怒涛の12月も過ぎ、早いもので一月も半ば過ぎとなりました。
まだまだあと作業は完全に終わってませんが(家の中の整理とか~)
一応、一区切りという事で明日からアルバイトに戻ります。
とか言っちゃって、年末年始の忙しいときにバイトできなかったので
その期間に新しい人がいっぱい入ってきてお仕事にあぶれちゃっただけなんですけどね~(^。^;)
いや~予定より一週間以上もバイトできなかったので、今月はかなり懐具合が厳しい寒さになりそうです~。
しかし、そこは何とかね(笑)やっていくしかありませんね。
なんせ「夢の子」なんで、人様とはまた違った日々になる事でありましょう。
わたしのてしごとをお待ちくださったみなさま、お待たせしました。
やっとてしごと出来る環境になってきました。
残る一月、少しづつてしごとを進めて、順次お届けいたします。
どうぞもうしばらくお待ちください(ぺこぺこり)
闇の中に膝を抱えうつむいていた春の日々でした。
無理して笑って働いて、一生懸命でした。
そしてお芝居の神さまが降りてきて、夏から走った半年でした。
厳しい厳しい秋と冬でした。
でも「あたたかい時」が待っていました。
この一年を通してとても大切な事がココロでわかった気がします。
いちばん良くわかったのは「私がしたいこと」でなく、
「わたしがするべきこと」でした。
「するべき」、というのは本当に生まれたとき、自分が頂いてきた天分を本当に生かし生きるという事と言えばいいでしょうか。
そういうことが言葉には出来なくても、ある種の光と波動をもってココロに宿りました。
また人のお手伝いをする、誰かと仕事をするというとき、どうするべきかということもたくさん学ぶ事が出来ました。
今までのわたしは善い意味でも悪い意味でも「自由で奔放で自分中心」でした。
それを自分が心を偽らないという、大切なものだと思っていたのかもしれません。
なんとなく自分の意に沿わない事をするのは違う気がしていたのです。
自分によい感覚のないものを相手に合わせて無理にするのはおかしい、見たいな。
もちろんそれも間違いではない一つの考えなのでしょうけれど。
でも今考えると「人に合わせる」という事の大きな大切な意味を間違って感じていたのかも知れないと思います。
誰かと仕事をする、というのは「誰かの夢」を叶えることに似ている気がします。
昔は人と何かをするとき、自分の意見なるものをどんどん言ってました。
でも、今回思ったのです「待てよ」と。「かなえるのはわたしの夢じゃないぞ」って。
大切だったのは思うままに自分の思いを言ったり、自分が楽なようにするのではなく、
それを思う人の気持ちにしっかり寄り添う事が大切だったんだなあ、って。
それが解って、それからいろんな努力をして見ました。ちいさな努力だったんですが。
自由気ままで、ようはそれまでしっかりと人に思いやりを持っていなかった私には結構辛い事が多かったです。
自分の嫌な事は全部辛いと感じるわけですから(笑)
けれど、自分に辛いものでも相手には必要なものなのですよね。
昔だったら「これでいいの?」みたいに思ったり言ったりしたかもしれない。
けれどそれは違うんだなあ、って。
まずは本当に相手が望んでいる事に寄り添ってみる。
確かに自分も参加する事だけれど、何故参加したのかの意義を考えてみる。
そうすると周りが見えてくるんだなあ、って。
相手を本当に思うという大切さ、とでも言うんでしょうか?
いやもちろん葛藤はありましたよ、そのために抑える感情とか行動とかいろいろありますもん。ちっぽけな人間だから。
前なら「こんな自分を抑えてやる事なんて本当じゃない!」とか言っちゃってたんだろうなあ(笑)
今はそんなこと思うなら最初から関わっちゃいかん。人とともに生きる、相手を大切にするという事は大変な事だ、と思えますが。
もちろん、自分の意思を一緒に混ぜてつくるものはもっと自分の意思を伝えるべきと思いますけどね。
おかげで「会社で働く」とかそういうことの大切さが尊さが理解できました。
もちろん、まだ上手く出来ないんですけどね(笑)
けれど誰かの手足となって働くとき、そこに自分の自由意志はないような気持ちになってましたが、そうではなくて手足になること自体が自由意志になるべきことだったと解りました。
マザーテレサが「私をお使いください」という祈りを書いていらっしゃいます。
その「使われる」と言う意味や「修道」という意味が少しわかった気がします。
けして自分の心満たすことだけが「自由」や「意義」でなく、それをする事で満たされる事が自由を得ることだったんだなあと。
その証拠に私はそうした事でとても大きな喜びを得ました。
その時、それは少しも苦しくも嫌な事でもなかったのです。
そういう事をすることによって、自分が何かするときどうするべきかもわかりました。
上手く言えませんが大きな大きな学びでした。
これがすべての答えでもない事を知っているけれど、こういう形で今回は答えを得ました。
これらを胸に明日からも歩いていこうと思います
すべてに感謝しながら
あんじゅ
主よ、私をお使いください
主よ、今日一日
貧しい人や病んでいる人を助けるために
私の手をお望みでしたら
今日、私のこの手をお使いください。
主よ、今日一日
友を欲しがる人々を訪れるために
私の足をお望みでしたら
今日、私のこの足をお貸しいたします。
主よ、今日一日
優しい言葉に飢えている人々と語り合うため
私の声をお望みでしたら
今日、私のこの声をお使いください。
主よ、今日一日
人は人であるという理由だけで
どんな人でも愛するために
私の心をお望みでしたら
今日、私のこの心をお貸しいたします。
自己からの解放
主よ、私は信じきっていました
私の心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく
他人の中に自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました
私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて
真実が分かったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました
自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみとの心に
私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。
私の中で天の国と
この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき
あなたの中にのみ
真の幸福と力添えとを見いだしますように。
マザーテレサの祈りより
まだまだあと作業は完全に終わってませんが(家の中の整理とか~)
一応、一区切りという事で明日からアルバイトに戻ります。
とか言っちゃって、年末年始の忙しいときにバイトできなかったので
その期間に新しい人がいっぱい入ってきてお仕事にあぶれちゃっただけなんですけどね~(^。^;)
いや~予定より一週間以上もバイトできなかったので、今月はかなり懐具合が厳しい寒さになりそうです~。
しかし、そこは何とかね(笑)やっていくしかありませんね。
なんせ「夢の子」なんで、人様とはまた違った日々になる事でありましょう。
わたしのてしごとをお待ちくださったみなさま、お待たせしました。
やっとてしごと出来る環境になってきました。
残る一月、少しづつてしごとを進めて、順次お届けいたします。
どうぞもうしばらくお待ちください(ぺこぺこり)
闇の中に膝を抱えうつむいていた春の日々でした。
無理して笑って働いて、一生懸命でした。
そしてお芝居の神さまが降りてきて、夏から走った半年でした。
厳しい厳しい秋と冬でした。
でも「あたたかい時」が待っていました。
この一年を通してとても大切な事がココロでわかった気がします。
いちばん良くわかったのは「私がしたいこと」でなく、
「わたしがするべきこと」でした。
「するべき」、というのは本当に生まれたとき、自分が頂いてきた天分を本当に生かし生きるという事と言えばいいでしょうか。
そういうことが言葉には出来なくても、ある種の光と波動をもってココロに宿りました。
また人のお手伝いをする、誰かと仕事をするというとき、どうするべきかということもたくさん学ぶ事が出来ました。
今までのわたしは善い意味でも悪い意味でも「自由で奔放で自分中心」でした。
それを自分が心を偽らないという、大切なものだと思っていたのかもしれません。
なんとなく自分の意に沿わない事をするのは違う気がしていたのです。
自分によい感覚のないものを相手に合わせて無理にするのはおかしい、見たいな。
もちろんそれも間違いではない一つの考えなのでしょうけれど。
でも今考えると「人に合わせる」という事の大きな大切な意味を間違って感じていたのかも知れないと思います。
誰かと仕事をする、というのは「誰かの夢」を叶えることに似ている気がします。
昔は人と何かをするとき、自分の意見なるものをどんどん言ってました。
でも、今回思ったのです「待てよ」と。「かなえるのはわたしの夢じゃないぞ」って。
大切だったのは思うままに自分の思いを言ったり、自分が楽なようにするのではなく、
それを思う人の気持ちにしっかり寄り添う事が大切だったんだなあ、って。
それが解って、それからいろんな努力をして見ました。ちいさな努力だったんですが。
自由気ままで、ようはそれまでしっかりと人に思いやりを持っていなかった私には結構辛い事が多かったです。
自分の嫌な事は全部辛いと感じるわけですから(笑)
けれど、自分に辛いものでも相手には必要なものなのですよね。
昔だったら「これでいいの?」みたいに思ったり言ったりしたかもしれない。
けれどそれは違うんだなあ、って。
まずは本当に相手が望んでいる事に寄り添ってみる。
確かに自分も参加する事だけれど、何故参加したのかの意義を考えてみる。
そうすると周りが見えてくるんだなあ、って。
相手を本当に思うという大切さ、とでも言うんでしょうか?
いやもちろん葛藤はありましたよ、そのために抑える感情とか行動とかいろいろありますもん。ちっぽけな人間だから。
前なら「こんな自分を抑えてやる事なんて本当じゃない!」とか言っちゃってたんだろうなあ(笑)
今はそんなこと思うなら最初から関わっちゃいかん。人とともに生きる、相手を大切にするという事は大変な事だ、と思えますが。
もちろん、自分の意思を一緒に混ぜてつくるものはもっと自分の意思を伝えるべきと思いますけどね。
おかげで「会社で働く」とかそういうことの大切さが尊さが理解できました。
もちろん、まだ上手く出来ないんですけどね(笑)
けれど誰かの手足となって働くとき、そこに自分の自由意志はないような気持ちになってましたが、そうではなくて手足になること自体が自由意志になるべきことだったと解りました。
マザーテレサが「私をお使いください」という祈りを書いていらっしゃいます。
その「使われる」と言う意味や「修道」という意味が少しわかった気がします。
けして自分の心満たすことだけが「自由」や「意義」でなく、それをする事で満たされる事が自由を得ることだったんだなあと。
その証拠に私はそうした事でとても大きな喜びを得ました。
その時、それは少しも苦しくも嫌な事でもなかったのです。
そういう事をすることによって、自分が何かするときどうするべきかもわかりました。
上手く言えませんが大きな大きな学びでした。
これがすべての答えでもない事を知っているけれど、こういう形で今回は答えを得ました。
これらを胸に明日からも歩いていこうと思います
すべてに感謝しながら
あんじゅ
主よ、私をお使いください
主よ、今日一日
貧しい人や病んでいる人を助けるために
私の手をお望みでしたら
今日、私のこの手をお使いください。
主よ、今日一日
友を欲しがる人々を訪れるために
私の足をお望みでしたら
今日、私のこの足をお貸しいたします。
主よ、今日一日
優しい言葉に飢えている人々と語り合うため
私の声をお望みでしたら
今日、私のこの声をお使いください。
主よ、今日一日
人は人であるという理由だけで
どんな人でも愛するために
私の心をお望みでしたら
今日、私のこの心をお貸しいたします。
自己からの解放
主よ、私は信じきっていました
私の心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく
他人の中に自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました
私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて
真実が分かったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました
自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみとの心に
私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。
私の中で天の国と
この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき
あなたの中にのみ
真の幸福と力添えとを見いだしますように。
マザーテレサの祈りより