先日、旅して学んだ北海道でたまたまそこに居たシュタイナー系の人々の多くが
自分の心と頭を使わない系で、更にすべて自分に都合よく解釈するという人が多く
自分はそういうのがとってもとっても苦手で嫌になってしまいましたとさ、
ってお話を書きました。
いえ、ほんと一分の人、それも私が出会った人々がって言うだけで
シュタイナーやってる方が全員そうとかって話ではありませんが、
学校の校長やら、団体の代表やら、シュタイナー芸術の指導者やらって
そう人たちに限って、人間的に???????な人ばっかりで
偏見持つのに時間はかかりませんでした(笑)
だって、シュタイナー的繊細さかなんか知らんけど
そういうのを理由に挨拶ひとつまともに出来ないんだよ?どうよそれ?
最近、シュタイナー(人智学)をベースとする
○○ゾフィーなんつのがとっつかまりましたが
出会った人々を思うにつけ、あんまり変わんないんじゃないの?と思います。
ってか、どうしてシュタイナーの第一人者って人々は
みんなほとんど不倫とか、略奪愛とかやってる人ばかりなわけ?
真実の愛って言うのは、その愛を成就さえる為なら
周りにいる人を平気で傷つけてもいいって事なのかい?
愛が泣きます。ほんと愛を勝手な行動の理由にしないで欲しい。
事実、そんな、人を傷つけた上の愛なんて実らないってーーーー。
そこに愛はあるのかい?ってあんちゃんはいいますよっ!
自分が行ったとこだけかと思ったら、現場ではどこもそんなに変わんない様子。
あーあ、、、、がっかりしちゃうよねぇ。。。。
(すいません、教え子がそんな親に傷つけられたの見てきてるので完全に愚痴です)
なんで子どもに教えたりとか正義を訴える人がまして親が
そういう事を平気で出来るのか、私はいまだ分かりません。
先日の記事の続きじゃないけれど、大人の自分勝手な夢に引きずられ
遠いシュタイナー学校につれてこられ、果てに親は不倫して友達の親と居なくなる。
それでも当の本人達は変な自由論を唱え続け…
そんな大人の近くにいる子どもたちはあまりに不幸です(--)
これ以上、変な自由に走らない、子どもを愛するまともな大人が
シュタイナー教育の現場近くに居てくれることを心から願います。
話は変わりますが、我が家は基本的にテレビを見ません。
だから未だに地デジ対策もなんもしてません。焦りが全く無いので(笑)
我が家でテレビがついているときは野球の放送(阪神)がある時か
オリンピックとか、サッカーの試合などがある時、
台風情報や地震情報の確認、防犯対策でつけっぱなし、とかの時です。
だから情報はもっぱらインターネットで収集します。
だから流行の歌もドラマもCMもお笑いの人も全く知らないです。
現代の浦島太郎ですな。
もう基本的にテレビを見ない生活は8年続いてます。
おかげで他のことに使う時間があるのでありがたいです。
私は元々テレビをだらだ見るのが好きじゃありませんでした。
って言うか、これもアンチシュタイナー人種と理由が同じでして、
テレビを盲信したり、テレビに時間を奪われる人が苦手なんです。
テレビの番組自体は素晴らしい物も数多くあります。
そういうのは録画しでもやDVDなど手にいれてまでも見ます。
多くの優秀な作品には同じ業界に居る物として心から賛辞を捧げたいと思ってます。
なのでこれもテレビが嫌いなわけじゃないんですよ。
昔、親友のうちに行くと、親友のお母さんが玄関に出てきて、
友達の名前を大声で呼ぶと「おばちゃん、テレビ見てるから」
とすぐに奥に引っ込んで、それから出てくることがありませんでした。
親友はそれがちょっと恥ずかしそうで悲しそうでした。
私も、そういうおばちゃんの態度がなんだかとても嫌でした。
テレビの方が子どもより大事なんだなって思えたからです。
もっとやることあるだろ~とか思う、まるで旦那みたいな子どもでした。
でも、結構、そういうお母さんが多いんだなぁってその頃あちこちに行って思いました。
今も昼ドラや韓流ドラマにはまってるお母さん、きっと多いですよね。
もちろんいまでは忙しい主婦の生活の中での安らぎだったんだろうなって思えます。
でも今でもちょっぴり、それにしては時間とられすぎとか思っちゃうけど。
我が家は母がテレビを見ているから、何かをしないってことは全然無かったのです。
友達が来ると、何をしていても手を止めて迎えてくれ、
心づくしのおやつを作ってくれて、時には一緒に手仕事をしたり
あそんだり、話をして聞かせてくれたりしました。
父も同じ様で友達には良くしてくれました。
友人の多くは母や父が優しくて、話も面白かったので、
父母が目当てでいつも家に来ては入り浸っていました。
私がいない時でさえ、遊びに来ては家に居たくらいでした。
外人の友人達も同じで「オカアサーン」と言いながらまとわりついていました。
悪友(笑)のアメリカ人男性は「ユーアーマイサンシャイン!」と言いながら抱きついてました。
我が家で人よりもテレビが優先されることは無かったのです。
逆にテレビと言う物は団欒のテーブルのまんなかに置かれた花のような存在でした。
楽しみにしている番組の前に席について、主題歌を皆で歌ったりとか、
いろいろと番組の後に家族でディベートしたりとか、
家ではテレビってそういうものでした。
意味も無くかかってるものじゃなかったなぁ。
そのせいか、今もテレビに翻弄されるのは嫌いです。
テレビやニュースを見る度に自分の意見が変わる人間も苦手です。
家ではニュースでもアニメの話題でもなんでも
時には親子喧嘩になるくらい、どう思うか?を話したりしてました。
自分の心と頭で判断することが大事なんだなって、
この頃から自分の中にしっかりとありましたが、
それはやっぱり、自分で考える必要が常にある家だったからかもしれません。
でも気がつけば多くの人は自分で調べることも実験する事も無く、
色々な情報をただ信じる。
そんで、まるで自分の考えのごとく、その情報をしゃべる。
せめて辞書くらい引いてみよう、ネットくらいサーフィンしてみて欲しい。
あなたの心はそれをどう思っているの?
みんな、心も頭使おうね。そう思っちゃうのです。
そういうことを言いますと、以外にもそれは
あたかも単純に「疑う」行為のように思われるらしく
特にナチュラル系と頭を使いたくない系の方には反発を受けます。
あーあ、そんな、考えるってダメなのかい?と思っていた矢先、
家に帰りますと防犯用にかけて置いたテレビから面白そうな言葉が飛び交っていました。
流れていたのはNHKの「ハーバード白熱教室」です。
「戦争責任を議論する」のがテーマの番組でした。
以下はNHKのHPに寄る番組概要です。
「創立1636年、アメリカ建国よりも古いハーバード大学の歴史上、
履修学生の数が最高記録を更新した授業がある。
政治哲学のマイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」である。
大学の劇場でもある大教室は、毎回1000人を超える学生がぎっしり埋まる。
あまりの人気ぶりにハーバード大学では、
授業非公開という原則を覆し、この授業の公開に踏み切った。
ハーバード大学の授業が一般の目に触れるのは、史上初めてのことである。
サンデル教授は、私たちが日々の生活の中で直面する難問において、
「君ならどうするか?何が正しい行いなのか?その理由は?」と、
学生に投げかけ、活発な議論を引き出し、その判断の倫理的正当性を問うていく。
マイケル・ジョーダンやビル・ゲイツはその仕事で、
すでに社会に貢献しているのになぜ税金を納めなければならないのか。
また代理出産、同性愛結婚、人権など最近のアメリカ社会を揺るがす倫理問題も題材となる。
絶対的な答えがないこのような問題に、世界から選りすぐられた、
さまざまな人種、社会的背景を持った学生が大教室で意見を戦わせる授業は、
ソクラテス方式(講義ではなく、教員と学生との闊達な対話で進められる授業形式)
の教育の最高の実例と言われている。
世界の若き頭脳たちの堂々たるディベート能力、知的探求心、考える力など、
世界最高レベルの知的エリートの能力は、私たちに強烈な知的刺激を与える。
さらには、宗教、人種、貧富など複雑に入り組んだアメリカ社会の構図を読み解く糸口にもなる。
また副音声による英語放送によって、今のアメリカの生きた英語を学ぶ絶好の教材ともなるはずである。」
さて、この「正義」と名のついた講義をとっているのはマイケル・サンデル教授です。
このところこの方のこの番組が話題なっていて著書なども書店で見かけます。
ネットでこの番組の内容とこの方の講義をよく読んでいました。
この方の持っている基本論が自分に近いこともあり、共感を持っています。
そんな気になる番組だったので、ついぞそのままかけっぱなしで聴いておりました。
さて、あたしは音に寄って刺激される人です。
物事や本質を捉えようとする時、見えている視覚が邪魔になるのです。
見えていることは偽りのことが多いから、騙されたくないんですかね(笑)
とにかくまず音からその本質を探ろうとします。なので時にまず画面は見ません。
その頭を働かした上で、視覚を取り入れるとより一層自分の目で見える気がするからです。
それから見る事をすると、そこに隠れている些細な物が見えてくる気がするのです。
なのでそういうときはものすごい集中して聞きます。
昨日もそうでした。とても面白いディベートでした。
何よりもサンデル教授が最後に言われた言葉が自分に喜びをもたらせてくれました。
彼が言った言葉は今日のタイトルです。
「最高の教育とは自分の頭で考えること」
なんだかんだと考えを述べると相手の考えと違うので気に入られず
果てには考えた内容でなく、私の考えるスタンスを否定されたりしてたので、
この言葉、ものすごーく嬉しかったです。
この言葉が真実を伴って耳に入ってきました。
感動したのは、多くの聴講生方が涙を流したりして授業に感動していたのですが
誰よりもこのサンデル教授自身が常に感動をしながら授業していたことです。
私は人は究極、自分の中で感動できる物しか人に感動を与えられない、
と思っていますが、それを実証するような素晴らしい授業でした。
哲学って、やっぱ、自分で考えるって美しいことだなーって思いました。
だって自分の目を通してしか世界は見つめられない。
自分の心を通してしか相手を感じることは出来ないからです。
けれども、ただ見ているだけ、聞いているだけではいけない。
一歩間違えば、自分の意思を持たず、ただ感じただけになってしまう。
それは、自分しか見ていないのと同じ結果を生む。
だからこそ、心と一緒に頭をつかわなくちゃいけない。
頭を使うって、心を同時に動かさないと出来ない。
私の魂にあるものが自分の指針となるわけだから。
心を使い、頭を使って、自分は何をどう考え、相手をどう受け止めるかを探る。
相手を感じる為に自分を深く探る。心と頭を使うということはそういうことだと思う。
そして、その探求こそが他者である世界と通じる窓口であって、
真実、相手を知ること、そしてそれそのものが自分を知る事になると思うのです。
そんな自分の中にある思いに、「大丈夫、さらに考えていきなさい」
と肩をたたかれた様な気がしました。
サンデル教授に心から感謝です。