ホセ・クーラは、テノールとして国際的に名が知られましたが、これまでの投稿でも紹介してきたように、もともと指揮者・作曲家志望でした。12歳から指揮を学び始め、15歳から指揮者として活動を開始、大学も指揮、作曲を専攻しています。2006年にはプッチーニの蝶々夫人を振って、ウィーン国立歌劇場に指揮者としてデビューしました。
その際のインタビューから抜粋して、クーラの指揮者としてウィーンデビューの思い、作品論、解釈などについて紹介したいと思います。
●マーラーも立ったホットな指揮台に
Q、ウィーン国立劇場で初めて指揮をする。それはあなたにとってどのような?
A、私はこれまで、「バタフライ」をかなり頻繁に指揮してきた。しかし、ウィーンで指揮するのは初めて。感情的には、非常にデリケートな状況がある。なぜなら、ウィーンのピットの指揮台は非常にホットな場所だから。すべての偉大な指揮者は、マーラーから現在まで、ここに立っている。これは大きな責任だ。
芸術関係の予算の制約のため、リハーサルの適切な時間を確保することが、より困難になってきている。あまりにリハーサルが少なすぎて、実際には常にギリギリの状態だ。私には1・5回のリハーサルがあった。つまり、2時間半のオペラのために、3時間のリハーサルだけ。しかもそこには25分間の休憩が含まれている。これは、実際にはリハーサルではない。何かを修正するための可能性もなく、迅速に駆け抜けるだけだ。そして、これは当然、非常にストレスを増加させる。
●指揮者としての準備
Q、ウィーンでの指揮者デビューをどう準備する?
A、歌手としての準備と同様に、慎重に学ぶことによって。違いは責任にある。歌手としては自分のためだけの責任を負うが、指揮者は全体のアンサンブルに責任を負う。
Q、他の人によるオペラの異なる録音を聞くか?
A、通常、私はそれを避ける。しかし、過ちから学ぶために自分の録音を聞く。プッチーニはすべてがスコアに存在する。だからスコアに従うならば何も問題はない。
●歌手と指揮者
Q、なぜ遅く歌手になった?
A、私の教師が、良い指揮者になるために歌を学ぶよう助言した。私はフレージングや歌手の呼吸を理解したかった。何も計画はなく、最初の1つがつながり、ある日、私はフルタイムの歌手だった。
Q、最終的に歌手になったのは?
A、それは社会的決断だった。ヨーロッパに来て、単純に歌手としての仕事を見つける方が簡単だったからだ。指揮者としての契約は少なく、歌手のオファーが多い。それが理由だ。
Q、指揮が少ないことを後悔する?
A、幸運にも成功できれば何も後悔はない。歌手のキャリアは指揮者よりはるかに短い。私にはまだ、成長するにつれ歌手から指揮者にゆっくりと転換するための十分な時間がある。
Q、ウィーンでは歌手としてプッチーニの「妖精ヴィッリ」を歌い、次の夜は指揮者となるが?
A、非常に難しいことだが、「妖精ヴィッリ」は短いオペラなので可能だ。例えばオテロでは、これは不可能だろう。
Q、歌手としての仕事は指揮者に影響する?
A、私はオーケストラの長いフレージングと大きな曲線を愛する。オケが歌手と共に呼吸する時が好きだ。歌手の影響は大きい。逆に舞台に立つ時は音楽の偉大な旋律に従う。
指揮者としての私は、歌手が望んでいるようなやり方で歌手を扱う。良いブレスのために十分なスペースを与えること、良い掌の中にいるような感覚を与えること。同時に、彼らがアンサンブルの一部であることを明確にする。
●オペラと現代
Q、オペラはもはや必要とされず、時代遅れになっている?
A、過去のものは存在する権利がないというのは真実ではない。過去を消せば、私たちは立つ土台をもたず、落下する。土台のない建物のようなもので全体の構造は崩壊する。
SF映画を見るようにしてオペラを見ることはできない。また、それぞれの芸術作品を、そうあるべきものとして楽しまなければならず、違うやり方で試してはいけないというならば、それは間違っている。
●プッチーニとヴェルディ
Q、プッチーニの最初のオペラである妖精ヴィッリから蝶々夫人への発展とは?
A、途方もないものだ。ヴィッリのオーケストレーションはシンプルで、ハーモニーはナイーブだ。プッチーニは他の作曲家が30年間を必要とする発展を短期間でやりとげた。
ヴェルディはさらに長く必要として、ゆっくりと良いワインのように成熟した。もしプッチーニが、ヴェルディの年齢まで生きたなら、シュトックハウゼンやペンデレツキに出会っただろう。そのプッチーニは、決して我われが知らない何者かになっていただろう。
●甘くはない蝶々夫人の物語
Q、蝶々夫人も初演では成功できなかったが? (1904年2月17日ミラノスカラ座で初演)
A、椿姫も最初はブーイングされたが、今では、ヴェルディの最もよく知られたオペラだ。トスカニーニはプッチーニに、「親愛なジャコモ、このオペラには砂糖が多すぎる」と手紙を書いた。
しかし私はそう(甘い物語)は思わない。私は感情的な人間で、“砂糖”が好きだ。しかしこれは非常に残酷な物語で、残念ながら予言だ。ピンカートンは長崎で、我われが今、「売春ツアー」と呼んでいることをやっていた。
Q、演出家に何を期待する?
A、指揮者と同じだ。すなわち、私よりもオペラをより知っている誰かと働くこと。私に何かを教えてくれる人と。準備していない人と作業するのは、重すぎる荷を引っ張るようなものだ。
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歌手としてのクーラの歌もいくつか紹介します。
クーラの解釈では、蝶々夫人の「夫」ピンカートンは、「小児性愛者、15歳を誘惑して痛みを感じない」最低の男です。だから愛のデュエットも、ただロマンティックなだけでない、ピンカートンの傲慢さ、情欲をにじませています。
蝶々夫人とピンカートンの美しい二重唱を、2010年チェスキークルムロフのコンサートより(音声のみ)。
Jose Cura "Viene la sera" Madama Butterfly (Puccini)
2011年9月、フランス・ロレーヌ国立歌劇場での東日本大震災チャリティーコンサートに出演した、ホセ・クーラと大村博美さんの二重唱。収益は全額日本赤十字に寄付されたそうです。
Puccini Madame Butterfly duo final acte I :"Bimba dagli occhi ... " José Cura Hiromi Omura
こちらは2000年のブダペストのコンサートから、ピンカートンのアリア 「さらば愛の巣よ」を。
José Cura Addio fiorito asil / Madama Butterfly/ Budapest
最後に、1996年、シドニーでのプッチーニの名場面を抜粋したコンサートから、蝶々夫人の部分の写真を。回転する舞台、提灯がでてきて幻想的な雰囲気。