長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第34回 『蠢動!AKB48 2006~07』

2011年07月16日 23時58分31秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ど~もこんばんはー。そうだいです。みなさん、楽しく夏をお過ごしでしょうか? あたしゃもう、家が暑くて暑くてしんどうございます。労働意欲がさほどあるわけでもないのに、節電しつつも一応はクーラーのきいてある仕事場が恋しくなる季節ですなぁ。
 うちの昭和型扇風機はまさにフル回転の状態です。これがもし壊れたら、それはすぐさま私の死そのものを意味します。運命共同体っていうやつですね。頼んだぜ相棒、「サンヨー ダイナミック・ウインズ」!!

 なんかね~、ここ数日ず~っと毎日のように「アジの南蛮漬け」を食べてるんですよ。やっぱ夏バテなのかなぁ、アジの南蛮漬けしか食べる気がしねぇよ~。
 魚ブームがなかなか去らないんですねぇ。そこに来て最近の「汚染牛肉」問題ですからねぇ。
 自主退避区域が8月に縮小されるとか、じょじょにいいニュースも届くようになっているんですけど、やっぱり、3月の影響を色濃く残したまま夏はやって来ましたねェ。
 まぁ「魚肉は大丈夫だ!」ということもなかなか言い切れないところはあるんですが、もうオッサンになって重いものもしょっちゅう食べられなくなってきたので、もうしばらくは魚でいきたいですね~。
 さかなさかなさかな~ですよ。今も、うるめいわしの煮干しをかじりながら画面に向かっております。水と酢と塩と愛があれば生きてけるだろ。いえ~。


 そんじゃまぁー今回もこんな感じでね、さっそく「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きにはいっていきたいと思います。
 いよいよ! いよいよAKB48に本格的にふれていく時がやってまいりましたよ~。もうシリーズも34回かい。そろそろゴールも見えてきたかナ?

 今回は、2005年の後半に結成されて東京・秋葉原の専用のAKB48劇場(「劇場」は「シアター」と読みます)での毎日の精力的なライヴ公演を始めていくこととなったAKB48、その後の「全国的にブレイクするまで」となる2006~07年の動向を見ていきたいと思います。
 まずはじゃらじゃら~っといつものように年表にしてみることにいたしましょう。
 こんなかーんじっ!


AKB48「謎のアキバ系アイドルグループ」の時代

2006年
1月
・AKB48劇場に併設されていた喫茶店「48's Cafe」(2008年いっぱいまで営業)に勤務していた篠田麻里子(19歳)が秋元康の直接スカウトによりチームAに所属する
 ※篠田は最初の結成メンバーオーディションに参加していたが不合格になっていた

2月
・AKB48劇場での定期公演で、開始3ヶ月目にして初めて客席満員(キャパシティ250人)を記録する
・インディーズ1stシングル『桜の花びらたち』がリリースされる
 ※この次にリリースされた『スカート、ひらり』もあわせて、インディーズ時代の楽曲はAKB48チームAのメンバーが歌唱している
 ※同時に、ジャケット写真が違うだけの20枚BOXも500セット限定で販売され(価格2万6000円)、購入者は指定したAKB48メンバーとのツーショット写真撮影ができた
・AKB48メンバーと直接会話できるテレビ電話サービス(NTTドコモ)が開設される(翌2007年9月まで)
 ※『桜の花びらたち』はNTTドコモのテレビ電話のCMソングにもなっていた
・第2期追加オーディションが実施され(応募者総数約1万2000名)、大島優子(17歳)、秋元才加(さやか 17歳)、宮澤佐江(15歳)、河西智美(14歳)、小野恵令奈(えれな 12歳)らが合格する
 ※大島は子役、ジュニアアイドル(昔でいうチャイドル)としてすでに7歳のころから芸能経験があり、アイドルグループ「Doll's Vox」(ドールズボックス 2005年)のメンバーでもあった
 ※ドールズボックス時代にはのちのアイドリング!!!の横山ルリカと同期で、2009年の期間限定の選抜合同グループ「AKBアイドリング!!!」でも再び共演している

4月
・第2期生が所属するAKB48チームK(結成当初17名)が正式に発足し、主に大島がセンターをつとめる
・テレビ朝日の深夜バラエティ番組『三竹占い』のアシスタントとしてAKB48メンバーが初のTVレギュラー出演を果たす

6月
・インディーズ2ndシングル『スカート、ひらり』がリリースされる
 ※シングルの購入者特典は、「AKB48メンバーといく花やしきツアー」招待抽選券(300人)
・AKB48がインディーズ音楽グループとしては異例の音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日)初出演を果たす

9月
(東京・中野ブロードウェイを拠点としたライヴ活動中心のヲタクアイドルグループ「中野腐女子シスターズ」が結成される)

10月
・AKB48のメジャーデビューシングル『会いたかった』がリリースされる(オリコン最高12位)
 ※チームAとKの中から選ばれたメンバーが楽曲を歌唱する「選抜メンバー制度」が初めて導入される
・ファンクラブイベントでAKB48メンバー自身が出店で食べ物などを販売する「AKB秋祭り」が開催される
(フジテレビ専属のアイドルグループ「アイドリング!!!」が結成される)

11月
・AKB48による劇場以外での初のコンサートが東京・新宿の日本青年館ホール(キャパシティ1360人)で上演される

12月
・第3期追加オーディションが実施され(応募者総数約1万3000名)、渡辺麻友(12歳)、柏木由紀(15歳)らが合格する
 ※ここでの渡辺の加入をもって、いわゆるAKB48の「神7(かみせぶん)」が全員出そろったことになる
 ※柏木はかつて「モーニング娘。Happy8期オーディション」(2006年)にも参加しており、3次選考まで進んでいた

2007年
1月
・メジャー2ndシングル『制服が邪魔をする』がリリースされる(オリコン最高7位)
 ※現在のAKB48の楽曲のほとんどを担当している作曲家・井上ヨシマサ(41歳)が初めて手がけたAKB48作品
 ※井上は1980年代後半からアイドル歌手の作曲を始めており、小泉今日子・浅香唯・渡辺美奈代・中山美穂らの楽曲を担当

3~4月
・AKB48による初の全国コンサートツアーが東京・大阪・名古屋・福岡の4大都市で上演される

4月
・メジャー3rdシングル『軽蔑していた愛情』がリリースされる(オリコン最高8位)
 ※シングルの購入特典は、同年9月に開催される「AKB48メンバーの水泳大会」の観覧抽選券(170人)
(同月にリリースされたモーニング娘。の33rdシングル『悲しみトワイライト』はオリコン最高2位)
・前年に加入した第3期生によるAKB48チームB(結成当初16名)が正式に発足する

5月
・第4期追加オーディションが実施され、これ以降は合格者は「研修生」という待遇となってから各チームに昇格するという制度となった
 ※以後、約半年に1回のペースで定期的に研修生が追加されていくこととなる(2011年6月時点で最新の研修生メンバーは第12期生)

6月
・チームAの中西里菜(19歳 のちのAV女優やまぐちりこ)とチームKの秋元才加(18歳)と宮澤佐江(16歳)の3人組による、AKB48史上初のグループ内ユニット「Chocolove(チョコラヴ)」が結成される
 ※チョコラヴは2007年に2枚のシングルと1枚のアルバムをリリースする(オリコン最高18位)などして活動していたがそれ以後は活動を休止し、2008年11月にメンバーの中西がAKB48を卒業したために自然消滅している

7月
・メジャー4thシングル『BINGO!』がリリースされる(オリコン最高6位)
 ※チームBの渡辺麻友が選抜メンバーとして楽曲に参加した初のシングル
(同月にリリースされたモーニング娘。の34thシングル『女に幸あれ』はオリコン最高2位)
・この頃から、AKB48の人気メンバーのホリプロ、太田プロなど大手芸能事務所各社への移籍が始まる

8月
・メジャー5thシングル『僕の太陽』がリリースされる(オリコン最高6位)
・『週刊プレイボーイ』(集英社)と『週刊ビッグコミック・スピリッツ』(小学館)のグラビアページで、AKB48が結成以来初めて水着グラビアを披露する

9月
・AKB48が中国・北京で開催された「日中文化人懇談会2007」に招聘され、初の海外ライヴを上演する

10月
・メジャー6thシングル『夕陽を見ているか?』がリリースされる(オリコン最高10位)
・AKB48にとって初の冠番組となるラジオレギュラー『AKB48 明日までもうちょっと。』が放送開始となる(毎週月曜日夜23時35分から)

12月
・NHK『紅白歌合戦』に「アキバ枠」としてAKB48が初出場(2010年までの時点では、AKB48とモーニング娘。がどちらも出場した最初で最後の紅白)

※AKB48が約20億円の赤字をかかえている、などのネガティヴな噂が流れる
※いわゆる「AKB48商法」が世間のバッシングの対象となり、翌2008年2月にリリースされた8thシングル『桜の花びらたち2008』の販売方法をめぐるトラブルにより、AKB48の楽曲リリースを担当していたレコード会社デフスター(ソニー系列)はレコード契約を解除、AKB48は同年10月にリリースされた10thシングル『大声ダイヤモンド』からキングレコードに移籍することとなる


 まぁ~こんな感じですか。

 2005年の暮れの時点では20名だったAKB48ですが、2007年の暮れには50名を超える大所帯になっちゃいましたね。
 AKB48は定期的に約半年に1回の割合で追加オーディションを実施してメンバーを増加させていて、第4回からは合格者は「研修生」という枠におかれることとなり、そこから不定期にチームA・K・Bなどに昇格していくというシステムになっています。また、すでに結成から半年とたっていない2006年3月の時点で初の「卒業生」が出ていたり、素行不良などの理由から「脱退」処分となるメンバーもいたりして、AKB48は常にメンバー構成が流動的なアイドルグループとなっているんですね。
 ちなみにAKB48といえば有名なのが「恋愛禁止」というグループ規則なのですが、これはまぁ「職業アイドル」伝統の建て前のようなもので、さほどの厳密さは全国的にブレイクする時期以前には求められていなかったらしく、むしろ、「AKB48の品位をけがす」「ファンを失望させる」「グループ内の和を乱す」という点での行いを問題視する、いわばメンバー個人個人に組織的でプロフェッショナルな意識を要求するものとなっていたようです。カッチリしてるなぁ。

 ところで、AKB48の「48」という数字なのですが、これは別に「48名のメンバーによるアイドルグループである」という意味ではなく、総合プロデューサーである秋元康さんがグループメンバーの所属を芸能事務所「office48(オフィスフォーティエイト)」に依頼したときに、事務所社長の要請から社名の「48」をそのままくっつけただけなのだったとか。じゃあ「office48」の「48」の由来はなんジャラホイといいますと、これは社長のお名前が「芝(しば 48)」さんだったからだったのです。なんたる奇縁!!
 ただ、もともと「50名前後の大人数アイドルグループ」を構想していた秋元さんの意志にも沿ったものだったし、今から考えるとミョ~に「AKB48」というネーミングがダサくもなくおぼえにくくもなく絶妙なものに見えてくるのだから、世の中の「縁」というものは実に不思議なものです。


 さて、この時期のAKB48の成長ぶりを見てみると、現在の全国的な大ブレイクもまったく理にかなったことだと言える、過去のアイドルグループにはなかなか見られなかった「3つのエネルギー源」があったのではなかろうかと考えられます。
 
 すなわち、「チーム同士の激しい競争意識」、「ファンとの今までにない距離の近さ」、そして「総合プロデューサー秋元さんのガチすぎる先行投資」!! この3本柱ですよ。

 まずは「チーム同士の激しい競争意識」についてなのですが、AKB48はまだTVなどでのメディア露出が少ない初期において、拠点となるAKB48劇場での連日のライヴ公演がその存在のすべてと言っても過言でない重要度を持っていました。
 そのライヴ公演は、2005~07年の段階ではチームA・K・Bの3つが持ちまわりでそれぞれ別の公演をおこなうタイムスケジュールとなっていて、基本的にそれぞれは独立したチームとして活動していたのです。
 しかも時期をずらして結成された3つのチームはお互いに独自の空気感を持ったグループになっており、2009年におこなわれた大規模なメンバー再編成によってチームの中身がシャッフルされるまでには、同じAKB48と言ってもまるで「別のアイドルグループ」であるかのような各自の性格を持っていたのでした。

 2005年12月のシアターでの初舞台を踏んだチームAはまさにAKB48の結成メンバーであり、まったく無名でのスタートからさまざまな苦難を乗り越えて歴史をきざんできた伝説のチームとも言える立場で、以後に結成された他チームにとっても「お姉さん」のような大きな存在であり続けていました。2006年のインディーズCD2曲がチームAの歌唱によるものであったこともまったく無理からぬ話です。
 そのチームAにおくれること約5ヶ月、2006年4月に活動を開始することとなったチームKは、たかが5ヶ月されど5ヶ月、舞台経験という点で大いにチームAに差をつけられる屈辱的な立ち位置でのデビューを飾ることとなりました。交替で自分たち以上のパフォーマンスを見せつけるチームAの舞台に、どうしても自分たちとチームAとを比較して観てしまうファンの視線。チームKの公演は当初大幅な動員の減少を見せ、メンバーは非常に悔しい思いをしたといいます。
 ただ、そこから必死にチームAに追いつけ追い越せと一致団結していったのがチームKの素晴らしいところで、メンバーの結束の強さと根性は随一のものを持っていました。まさに苦労の「次女」!
 それに比べて2007年に結成されたチームBは「ちょっと年の離れた三女」といったおもむきで、そうは言っても他のチームとは1~2年の差しかないわけなのですが、彼女たちがデビューした頃にはすでに公演はチームにかかわらず連日満員という盛況ぶりになっており、ファンからも「おさない妹」の成長を見つめるかのようなあたたかい目で見守られる存在となっていました。
 しかし一方で、結成前にチームBに所属する人数が13名に減少してしまい、急遽チームAから数名がチームBに異動するという対処がなされた時、チームAではまるで誰かが左遷されるかのような重苦しい空気が流れたと言われています。いい意味でも悪い意味でも、AKB48はチームごとに完全に分化した集団になっていたんですなぁ。
 また、メジャーデビューから楽曲CDづくりの際に一貫して適用されている全チームとりまぜての「選抜メンバー制度」も、グループ全体メンバー1人1人の競争意識の向上に不可欠なシステムになっていると言えるでしょう。なんだかモンゴル帝国みたいな戦闘に明け暮れる集団に見えてきました……

 ここで注目しておきたいのは、チームKで結成当初からセンターポジションをとっていた大島優子さんの存在で、彼女の当時17歳にして芸歴10年という経験の豊かさはチームAの面々に対してもまったくひけをとらないものがありました。
 かつてまったく認知されずに消えていったアイドルグループのメンバーでもあった経歴のある大島さんは、チームKの中でも特に「上を目指していく姿勢」の中心となり得た人で、彼女たちチームKのつくり出した競争意識がAKB48全体の「切磋琢磨」の原動力ともなり、めざましい躍進の結果、現在の栄光をつかむこととなったということは間違いないでしょう。そういう意味では、大島さんがチームKに所属したことはAKB48にとって最大級の「天佑」だったのではないでしょうか。

 次に「ファンとの今までにない距離の近さ」ということなのですが、定員250名という規模のシアターでの連日公演(チケット代は1000~2000円)という段階で、すでにただのTVの中のアイドルグループとは一線を画した身近さがあったものの、ライヴ以外でのファンとの交流のしかたも大いにサービス満載なものとなっていました。
 初期ではライヴ後の「お見送り」から始まって、ひんぱんに行われる握手会やテレビ電話でのメンバーとの直接会話、ツーショット写真の撮影にメンバーのつくった焼きそばやたこ焼きが食べられる交流イベントの開催、はてはメンバーと一緒に花やしきで遊ぶバスツアーまでやるというエル・ドラドオぶり。
 もちのろん、それなりの「出費」をともなった上での現役アイドルとの常識外の近さではあったのですが、これはまさに秋葉原を中心に活動していた頃のAKB48ならではの体当たりのサービス体制でした。
 これにあわせて忘れてならないのが、アイドルだけではなく運営側とファンとの距離も非常に近いものがあったという点で、2006~07年ごろには運営者、時には秋元康おんみずからがファンとの直接対話をはかってAKB48の活動にかんする意見を聞き今後の方針を語り合うということもあったのです。それ以外にもAKB48はファンの要望に柔軟に対応したさまざまな企画を実行に移しており、ファンはただお金を払って応援するというだけではなく、まさに「AKB48というアイドルグループをつくることに貢献している」というこれまでになかった楽しみを味わうことができていたのです。
 昨今は「なんでおんなじCDを何枚も買うんだ?」や、「どうして自分の顔をおぼえているわけでもないアイドルのために何万、何十万とお金をつぎ込めるんだか……」といった、いわゆる「AKB商法」にたいする疑問や批判の声があがっていますが、これが単なる「運営者側の一方的な搾取」だけで成り立っていることなのではなく、その一方で「自分の要望をかなえてくれるAKB48だから」「お金という形でも、確かに応援しているメンバーに思いを届けることができるから」というファンの熱烈な期待があってはじめてできあがる相互関係なのだということを忘れてはいけないでしょう。そういったつながりの延長線上に、あの名高い「AKB48総選挙」もあるんじゃなかろうかと思うんです。

 ただ、現在こうやってAKB48がシアター時代を何万倍という規模で上回る人気を持つ集団になってしまった以上、今後のファンとの関係がファンの期待どおりのものになってくれるのかどうかは未知数なのですが……どうなるでしょうねェ。

 3番目の「秋元さんのガチ感」というところなのですが、これはもう、秋葉原に無名のアイドルグループのために全面昇降可能のステージと充実した音響・照明設備を持つ専用劇場をつくったり、まだインディーズの時代からシングルが深夜ドラマのテーマソングになるは天下のNTTのCMソングになるは、レギュラー出演の番組を持つは『Mステ』に出演するは。だいたい、2005年12月の初ステージの段階ですでにAKB48のためだけに11曲ものオリジナル曲を用意していたというところから、まだ50歳を前にする若さだった秋元さんの「ガチ」のほどが伝わってきます。あの『川の流れのように』の秋元さんがよ!?
 この秋元さんのただならぬ本気モードに業界は震撼し、一般にはまだまだ認知されていなかった2006年の段階でもAKB48という新人グループのステージには多くの関係者が足を運んでいたようです。まさに「ざわ、ざわ……」の空気ですね。
 要するに、同じライヴ活動中心のアイドルグループだったとしても、AKB48と中野腐女子シスターズ(現・中野腐女シスターズ)とではできることのポテンシャルが違いすぎたということなのです。いや、中野さんのほうがふつうなのよ!?
 思えば、よく「おニャン子クラブの生みの親」とも言われることの多い秋元さんなのですが、当時の実態としては「複数いる放送作家の1人」で「楽曲の作詞家」だったというだけのことで、AKB48でこそ、秋元さんは初めて「生みの親」たる総合プロデュースに全力で取り組んだのだと言えるのではないでしょうか。まさにすべてを賭けています。
 そういえば、よく見てみるとおニャン子クラブとAKB48とでは、ショートケーキとウェルダンステーキほど中身が違いますからねぇ。AKB48はあまくねぇよ。

 とにかく、「AKB商法」と言われるものだって、限定盤CDに劇場盤CDにメンバー別ポスターに特製ゆかたに、いい感じにパンツがチラッと見える(私そうだいは容認できません。)メンバー全員分のミニスカ衣装にイベントのためのプール貸し切りに果ては花やしきの貸し切りと、無名のアイドルグループには不相応すぎる異常なまでの規模の「先行投資」がなければ成立しえないものでした。そういう点では2007~08年にまことしやかに流れていた「AKB48大借金」のうわさも、秋元さんの長期的な計画の計算内の出費だと言えたのではないでしょうか。
 それまでのアイドルグループならば、「出したレコード(CD)のヒットなどで得られたもうけや知名度を使って次の仕事をスケールアップさせる」という、一歩一歩進んでいくブレイクの手順が常識だったのに対して、秋元さんのやり方は数年先の効果を見越した戦略だったというわけなのです。現在のAKB48が、活動初期の先行投資をなんなくペイできる巨大な利益と名声を手にしていることは議論を待たない事実でしょう。よっ、天才! さすがは『もしドラ』のお師匠。


 まぁこんなわけで、大いなるブレイクの可能性を秘めたまま暮れていったAKB48の2007年だったのですが、その最後の日に放送されたNHKの『紅白』でも、まだまだ「よくわかんないアキバ系のおたく向けアイドルグループ」というイメージは容易にぬぐいがたくまとわりついていました。
 その年の『紅白』はハロー!プロジェクト設立10周年ということで、ハロプロ陣営からはモーニング娘。を筆頭とした総勢46名がドド~ンと出演していたのですが、たいするAKB48の43名はしょこたんやリア=ディゾンとひとからげにされた「アキバ枠」というかたちでの出演となり、唄う歌が終わったらチャッチャと退場するというなんとも対照的なあつかいになっていました。しかも、同じアキバ枠にいたディゾンさんのあまりにもアレな歌声のために、まじめにがんばった分だけAKB48が目立たなくなるという悲劇が。ちなみに、その年の『紅白』は「白組」の勝ちでした。全員負けかよ!

 という『紅白』の待遇を見てもおわかりのように、少なくとも2007年の段階ではモーニング娘。とAKB48との関係は、全国的な知名度という点ではまだまだモーニング娘。優勢という状態が続いていたのですが、一例をあげると、当時のそれぞれの楽曲のCD売り上げ枚数ではAKB48がだいたい2万枚クラスであったのに対し、モーニング娘。は4~5万枚という実績をたもっていました。
 まぁ、「ダブルスコア」っちゃあ確かにそうなんですけど、たかだか2~3万枚という差は、追われるモーニング娘。にしても追うAKB48にしても非常に肉薄した一触即発ギリギリの関係になっていました。こりゃてえへんだ!

 こんなスリリングな状況をふまえつつ、次回からはいよいよ日本のアイドルグループ界が加熱していくこととなった2008年以降の動向に迫っていきたいと思います。
 さぁ、盛り上がってまいりました!!


《追記》
 実は今回の「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の第34回、私そうだい、文章をまるごと1回うちなおしております……最初っから最後まで。
 なんでかって? 暑さでパソコンがフリーズしちゃったからさ。そして、パソコンが古すぎてブログのバックアップ機能を反映できないからだになっていたからさ! 笑うなら笑えよ、ギャハハハ!!

 いったんは「もうアイドルグループ史自体やめにしちゃおうかなぁ……あっちいし。」というところまで自暴自棄になりかけた私だったのですが、その時、復旧したパソコンのスクリーンセイヴァーに写っている亀井絵里(モーニング娘。第6期生)さんが私にほほえみかけてこう言ってくださいました。

「もう1回うちなおせばいいんじゃないっすかぁ~? どうせヒマなんだし。あひゃひゃひゃひゃ。」

 ……もういちど、立ち上がってみるか。

 ということで、今回のブログは亀井絵里さんの笑顔なしでは完成しませんでした。ひいてはこの「ざっくりすぎるアイドルグループ史」全体も。

 今回の文章を、何度スベッてもまた再び立ち上がる勇気を失わなかったエリック亀造さんに捧げます。


 ……AKB48の話題だったんだけどね。
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