長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ありがとう市川森一さん 「ウルトラマンA」第48話『ベロクロンの復讐』の復習 3時間目

2011年12月21日 15時13分02秒 | 特撮あたり
 も、森田、森田芳光監督が……ろ、61歳。若くね? 若すぎね!?

 どうもこんにちは、そうだいです。やっぱり今日も、冷たい空気の似合うよく晴れた日になりましたねぇ。

 いやぁ、今年は暮れ近くになって、びっくりするほどのビッグネームの訃報が立て続きすぎになってませんか!? 家元くらいからはじまって。
 さすがに、かの国の総書記ぐらいで打ち止めになるのかと思っていたら……まさかの森田監督。

 私、ご本人も熱望されていたらしいのですが、森田監督が手がける「金田一耕助映画」がいつか観られるものと思ってひそかに楽しみにしていたんですよ。ついにかなわなかったですねぇ。非常に残念。
 61は現代日本では若いわぁ。やり残したことは多いかねぇ、やっぱ。

 61っつったらさぁ、なんたってあーた、30すぎの私そうだいでさえも「わからないことはない将来」の感覚に入ってますからね。いや、ホントのことは実際になってみないとわかんないすけどね!


 まぁそんなことなんでね、こちらもこちらでつい最近までお元気だったので充分に意外だった、市川森一さんの訃報からはじまったこの「ベロクロン2世」話題もいいかげんに今回でまとめきってしまいたいと思います。も~う新しい訃報がバンバン入ってきちゃうから。年の瀬にや~ね~!

 ざっとですが、数あるウルトラシリーズ、そしてそれ以外の特撮作品を含めた多くの中でも特に私の大好きな名作ドラマシリーズ『ウルトラマンA(エース)』と、当初そのメインライター(物語の主要回を担当して大筋の流れを形作る脚本家)をつとめていた市川さんとの関係をまとめてみましょう。

 1972年4月に、異次元人ヤプールのはなった「怪獣を超えた怪獣兵器=超獣」第1号である「ミサイル超獣ベロクロン」が出現し、地球防衛軍を壊滅させて大暴れしたのちに、地球にやってきたウルトラ兄弟の新たな戦士「ウルトラマンエース」によって倒されたのが、市川さんの手による第1話『輝け!ウルトラ5兄弟』の内容でした。「怪獣より強い超獣」という、当時の子ども達総うれションの概念の提示とともに、それさえも圧倒的なパワープレイでほうむってしまう、男女合体の新ヒーロー・エースの登場は画期的なものがありました。

 ここでやっぱり重要なのは、それまでのウルトラシリーズになかった「レギュラー悪役」の存在が出てきたことと、それに対抗するエースが「男女の性別差を超越した」正真正銘の「究極超人」あ~、じゃない、ウルトラマンだったということなのです。
 これには、相当に色濃く市川さんの「悪」と「悪にうち勝つ力」へのこだわりが感じられるんですよねぇ。

 いわば『仮面ライダー』の「ショッカー」のような、「悪の源泉」たる存在となった異次元人ヤプールでしたが、彼らの表向きの目的は「3次元世界の征服」ではあるものの、ど~うもそういった目的の達成よりも、その過程で「1人でも多くの人間に平等にもがき苦しんで死んでいただく。」というほうに重きをなしているような気がすんだよなぁ~。
 徹底的な破壊と、それによる人類の絶望。これこそがヤプールの見たい光景なのであって、はっきり言って、それが見られるのなら多少は作戦にアラやムリがあってもかまわない。やっちゃえやっちゃえ~というカオスな恐ろしさがあるんですよね。
 つまり、市川さんの創造したヤプールは、人類の感情や価値観のいっさい通用しない「悪魔」そのものなのであって、人間社会の構造を乗っとって生かさず殺さずで支配しようとするショッカーとはまさに「次元の違う恐怖」を持っているのです。

 そして、それに対抗するウルトラマンエースも、「すべての障害を乗り越えて人類が一致団結することによってしか成立しえない」という点で、非常に崇高な神っぽい立場にいるヒーローなのではないでしょうか。つまり、「男女の違い」というのは最もわかりやすい「人類の障壁」であるというわけです。なきゃイヤですけど。

 それでね、市川さんが『ウルトラマンA』で描きたかった、こういった高いレベルでの究極の「悪」と究極の「善」との闘いを1年間・全52話の TVシリーズでやり通すのは……まぁ不可能ですよね。

 実験的な小・中規模の特撮番組だったらそれも可能だったのかも知れませんが、なんと言っても『ウルトラマンA』は天下の円谷プロダクションと、それを放送するTBS の看板番組だったというわけで、本編だけでなく人形や絵本といった商品展開の売り上げなどもにらまなければならなかった作品としては、「子どもに好かれない悪役」や「変身ごっこがやりにくいヒーロー」というのは少なからぬ問題があったようなのです。

 もちろん、特撮番組はメインライターの構想だけで成り立つものではなく、それを補う多くの脚本家、番組プロデューサー、現場の本編撮影スタッフや特撮撮影スタッフの意見などの集合でできあがっているものなので、単純にそれだけが理由だったのではないのかも知れませんが、『ウルトラマンA』は放送開始から、市川さんの善悪構想をいちがいにうまく映像化しているとは言い難いエピソードが見受けられ、もちろん、そこはさすがの円谷ブランドなのでおもしろいけれども、ヤプールの本当の恐ろしさやエースの男女合体変身の意味が希薄になってしまっていました。

 結局、メインライターとしての市川さんは放送1クールが終了した1972年7月の第14話『銀河に散った5つの星』をもって降板してしまい(『ウルトラマンA』は13話と14話がクールまたぎの前後編構成になっている)、市川さんの手を離れた流れの中で異次元人ヤプールはシリーズ途中の第23話『逆転!ゾフィ只今参上』(9月)でいったん滅び、ウルトラマンエースの「男女合体変身」形式は第28話『さようなら夕子よ、月の妹よ』(10月)で解消、その後は「男のほう」北斗星司のみの単独変身で継続していき、翌1973年3月の最終回にいたっています。

 こうして市川さんの初志はなかなか貫徹とはいかなかったわけなのですが、『ウルトラマンA』の中で初めて本格的に繰り広げられたもうひとつの設定、「M78星雲のウルトラ兄弟サーガ」が現在にいたるまでの大ヒットシリーズとなる世界観の源泉となっていることは言うまでもありません。
 そういう意味でも、『ウルトラマンA』は数あるウルトラシリーズの中でも非常に意義深い作品であるんですけど……他のタロウやレオたちといっしょに「ウルトラ兄弟の中の1人」という感じにおさまっているエースを見て、市川さんの心中には複雑なものがあったんじゃないかな~。


 でね、話を『ウルトラマンA』放映中のころに戻しますが、そういった市川さんが1973年に入って、番組プロデューサーにこわれて再び筆をとったのが、何を隠そう第48話『ベロクロンの復讐』と最終52話『明日のエースは君だ!』(どちらも3月)だったそうなんですね。

 はっきりいって、この2エピソードは物語の密度がまるで別物。ヤプールの怨念という名の市川さんの情念がくろぐろと籠もっている。そして、同じ市川さんの手によるエースが、それを勇気をもってうち砕き、子どもたちに希望を残して地球を去っていくのです。

 『ベロクロンの復讐』でのヤプールの生き残りのねじくれまくりの復讐戦は前にふれた通りなのですが、最終回でもやっぱりエースの最後の敵はヤプールの生き残り。こういう意味では、『ウルトラマンA』はギリギリ最終コースにいたってからの市川さんのカムバックによって物語を完結させることに成功したと言えるでしょう。
 最終回に登場したヤプールの生き残りは、かわいい(印象には個人差があります)宇宙人の子どもに変身して人間側に親しく近づきながら、脳内テレパシーで北斗星司(=エース)だけに意志を送り、

「おれはヤプールだ! おれを殺さなければ最強超獣ジャンボキングが出てきて暴れまわるぞ。でも、かわいい姿のおれを殺したら、まわりの人間はお前のことをどう思うかなぁ!? お前のことを尊敬しているガキどもなんか、ショックでだぁれも信じられなくなるんだろうなぁ! グヘヘヘ!」

 と、最低だけど悪としては最高な、決死の「自分が人質作戦」を敢行してしまうのです。尊敬できないけど敬服します……


 ところで話は脱線しますが、この最終回でヤプールがはなった『ウルトラマンA』の掉尾を飾る「最強超獣ジャンボキング」について、私はどうしても一言いわずにはいられません。


最強超獣ジャンボキングは、ぜぇえ~ったいに「最強」じゃねぇ!!


 こりゃあもう、実際の本編映像でのエースとの戦闘をご覧いただいても一目瞭然です。歴戦の経験を積んでエースが格段にレベルアップしていたから仕方ない、とやさしく解釈してあげても、とてもじゃないですがジャンボキングは強敵じゃない! エースを窮地に追い込む見せ場もろくに作ることもできないまま、あっさりと首をはねられてしまいました。
 怪獣図鑑とかでその存在を知って、「最強!? すっげぇ!」とワクワク期待しながら本編を観た人は、まず100人中 97人はがっかりするよね~。これ、ほんとよ!? 札幌時計台とかコペンハーゲンの人魚像レベルのがっかりよ。

 ヤプールが文字通りの死力をしぼって、かつて自らが投入した配下の超獣「カウラ」「ユニタング」「マザリュース」や異次元超人「マザロン人」のいいところを合成させて生成したという(TAC 調べ)最強超獣ジャンボキングは、確かに見た目こそ、ふつうの超獣の2倍はありそうな4つ脚のボリュームたっぷりな重量級のただずまいとなっているのですが、完全にそれがアダとなってかなり小回りの利かない鈍重なサンドバックと化してしまっていたのです。もともとのカウラよりものろまな牛になってどうする。

 要するにこれはですね、最終回やその直前の『ベロクロンの復讐』時点でのヤプール残党は、もうかつての初代ベロクロンやバキシム、バラバといったレベルの超獣を作る余裕はなくなっていたということのあらわれなんですな。「最強」っていうのは、ヤプール一流のビッグマウスとしかとることができないんですね。

 だいたい、歴代超獣を合成して最強のヤツをつくるというのに、ベロクロンのミサイルやバキシムのトゲパンチやドラゴリーの馬鹿力がリストに挙がってこないのが絶対的におかしい。これはもう、ベロクロン2世の「ミサイルのまったく出ないミサイル発射管」と同じように、おサイフの都合で再現することが不可能だったと察するのが自然かと思うんだなぁ。
 市川さんが最終クールに執筆した2話に登場するヤプールの背景には、本人たちは口にこそ出さないものの、「最初のころとは比較にならないほどにみすぼらしくなった敗者」という過酷な現実が色濃く描写されているのです。厳しいね~。

 そう考えるとねぇ……格段に弱々しくなった他人(それでも並の怪獣よりは強いはずですが)が、「ぼくベロクロンの2世で~す。」なんて名乗ってるのを知ったら、いやしくも地球防衛軍を壊滅させた実績のある初代ベロクロンは草葉の陰でどう思っていたでしょうか。「ちょ、待てよォオ!!」とキムタクばりに叫んでいたんじゃないかしら。


 ジャンボキングについてのあれこれはこのくらいにしておきますが、とにかく私の言いたいことは、この『ウルトラマンA』堂々の最終回が、決してエースと最強超獣との決戦に重きをおいたエピソードなのではなく、それと我が身をダシにして「人間に化けているエース」を追い詰めるヤプールの心理作戦が最大のヤマ場だったということなんですね。ハデではないですがそうとうにシビアな闘いです。

 そんななりふり構わない覚悟のヤプールに対して北斗がとった決断、そして、子どもたちに遺した言葉とは!? これはもう本編を観ていただくしかありません。

 終わりよければすべてよし。『ウルトラマンA』はそういう作品なんですよね。いろんなTVシリーズの最終回の中でも、これは段違いに素晴らしい。

 この最終回『明日のエースは君だ!』は、市川さん脚本による『A』の前シリーズ『帰ってきたウルトラマン』の傑作エピソード『悪魔と天使の間に……』(1971年11月放送)で解決できなかった問題である、「過酷な現実は子どもに伝えるべきなのか」ということへの見事な回答となっていまして、脚本家・市川森一としての、自分の成長を助けた円谷プロの特撮作品への敬意を込めた「別れの言葉」となっているんですよね。

 当時いろいろな感情はあったのでしょうが、そういった裏方での苦しみを、表向きの作品、それも超傑作に見事に昇華させる才能を持っていた市川森一さん。

 最大限のこころを込めてご冥福を祈らせていただきます。


 みんなも市川さんのドラマをなんでもいいから観てみよう! ワイドショーや映画祭のコメンテーターなんていう、ちっせぇ場所におさまるようなお人じゃなかったんだぜ~!?
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