KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

憐れみでなく、本当の愛を・・・

2009-12-16 | 相方さん(米澤観児氏について)
先日、恵まれて「報恩」という舞台を拝見させて頂きました。

お話の中に描かれている「いのち」「家族」「国」
「本当の善意」というものや「感謝」、
「真実の思い」や「見返りの無い愛」や
まだまだたくさんの言い表せないものを
深く深く考える機会を与えられました。

米澤さんの演じるオヤマさんの言葉には真実と祈りがありました。
それは深く胸を打ちました。

私は自分の人生を振り返って思うに、
感情豊かで親切な人に数多く会った方だと思います。
環境的にもたくさんの方に手を差し伸べて頂けたからこそ
こうして今わたしは生きているのだとことある事に感じます。
今も変わらず心の中で手を合わすような日々です。

人は人間と言う生き物であるがゆえに
時にいろんな闇の淵に落ちていくものではないか?と思います。
貧困や差別などから、日常の小さなものまでたくさんの淵が闇の中にひしめいている。
その淵に落ちてしまうと暗闇ゆえに周囲は見えません。
そして居るのは淵に落ちたものばかり。。。。
そのうち、それが当たり前となり、そこから這い出るのは難しいものです。

表の明るいところから見ればなんてことの無い淵もあるでしょう。
また暗闇の淵ゆえに、明るきところからは見えないこともあるでしょう。
明るい大地と暗闇の淵、そこに居るものがお互いに理解することもまた難しい。

けれど、
そこに手を伸ばす。そのことの大切さ。
「報いる」ということはいったい何なんなのか?
真実の愛を示すと言うことはいったいなんなのか?

結構ハードな環境の中でこれだけ生きてくると
人の差し出してくださったものが本当の善意からのものであったのか、
そのときだけの想いやその人の欲求を満たすためのものだったのか、
それを直視するような場面にいくつも出会います。
相手は善意でも、自分にとっては苦しみ出会ったりもする。
そういう事に出会うたびに「善意って・・・」と考えます。
最近もそんな心持で少し元気をなくしていた矢先の公演でした。

自分の中に確かな答えが出たわけではありません。
でも本当に観て良かったな、そう思いました。


公演会場で本当に久しぶりに原宿・夢の街の大家さんにお会いしました。
大家さんは相変わらずお元気で、いつものように優しく暖かい方でした。
米澤さんが出演するとのことで駆けつけてくださったのです。
私たちを最後まで助けてくれて、そしてこうして今も気にかけてくださる。
とてもありがたく、嬉しく、そして涙の出る思いでした。

私たちが店を閉店するとオーナーから言われた時、
一番ご迷惑をおかけしたのは大家さんだったはず。
金銭的な面では私たちは何の力にもなれず、
ただただご迷惑がかかるのを申し訳なく見ているしかなかったのです。

オーナーとのやり取りとはいえ、私達に何か恨み言や文句の一つも
言いたくなって当然だったのでは?と見ていて思います。
それほど理不尽なことを言われたり、されていらした。
けれど大家さんはその渦中にあるときも今も
決して私たちを責めること無く愛してくださいました。
大家さんの愛情は偽善やとりあえずの社交辞令や義理などではなく
心から寄せてくださる「気持ち」が本物だからだと思います。
そうでなくてはこうして来てくださらないでしょう。
本当に人様の心とはありがたいものです。

同じように公演時にはたくさんのお心使いを持って
たくさんの方が集ってくださいましたが、
私の親しい友もたくさん来てくださいました。

私には自分から「親友」だと思える方がたくさん居ます。
それが何よりの幸福であって、宝だなとも思い、
またそんな方々を誇らしくも思います。

そんな中に祐美子さんと言う仲良しさんが居て、
その方もお母さんやお子さんと来てくださいました。

祐美子さんは愛を伝えるセラピストさんです。
マクロビのお料理の先生などもなさってます。
女神さまの波動を持ってらっしゃる素敵な人です。
ちょうど私がお芝居の内容から善意について考えている時
時を同じくして彼女がこんな文章をブログに書いていらっしゃいました。
ご紹介させて頂きます。

エンジェルの樹 森山祐美子ブログより
「憐れみではなく、愛と親切を・・」


マザーテレサの本は 好きで よく読みます。
でも 読むたびに ぼろぼろと 涙がでてしまう。


「あまったもの、のこりものは要りません。
わたしたちが 仕えている貧しい人たちは、
あなた方からの憐れみも 
見下すような態度も必要としていないのです。
彼らが必要としているのは、あなたの愛と親切なのです。」


ちょうど、友達の誕生日プレゼントを創っていて、
とても素敵にできあがり、あげるのが惜しくなり、
同じものを創ろうかな・・と思った 矢先のメッセージでした。

なんとも 自分の欲が 恥ずかしかったです。
同じものを創った瞬間に、
わたしの純粋な心までもが、消えてしまう気持ちがしました。

大切なものを なんの疑いもなく、
ただ、ただ あげられるって とても素敵なことだと実感しました。


「持ち物が 少なければ少ないほど
多く与えることができます。
矛盾としか おもえないでしょう。
でも、これが愛の論理なのです。」


彼女のメッセージが わたしの心に優しくふれるので、
いまはただ 何回も何回も 本を読み返しています。

この涙が出なくなるときに、
きっと何か 行動ができると信じています。


マザー・テレサ 愛と祈りのことば (PHP文庫)/著者不明
愛をこめて



心にしみいるように文章が入ってきました。

私は故あって自分ではどうしようもない貧しさや
心や身体に問題を抱えて育ってしまったので、
人様からの善意を受けなければ生きてこれませんでした。
憐れみや蔑みを与えられることも多くあったなと思います。

本当に善意からの思いは与えられた時、
喜びや安心感があり心に暗い影を落としません。
けれどそうでないものには不安や猜疑心が生まれます。
ある種の恐怖を感じてしまいます。
不思議なものです。

それはなぜだろうか?

そう考えていた答えの一部を感じられた公演でした。

少なくとも私はそんな不安や疑念や恐怖を与えない人間になりたい。
闇の中、差し出した手を払われても、手を伸ばし続けられる人間でありたい。
人として生きると言う「愛」の美しさを、
どんな環境であっても捨てない人間でありたい。
誰に信じられなくても、わが身の中にある愛と美しさを信じられる人間でありたい。
誰にも認められない様な事しか出来なくても、
私自身が努力していると信じられれば。
自分の中にそんな努力を持ち続ける、そんな人間であり続けたいです。

まっすぐに見つめるぴーちゃんの瞳の輝きを
心の中に持てるようにと切に願います。

弱きものの祈り

2009-12-16 | 神様、天使、平和の祈り、愛の言葉
クレド(弱い者の信仰宣言)
 原詩:ある兵士の祈り

成功を収める為に神に力を願ったのに
弱くなってしまった 謙遜を学ぶように

偉大な事をする為に神に健康を願ったのに
病気になってしまった 神の心に叶う様に
  
私の願いは何一つ叶えられなかったけれど
         希望した全てのことを私は受けた

幸せになる為に神に富を願ったのに
貧しくなってしまった 生きる厳しさ知る様に

弱い人を助ける為に権威を願ったのに
無力になってしまった 神に頼ることを学ぶ様に
   
神は私に必要な事何もかも知っておられる
   希望した全てのことを私は受けた

人に尊敬される為に 神に手柄を願ったのに
ただ失敗に終わった 思い上がらない様に

聖なる人になる為に神に徳を願ったのに
罪の醜さに泣いた 神の愛の深さ悟る為に
    
私の姿は変わらない
 弱く何も出来ないけれど
 喜びに満ち溢れて私は歌う


(ニューヨーク市三十四番街にある物理療法リハビリテーション研究所の
受付の壁にある南部連合の無名兵士の詩)

 苦しみを超えて

大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱い者とされた。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるようにと病気を戴いた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。

世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意に添わぬものであるにも拘わらず、
心の中の言い表わせない祈りはすべて叶えられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。