KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

hitokugiri

2007-01-14 | KOFUKU日記
怒涛の12月も過ぎ、早いもので一月も半ば過ぎとなりました。
まだまだあと作業は完全に終わってませんが(家の中の整理とか~)
一応、一区切りという事で明日からアルバイトに戻ります。
とか言っちゃって、年末年始の忙しいときにバイトできなかったので
その期間に新しい人がいっぱい入ってきてお仕事にあぶれちゃっただけなんですけどね~(^。^;)
いや~予定より一週間以上もバイトできなかったので、今月はかなり懐具合が厳しい寒さになりそうです~。
しかし、そこは何とかね(笑)やっていくしかありませんね。
なんせ「夢の子」なんで、人様とはまた違った日々になる事でありましょう。

わたしのてしごとをお待ちくださったみなさま、お待たせしました。
やっとてしごと出来る環境になってきました。
残る一月、少しづつてしごとを進めて、順次お届けいたします。
どうぞもうしばらくお待ちください(ぺこぺこり)

闇の中に膝を抱えうつむいていた春の日々でした。
無理して笑って働いて、一生懸命でした。
そしてお芝居の神さまが降りてきて、夏から走った半年でした。
厳しい厳しい秋と冬でした。
でも「あたたかい時」が待っていました。
この一年を通してとても大切な事がココロでわかった気がします。
いちばん良くわかったのは「私がしたいこと」でなく、
「わたしがするべきこと」でした。
「するべき」、というのは本当に生まれたとき、自分が頂いてきた天分を本当に生かし生きるという事と言えばいいでしょうか。
そういうことが言葉には出来なくても、ある種の光と波動をもってココロに宿りました。
また人のお手伝いをする、誰かと仕事をするというとき、どうするべきかということもたくさん学ぶ事が出来ました。
今までのわたしは善い意味でも悪い意味でも「自由で奔放で自分中心」でした。
それを自分が心を偽らないという、大切なものだと思っていたのかもしれません。
なんとなく自分の意に沿わない事をするのは違う気がしていたのです。
自分によい感覚のないものを相手に合わせて無理にするのはおかしい、見たいな。
もちろんそれも間違いではない一つの考えなのでしょうけれど。
でも今考えると「人に合わせる」という事の大きな大切な意味を間違って感じていたのかも知れないと思います。
誰かと仕事をする、というのは「誰かの夢」を叶えることに似ている気がします。
昔は人と何かをするとき、自分の意見なるものをどんどん言ってました。
でも、今回思ったのです「待てよ」と。「かなえるのはわたしの夢じゃないぞ」って。
大切だったのは思うままに自分の思いを言ったり、自分が楽なようにするのではなく、
それを思う人の気持ちにしっかり寄り添う事が大切だったんだなあ、って。
それが解って、それからいろんな努力をして見ました。ちいさな努力だったんですが。
自由気ままで、ようはそれまでしっかりと人に思いやりを持っていなかった私には結構辛い事が多かったです。
自分の嫌な事は全部辛いと感じるわけですから(笑)
けれど、自分に辛いものでも相手には必要なものなのですよね。
昔だったら「これでいいの?」みたいに思ったり言ったりしたかもしれない。
けれどそれは違うんだなあ、って。
まずは本当に相手が望んでいる事に寄り添ってみる。
確かに自分も参加する事だけれど、何故参加したのかの意義を考えてみる。
そうすると周りが見えてくるんだなあ、って。
相手を本当に思うという大切さ、とでも言うんでしょうか?
いやもちろん葛藤はありましたよ、そのために抑える感情とか行動とかいろいろありますもん。ちっぽけな人間だから。
前なら「こんな自分を抑えてやる事なんて本当じゃない!」とか言っちゃってたんだろうなあ(笑)
今はそんなこと思うなら最初から関わっちゃいかん。人とともに生きる、相手を大切にするという事は大変な事だ、と思えますが。
もちろん、自分の意思を一緒に混ぜてつくるものはもっと自分の意思を伝えるべきと思いますけどね。
おかげで「会社で働く」とかそういうことの大切さが尊さが理解できました。
もちろん、まだ上手く出来ないんですけどね(笑)
けれど誰かの手足となって働くとき、そこに自分の自由意志はないような気持ちになってましたが、そうではなくて手足になること自体が自由意志になるべきことだったと解りました。
マザーテレサが「私をお使いください」という祈りを書いていらっしゃいます。
その「使われる」と言う意味や「修道」という意味が少しわかった気がします。
けして自分の心満たすことだけが「自由」や「意義」でなく、それをする事で満たされる事が自由を得ることだったんだなあと。
その証拠に私はそうした事でとても大きな喜びを得ました。
その時、それは少しも苦しくも嫌な事でもなかったのです。
そういう事をすることによって、自分が何かするときどうするべきかもわかりました。
上手く言えませんが大きな大きな学びでした。
これがすべての答えでもない事を知っているけれど、こういう形で今回は答えを得ました。
これらを胸に明日からも歩いていこうと思います

すべてに感謝しながら
あんじゅ


主よ、私をお使いください

主よ、今日一日
貧しい人や病んでいる人を助けるために
私の手をお望みでしたら
今日、私のこの手をお使いください。

  主よ、今日一日
  友を欲しがる人々を訪れるために
  私の足をお望みでしたら
  今日、私のこの足をお貸しいたします。

主よ、今日一日
優しい言葉に飢えている人々と語り合うため
私の声をお望みでしたら
今日、私のこの声をお使いください。

  主よ、今日一日
  人は人であるという理由だけで
  どんな人でも愛するために
  私の心をお望みでしたら
  今日、私のこの心をお貸しいたします。


  自己からの解放

主よ、私は信じきっていました
私の心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく
他人の中に自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

  主よ、私は思いこんでいました
  私は与えるべきことは何でも与えていたと。
  でも、胸に手を当ててみて
  真実が分かったのです。
  私の方こそ与えられていたのだと。
  主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ、私は信じきっていました
自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみとの心に
私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

  主よ、お願いいたします。
  私の中で天の国と
  この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき
  あなたの中にのみ
  真の幸福と力添えとを見いだしますように。

マザーテレサの祈りより








 

「善きこと」

2007-01-09 | KOFUKU日記
なんか突然書きたくなりました(笑)
今日、仲良しのお友達と話していて話題になったのが
「よい」
と言うこと。
「よい」とは普通「良い」と書きます。
でも私はあんまりこの字を使いません。
大体「善い」とあらわします。
わたしは本当はあんまり区別をつける名称が好きではないです。
だから自分達の活動をするときも「本物」とか「真実」とか使うけど
それは本当は好きではありません。
ただ、周りに解りやすいように、って考えると
言葉を使って表現しなければいけなくなるから、
なんだかそういう風になるのでした。
基本的に私はココロくだく行為はすべて「ほんもの」だと思っています。
そこには必ず「愛」が宿っているからです。
だから基本的に「にせもの」はないと思ってるんですよ。
さてそういう私がなんで「よい」にこだわるかって言うと、
それは大きく違うなあって自分のなかで感じるからなんです。
それが皆さんにも当てはまるとは限らないのでご安心を。
あくまでも「あんじゅちゃん語」のはなしです。
あんじゅ語だとですね「良い」って言うのは
「人様がつけた判断基準」をあらわします。
ようするに「レベル」見たいなものですね。
誰かの価値観で「よい」とされる事を基準に判断した結果。
で、「善い」ってのはですね、あんじゅ語では
「神様のつけた基準」をあらわします。
要は誰しもがココロの中に持っているもの。
変わらないもの。真実。疑いのないそのままのこと。
つまり、「良い」は基準がなければ完成しない感覚で、
「善い」は基準なんかなくても万人に理解できる感覚(愛)です。
例えば~、猛暑のときの雨とか~、嵐の後の青空とか。
わかります?(笑)
だから時に「善き」ことは見えなくなり、軽く扱われたりしちゃいます。
「良い」事はそれが価値ある人にはいろんな富を運んだりするので、
いつしかそれがいらない人も「良い」と言うようになっちゃったりします。
うーん、神さまの基準(愛)を胸にシンプルに生きたい!
今日はなんだかそんな事を考えて居ました。
同時に「疑わない」と言うことの大切さと尊さを。
お友達の天使「ひとおりさん」もその詩に
"信じるという事は半分疑っている"
と書いておられましたが、私もいつもそう思うのです。
信じてるとき、信じようと思うことはないから。
ただ、あるがまま、愛があるだけです。
疑わずに居られる事は尊く強くあたたかい。
あるがまま、それが真実の状態だから、たとえ相手が嘘でも
疑わないココロは「ほんもの」の時間だけを紡いでゆく。
今年はそんななかで生きて居たい、そんな風にありたい、
そう、まるでぴーちゃんの様にあるがままに。。
ココロのそこからそう思った一日なのでした(*^。^*)





夢のあと~年末年始ドタバタ記

2007-01-08 | KOFUKU日記
今日は快晴、やっとパソコンに座れました。
昨日までこちら関東地方も嵐かと思うほどの風でした。
冬将軍が来たぞ~って感じでしたね。
気が付けば「七草」も過ぎて、すっかりお正月の風も消え去ってますね。
年末、嵐のように公演期間が飛び去ってゆき、
「はあーっ」と息を吐く間もなく「お正月」に突入。
ただただ3日間は魂抜けたように過ごしてました。
「これ以上動いたら死ぬぞ!」みたいな(笑)
でも「はっ!」と気が付いたらすでに4日で、
新しい荷物置き場とか急に探さなくては行けなくなり、
無理やり家に荷物をもって来たのはいいのですが、
荷物で自分達も居る場所がない。。。
まさに現場は「つわものどもが夢のあと」の様な状況でして。。。
出来る事なら矢に打ち抜かれて屍の真似が出来れば楽だったんですが
そういうわけにも行きません。時間は刻々と過ぎてゆくし。。。
それで、荷運びと片付けを同時にやるしかないと言う事になり、
4日から今日までひたすら荷運び、片付けを繰り返してました。
とうとう家の中のものが納まりきらず、何点かリサイクルしようと
もってでたら、結局どこにも引き取ってもらえず、
さらになんと帰りの道であまりの酷使ぶりに、
あの勇猛な「ベロ号」が壊れちゃいまして。。。
もう、帰れないかと思いました、ハイ。
結局ベロ号は車やさんに回収され、大幅な治療が必要なようです。
(ベロちゃん、よく頑張った!あんたは偉い!)
しかーし!と、いう事は、そう荷運びも何もかもがストップしちゃったんです。
さらにお借りしてる稽古場の引き上げ期限は明日と来た!
一体どうなる!って感じです(^。^;;)
たぶん明日は、この二日分の仕事を一気に2時間ぐらいでやんなきゃなんだろうなあ。
きゃー!!!考えるだけでも怖いわ~。
けれどこの切羽詰った状況のおかげで、家の中はまだ大半以上が
未開の地と化しているものの、大幅な模様替えが行われました。
置いてもらえなくなったセットをどうやって収めるか、
兄は考えた挙句、そのセットを家の中に装着する事に!
まずは家の入り口付近からと玄関とキッチンが、
あらあら素敵、真っ白カントリー調に大変身!
床には厚手の絨毯敷きまして、今まであったテーブルも全部解体して
壁とセットの壁の間に見事に収納、すんばらすいいい、おにいちゃあああん!
君を今日から「収納の貴公子」と呼ぼう!
(考えるのにやってる倍の時間はかかる人だけど許す・笑)
ベンチとソファを置いて、床にぺったり座れる、
今までより広くてあたたかなサロンになりました。
何より喜んだのはぴーちゃん。
全体が床置きになり、絨毯がひかれたのでもうゴロゴロと転がり
走り回り、ソファと椅子はジャングルジムのようになっております。
すっかりぴーちゃんの遊園地(笑)
ぴーちゃんをこよなく愛する兄はそれだけでご満悦らしい(笑)
さらに玄関口の靴棚の上には白樺の木をそのまま生かした3段棚が完成。
これまた素晴らしい、可愛いんだよ~。
よく観ると一番下の脚の枝のところに枝がピョコンと出ている。
「これはー?」と聞くと「ぴーちゃんのリードかけー」
おおお、なるほどぉ、さすが「愛」だね。
その向かいには収納しきれなかった靴のための棚が置かれ、
その上には公演のポスターを収納したパネルが飾られ、
着々と収納場も設置されつつあります。
残ったセットはばらして材木に戻り、それを収納する箱も完成。
何かに変身するのを待っています。
時間はかかりそうだが、これならなんとかおさまるんじゃないかと。。
しかし、問題は引き取ってもらえなかった荷物と、
どうしても家には収まらない道具さんたち。
いや!ここまで悪運強くやってきましたからねえ~、何とかなるでしょう!
おかげで家の中も明るくなりましたし(まだサロンだけだけど)
何はなくとも「収納の貴公子」のこれからに期待したいところです(笑)
さあ、続きの片付けしよーっと!!

(ちなみに写真は兄ちゃん制作のアルミ廃材を使った棚なりー。
軽くて丈夫、使いやすいのです。)