人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2006年 プッチーニの蝶々夫人 ウィーン国立歌劇場で指揮 Jose Cura / Madama Butterfly / Conductor

2016-04-07 | オペラの指揮


ホセ・クーラは、テノールとして国際的に名が知られましたが、これまでの投稿でも紹介してきたように、もともと指揮者・作曲家志望でした。12歳から指揮を学び始め、15歳から指揮者として活動を開始、大学も指揮、作曲を専攻しています。2006年にはプッチーニの蝶々夫人を振って、ウィーン国立歌劇場に指揮者としてデビューしました。

その際のインタビューから抜粋して、クーラの指揮者としてウィーンデビューの思い、作品論、解釈などについて紹介したいと思います。

 

●マーラーも立ったホットな指揮台に
Q、ウィーン国立劇場で初めて指揮をする。それはあなたにとってどのような?
A、私はこれまで、「バタフライ」をかなり頻繁に指揮してきた。しかし、ウィーンで指揮するのは初めて。感情的には、非常にデリケートな状況がある。なぜなら、ウィーンのピットの指揮台は非常にホットな場所だから。すべての偉大な指揮者は、マーラーから現在まで、ここに立っている。これは大きな責任だ。

芸術関係の予算の制約のため、リハーサルの適切な時間を確保することが、より困難になってきている。あまりにリハーサルが少なすぎて、実際には常にギリギリの状態だ。私には1・5回のリハーサルがあった。つまり、2時間半のオペラのために、3時間のリハーサルだけ。しかもそこには25分間の休憩が含まれている。これは、実際にはリハーサルではない。何かを修正するための可能性もなく、迅速に駆け抜けるだけだ。そして、これは当然、非常にストレスを増加させる。



●指揮者としての準備
Q、ウィーンでの指揮者デビューをどう準備する?
A、歌手としての準備と同様に、慎重に学ぶことによって。違いは責任にある。歌手としては自分のためだけの責任を負うが、指揮者は全体のアンサンブルに責任を負う。

Q、他の人によるオペラの異なる録音を聞くか?
A、通常、私はそれを避ける。しかし、過ちから学ぶために自分の録音を聞く。プッチーニはすべてがスコアに存在する。だからスコアに従うならば何も問題はない。

●歌手と指揮者
Q、なぜ遅く歌手になった?
A、私の教師が、良い指揮者になるために歌を学ぶよう助言した。私はフレージングや歌手の呼吸を理解したかった。何も計画はなく、最初の1つがつながり、ある日、私はフルタイムの歌手だった。

Q、最終的に歌手になったのは?
A、それは社会的決断だった。ヨーロッパに来て、単純に歌手としての仕事を見つける方が簡単だったからだ。指揮者としての契約は少なく、歌手のオファーが多い。それが理由だ。

Q、指揮が少ないことを後悔する?
A、幸運にも成功できれば何も後悔はない。歌手のキャリアは指揮者よりはるかに短い。私にはまだ、成長するにつれ歌手から指揮者にゆっくりと転換するための十分な時間がある。



Q、ウィーンでは歌手としてプッチーニの「妖精ヴィッリ」を歌い、次の夜は指揮者となるが?
A、非常に難しいことだが、「妖精ヴィッリ」は短いオペラなので可能だ。例えばオテロでは、これは不可能だろう。

Q、歌手としての仕事は指揮者に影響する?
A、私はオーケストラの長いフレージングと大きな曲線を愛する。オケが歌手と共に呼吸する時が好きだ。歌手の影響は大きい。逆に舞台に立つ時は音楽の偉大な旋律に従う。
指揮者としての私は、歌手が望んでいるようなやり方で歌手を扱う。良いブレスのために十分なスペースを与えること、良い掌の中にいるような感覚を与えること。同時に、彼らがアンサンブルの一部であることを明確にする。

●オペラと現代
Q、オペラはもはや必要とされず、時代遅れになっている?
A、過去のものは存在する権利がないというのは真実ではない。過去を消せば、私たちは立つ土台をもたず、落下する。土台のない建物のようなもので全体の構造は崩壊する。
SF映画を見るようにしてオペラを見ることはできない。また、それぞれの芸術作品を、そうあるべきものとして楽しまなければならず、違うやり方で試してはいけないというならば、それは間違っている。



●プッチーニとヴェルディ
Q、プッチーニの最初のオペラである妖精ヴィッリから蝶々夫人への発展とは?
A、途方もないものだ。ヴィッリのオーケストレーションはシンプルで、ハーモニーはナイーブだ。プッチーニは他の作曲家が30年間を必要とする発展を短期間でやりとげた。
ヴェルディはさらに長く必要として、ゆっくりと良いワインのように成熟した。もしプッチーニが、ヴェルディの年齢まで生きたなら、シュトックハウゼンやペンデレツキに出会っただろう。そのプッチーニは、決して我われが知らない何者かになっていただろう。

●甘くはない蝶々夫人の物語
Q、蝶々夫人も初演では成功できなかったが? (1904年2月17日ミラノスカラ座で初演)
A、椿姫も最初はブーイングされたが、今では、ヴェルディの最もよく知られたオペラだ。トスカニーニはプッチーニに、「親愛なジャコモ、このオペラには砂糖が多すぎる」と手紙を書いた。
しかし私はそう(甘い物語)は思わない。私は感情的な人間で、“砂糖”が好きだ。しかしこれは非常に残酷な物語で、残念ながら予言だ。ピンカートンは長崎で、我われが今、「売春ツアー」と呼んでいることをやっていた。

Q、演出家に何を期待する?
A、指揮者と同じだ。すなわち、私よりもオペラをより知っている誰かと働くこと。私に何かを教えてくれる人と。準備していない人と作業するのは、重すぎる荷を引っ張るようなものだ。

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歌手としてのクーラの歌もいくつか紹介します。
クーラの解釈では、蝶々夫人の「夫」ピンカートンは、「小児性愛者、15歳を誘惑して痛みを感じない」最低の男です。だから愛のデュエットも、ただロマンティックなだけでない、ピンカートンの傲慢さ、情欲をにじませています。

蝶々夫人とピンカートンの美しい二重唱を、2010年チェスキークルムロフのコンサートより(音声のみ)。
Jose Cura "Viene la sera" Madama Butterfly (Puccini)


2011年9月、フランス・ロレーヌ国立歌劇場での東日本大震災チャリティーコンサートに出演した、ホセ・クーラと大村博美さんの二重唱。収益は全額日本赤十字に寄付されたそうです。
Puccini Madame Butterfly duo final acte I :"Bimba dagli occhi ... " José Cura Hiromi Omura




こちらは2000年のブダペストのコンサートから、ピンカートンのアリア 「さらば愛の巣よ」を。
José Cura Addio fiorito asil / Madama Butterfly/ Budapest


最後に、1996年、シドニーでのプッチーニの名場面を抜粋したコンサートから、蝶々夫人の部分の写真を。回転する舞台、提灯がでてきて幻想的な雰囲気。
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ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求 / Stardom, art and life / Jose Cura

2016-04-03 | 芸術・人生・社会について①


ザルツブルク復活祭音楽祭2016のティーレマン指揮のオテロに主演し、ひさびさに日本でもTVに登場するホセ・クーラ。久しぶりに情報を目にした方も少なくないのではないでしょうか。
 → ザルツブルクのオテロについて詳しいことは (レビュー編) (放送編) (リハーサル編) (告知編) をどうそ。
また、2016年 ザルツブルクでのインタビュー 「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」も紹介しています。 

1990年代末以降、とりわけ日本では、1998年の新国立劇場会場記念公演「アイーダ」で衝撃的なデビューをかざってから、マスコミなどでも大々的に紹介され、「次世代3大テノール」だの「第4のテノール」「ドミンゴの後継者」など、待望のスター登場という感じの扱いがされたことを覚えている方もいらっしゃると思います。ところが2000年代に入ってしばらくするころから、あまりマスコミにも登場せず、CDも発売されなくなります。何度か来日公演はありましたが、その後、ほとんどクーラに関する情報を日本で目にすることはなく、「クーラは今どうしているの」と思っていたオペラファンの方も少なくないでしょう。

 

なぜ大々的に売り出されたクーラが、突然、消えるように露出が減ったのか。そこには、エージェントやレコード会社による売り出され方に疑問を感じ、自分のすすみたい音楽の方向との違いに苦しむクーラの決断がありました。インタビューなどから、クーラの思いと決断の中身を紹介します。



●エージェントから独立――1999年~2000年

クーラは1990年代の末に、所属していたエージェントとの関係を断ち切り、独立します。世界的に売り出し中に独立を決意したわけですから、その決断も、その後の直面した状況も、並大抵のものではなかったようです。

Q、2001年に自分の会社を設立した理由は?
A、初期のエージェントと広告会社によるばかばかしい経験はもう十分だった。独立は、それが自分自身であるための唯一の方法だった。

エージェントやレコード会社から、本人の意に反して、オペラ界の「セクシー・スター」路線で売り出されたホセ・クーラ。当時の雑誌のいくつかは今でもネットで売られています。さまざまな雑誌の表紙や見出しに、「セクシーオペラ・スター」「テストステロン爆弾」等の文字が躍っていました。
  

自分の意にそわない方向での売り出され方、長年の音楽的努力ではなく表面的な容姿だけに注目したキャンペーン、エージェントによる金銭的搾取など、さまざまな問題が起こっていたようです。

●自ら芸術の旅をナビゲートする決断――2013年ニューヨークでのインタビューより

芸術的な探求に加え、自分のプロダクション(Cuibar)をつくって活動してきた。重要なことは、それが、自分自身にもとづいて、芸術の旅を自らナビゲートすることを可能にしたことだ。

2000年に、私のキャリアは、幸せではない方向に向かっていた。オペラ界のセックス・シンボルとして売り出されていた。そのように販売されるために20年間勉強してきたわけではなかった。だから私は、それまでの関係と決別し、自分自身を再表示することを決意した。

それはいろんな意味で重大な挑戦だった。自分のイメージを変え、なりたい自分になるためには3年かかった。最終的に、私はそれを達成した。しかしそれによって、エージェントや劇場から多くの反発を受けた。

この決断は多くのチャンスを失うコストを払うことになったが、後悔はしていない。友人が私に言った。「あなたは誠実さ(一貫性)を選択した。それを他の利益の上においた。あなたはそれを誇りにするべきだ」と。

1999年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での「カヴァレリア・ルスティカーナ」出演時の写真
 

●自分のボスは自分――2006年イギリスでのインタビューより

私が(エージェントなどとの)関係を破棄した2000年以降、さらにそのうえ、レコードレーベルのエラートが閉じられ、私は砂漠の中で独りぼっちだった。
それは決して簡単なことではなかったが、しかし私にとって非常に有益な時間だった。私は1人だった。そして、それにもかかわらず私は生き残った。

自分自身で完全に責任をとる、それと同時に成功する――われわれの業界の考え方では、この2つは両立しない。この種の自己主張は、ルール破りであり、まさに望ましくないとされているのだ。

幸いにも、この段階は終わった。私はいま、まさに自分自身だ。自分の人生でそうであるように、ステージの上においても私は自分自身だ。

危険がないわけではない。しかし良いアーティストであれば、美しく生き残ることができる。譲歩や妥協をしなくても。それは私がこの段階で学んだ最も重要な教訓だ。

幸いにも、スターダムはすぐ去りゆくもの。欠陥あるシステムに囲まれた空騒ぎだ。多くの才能がすぐ消耗する。信じられないほどの約束、素晴らしいオファーが、それは魅力的なものが押し寄せる。彼が最早それに抵抗できなくなるまで。

私の場合も何も違わなかった。ただ、私は同時に、それを理解し、そしてそれに抵抗した。私にとって、抵抗の段階は終わった。今では、私は自分自身のボスであり、自ら責任をとり、自分自身の保証人だ。「もし私が必要なら、私に電話を。そうすればあなたは問題なく良いプロフェッショナルなショーを得ることができる」――ということだ。

興味深いことに私への電話は、皆、同じことを言ってくる。「私たちはあなたが実際に、道を方向転換せずに、すべてを乗り超えて、生き残ってきたことを知っている。もう一度一緒に始めよう」と。



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90年代に華々しく登場しながら、2000年代初頭以降、マスコミ登場が減少したクーラ。それどころか、このインタビューではあっさりとしかいっていませんが、一時期は、「堕ちたスター」「声を失った」「傲慢」など、さまざまな誹謗中傷、新聞、雑誌を使ってのネガティブキャンペーンがあったそうです。クーラ自身が、「3年間悪夢を見た」「雇われたライターによる攻撃にさらされた」と語ったこともあります。
こうした困難を乗り越えて、自分自身のプロダクションCuibarを設立、レコード会社も自分で設立して、独立独歩で活動してきました。大手レーベルの販促キャンペーンとは無縁となりましたし、すべてのことを自分でやるのは、財政的にも精神的にもかなり負担が大きいと推察されます。しかし、つねにリスクをとり、挑戦する生き方、誰にも追随せず、自分の主人公として自らの芸術の道をすすむ姿には、潔さを感じます。

ホセ・クーラのモットーは、「今を楽しめ」。Tシャツのロゴ「Carpe Diem」は、ラテン語で「今を全力で生きろ」「今を楽しめ」などの意味。彼の口癖で、50歳の誕生日に子どもたちがプレゼントしたものとのこと。FBで紹介。


ホセ・クーラの魅力というと、その独特の声とドラマティックな表現に定評がありますが、私がとりわけひかれるのは、こうした彼の生き方です。
大劇場やマスコミ、大手レコード会社などにこびたり、遠慮することなく、自ら信じるアーティストとしての道を、自分の力で切り開いてきました。インタビューでもいつも率直で、フランクに自分の考えを述べます。平和のことや社会問題にも積極的に発言をしています。
もちろん批判を受けたり、大劇場からのオファーが激減することもあったようです。でもその困難な道を今日にいたるまで歩みつづけてきました。

やはり音楽産業、商業主義の世界で、大きな組織などの後ろ盾をもたず、しかもマスコミや大劇場にも媚びず、迎合せず、芸術的な面では言いたいことを言い、自らやりたいことをやるクーラのような存在は、ある意味、異色、異端であり、つねに批判にさらされ、クーラといえば「傲慢」というレッテルがついてまわっているように思います。でもインタビューなどを読んだり、直接彼と出会った人の印象によると、非常にフランクで、率直、ユーモアがあり、知的な人物であることがうかがえます。

苦渋の決断と困難を経て、自らの芸術的探求にもとづき、自立精神旺盛に、歌、指揮、演出・舞台デザイン、作曲・・と、多面的探求が、まだまだ続きます。
 → クーラの略歴についてはこちらを 「ホセ・クーラ 略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」

 
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ホセ・クーラ 音楽への道 The journey into music / Jose Cura

2016-04-03 | 芸術・人生・社会について①



ホセ・クーラは、音楽好きだがごく普通の家庭に生まれ、子どものころはラグビーに夢中だったそうです。12歳からギターを学び、指揮者・作曲家をめざしていた青年時代。そして彼を世界的なキャリアに導いたのは、テノール歌手としてでした。
クーラが、どんな風にして音楽への道を歩んでいったのか、いくつかのインタビューから抜粋してみました。





●音楽好きの両親のもとで
ホセ・クーラは、1962年12月5日、アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオで誕生しました。
 → 参考 年表風にまとめたものです 「ホセ・クーラ 略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」

母方の祖父母はイタリアとスペイン出身の移民、父方の祖父母はレバノン出身で、父方の祖父は、貧困の中で生まれましたが後に金属産業で成功し、ロサリオの社会に大きく貢献した人だそうです。

クーラの父は会計士、母は主婦。両親とも音楽好きで、シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ベートーベン、モーツァルト、ビリー・ホリデイやサラ・ヴォーンなど、全ての種類の音楽を聴いて育ちました。
毎晩、父とピアノの前に座り、父がホセにピアノを弾いてくれて、音楽を楽しんだそうです。母は、音楽にはポップとクラシックの区別などはなく、良い音楽と悪い音楽があるだけだということを教えてくれたとクーラは語っています。



●作曲、指揮を学ぶ
12歳の時に、最初の歌声とギターのレッスンを受け、15歳でロサリオの合唱コンサートで指揮者デビューしました。その頃、作曲を始めています。それは全く自発的に、自分自身で音楽を楽しむためだったそうです。

1982年にアルゼンチンの国立ロザリオ芸術大学で、指揮と作曲を本格的に学び始めました。大学の合唱団の副指揮者として、合唱指揮も続けました。
そんな時、学長から、歌唱の研究をするように奨励されたのだそうです。クーラが作曲家・指揮者志望であると知ったうえで、「歌を勉強すると、優れた作曲家と指揮者になるだろう」と。

20歳の頃のクーラの声は、まだ自然の状態で、とてもうるさかったそうです。最初の声楽の教師が、西部の娘やトゥーランドットなどの間違ったレパートリーを強制したために、声を痛めてしまいました。「歌がこんな苦しみなら、もう歌いたくない」と考えるまでに追いつめられました。



●転機~アマウリとの出会い
22歳の時に、15歳から付き合っているシルヴィアさんと結婚。指揮者・作曲家をめざしつつも、生活のために、午前中にボディービルのインストラクターとしてジムで働き、午後は食料品店で仕事。夕方はテアトロ・コロンのコーラスで活動して収入を得ていました。

25歳、学校や博物館で行われるローカルオペラグループの音楽監督に招かれました。ある公演でテナーがキャンセル、やむなく代理で「星は光りぬ」を歌います。それを聞いた声楽家が、彼の先生、オラシオ・アマウリをクーラに紹介しました。

オラシオ・アマウリは、クーラの声を聞き、「あなたのような声は30年か40年に1人しかいない」と言い、お金のないクーラに、無料でレッスンを与えることを申し出てくれたそうです。
その後2年間、ほぼ毎日、マエストロ・アマウリとともに歌唱技術の基礎を開発しました。

 

●ヨーロッパへ
オーディションなども受けたものの、アルゼンチンでは認められず、将来の希望を託して、1991年、ブエノスアイレスのアパートを売って渡航費にし、母方の祖先の地イタリアに渡ります。妻シルヴィアさん、そして長男ベンとともに。

イタリアで仕事を探していくつか事務所を回ったものの、誰からも評価を得られませんでした。渡欧後1月でお金は尽き、一度は故郷に戻る決意を固めます。
失意のなか、帰郷の準備中、テアトロ・コロンの教師からもらった連絡先のメモを見つけます。テノールのフェルナンド・バンデラ、最後にその電話番号にかけ、ミラノで会う約束をしました。ミラノの街に着いたのは4月で、雨が降っていたそうです。

バンデラはスタジオにクーラを招待し、クーラの歌を聞き、こう言ったそうです。「ブラボー、あなたは重要な声をしている」。アルゼンチンに帰国する予定だと言うと、「どこにも行ってはならない」といい、初めてのエージェントを紹介してくれました。そして彼は、ヴィットリオ・テラノバに電話をします。「ここに声がある」と。



●転機~テラノバとともに
当時のクーラの声は、まだ大きなノイズにすぎず、プロのスタイルではなかったそうです。テラノバは、故郷のアマウリと同じく、財政的に苦しいクーラに、無償のレッスンを与えてくれました。彼とともに現在のようなクーラの声を開発していきました。
「私の声はまだ開発が必要だった。歌の先生を紹介してくれた。ヴィットリオ・テラノバ――彼は1991年から1992年半ばまで、私に無料でレッスンしてくれた。私に力を与えてくれた本当に寛大な行為だった。」

2015年ミラノにて。スカラ座で「カルメン」に出演時。




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クーラにとって、偶然のアクシデントといえるテノールへの道。しかし彼の才能を見抜いた、多くの先達の無償の支援が、それを支えてくれたのでした。
テラノバとのレッスンによって、今にいたる強靭で独特の魅力のある声をつくったクーラ、その後、1993年にオペラの主要な役でデビュー、1994年にドミンゴ主宰のオペラリアで優勝し、世界的に活躍の場を広げていきました。
さらに近年、本来の志望である指揮、作曲の活動を再開し、多面的な音楽活動をすすめています。

歌手として、また本来の志望である作曲家、指揮者として、さらに演出家として、ホセ・クーラの音楽の道、芸術家としての道はまだまだ続きます。

最後に、クーラ自身が始めた動画サイト「Jose Cura TV」にアップされた1991年7月の動画を。
渡欧した年、ヨーロッパでの初めてのコンサートでの「誰も寝てはならぬ」です。テラノバとのレッスンを始めたばかりのころでしょうか。若々しい声、いろんな面でこれからの時を映した貴重な動画です。指揮はマルコ・アルミニアート。2人はこの頃からの友人なんですね。

→ 「Jose Cura TV」


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ホセ・クーラとマルセロ・アルバレス Jose Cura and Marcelo Alvarez

2016-04-01 | 同僚とともに


以前の投稿で、ホセ・クーラと同年生まれのディミトリー・ホロストフスキーとを並べて紹介しました。
→「ホセ・クーラとディミトリー・ホロストフスキー Jose Cura & Dmitri Hvorostovsky
今回は、やはり同年生まれで、クーラと同郷のアルゼンチン出身、同じテノールのマルセロ・アルバレスのことをみてみます。

テノールのクーラとアルバレスは、ともにアルゼンチン出身です。そして同じ1962年生まれ。
マルセロ・アルバレスは2月にコルドバで、クーラは12月にロサリオに生まれました。20代の下積み時代に、2人はテアトロ・コロンのコーラスで一緒に活動して以来の友人だそうです。

2人の10代、青年期、アルゼンチンは軍事政権下で、1982年にはアルゼンチンとイギリスとの間で、フォークランド戦争が勃発しました。徴兵でクーラは待機中の予備軍にいたそうです。友人も出兵し、後にクーラは「私は戦争が短かったことを神に感謝した」と回想しています。戦争の犠牲者を追悼するレクイエムを作曲したクーラ。平和と自由への思いはこの時代からいっかんしたものなのでしょう。
→「ホセ・クーラ 平和への思い、公正な社会への発言

軍政終了後も経済が崩壊し、2人の前途は困難でした。大学で作曲と指揮を専攻し、作曲家・指揮者が志望だったクーラは、スポーツクラブのインストラクターや街頭で歌ったりして生計をたてながら、音楽の道を探っていました。アルバレスは子どもの頃から音楽を学んでいましたが、大学では経済学を学び、家業の家具工場で働いていたそうです。

  

クーラは1991年にイタリアに渡り、テノールとして国際的な活動を開始します。一方、アルバレスも、30歳の時に歌手になるために歌唱を学び始め、95年にイタリアへ。それぞれ欧州で活躍しはじめます。

若い頃は、2人ともハンサムでしたね(笑)
 

2人の故郷への思いはつよく、それぞれアルゼンチン音楽のアルバムを発表しています。クーラ「アネーロ」と「ボレロ」、アルバレスの「わが懐かしのブエノスアイレス」。

 

2人一緒にインタビューを受けたこともあります。2人はともにアルゼンチン人であり、アーティストとして、故郷アルゼンチンの音楽と結び付けて一緒に何かしようとプランを練ったこともあったそうです。残念ながら、所属レコード会社の関係などもあったようで、実現はしていません。

リリックな声と端正な歌唱のアルバレス、一方、太く強い声とドラマティックな表現のクーラ。それぞれの個性、味わいは大きく異っています。でも、今、ともに円熟期を迎え、最近では、同じ役柄を歌うことも増えています。

ヴェルディのイル・トロヴァトーレのマンリーコ役は、クーラが2001年マドリッド、02年にロンドン・ロイヤルオペラで歌いましたが、同じプロダクションで少し後に、アルバレスもマンリーコを歌っています。

 

Youtubeにアップされている動画から、第3幕のクライマックス、「ああ愛しい人よ」から「見よ、燃え盛る炎を」の場面で。
まずはクーラ。
Ah, si ben mio... Di quella pira - Jose Cura (Il trovatore)


アルバレスの方は、2つに動画が分れています。
Marcelo Alvarez "Ah si, ben mio" Il Trovatore


Marcelo Alvarez "Di quella pira" Il Trovatore


やはりそれぞれ個性が違っておもしろいですね。
また、2人はともにメトロポリタンオペラ(MET)で、道化師とカヴァレリア・ルスティカーナの二本立てを歌っています。クーラはゼフィレッリの演出で2009年、アルバレスは2015年の新演出です。



クーラの「衣装をつけろ」
Jose Cura 2009 "Recitar! ... Vesti la Giubba" Pagliacci


アルバレスの「衣装をつけろ」
Marcelo Alvarez - Vesti la giubba - Pagliacci


これもだいぶ違いますね。軽めの声とメロディラインが美しいアルバレス、一方、劇的な表現で迫力あるクーラ。それぞれの個性が発揮され、聞く人の好みもそれぞれだと思います。

もともと重めの役をやってきたクーラのあとを追うように、役柄をひろげているアルバレス。一方のクーラは、指揮や演出のキャリアをひろげつつあり、2015年7月には故郷テアトロ・コロンで、自ら演出した道化師・カヴァレリアルスティカーナを上演しました。(クーラはカニオのみ出演)

50代の円熟期を迎えた2人、これからもそれぞれの道を歩み、それぞれの活動が楽しみです。





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