【くもの糸にぶら下がっている枯葉さんと秋の空】
秋風が吹いている。
秋の風は銀の風。
風は吹いて、すすきの穂を翻す。
すすきは銀の風にそよいで銀色の波になる。
秋の風は金の風。
風は吹いて、稲穂を揺らす。
稲穂は金の風に揺られて金色の波になる。
銀の風と金の風
木の葉は唄う 秋の歌
銀の波と金の波
光の波がすべてを包む
わたしの秋はうつくしい。
ある検索をしていたら、ナントなんと!偶然に自分の記事にヒットしました(笑)
今から7年前の今と同じような状態でいた時期の
少しづつ元気を取り戻しつつあった頃の日記の冒頭に書いた文です。
つくづく思うけど、中身変わんないな~自分って(笑)
でも、それでいい、それがいいな、としみじみ思う今日このごろです。
【サムイでちゅ。赤アザラシな末っ子ろま君とカーディガンに包まるまろたん】
11月に入ってすぐに、ひと月の流れの中で体が一番しんどい時期に入ったので、
常日頃休んでる状態の私ですが…( ̄▽ ̄;)更にいろんなことを一休み中でした。
この記事も11月に入ってすぐに書き始めたのに、既に10日が経過…(;´∀`)
でもなぁ、どうしても、気持ちが上がらないのですよね…
やらないといけないことはいっぱいなんだけど、
気持ちがついていかないので、動けないままで…困ったものです。
でも、こうして文章を書くという事が気持ちを上げる手伝いをしてくれてるのも本当です。
手書きなら、こう簡単にはいかなかったろうけど、PCがあるってありがたいことですね。
そういう中でも体内浄化の時期は敢えてゆったりまったりと過ごすようにしています。
自分のカラダからいろいろなものは排出されてゆく浄化の時期は
できるだけ「やりたい(やらなくちゃ)」という事をせずに、
自分の為にだけ意識を向ける様に行動するのです。
結局、それは人を想う事につながるから不思議なんデスが。
究極、私が《在る》と言うことは、人も《在る》という事なんだろうな。
【こたつに布団をかけてみました。それだけで暖かい感じ(*^_^*)】
さて先週末は午後から外は冷たい雨が降ってきて、
窓から忍び寄る冷たさが秋の深まりを教えてくれていました。
今週末も雨から始まった土曜日であります。
南国のこちらも秋が深まってきた感じがありますが、
実家では秋に入ってから咲き始めた森の朝顔がどんどん花を増やしていて
まわりの秋の風景と相まって不思議な感じがします。
ちわわンずのみなさんも毛布にくるまったり、
ニットやフリースにくるまっておネンネしたり。
ここ南国も冬が近いのだなぁ、って感じです。
【お外は寒いけどちわわンずは元気だよ♪】
ワタクシ基本はひとり暮らしとは言え、サポートが必要な身の上の為に、
(不安症だからバスや電車に乗れないのさ…、
家から5分以上遠いところに出かけられないのさ…)
ちわわンず共々、頻繁に実家にお世話になっているのですが
そんな私がみんなにお返しできることといえば家事くらいです。
それに、何もしないでいるのは心身の為にも良くないので
寄せてもらったり、留守番中にできるだけ家の用事をさせてもらっています。
私はもともと家事をすることが好きな方ですが(得意とかではないけど)
やはり手仕事や家仕事を愛していた母の影響が大きいなぁ、と思います。
そのおかげか、とても忙しく動かなくてはならず、
物理的に自分の時間がかなり少ない仕事を選びましたが、
心を込めて自分の時間で丁寧に生きる事を学んできたので、
時間がないと困ることもなく、とても充実した時間を過ごしてこれました。
もちろん、生き方やこの世の在り方に関しては、それぞれの受け取り方があり
その活かし方も使い方も、人によって全然違うと思っています。
なので、それぞれの「善い」という感覚を大切にすればいいと思ってるんですけどね。
そんな中で私はわたし個人の感じるところや意見というものがあって
その意識で世の中を見て、その意識をこうして文章にしていますが
時にそれは人様に対して、世界に対して、批判だと捉えられることがあります。
それはあくまでも私はどう考えるか、福ちゃんはそ~思うのよ、ってことです。
他者に対して「そうしなさい、そうするべき」という事ではありませんし、
馬鹿にしているつもりも、見下しているつもりもありませんので、
皆様どうかご理解くださいまし…(>人<;)
私は普段の言動から、よく間違われておりますようですが(;´∀`)、
極端なナチュラリストやエコロジストでもないし、マクロビアンでもございません。
ヴィーガンでなければ、オーガニック信奉者でもございません。
確かにシュタイナー学校で教えていたし、その思想や在り方にも共感するけど
アンチ・シュタイナーを学ぶ大人(もちろん、一部の人ね)です。
そんななので、もちろんアントロポゾーフ(人智学徒)でもございません。
確かに神様と名のつくものに幼い頃から感じるところが有り興味があるし、
自分の中にそういう存在や体験がはっきりとあります。
自分自身から見て善なる言葉や、愛に溢れた行為に共感します。
マリア様も観音様も天使もマザーテレサも聖フランシスも好き。
聖なる存在と言われる人々の生き方が好きです。
だけどキリスト教徒でも仏教徒でもないし、
ニューエイジとかでもないです…。
特定の宗教も持っていないし、何かのコアな活動もしてません。
こういう意見を言えばムカつく方もいるだろうなとは思いますが
ネトウヨ的な発言を聴いたり見たりするのが好きではありません。
かと言って日本至上主義でもないし、世界至上主義でもありません。
いろいろなバックボーンがあって、いろんな意見にたどり着くと思うので、
どういう意見に対しても否定する気はありませんが共感もしないです。
私自身はネトウヨ的発言を見聞きすると、ちいさい戦争起こしているのと変わらないなと感じるし、
それらが未来に良いものを残したり、生み出せるとは全く持って思えないのです。
何にしても、その人々の正義が違う以上、どちらが何をどう正しいと語ろうとも
反対の側から見れば相手が「差別をするもの」にしかならないと思えます。
だから、そういう会話の中に入りたくないし、そういう意識を持つのがまず嫌です。
いろんな事実から沢山の意見があるのでしょうが、
その「事実」の中に関係ない人を、国籍や人種や仕事と言う理由だけで
全部一緒くたにして話を取られてしまうような行為が好きじゃないのです。
人生を生きていくにあたって、どんなに小さかろうと意味のある部分を無視して、
十把一絡げにして語ったり、考えたりはしたくないと思っています。
そこにいるひとりひとりの立場に目を向けられる人になりたいと思っています。
わたしは日本大好きです。日本人ですから(*^_^*)
でも世界も大好きです。地球に住んでる地球人ですから。
行ったことなくても、この世に生きている以上、
この星に存在する国はどこも全て愛すべき場所であり人と感じます。
それぞれの歴史や民族性を大切にすることって大切だなって思っています。
そして何よりも、それぞれの国での歴史や教育の在り方、
感覚や言葉などにおける知識から構築されていく概念はあっても、
日本人として生きる誇り、そして世界に対する想いなど、
自分の中でその知識を超えて、考えて、判断し、
自分の意志としての答えを、この世に生み出しながら
自分の足でしっかり生きる事が何よりも大事だと思っています。
日本の良いところ、世界の良い所、地球上全てで共有したいです。
日本の良くないところ、世界のよくないところ、
苦しみ悲しみも皆で添って生きていきたい人です。
もちろん、出来ることならば、どんな思いを持つ方とも
心通わせていくことができればと心から願っています(´∀`)
まあ、人生、目指せ「アンパンマンマーチ」な人なのです(笑)
ということで、この名曲を知らない人のために。
「アンパンマンマーチ」
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも
何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。
嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為
何が君の幸せ 何をして喜ぶ
解らないまま終わる そんなのは嫌だ!
忘れないで夢を 零さないで涙
だから君は飛ぶんだ何処までも
そうだ!恐れないでみんなの為に
愛と勇気だけが友達さ
嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為
時は早く過ぎる 光る星は消える
だから君は行くんだ微笑んで
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえどんな敵が相手でも
嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為
私は目指すぜ、心はアンパンマン!ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
ぬるいと言われようが、平和ボケと言われようがいいのだ。
危機感も自己の正義も自分の中に持つべきものだから。
ということで私にとって、こういう意識はとても大切な事です。
そんな認識の人だと思ってくださいましね。
でも違う認識の人を悪いとは思いません。
人はそれぞれ違って当然だと思いますから(´∀`)
以前はけっこう自然の傍に住み、TVなども見ない生活も長くしてました。
ただ、それは単純に傍になかったし、見なくても生きていけてただけです(笑)
決してナチュラリストとかだからじゃないです。
今は家に在るので普通にTVも観ますし、ジャンクフードも美味しくいただくし、
同じように自然なものも好きだし、オーガニックも美味しくいただきます。
生活の色んなことも、そこそこ適当な部分いっぱいでございます(^_^;)
ただ心に一つの想いを持って生きています。
「自分の様々な面における美観に従って、この世と私なりの調和をして生きる」
という心持ちをいつも生き方の軸に据えています。
大きく言えば「愛と真実」と言うものをとても大事にしています。
だから物事の最後は、すべて自分で判断し、決めています。
なぜなら、大切な自分のためにも、大切な周りの人のためにも、
自分の歩みを人のせいや環境のせいにはしたくないからです。
また、私は母からの魂の受け継ぎでもある
「丁寧に生きる」と言う感覚をとても大切にしています。
「人は一年はしっかりお付き合いしてみないと本当はわかりません」
という、母の感覚を受け継いで幸せだなぁと感じています。
とても素敵な感覚だと感じて生きているのでアリマス(^-^)
つぶやいたり、ブログを書く事で、いろんな意見をもらうことがあるし、
自分でも自分自身の心を確認する為に敢えて自分の立ち方を書いてみました。
このブログはそんな人間の書いている長い独り言、つぶやきなのです。
そんなワタクシでよろしければ、またお付き合いくださいねヽ(*´∀`)ノ
【ひざまくらでネンネするんでしゅよ。甘えん坊さんのピピちゃん】
さて、私のカラダは越してからこっち、特に重くなりまして、
今は重量感たっぷりのただのおばちゃんでございます(^_^;)
でも実は生まれつき体があまり強くないんでございますよ。
そんな弱いところがあるせいか、今も時々不具合が置きたりします。
たとえば、月に一度の女性にとって大切な繰り返しも
それそのものをカラダに起こすのに、相当な体力が必要で、
食が細すぎたりすると、予定日が来ても訪れてくれません。
しかも抵抗力だけが弱っていき、大変なことになります。
大概、相当に抵抗力が落ちるので、風邪をひいたり熱が出たりします。
ということで、その兆候を察知したら、がっつりと食べます。
食べなくては心身に大切な浄化が始まらないからです。
と言うことを今月もやっておりましたらで、
ふとココロが「食べること」と「いのち」に動いてゆきました。
話はちょっと戻りますが、私は先に書いたように、
本当に素晴らしい出会いに恵まれているんです。
いろんなものを抱えつつ、人生を歩く中でいろんな人に出会いました。
出会いというそれは、本当にいろんな形で私の前に訪れます。
実際に人として出会うときもあるし、本や文章の時もあれば、
写真や映像や音や思いの中での出来事だったりします。
でも、どれも大きな出会いであると感じています。
出会いは世界を知ることであり、何より自分を知ることと思います。
そして、結果として良くも悪くも、出会いの全てに心から感謝しています。
そういう中で、普通に生きていたなら、なかなか出会えないような
著名な方がたとも出会わせていただくチャンスに多く恵まれました。
そんな中で、たまたま偶然になのですが、
「いのちのスープ」や「いのちのおむすび」でご存知の方もいると思いますが
有名なお料理家の辰巳芳子先生と佐藤初女先生に出会わせていただきました。
そして、お二方の有名なスープとおむすびを頂いたことがあります。
「滋味深い」と言う言葉をそのままにした様なお味であったことを覚えています。
その作られたもののあたたかさ、そして立ち居振る舞いから
お二人にとても深く興味を持った時期があります。
奇しくもお二人共クリスチャンでいらしたり、年齢がお近くであったりします。
そして、お二人共「食はいのちである」と説いておられる方々です。
私は先に書いたように生活や食については、自分らしさの中の自然のままで、
極端に何かにこだわったり傾倒しているわけではないので、
当然これはこうでなくてはならない、という決まりなどは持たないのですが、
この先生方の生き方や行動、活動やお言葉の中には、
私自身が大切にしたい、これは大事だな、と思っている部分に重なる事が多く、
以前から深く共感を持っているのです。
今日はそのおふたりの言葉を思い返しつつ、
皆さんにもシェアしてみようかな、と思います。
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【いのちのスープを作る辰巳芳子先生】
《辰巳芳子先生の言葉録》
食べるべきものを、料理すべきように料理をして、食べるべきように食べなさい。
人間は 食べなければ 命はそれで終わりになる。
命をつなごうと思ったら、命をよく開花させようと思ったら、食べるべきように食べなければならない。
自分の命を尊敬しなければならない。尊敬の表れは、食べるべきものをきちんと食べていくこと。
安いもの、手近なものばかり買ってお腹を満たしている人たち。
百歩ゆずって、食べ物をなおざりにしているわけではないとしよう。
大事さをわかっていないわけではない。
でも、わかっていてもできない。どうにもならないのだ。
なぜかという問いに対しての答え。
「面倒と思う心の向こうにあるのは、認識の問題です。
食への認識は、命の認識と同義。食べることの『位置づけ』をきちんとしていないからなのね」
じゃ、なんのために食べるのだと思う?考えてください、
と問いかける辰巳さんの目はぜんぜん笑っていないのである。
「本気で考えてください。答えがないと、食環境を変えることができません。
答え? それはね、自分を自分たらしめるため。
自分の〝命〟に尽くす義務が人にはあるのですよ」
よすがという言葉があります。
万事、何事においてもの、
適切な手がかり、手段に属す
具体性を意味する。美しい日本語。
人類は生を享けた風土に決定づけられ生きねばなりません。
もののあわれの根源かもしれません。
発酵食品は、海に囲まれた島国の
高温多湿を生きてゆきやすく生きるため、
ほとんど自然発生的に勘考し、
仕上がった骨肉の一種、
生きてゆく上での仲間ともいえます。
酒・味噌・醤油・沢庵・糟漬け、
各種糀漬け、粕仕事の数々。
あって当たり前のゆえに、
粗略にしても失わぬと
勘違いしているところはないか、反省。
「もの」に見放されるのは、
「人」に見放されるよりおそろしい。
取り返しのつかぬこともあります。
いのちを守るのは、自分以外ありません。
自分は「知っている」「時が来たらやってみせる」と、暮らしをなめている方が多い。
しかし、手足に属することは、単なる知識に属することとは異なる。
音楽に置き換えれば当然です。曲をよく知っている、楽譜も読める、
それゆえ楽器にむかえば奏せると思う人はありますか。
歌ひとつ思うようにならぬことは、先刻ご存知のとおりです。
食に就いて
「いのち」の目指すところは
「ヒト」が「人になること」
「なろうとすること」
この命題に向けて、「ヒト」が心すること。
・いのち(神佛)の慈悲から、目をそらさぬこと。
・愛し愛されることを、存在の核にすえること。
・宇宙・地球 すなわち風土と一つになり、
その一環として生きること。
・「食べもの」をつくり食すということは、
この在り方を尊厳するということである。
時間の使い方は、生命の使い方なのだ。
とすれば、・・・・・時間に愛をこめて生きることがたいせつになる。
皿並べのような単調な仕事も、台所でじゃが芋の皮をむくこと、
お手洗いの掃除といった″雑用″も、それに愛がこめられた時、
尊くも意味ある仕事になるということである。
この世の中に、雑用という用はないのであって、
私たちが用を雑にした時に、それは生まれる。
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【おむすびを握る佐藤初女先生】
森のイスキアを主宰する佐藤初女さんは、「奉仕のない人生は意味がない。
奉仕には犠牲が伴います。犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない。」
という神父様の言葉に心を揺さぶられ、特別な能力も経済力もない自分に、
何ができるか?と考えながら歩いていた時、
「私には心がある。心だったら汲めども汲めども無尽蔵にある」と突然ひらめき、
この気づきから森のイスキアへと続く道の第一歩が始まりました。
「おむすびを作るときは、お米の一粒一粒が息ができるようにと思って握ります」
食事は「いのちといのちの移しかえ」
『たなごころ』に置いて、手のはらでね、『むすぶ』のよ。力はいらないの。
素材そのものを「いのち」としてとらえるか、
ただのものとしてとらえるかによって、味が違ってくるものです。
ゆがいている野菜が、すきとおったとき。
それが、そのいのちが私たちのからだに入るための準備ができたという合図です。
お料理をするときの心というのは、その人の生きる姿そのものだと思います。
急ぐ人はただ急ぐし、めんどくさい人は簡単に省略するし。
素材そのものを「いのち」としてとらえるか、
ただのものとしてとらえるかによって、味が違ってくるものです。
情報にふりまわされない力をつけましょう。
私は、自分で行動してわかったことでないと、人には伝えられません。
「めんどうくさい」という言葉は使わない。
『地球交響曲』の龍村仁監督は、
「めんどうくさいという気持ちが、地球を壊していく」
とおっしゃいました。本当にそうだと思います。
すべてのものにいのちが宿っている。服もタオルもお茶碗もすべて。
いのちを最後までまっとうさせたいので、修理したり、縫ったり接いだりします。
幸福はおすそわけしましょう。喜ぶ人が増えるのはうれしいことです。
自分のまわりの不思議に気づきましょう。
何事も「当たり前」と受け取らなければ、気づくことができます。
まさか自分の身にこれだけは起こるまい、と思っていることでも、
他人の身に起こることは自分にも起こるんです。
人の心はみな違い、それぞれ深いもの。
大きなことや立派なことをする必要はありません。
自分の身近にいる人が喜んでくれそうなことを、ひとつやってください。
気づいたことがあるなら、まず行動してみることです。
自分で行動してわかったわけでもないのに、「いい」とか「悪い」とか言わないこと。
大切なものは、今ここにあります。
ふだんの生活のなかにこそ、天国はあるのです
***************************************
突然話は変わりますが、歌手のさだまさしさんが
『おばあちゃんのおにぎり』という子ども向きの本を出されています。
ストーリーはこうです。
主人公の「ぼく」はお婆ちゃんのおにぎりが大好き。
何も入ってない、のりもまいてない、まっしろなおにぎり。
おばあちゃんは何でも注文どうりに握ってくれた。
そのぼくの誕生日会、友達をたくさん呼んで、有頂天のぼく。
お母さんの作ったたくさんのご馳走の中
おばあちゃんからのプレゼントは、ぼくの大好きないろんな形のおにぎりがたくさん。
いつもは食べられないご馳走でおなかが一杯になり
友達もぼくも、大好きなおばあちゃんのおにぎりには、手もつけなかった。
友達と遊びに出たぼく、だんだんおにぎりの事が気になって先に家に帰る。
おばあちゃんは手をつけられていないおにぎりをお茶漬けにして暗い台所で
ひとり食べてた。
ぼくはそこでおばあちゃんの優しさに胸が痛んで両手におにぎりを持って
泣きながら一度に食べ始める。
「いいの、いいの、気にしなくたって。今日はご馳走が一杯だったからね。
お前はもうおなか一杯なんだろう?ちっとも無理しなくていいんだよ。」
そのぼくの頭を、おばあちゃんは優しくなで続けた。
このおばあちゃんは、ロシアの大草原を馬で駆け抜けたりたくさんの仕事や
冒険をし、戦争も体験し、かなりすごい人生を歩んで来たらしい。
その彼女が持っていたもの、明るい性格・丈夫なからだ・おにぎりetc.
それらたくさんのことを人は次の代にバトンタッチして死んでいく。
そうやってずっとずっと命は繋がっていく。
「ぼく」が生きてる限りお婆ちゃんの深くて広い人生が、「ぼく」の心のなかで
ちゃんと生きている。
このお話は、さださん本人の実話にもとづいて書かれたものです。
そしておばあちゃんの語らなかった教えがそこに生きています。
さださんはあとがきにこう書かれています。
≪もともと生きることに意味はない≫
でもその意味を発見するための自分との戦いが人生ではないか。
生きることは自分自身との壮絶な戦いであることを忘れてはいけない。
『祖母の人生は、深くて広く、
その計り知れない世界を生きた祖母が
今は僕の心の中だけで生きている。
心は、世界よりも広いのでしょうか。。』
厳しい戦いを生き抜いた人ほど、自分の戦いの壮絶さを他人に見せたがらない
と、さださんはおっしゃっています。
辰巳芳子さんも佐藤初女さんも、さだまさしさんのおばあちゃんと同じ、
そう言った難しい厳しい時代を生き抜いてこられた方です。
こういう方の生き方の中に人としての大切なものがあると感じます。
【冬はスープが美味しいですね】
さて、私は手軽な料理が悪いとは思いません。
今流行りのズボラ飯もアリだと思います。
手仕事をしないより、する方が絶対に良いと思うし、
問題はその方法ではない部分だと思うのです。
大切なのはココロ。そこだと思うんです。
要はそこに、どれだけ思いを込めたかだと思います。
ズボラ飯(簡単ごはん)だって、美味しいものを作ろう、
と思って作るのなら立派なお料理。
ただ料理なんか「どうでもいい」気持ちで作ったものなら、
それは食材にも食べる人にもとても失礼だと思う。
私はそんな感覚で受け止めています。
手は生きるための殆どを生み出す部位でとても祈りのある体の部分。
人はその手を使って人間はいろいろなものを造ります。
火は男性性のエネルギーであり、水は女性性のエネルギーと言うし
それらが合わさってお料理は生まれることはすごいことだと思う。
これらが合わさるとき、内なるバランスをとり、命に安定感を与えるのだそう。
それが食であり、料理であるなら、お料理は祈り。
たとえば、それぞれの調理法にはいろんな祈りの力が込められる。
例えば人間関係が上手く行かないときは油を使った揚げ物を作り食べるといいと言います。
油には素材を滑らかにし、きしみをなくす力があるから。
寂しいときや愛を感じ入られないときは蒸し物がいいのだそう。
霧に包まれた料理は天に守られているというパワーを与えてくれるらしい。
煮る料理は長い間火に愛される。
だから寂しいとき、辛いとき、悲しいときは煮込み料理がいいそう。
愛が味となってしみこんで、癒してくれるから。
パンやおうどんやクッキーのように手でこねるお料理は
作り手の深い祈りを伝える料理なんだそう。
しかも手でこねる料理は愛の力を相手に分けて上げられるそうです。
今が頑張りどきの人や、もう駄目だと手足が出なくなっている人、
今にも幸せを取り上げられようとしている人、そして自分にも、
そんなお料理を作りプレゼントをするだけで力を分けることができるそうです。
そう考えると料理も楽しい。
そう思いませんか?
実はこれ、ずいぶん前に書いた自分のブログからの引用。
でも本当に大切なことだと思うから大切にしています。
家仕事でも、なんでも、繰り返しの仕事っていうのは大変なもの。
人間は飽きっぽいから続けていくのは余計大変。
でも、その思いを乗り越えられるのも人だから。
人は本能的な好き嫌いを持ってるから、最初はそこで答えが出る。
でも、自分の意志でその答えをそこから育てていける。
「大変」
その言葉の当てはまる何かを、四苦八苦しながら乗り越える事が
人にとって大切なことだと私は思っています。
今日の話は、究極そういうコトです。
「一生おなじ歌を 歌い続けるのは」
一生おなじ歌を 歌い続けるのは
だいじなことです むずかしいことです
あの季節がやってくるたびに
おなじ歌しかうたわない あの鳥のように
岸田衿子