暑のときの雨とか~、嵐の後の青空とか。
わかります?(笑)
だから時に「善き」ことは見えなくなり、軽く扱われたりしちゃいます。
「良い」事はそれが価値ある人にはいろんな富を運んだりするので、
いつしかそれがいらない人も「良い」と言うようになっちゃったりします。
うーん、神さまの基準(愛)を胸にシンプルに生きたい!
今日はなんだかそんな事を考えて居ました。
同時に「疑わない」と言うことの大切さと尊さを。
お友達の天使「ひとおりさん」もその詩に
"信じるという事は半分疑っている"
と書いておられましたが、私もいつもそう思うのです。
信じてるとき、信じようと思うことはないから。
ただ、あるがまま、愛があるだけです。
疑わずに居られる事は尊く強くあたたかい。
あるがまま、それが真実の状態だから、たとえ相手が嘘でも
疑わないココロは「ほんもの」の時間だけを紡いでゆく。
今年はそんななかで生きて居たい、そんな風にありたい、
そう、まるでぴーちゃんの様にあるがままに。。
ココロのそこからそう思った一日なのでした(*^。^*)