どうもこんばんは~。そうだいですだすまんねん。
いやぁ、今日は私、日曜日にふさわしいまる一日の休みだったんですけどねぇ。
イエ~イ、なんにも遊ぶ気がしねぇぜ~い。ずっと家でのべ~んとしてたぜぇ。
やっぱり、基本的に蒸し暑いっていうのは、体力を知らず知らずのうちに消耗してるんでしょうかねぇ? なんかダルいんだよなぁ。ま、休みだから休みますけど。
なんだかわかんないですけど、最近いきなり「かわきもの」にハマってしまっているのも塩分不足のためなのか!? 酒なんか一滴も飲まないのに、やたらと肴はあぶったイカでいいモードなんですよ。
どうでもいいんですけどスーパーをうろついてて知ったんですが、近ごろの「よっちゃんイカ」って、なにあれ、白いの? 赤く着色されてなくて真っ白のまんまの「よっちゃんイカ しろ」っていうのがあんのね。
着色料を使ってないっていうのはいいことなのかもしれませんけど、なんかよっちゃんイカが白いっていうのは、私個人はちょっとピンとこないなぁ。あれはやっぱり赤くないと。みなさんも、シン=マツナガ専用とシャア=アズナブル専用がならんでたら、どっちかっつうとシャア専用の「うすい朱色」のほうがいいですよね? そうそう、よっちゃんイカの「赤」って、まさにシャアの「赤」で、ジョニー=ライデンの赤じゃないのよねぇ。あっ、「三杯酢」使用だし。うわ~、もう誰かとっくの昔に気づいてそう!
さらにどうでもいいんですけど、よっちゃんイカを世に出している大企業「よっちゃん食品工業」って、山梨県の中央市にあるんですね。海辺じゃねぇんだ……
ところで、山梨県の「中央市」って……ねぇ。
別に悪く言うつもりはないですけど、そんなにセンターにこだわんなくてもいいんじゃないですか?
「集英高校」とか「講談組」じゃないんですからね。もうちょっと、他のアピールポイントを押してもよかったのでは? 完全無欠の余計なお世話でした。
さてさて、今日も今日とて「ざっくりすぎるアイドルグループ史」でございます。今回は、前回にズラズラッとならべたモーニング娘。まわりの2001~02年に起きたいろんな出来事についてのざっくりした考察をば。
1999年のごっちん加入と『LOVEマシーン』以来、じょじょにその体質を変容させていき、2000年の辻ちゃん加護ちゃんら個性のやたら強い第4期メンバー4名の加入と出す曲出す曲の大ヒットによって「ひとり勝ち時代」を築きあげたモーニング娘。だったのですが、それに続く2001年もまた、その勢いを衰えさせることなく進めつつも、さらなる変革を求めていくアグレッシヴな年となりました。
2001年に起きたことで忘れてならないのは、まずはなんと言っても結成メンバーの中核にして栄光の前期をささえた初代リーダー中澤裕子(27歳)の卒業と第5期メンバー4名の加入ですね。
中澤さんの偉業のほどは、モーニング娘。という存在の隅から隅までにその影響を与えているその「まとめっぷり」が第一に挙げられるかと思います。年齢が自分の半分くらいしかない子といっしょに仕事をするって、これ以上のプロ修行があるでしょうか。おたがいにとってね。
モーニング娘。史上初のソロ活動を担当したのも中澤さんだったのですが、ソロ1st『カラスの女房』を聴いてみてもわかるとおり、その歌声は思いのほか正統派で繊細。それこそごっちん加入前の「コーラス重視」のモーニング娘。に最適な人材ではあったのですが、その後のモーニング娘。独自の「ディスコ・ザ・つんく♂」の繰り広げるハチャメチャ路線の中では影が薄くなりがちなところもありました。ダンスもなかなかしんどそうだったし。
そんな中でついに発表されたリーダーの勇退だったのですが、今回の卒業は、以前に卒業した誰よりも「卒業っぽくなく、かつ卒業らしい」卒業だったのです。なにこの日本語。
中澤さんは4月に卒業した後ただちに、今度はモーニング娘。を含めた「ハロー!プロジェクト」全体の初代リーダーに就任しており(ハロプロ初代サブリーダーは元・太陽とシスコムーンの稲葉貴子)、以前にモーニング娘。を卒業した3名とちがってモーニング娘。とはその後もさまざまな番組やイベントで共演することがしょっちゅうでした。このブログを読んでいるみなさんの中には、あるいは現役時代よりもこの卒業後の「司会の中澤さん」のほうが記憶に色濃いという方も多いのかもしれません。
つまり、中澤さんの卒業は他のメンバーにとっても多くのファンにとっても、それまでにあったような別れの哀しみや実感は比較的わかない「卒業っぽくない」ものだったのですが、それだけに「脱退じゃなくて、卒業。」というハロプロオリジナルの解釈をはじめて強く物語るものとなったのです。
それまでのメンバーの卒業は、そのまま(一時的にせよ)その人の芸能活動の停止を意味しており、その点では「脱退」と言い換えてもなんの問題もないもので、実際に「卒業」と「脱退」のどちらを使ってもいいような状況が続いていたのですが、中澤さんのハロプロ内での活動継続という選択によって、「モーニング娘。の卒業」は普通のニュアンスでいう「脱退」とはまったく色合いの異なるものとなったのです。ここにまず、モーニング娘。独自の、他のアイドルグループにはまったく見られなかった「卒業システム」が誕生しました。前提としてここに必要なのは、卒業したメンバーの新たな活躍の場となる「ハロー!プロジェクト」というもうひとまわり大きな場ですね。スケールがでかいなぁ!
そして、2001年には「卒業」と同時にモーニング娘。にとってもうひとつ重要なシステムが転機を迎えました。出るものがあったら入るものもなくてはならない。「追加加入」システムですね。
こちらは、オーディションの結果が発表される番組が古巣の『ASAYAN』でなくモーニング娘。メインの特別番組やレギュラー番組になったという変化はありましたが、一般公募するというシステム自体は1998年の『(第1回)追加メンバーオーディション』からほぼ変わっていません。
私が言いたい、追加加入にかんする2001年の変化というのはむしろ外側から見たアピールの仕方の点でして、この年に加入した「福井の革命児」こと高橋愛をふくめた4名のメンバーから、積極的に「第~期」という呼称が頻繁に使われるようになったことです。
たとえば、この時期のモーニング娘。はメンバー全員の写真集を順ぐりに出版していく「第1次モーニング娘。ソロ写真集シリーズ」(ワニブックス社)というプロジェクトを組んでおり、その最後に位置するものとして2002年の8月に出版された第5期メンバー全員がモデルとなった写真集のタイトルはまんま『5』です。
「『5』!? 4人しか写ってないのに『5』!? 俺に見えないもう1人がいるのか? ああ、撮ってるカメラマンもあわせて『5』ってことなのか。」
という壮烈な勘違いをした人は……いませんよね。
ま、とにかくこの時期からモーニング娘。の中で「第~期加入メンバー」という言葉が一般化していき、それが世間にも広まっていったわけなのですな。これはつまり、「モーニング娘。は定期的に新しいメンバーが加入していくアイドルグループなのね。」という認識が定着されていったということになります。
「卒業」と「加入」があって当たり前のグループということはつまり、誰がメンバーになっても、あるいは誰がメンバーでなくなっても「モーニング娘。」という名前に影響はないということになります。これってつまりは……永遠。
奇しくも、モーニング娘。はこの黄金期に当たる2001年の10月に男装歌劇をイメージした13thシングル『Mr.Moonlight 愛のビッグバンド』をリリースしており、そのつながりであの宝塚歌劇団との共演を果たしています。なるほど……モーニング娘。もゆくゆくはそっちらへんのエターニティをもった名前にしていきたい、という考えもあった上での、あのよっすぃ~の男装だったというのか。
2001~02年のモーニング娘。は、楽曲でいうと初めてリリースした中澤リーダー時代を網羅したベストアルバム『ベスト!モーニング娘。1』で自身最高の226万枚の売り上げを記録しています。女性アイドルグループでは最高のアルバムセールスとなったSPEEDのベスト盤『MOMENT』には、惜しくもあと5万枚とどかなかった! ま、どっちにしろ今から見ると夢のような数字なんですけど。でも、楽曲アルバム全体での最高記録となった宇多田ヒカルさんの1stアルバムは860万枚だっていうんだぜ!? どんだけ~。
中澤時代に一区切りをうったモーニング娘。は、ごっちん在籍時代に12~15thシングルをリリースし、2002年最後のシングルとなる10月リリースの16thシングル『ここにいるぜぇ!』では、ごっちんという強力なエースの去ったあともモー娘。健在なりというパワフルな12名の勇姿を見せてくれています。さすがにミリオンというわけにはいかなかったのですが、引き続きこの時代のモーニング娘。も、「黄金期」と言ってさしつかえのない楽曲世界を展開していました。
とにかく「10名以上いる」という声のぶあつさに、モーニング娘。ならではのアイドルグループらしからぬ迫力があっていいのですが、個性のガッチリついてきた1~4期の面々がほんとにバラエティ豊かで楽しいです。さすがに第5期はまだ見習い中といったところなのですが、高橋さんをはじめとして基礎はしっかりしています。
ただ、だんだんとつんく♂ワールドが複雑になっていく傾向に入り、単純で口ずさみやすかった中澤時代にくらべておぼえにくい作品が続いた、ということはあったかしら。もちろんテンションの上がるダンスチューンもしっとり唄うバラードも変わらずツボをおさえてはいるのですが、まさに「集団戦法」といった感じで、悪く言うと「曲も歌い手もみんなが目立ちすぎてかえってみんなの印象がなくなる」という飽和状態に入っていたかと。歌ってむずかしいですね~!
実際にごっちん最後のモーニング娘。時代の楽曲となるヒップホップを導入した15th『Do it Now!』では久しぶりにオリコン順位トップをのがしているのですが(次作『ここにいるぜぇ!』では再びトップに返り咲いている)、こういったことがあると「かれこれ3~4年続いたモーニング娘。の天下も、そろそろ……?」という空気が流れてしまうものです。
しかし、ここで機能してくるのが、モーニング娘。ならではのバックアップシステム「ハロー!プロジェクト」なんですねぇ!
要するに、モーニング娘。以外のハロプロ内アーティストを伸ばすことによって、それとの競合でモーニング娘。の人気とクオリティを維持し、最終的にはハロプロ全体のレベルを上げていくというシステムですね。
こう言うと、大ブレイクしたアイドルグループの「妹分」アーティストをいっしょに売り出すというそれまでの他の芸能事務所のやり方といっしょですし、実のところ2000年までの時点でのハロプロも、モーニング娘。だけへの人気の一極集中におちいっている状態になっていたのです。
ところが、2001年に歌手デビューしたあるハロプロ所属のソロアイドルのブレイクによって、状況は一変します。運命の神はハロプロにほほえんだ!
はい~、言うまでもなく、あやや!! 松浦亜弥さんの登場でございますなぁ。
前年2000年に開催された「第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」に優勝した松浦さんは約半年の準備期間をおいて2001年4月に1stシングル『ドッキドキ!LOVEメール』でデビューするのですが、携帯電話のメールのやりとりにおける恋愛の多幸感+ちょっぴり不安を見事に堂々と唄いきったその姿は実に鮮烈で、モーニング娘。の狂騒ともとれるにぎやかさについていけなかった人にもやさしいその単純明快さは大いにウケました。同じつんく♂さんのプロデュースなんですが、あややのほうが日常生活の描写でつづる歌詞が多くてわかりやすいのね。この時期のモーニング娘。は「愛」とか「平和」とか、ちょっと話がでかすぎかと。
松浦さんのブレイク時期はだいたい2005年まで続くのですが、10代とは思えない肝の据わったパフォーマンスと歌唱力はまさに「THE アイドル」といった感じで、モーニング娘。以外としてはハロプロ初のビッグアーティストの登場となりました。
でも、今回調べてみて気づいたんですけど、松浦さんって、シングルもアルバムもすべてあわせて、オリコンチャートで1位を獲得した経験がないのね(2011年6月時点)……心の底から意外でした。
それでも、私は松浦さんにたいする「ソロとしては今のところ日本最後の国民的アイドル歌手」というイメージがものすごく強力にあるんですよね。
「スターは記録じゃない」ってことなんですねぇ。ものまねもめちゃくちゃされてたし。主に男にだけど。
このモーニング娘。との両輪体制となった「ハロプロソロアイドル路線」はあやや以降も続いていき、あややデビューの翌2002年には「スケートをしないほうのミキティ」こと藤本美貴も歌手デビューしているのですが、こののちミキティはあややよりももっと直接的な方法でモーニング娘。にかかわっていくこととなります。その手があったか。
まぁこんなわけでして、いかに永久機関を目指すといえどもモーニング娘。の人気だけではそのシステムの生命線となる「追加加入オーディション」の求心力を維持することには不安があり、そのためにはあややのようにハロプロをささえてくれる第2第3の人気アーティストが不可欠だったわけなのです。
そう考えてみると、この2001~02年から本格的に始まった「辻ちゃん加護ちゃん」のかわいい路線や子供向けレギュラー番組『ティンティンTOWN!』の開始など、一見「幼稚になった」ともとられたモーニング娘。の小学生向け戦略も、実はのちのちハロプロの直接の戦力になってくれるアイドルの卵を育てるという、十二分に重要な意義のある仕事だったわけだったのですな。
実際にさっそく2001年に加入した第5期メンバーは13~15歳という低年齢でしたし、おかげで第5期の4名が加入した時期のモーニング娘。は平均年齢15歳という状況になりました。
また、2002年6月に結成された小学生グループ「ハロー!プロジェクト・キッズ」も、ハロプロ研修生といった役割でのちに「Berryz工房」や「℃-ute」というアイドルグループに成長していますし、このころのハロプロは常に将来の展開までを視野に入れた活動をおこなっていたと見ていいでしょう。
そして、その流れの一環として起こったのが2002年の7月末日に発表された「第1次ハローマゲドン」(これは通称で、発表したアップフロントエージェンシー自身がそう呼んでいたわけではない)だったわけなのですが、エースごっちんとサブリーダー保田の卒業にまだまだ活躍できる余地のあったタンポポやプッチモニの大幅な人員整理と、これはずいぶんと唐突で強引な改革であるように見えました。
だいたいはごっちんのソロ活動だったりタンポポやプッチモニにココナッツ娘。やメロン記念日のメンバーが加入するという、いわば2000年から始めて好評を博しているシャッフルユニット企画のような、モーニング娘。の大人気をハロプロ全体に分散させる戦略の拡大版だったわけなのですが(「チャーミー」こと石川さんのカントリー娘。テコ入れ作戦もまさにそう)、結局はごっちんの卒業後最初の本格的な活動が「ごまっとう」だったためにソロ歌手としてのインパクトが欠けてしまったり、保田さんの主な卒業理由が扁桃炎の悪化だったことを公表しなかったために無用な憶測を呼んでしまったりして、どうにもよくない印象の残る改革となってしまいました。
あと、それぞれ第3期メンバーに改編されたタンポポとプッチモニが以前ほど目立った活動をせずに自然消滅に向かっていったのも、なんとなくそれまでのモーニング娘。やハロプロの流れにいったんのピリオドをうつものとなったことは間違いありません。
平家さんも、ひっそりとハロプロを去っていきましたしね……いろいろと大変だったろうのう。
こんなわけで、依然として続くモーニング娘。の黄金期にのって、ハロプロ全体の世代交代と「モーニング娘。」というアイドルグループの永久機関化をくわだてるアップフロントエージェンシー。
このあとはいったいどんな変革の路をたどっていくのでありましょうか? 以下次回!
あやや、カムバ~ック。
いやぁ、今日は私、日曜日にふさわしいまる一日の休みだったんですけどねぇ。
イエ~イ、なんにも遊ぶ気がしねぇぜ~い。ずっと家でのべ~んとしてたぜぇ。
やっぱり、基本的に蒸し暑いっていうのは、体力を知らず知らずのうちに消耗してるんでしょうかねぇ? なんかダルいんだよなぁ。ま、休みだから休みますけど。
なんだかわかんないですけど、最近いきなり「かわきもの」にハマってしまっているのも塩分不足のためなのか!? 酒なんか一滴も飲まないのに、やたらと肴はあぶったイカでいいモードなんですよ。
どうでもいいんですけどスーパーをうろついてて知ったんですが、近ごろの「よっちゃんイカ」って、なにあれ、白いの? 赤く着色されてなくて真っ白のまんまの「よっちゃんイカ しろ」っていうのがあんのね。
着色料を使ってないっていうのはいいことなのかもしれませんけど、なんかよっちゃんイカが白いっていうのは、私個人はちょっとピンとこないなぁ。あれはやっぱり赤くないと。みなさんも、シン=マツナガ専用とシャア=アズナブル専用がならんでたら、どっちかっつうとシャア専用の「うすい朱色」のほうがいいですよね? そうそう、よっちゃんイカの「赤」って、まさにシャアの「赤」で、ジョニー=ライデンの赤じゃないのよねぇ。あっ、「三杯酢」使用だし。うわ~、もう誰かとっくの昔に気づいてそう!
さらにどうでもいいんですけど、よっちゃんイカを世に出している大企業「よっちゃん食品工業」って、山梨県の中央市にあるんですね。海辺じゃねぇんだ……
ところで、山梨県の「中央市」って……ねぇ。
別に悪く言うつもりはないですけど、そんなにセンターにこだわんなくてもいいんじゃないですか?
「集英高校」とか「講談組」じゃないんですからね。もうちょっと、他のアピールポイントを押してもよかったのでは? 完全無欠の余計なお世話でした。
さてさて、今日も今日とて「ざっくりすぎるアイドルグループ史」でございます。今回は、前回にズラズラッとならべたモーニング娘。まわりの2001~02年に起きたいろんな出来事についてのざっくりした考察をば。
1999年のごっちん加入と『LOVEマシーン』以来、じょじょにその体質を変容させていき、2000年の辻ちゃん加護ちゃんら個性のやたら強い第4期メンバー4名の加入と出す曲出す曲の大ヒットによって「ひとり勝ち時代」を築きあげたモーニング娘。だったのですが、それに続く2001年もまた、その勢いを衰えさせることなく進めつつも、さらなる変革を求めていくアグレッシヴな年となりました。
2001年に起きたことで忘れてならないのは、まずはなんと言っても結成メンバーの中核にして栄光の前期をささえた初代リーダー中澤裕子(27歳)の卒業と第5期メンバー4名の加入ですね。
中澤さんの偉業のほどは、モーニング娘。という存在の隅から隅までにその影響を与えているその「まとめっぷり」が第一に挙げられるかと思います。年齢が自分の半分くらいしかない子といっしょに仕事をするって、これ以上のプロ修行があるでしょうか。おたがいにとってね。
モーニング娘。史上初のソロ活動を担当したのも中澤さんだったのですが、ソロ1st『カラスの女房』を聴いてみてもわかるとおり、その歌声は思いのほか正統派で繊細。それこそごっちん加入前の「コーラス重視」のモーニング娘。に最適な人材ではあったのですが、その後のモーニング娘。独自の「ディスコ・ザ・つんく♂」の繰り広げるハチャメチャ路線の中では影が薄くなりがちなところもありました。ダンスもなかなかしんどそうだったし。
そんな中でついに発表されたリーダーの勇退だったのですが、今回の卒業は、以前に卒業した誰よりも「卒業っぽくなく、かつ卒業らしい」卒業だったのです。なにこの日本語。
中澤さんは4月に卒業した後ただちに、今度はモーニング娘。を含めた「ハロー!プロジェクト」全体の初代リーダーに就任しており(ハロプロ初代サブリーダーは元・太陽とシスコムーンの稲葉貴子)、以前にモーニング娘。を卒業した3名とちがってモーニング娘。とはその後もさまざまな番組やイベントで共演することがしょっちゅうでした。このブログを読んでいるみなさんの中には、あるいは現役時代よりもこの卒業後の「司会の中澤さん」のほうが記憶に色濃いという方も多いのかもしれません。
つまり、中澤さんの卒業は他のメンバーにとっても多くのファンにとっても、それまでにあったような別れの哀しみや実感は比較的わかない「卒業っぽくない」ものだったのですが、それだけに「脱退じゃなくて、卒業。」というハロプロオリジナルの解釈をはじめて強く物語るものとなったのです。
それまでのメンバーの卒業は、そのまま(一時的にせよ)その人の芸能活動の停止を意味しており、その点では「脱退」と言い換えてもなんの問題もないもので、実際に「卒業」と「脱退」のどちらを使ってもいいような状況が続いていたのですが、中澤さんのハロプロ内での活動継続という選択によって、「モーニング娘。の卒業」は普通のニュアンスでいう「脱退」とはまったく色合いの異なるものとなったのです。ここにまず、モーニング娘。独自の、他のアイドルグループにはまったく見られなかった「卒業システム」が誕生しました。前提としてここに必要なのは、卒業したメンバーの新たな活躍の場となる「ハロー!プロジェクト」というもうひとまわり大きな場ですね。スケールがでかいなぁ!
そして、2001年には「卒業」と同時にモーニング娘。にとってもうひとつ重要なシステムが転機を迎えました。出るものがあったら入るものもなくてはならない。「追加加入」システムですね。
こちらは、オーディションの結果が発表される番組が古巣の『ASAYAN』でなくモーニング娘。メインの特別番組やレギュラー番組になったという変化はありましたが、一般公募するというシステム自体は1998年の『(第1回)追加メンバーオーディション』からほぼ変わっていません。
私が言いたい、追加加入にかんする2001年の変化というのはむしろ外側から見たアピールの仕方の点でして、この年に加入した「福井の革命児」こと高橋愛をふくめた4名のメンバーから、積極的に「第~期」という呼称が頻繁に使われるようになったことです。
たとえば、この時期のモーニング娘。はメンバー全員の写真集を順ぐりに出版していく「第1次モーニング娘。ソロ写真集シリーズ」(ワニブックス社)というプロジェクトを組んでおり、その最後に位置するものとして2002年の8月に出版された第5期メンバー全員がモデルとなった写真集のタイトルはまんま『5』です。
「『5』!? 4人しか写ってないのに『5』!? 俺に見えないもう1人がいるのか? ああ、撮ってるカメラマンもあわせて『5』ってことなのか。」
という壮烈な勘違いをした人は……いませんよね。
ま、とにかくこの時期からモーニング娘。の中で「第~期加入メンバー」という言葉が一般化していき、それが世間にも広まっていったわけなのですな。これはつまり、「モーニング娘。は定期的に新しいメンバーが加入していくアイドルグループなのね。」という認識が定着されていったということになります。
「卒業」と「加入」があって当たり前のグループということはつまり、誰がメンバーになっても、あるいは誰がメンバーでなくなっても「モーニング娘。」という名前に影響はないということになります。これってつまりは……永遠。
奇しくも、モーニング娘。はこの黄金期に当たる2001年の10月に男装歌劇をイメージした13thシングル『Mr.Moonlight 愛のビッグバンド』をリリースしており、そのつながりであの宝塚歌劇団との共演を果たしています。なるほど……モーニング娘。もゆくゆくはそっちらへんのエターニティをもった名前にしていきたい、という考えもあった上での、あのよっすぃ~の男装だったというのか。
2001~02年のモーニング娘。は、楽曲でいうと初めてリリースした中澤リーダー時代を網羅したベストアルバム『ベスト!モーニング娘。1』で自身最高の226万枚の売り上げを記録しています。女性アイドルグループでは最高のアルバムセールスとなったSPEEDのベスト盤『MOMENT』には、惜しくもあと5万枚とどかなかった! ま、どっちにしろ今から見ると夢のような数字なんですけど。でも、楽曲アルバム全体での最高記録となった宇多田ヒカルさんの1stアルバムは860万枚だっていうんだぜ!? どんだけ~。
中澤時代に一区切りをうったモーニング娘。は、ごっちん在籍時代に12~15thシングルをリリースし、2002年最後のシングルとなる10月リリースの16thシングル『ここにいるぜぇ!』では、ごっちんという強力なエースの去ったあともモー娘。健在なりというパワフルな12名の勇姿を見せてくれています。さすがにミリオンというわけにはいかなかったのですが、引き続きこの時代のモーニング娘。も、「黄金期」と言ってさしつかえのない楽曲世界を展開していました。
とにかく「10名以上いる」という声のぶあつさに、モーニング娘。ならではのアイドルグループらしからぬ迫力があっていいのですが、個性のガッチリついてきた1~4期の面々がほんとにバラエティ豊かで楽しいです。さすがに第5期はまだ見習い中といったところなのですが、高橋さんをはじめとして基礎はしっかりしています。
ただ、だんだんとつんく♂ワールドが複雑になっていく傾向に入り、単純で口ずさみやすかった中澤時代にくらべておぼえにくい作品が続いた、ということはあったかしら。もちろんテンションの上がるダンスチューンもしっとり唄うバラードも変わらずツボをおさえてはいるのですが、まさに「集団戦法」といった感じで、悪く言うと「曲も歌い手もみんなが目立ちすぎてかえってみんなの印象がなくなる」という飽和状態に入っていたかと。歌ってむずかしいですね~!
実際にごっちん最後のモーニング娘。時代の楽曲となるヒップホップを導入した15th『Do it Now!』では久しぶりにオリコン順位トップをのがしているのですが(次作『ここにいるぜぇ!』では再びトップに返り咲いている)、こういったことがあると「かれこれ3~4年続いたモーニング娘。の天下も、そろそろ……?」という空気が流れてしまうものです。
しかし、ここで機能してくるのが、モーニング娘。ならではのバックアップシステム「ハロー!プロジェクト」なんですねぇ!
要するに、モーニング娘。以外のハロプロ内アーティストを伸ばすことによって、それとの競合でモーニング娘。の人気とクオリティを維持し、最終的にはハロプロ全体のレベルを上げていくというシステムですね。
こう言うと、大ブレイクしたアイドルグループの「妹分」アーティストをいっしょに売り出すというそれまでの他の芸能事務所のやり方といっしょですし、実のところ2000年までの時点でのハロプロも、モーニング娘。だけへの人気の一極集中におちいっている状態になっていたのです。
ところが、2001年に歌手デビューしたあるハロプロ所属のソロアイドルのブレイクによって、状況は一変します。運命の神はハロプロにほほえんだ!
はい~、言うまでもなく、あやや!! 松浦亜弥さんの登場でございますなぁ。
前年2000年に開催された「第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」に優勝した松浦さんは約半年の準備期間をおいて2001年4月に1stシングル『ドッキドキ!LOVEメール』でデビューするのですが、携帯電話のメールのやりとりにおける恋愛の多幸感+ちょっぴり不安を見事に堂々と唄いきったその姿は実に鮮烈で、モーニング娘。の狂騒ともとれるにぎやかさについていけなかった人にもやさしいその単純明快さは大いにウケました。同じつんく♂さんのプロデュースなんですが、あややのほうが日常生活の描写でつづる歌詞が多くてわかりやすいのね。この時期のモーニング娘。は「愛」とか「平和」とか、ちょっと話がでかすぎかと。
松浦さんのブレイク時期はだいたい2005年まで続くのですが、10代とは思えない肝の据わったパフォーマンスと歌唱力はまさに「THE アイドル」といった感じで、モーニング娘。以外としてはハロプロ初のビッグアーティストの登場となりました。
でも、今回調べてみて気づいたんですけど、松浦さんって、シングルもアルバムもすべてあわせて、オリコンチャートで1位を獲得した経験がないのね(2011年6月時点)……心の底から意外でした。
それでも、私は松浦さんにたいする「ソロとしては今のところ日本最後の国民的アイドル歌手」というイメージがものすごく強力にあるんですよね。
「スターは記録じゃない」ってことなんですねぇ。ものまねもめちゃくちゃされてたし。主に男にだけど。
このモーニング娘。との両輪体制となった「ハロプロソロアイドル路線」はあやや以降も続いていき、あややデビューの翌2002年には「スケートをしないほうのミキティ」こと藤本美貴も歌手デビューしているのですが、こののちミキティはあややよりももっと直接的な方法でモーニング娘。にかかわっていくこととなります。その手があったか。
まぁこんなわけでして、いかに永久機関を目指すといえどもモーニング娘。の人気だけではそのシステムの生命線となる「追加加入オーディション」の求心力を維持することには不安があり、そのためにはあややのようにハロプロをささえてくれる第2第3の人気アーティストが不可欠だったわけなのです。
そう考えてみると、この2001~02年から本格的に始まった「辻ちゃん加護ちゃん」のかわいい路線や子供向けレギュラー番組『ティンティンTOWN!』の開始など、一見「幼稚になった」ともとられたモーニング娘。の小学生向け戦略も、実はのちのちハロプロの直接の戦力になってくれるアイドルの卵を育てるという、十二分に重要な意義のある仕事だったわけだったのですな。
実際にさっそく2001年に加入した第5期メンバーは13~15歳という低年齢でしたし、おかげで第5期の4名が加入した時期のモーニング娘。は平均年齢15歳という状況になりました。
また、2002年6月に結成された小学生グループ「ハロー!プロジェクト・キッズ」も、ハロプロ研修生といった役割でのちに「Berryz工房」や「℃-ute」というアイドルグループに成長していますし、このころのハロプロは常に将来の展開までを視野に入れた活動をおこなっていたと見ていいでしょう。
そして、その流れの一環として起こったのが2002年の7月末日に発表された「第1次ハローマゲドン」(これは通称で、発表したアップフロントエージェンシー自身がそう呼んでいたわけではない)だったわけなのですが、エースごっちんとサブリーダー保田の卒業にまだまだ活躍できる余地のあったタンポポやプッチモニの大幅な人員整理と、これはずいぶんと唐突で強引な改革であるように見えました。
だいたいはごっちんのソロ活動だったりタンポポやプッチモニにココナッツ娘。やメロン記念日のメンバーが加入するという、いわば2000年から始めて好評を博しているシャッフルユニット企画のような、モーニング娘。の大人気をハロプロ全体に分散させる戦略の拡大版だったわけなのですが(「チャーミー」こと石川さんのカントリー娘。テコ入れ作戦もまさにそう)、結局はごっちんの卒業後最初の本格的な活動が「ごまっとう」だったためにソロ歌手としてのインパクトが欠けてしまったり、保田さんの主な卒業理由が扁桃炎の悪化だったことを公表しなかったために無用な憶測を呼んでしまったりして、どうにもよくない印象の残る改革となってしまいました。
あと、それぞれ第3期メンバーに改編されたタンポポとプッチモニが以前ほど目立った活動をせずに自然消滅に向かっていったのも、なんとなくそれまでのモーニング娘。やハロプロの流れにいったんのピリオドをうつものとなったことは間違いありません。
平家さんも、ひっそりとハロプロを去っていきましたしね……いろいろと大変だったろうのう。
こんなわけで、依然として続くモーニング娘。の黄金期にのって、ハロプロ全体の世代交代と「モーニング娘。」というアイドルグループの永久機関化をくわだてるアップフロントエージェンシー。
このあとはいったいどんな変革の路をたどっていくのでありましょうか? 以下次回!
あやや、カムバ~ック。