筑前国(ちくぜんのくに)福岡城(ふくおかじょう)とは……
福岡城は、福岡県福岡市中央区城内に存在した城。別名・舞鶴城、石城。江戸幕府の外様大名であった福岡藩黒田家の居城だった。国指定史跡。日本100名城第85番。
福岡城は梯郭式平山城の城郭である。築城当時の史料が少ないため、築城時の城郭は現在の姿とは大幅に異なるとされる。普請奉行は黒田家重臣で後に江戸城や徳川家大坂城の築城にも加わった野口佐助一成である。城地に選ばれた福崎丘陵(当時の那珂郡警固村福崎)は、那珂川を挟んだ博多の西に位置する。構造は本丸を囲むように二ノ丸、その外に大きく三ノ丸と南丸が配され、47の櫓と10の門を配し縄張りの範囲は約25万ヘクタールに及ぶ。西日本では大坂城に次ぐ最大級の規模の城郭で、同じ九州地方に存在した肥後国熊本城よりも巨大であった。東側の那珂川を堀として高い石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、「大濠公園」として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。現在、大濠公園と道路を挟んだ東の本丸跡は、桜の名所としても有名な「舞鶴公園」となっている。太平洋戦争後、福岡城は城址として公園化され、主にスポーツ施設が多く造られた。
築城の際、福崎という地名は黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改められた。現在、城跡には3棟の門と4棟の櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二ノ丸南隅櫓は国指定重要文化財に、伝潮見櫓・下ノ橋大手門・祈念櫓・母里太兵衛友信邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二ノ丸北隅櫓も戦後に復元されているが、急激に開発が進み、城内には東西を遮る道路、全国でも珍しい住宅私有地、公営競技場、裁判所、市立美術館といった施設が建築され、城郭遺構の破壊は広範囲に及ぶ。福岡市は2013年、20~30年の長期計画で福岡城の復元整備などを行っていく計画を発表し、2014年、城内の舞鶴中学校跡地に展示施設「福岡城・鴻臚館案内処 三の丸スクエア」をオープンさせた。
慶長五(1600)年、豊前国中津16万石を領していた戦国大名の黒田孝高・長政父子は、関ヶ原合戦の功績により筑前一国52万3千石を得て、かつて大友家重臣の立花家が築城し、小早川隆景が改修した名島城に入城した。その後、黒田家は立地条件から城下町を拡大する余裕の無かった名島城を廃し、福崎丘陵に新城を築いた。慶長六(1601)年に築城が開始され、7年後の慶長十二(1607)年に完成した。
以降、黒田家の歴代藩主により二ノ丸御殿や西ノ丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間(1848~61年)に、第11代藩主・黒田長博により大改修が行われた。
江戸幕府崩壊後の明治四(1871)年、明治政府による廃藩置県により福岡城旧下屋敷に福岡県庁が置かれて福岡城は廃城となり、明治六(1873)年の廃城令発布により日本陸軍第6軍官に属する。その後、多くの建造物が解体もしくは移築された。
大正九(1920)年、祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築されたが、昭和五十八(1983)年に再び元の地に戻された。
昭和六十二(1987)年、三ノ丸跡地の平和台球場一帯から、平安時代の朝廷の外交施設であった鴻臚館(こうろかん)の遺構が発見された。
平成十二(2000)年、不審火により下ノ橋大手門の一部が焼失したが、修復工事がおこなわれ、平成二十(2008)年11月1日に一般公開された。
天守閣の存在について
従来の通説では、正保三(1646)年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』に天守閣が描かれていなかったため、江戸幕府への配慮から黒田家は福岡城天守閣を造築しなかったとされていた。
しかし近年、豊前国小倉藩主・細川忠興が三男・忠利へ宛てた元和六(1620)年三月十六日付の書状から、「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った。」という内容の、天守閣の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守閣があった可能性が示されている。当時、徳川家大坂城の普請のために全国の有力諸大名が築城に駆り出されていたことから、天守閣を解体し築城資材として譲渡することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
現在、福岡城や鴻臚館の整備・活用を目的とする NPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守閣の想像図面を製作し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開、将来的には、天守閣をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や大濠公園の一体的な整備を構想している。ただし、九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史研究)は、天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」とする非実在説を主張している。
また服部教授は、不審火によって焼損し2008年に復元された下ノ橋大手門についても、仕切が大きく作られて門の幅が比較的狭くなっている構造について、「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との異説を示している。
筑紫国(つくしのくに)鴻臚館(こうろかん)とは……
曖昧さ回避 この項目では、平安京・難波・筑紫の3箇所にあった平安時代に設置された外交施設の鴻臚館について説明しています。
鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代にかけて設置されていた、朝廷の外交および海外交易施設である。平安京・難波・筑紫の3ヶ所に存在していたとされ、前身としては筑紫館(つくしのむろつみ)や難波館(なにわのむろつみ)と呼ばれていた。
「鴻臚館」という名称は、6世紀中盤の北斉帝国時代から中国大陸に存在していた中央官僚機関「九寺(きゅうじ)」の内の外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐帝国の時代になってその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥、「臚」は伝え告げるという意味で、合わせて「鴻臚」は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。なお、九寺における「寺」とは「役所」という意味であり、宗教施設としての寺院が外交機関を兼ねていたということではない。
筑紫国(現在の福岡県西部)の鴻臚館は、現在の福岡県福岡市中央区城内に存在しており、のちの福岡城の敷地内に位置していた。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。
筑紫国の外交施設の原型は、『魏志倭人伝』の作成された3世紀末に遡るとされる。福岡県北西部の糸島半島にあったとされる伊都国(いとこく)には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし、施設名や詳細な場所についての記録は残っていない。
筑紫館
筑紫国で発生した磐井の乱(527~28年)の終結後、宣化元(536)年に飛鳥朝廷は、那津のほとり(現在の博多湾)に、九州地方の支配と中国大陸の諸国との外交を担う行政機関「遠の朝廷(とおのみかど)」を設置した。推古十七(609)年には「筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)」の名で『日本書紀』に登場している。白村江会戦の翌年664年に、遠の朝廷はより内陸の大宰府(現在の福岡県太宰府市)に移転され、那津のほとりには大宰府の出先機関のひとつとして、海外交流および国防の拠点機能が残された。
この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館および宿泊所として機能し、海外からの使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や平安京へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府には約16キロメートルの距離があったが、そこには最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が8世紀まで敷設されていたとされる。また、筑紫館は海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられていた。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館は、他にも外国商人らの検問・接待・交易などに用いられていたとされる。
大宰府鴻臚館
「鴻臚館」という名称は、入唐留学僧だった円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和四(837)年における記述に初めて登場する。
天安二(858)年には、留学僧・円珍が唐の商人・李延孝の貿易船で帰朝し、鴻臚館の北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。鴻臚館の国際外交施設としての機能は、菅原道真により寛平六(894)年に遣唐使制度が廃止された後にも強まっていった。
当初、鴻臚館における通商交渉は朝廷が運営していた。商船の到着が鴻臚館から大宰府に通達されると、大宰府から平安京の朝廷へと急使が向かう。そして、平安京から唐物使(からものつかい)という使者が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中の皇族や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商完了までの3ヶ月~半年間、鴻臚館に滞在することとなり、宿泊所や食事は鴻臚館が提供した。延喜三(903)年には、朝廷による公式な買上前の貿易を厳禁とする太政官符が発行されており、貿易が官営から私営に移行しつつあったことが窺える。延喜九(909)年以降は、唐物使に代わって大宰府の官僚が交易の実務を直接担当することとなった。
貞観十一(869)年の新羅入寇の後、朝廷は警固所として鴻臚中島館を増設し、大宰府の兵力を移した。また1019年の刀伊入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
その後も、鴻臚館は北宋帝国・高麗・遼といった諸外国の商人と交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社らといった有力寺社や有力貴族による私的な貿易が盛んになって現在の博多から箱崎にかけての沿岸地域が交易の中心となり、当時は「大宋国商客宿坊」と名を変えていた鴻臚館での貿易は衰退していき、永承二(1047)年に火事があったという記述を最後に、大宰府鴻臚館の存在は文献上から消えることとなる。
建設位置と発掘調査
江戸時代に福岡藩の学者は、鴻臚館の存在していた位置を博多部官内町(現在の福岡市博多区中呉服町付近)と唱え、この説は大正時代まで広く信じられていた。
しかし、当時の九州帝国大学医学部教授・中山平次郎(1871~1956年)が、『万葉集』の記述などを検討して福岡城跡内説を提唱した。中山は、『万葉集』の中で遣新羅使が筑紫鴻臚館で詠んだという歌に「志賀の浦」や「志賀の海人」を詠んだものが多いことや、「今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴き」という歌の内容から、博多湾の北部にある志賀島(しかのしま)を望むことができ、山の松にいるセミの鳴き声を聞ける場所は博多部には無いとして、付近の高台という立地条件から福岡城跡を推測した。
当時、福岡城跡には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、1915年の博多どんたくによる同連隊の開放日に中山は兵営内を踏査して古代の瓦を表面採集し、1926年から福岡城跡内説を論文で展開していった。
戦後の1949年、歩兵第24連隊兵営跡地には平和台野球場が建設されたが、1957年に改修工事が行われた際に約3000点の陶片が出土した。そして1987年の球場外野席改修工事に伴う発掘調査で、それまで破壊されたとみなされてきた遺構の一部が良好な状態で発見され、残る遺構も同様に残存している可能性が急浮上した。
平和台球場は、福岡ダイエーホークスが1993年に本拠地を福岡ドームに移した後、歴史公園整備事業の開始に伴って1997年に閉鎖した。その後、スタンド等の建築物を解体した1999年から本格的な発掘調査が続けられており、2004年5月には国史跡に指定された。
発掘調査によって木簡や瓦類が出土し、他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土し、鴻臚館の時代的変遷も確認できるようになった。ただし、9世紀後半からの遺構は福岡城の築城によって破壊されている。奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食していた外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木(ちゅうぎ)という棒片が使われていたことも判明している。
発掘調査が終了した南側の遺構には1995年に「鴻臚館跡展示館」が建てられ、検出された遺構や出土した遺物が展示されている。
難波の鴻臚館
難波の鴻臚館は難波津(なにわつ)にあったとされ、現在の大阪府大阪市中央区にあったと考えられる。
古墳時代から畿内地方の重要な港として機能していた難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体六(512)年12月に百済王国の使者が朝鮮半島南部の任那地方の割譲を求めて滞在していたという記述がある。これが、外国使節を宿泊させる難波津の施設の初見である。
欽明二十二(561)年には、「難波大郡(なにわのおおごおり)」にて百済と新羅の使者を接待したという記述があり、推古十六(608)年には、隋帝国皇帝・煬帝の大使・裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫館に滞在させ、その間に難波の「高麗館(こまのむろつみ)」に新館を建造して歓迎の準備を整えたという記述がある。
「鴻臚館」という名称が難波館に用いられ始めた年代は定かではないが、『続日本後紀』によると、承和十一(844)年十月に難波鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたという記録が残っている。
平安京の鴻臚館
平安京の遷都が延暦十三(794)年だったため、平安京の鴻臚館は3つの鴻臚館の中で最も新しく設置された迎賓施設となる。
設立当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていたが、東寺・西寺の建立にともない弘仁年間(810~24年)により北の七条大路に朱雀大路をまたいで「東鴻臚館」・「西鴻臚館」として移転された。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東に位置する。
平安京の鴻臚館は、主に中国大陸東北部に存在していた渤海王国からの使節を迎賓していた。日本海の北航路を経由して来訪した渤海使は、「能登客院」(現在の石川県羽咋郡志賀町)や「松原客院」(現在の福井県敦賀市)に滞在してから京に上った(発掘調査から、現在の秋田県秋田市に存在していた出羽国秋田城にも同様の迎賓施設があったことが判明している)。渤海使は京の鴻臚館で入朝の儀を行った後に、宮廷の財産を管理する内蔵寮(くらりょう)と交易し、次に都の有力者と、その次に京外の者と交易を行った。しかし、9世紀前半に朝廷は経済的負担の大きい渤海̪使との交易を外国商人の私的交易と解釈して公的に迎賓しない方針に転換し、東鴻臚館は承和六(839)年に典薬寮所管の「御薬園」へと改められ廃止された。渤海王国が遼帝国の侵攻によって926年に滅亡した後に施設の機能はさらに衰え、残る西鴻臚館も鎌倉時代に消失した。一説によると、延喜二十(920)年に廃止されたとされる。
11世紀初頭に成立したとされる王朝文学『源氏物語』の『第1帖 桐壺』には、鴻臚館に滞在していた高麗の占術師が登場している。なお『源氏物語』は、作者とされる紫式部の時代から見て約100年前の10世紀前半を作中の年代として執筆されたと推定されている。
福岡城は、福岡県福岡市中央区城内に存在した城。別名・舞鶴城、石城。江戸幕府の外様大名であった福岡藩黒田家の居城だった。国指定史跡。日本100名城第85番。
福岡城は梯郭式平山城の城郭である。築城当時の史料が少ないため、築城時の城郭は現在の姿とは大幅に異なるとされる。普請奉行は黒田家重臣で後に江戸城や徳川家大坂城の築城にも加わった野口佐助一成である。城地に選ばれた福崎丘陵(当時の那珂郡警固村福崎)は、那珂川を挟んだ博多の西に位置する。構造は本丸を囲むように二ノ丸、その外に大きく三ノ丸と南丸が配され、47の櫓と10の門を配し縄張りの範囲は約25万ヘクタールに及ぶ。西日本では大坂城に次ぐ最大級の規模の城郭で、同じ九州地方に存在した肥後国熊本城よりも巨大であった。東側の那珂川を堀として高い石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、「大濠公園」として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。現在、大濠公園と道路を挟んだ東の本丸跡は、桜の名所としても有名な「舞鶴公園」となっている。太平洋戦争後、福岡城は城址として公園化され、主にスポーツ施設が多く造られた。
築城の際、福崎という地名は黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改められた。現在、城跡には3棟の門と4棟の櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二ノ丸南隅櫓は国指定重要文化財に、伝潮見櫓・下ノ橋大手門・祈念櫓・母里太兵衛友信邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二ノ丸北隅櫓も戦後に復元されているが、急激に開発が進み、城内には東西を遮る道路、全国でも珍しい住宅私有地、公営競技場、裁判所、市立美術館といった施設が建築され、城郭遺構の破壊は広範囲に及ぶ。福岡市は2013年、20~30年の長期計画で福岡城の復元整備などを行っていく計画を発表し、2014年、城内の舞鶴中学校跡地に展示施設「福岡城・鴻臚館案内処 三の丸スクエア」をオープンさせた。
慶長五(1600)年、豊前国中津16万石を領していた戦国大名の黒田孝高・長政父子は、関ヶ原合戦の功績により筑前一国52万3千石を得て、かつて大友家重臣の立花家が築城し、小早川隆景が改修した名島城に入城した。その後、黒田家は立地条件から城下町を拡大する余裕の無かった名島城を廃し、福崎丘陵に新城を築いた。慶長六(1601)年に築城が開始され、7年後の慶長十二(1607)年に完成した。
以降、黒田家の歴代藩主により二ノ丸御殿や西ノ丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間(1848~61年)に、第11代藩主・黒田長博により大改修が行われた。
江戸幕府崩壊後の明治四(1871)年、明治政府による廃藩置県により福岡城旧下屋敷に福岡県庁が置かれて福岡城は廃城となり、明治六(1873)年の廃城令発布により日本陸軍第6軍官に属する。その後、多くの建造物が解体もしくは移築された。
大正九(1920)年、祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築されたが、昭和五十八(1983)年に再び元の地に戻された。
昭和六十二(1987)年、三ノ丸跡地の平和台球場一帯から、平安時代の朝廷の外交施設であった鴻臚館(こうろかん)の遺構が発見された。
平成十二(2000)年、不審火により下ノ橋大手門の一部が焼失したが、修復工事がおこなわれ、平成二十(2008)年11月1日に一般公開された。
天守閣の存在について
従来の通説では、正保三(1646)年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』に天守閣が描かれていなかったため、江戸幕府への配慮から黒田家は福岡城天守閣を造築しなかったとされていた。
しかし近年、豊前国小倉藩主・細川忠興が三男・忠利へ宛てた元和六(1620)年三月十六日付の書状から、「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った。」という内容の、天守閣の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守閣があった可能性が示されている。当時、徳川家大坂城の普請のために全国の有力諸大名が築城に駆り出されていたことから、天守閣を解体し築城資材として譲渡することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
現在、福岡城や鴻臚館の整備・活用を目的とする NPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守閣の想像図面を製作し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開、将来的には、天守閣をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や大濠公園の一体的な整備を構想している。ただし、九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史研究)は、天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」とする非実在説を主張している。
また服部教授は、不審火によって焼損し2008年に復元された下ノ橋大手門についても、仕切が大きく作られて門の幅が比較的狭くなっている構造について、「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との異説を示している。
筑紫国(つくしのくに)鴻臚館(こうろかん)とは……
曖昧さ回避 この項目では、平安京・難波・筑紫の3箇所にあった平安時代に設置された外交施設の鴻臚館について説明しています。
鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代にかけて設置されていた、朝廷の外交および海外交易施設である。平安京・難波・筑紫の3ヶ所に存在していたとされ、前身としては筑紫館(つくしのむろつみ)や難波館(なにわのむろつみ)と呼ばれていた。
「鴻臚館」という名称は、6世紀中盤の北斉帝国時代から中国大陸に存在していた中央官僚機関「九寺(きゅうじ)」の内の外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐帝国の時代になってその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥、「臚」は伝え告げるという意味で、合わせて「鴻臚」は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。なお、九寺における「寺」とは「役所」という意味であり、宗教施設としての寺院が外交機関を兼ねていたということではない。
筑紫国(現在の福岡県西部)の鴻臚館は、現在の福岡県福岡市中央区城内に存在しており、のちの福岡城の敷地内に位置していた。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。
筑紫国の外交施設の原型は、『魏志倭人伝』の作成された3世紀末に遡るとされる。福岡県北西部の糸島半島にあったとされる伊都国(いとこく)には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし、施設名や詳細な場所についての記録は残っていない。
筑紫館
筑紫国で発生した磐井の乱(527~28年)の終結後、宣化元(536)年に飛鳥朝廷は、那津のほとり(現在の博多湾)に、九州地方の支配と中国大陸の諸国との外交を担う行政機関「遠の朝廷(とおのみかど)」を設置した。推古十七(609)年には「筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)」の名で『日本書紀』に登場している。白村江会戦の翌年664年に、遠の朝廷はより内陸の大宰府(現在の福岡県太宰府市)に移転され、那津のほとりには大宰府の出先機関のひとつとして、海外交流および国防の拠点機能が残された。
この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館および宿泊所として機能し、海外からの使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や平安京へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府には約16キロメートルの距離があったが、そこには最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が8世紀まで敷設されていたとされる。また、筑紫館は海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられていた。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館は、他にも外国商人らの検問・接待・交易などに用いられていたとされる。
大宰府鴻臚館
「鴻臚館」という名称は、入唐留学僧だった円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和四(837)年における記述に初めて登場する。
天安二(858)年には、留学僧・円珍が唐の商人・李延孝の貿易船で帰朝し、鴻臚館の北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。鴻臚館の国際外交施設としての機能は、菅原道真により寛平六(894)年に遣唐使制度が廃止された後にも強まっていった。
当初、鴻臚館における通商交渉は朝廷が運営していた。商船の到着が鴻臚館から大宰府に通達されると、大宰府から平安京の朝廷へと急使が向かう。そして、平安京から唐物使(からものつかい)という使者が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中の皇族や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商完了までの3ヶ月~半年間、鴻臚館に滞在することとなり、宿泊所や食事は鴻臚館が提供した。延喜三(903)年には、朝廷による公式な買上前の貿易を厳禁とする太政官符が発行されており、貿易が官営から私営に移行しつつあったことが窺える。延喜九(909)年以降は、唐物使に代わって大宰府の官僚が交易の実務を直接担当することとなった。
貞観十一(869)年の新羅入寇の後、朝廷は警固所として鴻臚中島館を増設し、大宰府の兵力を移した。また1019年の刀伊入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
その後も、鴻臚館は北宋帝国・高麗・遼といった諸外国の商人と交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社らといった有力寺社や有力貴族による私的な貿易が盛んになって現在の博多から箱崎にかけての沿岸地域が交易の中心となり、当時は「大宋国商客宿坊」と名を変えていた鴻臚館での貿易は衰退していき、永承二(1047)年に火事があったという記述を最後に、大宰府鴻臚館の存在は文献上から消えることとなる。
建設位置と発掘調査
江戸時代に福岡藩の学者は、鴻臚館の存在していた位置を博多部官内町(現在の福岡市博多区中呉服町付近)と唱え、この説は大正時代まで広く信じられていた。
しかし、当時の九州帝国大学医学部教授・中山平次郎(1871~1956年)が、『万葉集』の記述などを検討して福岡城跡内説を提唱した。中山は、『万葉集』の中で遣新羅使が筑紫鴻臚館で詠んだという歌に「志賀の浦」や「志賀の海人」を詠んだものが多いことや、「今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴き」という歌の内容から、博多湾の北部にある志賀島(しかのしま)を望むことができ、山の松にいるセミの鳴き声を聞ける場所は博多部には無いとして、付近の高台という立地条件から福岡城跡を推測した。
当時、福岡城跡には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、1915年の博多どんたくによる同連隊の開放日に中山は兵営内を踏査して古代の瓦を表面採集し、1926年から福岡城跡内説を論文で展開していった。
戦後の1949年、歩兵第24連隊兵営跡地には平和台野球場が建設されたが、1957年に改修工事が行われた際に約3000点の陶片が出土した。そして1987年の球場外野席改修工事に伴う発掘調査で、それまで破壊されたとみなされてきた遺構の一部が良好な状態で発見され、残る遺構も同様に残存している可能性が急浮上した。
平和台球場は、福岡ダイエーホークスが1993年に本拠地を福岡ドームに移した後、歴史公園整備事業の開始に伴って1997年に閉鎖した。その後、スタンド等の建築物を解体した1999年から本格的な発掘調査が続けられており、2004年5月には国史跡に指定された。
発掘調査によって木簡や瓦類が出土し、他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土し、鴻臚館の時代的変遷も確認できるようになった。ただし、9世紀後半からの遺構は福岡城の築城によって破壊されている。奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食していた外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木(ちゅうぎ)という棒片が使われていたことも判明している。
発掘調査が終了した南側の遺構には1995年に「鴻臚館跡展示館」が建てられ、検出された遺構や出土した遺物が展示されている。
難波の鴻臚館
難波の鴻臚館は難波津(なにわつ)にあったとされ、現在の大阪府大阪市中央区にあったと考えられる。
古墳時代から畿内地方の重要な港として機能していた難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体六(512)年12月に百済王国の使者が朝鮮半島南部の任那地方の割譲を求めて滞在していたという記述がある。これが、外国使節を宿泊させる難波津の施設の初見である。
欽明二十二(561)年には、「難波大郡(なにわのおおごおり)」にて百済と新羅の使者を接待したという記述があり、推古十六(608)年には、隋帝国皇帝・煬帝の大使・裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫館に滞在させ、その間に難波の「高麗館(こまのむろつみ)」に新館を建造して歓迎の準備を整えたという記述がある。
「鴻臚館」という名称が難波館に用いられ始めた年代は定かではないが、『続日本後紀』によると、承和十一(844)年十月に難波鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたという記録が残っている。
平安京の鴻臚館
平安京の遷都が延暦十三(794)年だったため、平安京の鴻臚館は3つの鴻臚館の中で最も新しく設置された迎賓施設となる。
設立当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていたが、東寺・西寺の建立にともない弘仁年間(810~24年)により北の七条大路に朱雀大路をまたいで「東鴻臚館」・「西鴻臚館」として移転された。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東に位置する。
平安京の鴻臚館は、主に中国大陸東北部に存在していた渤海王国からの使節を迎賓していた。日本海の北航路を経由して来訪した渤海使は、「能登客院」(現在の石川県羽咋郡志賀町)や「松原客院」(現在の福井県敦賀市)に滞在してから京に上った(発掘調査から、現在の秋田県秋田市に存在していた出羽国秋田城にも同様の迎賓施設があったことが判明している)。渤海使は京の鴻臚館で入朝の儀を行った後に、宮廷の財産を管理する内蔵寮(くらりょう)と交易し、次に都の有力者と、その次に京外の者と交易を行った。しかし、9世紀前半に朝廷は経済的負担の大きい渤海̪使との交易を外国商人の私的交易と解釈して公的に迎賓しない方針に転換し、東鴻臚館は承和六(839)年に典薬寮所管の「御薬園」へと改められ廃止された。渤海王国が遼帝国の侵攻によって926年に滅亡した後に施設の機能はさらに衰え、残る西鴻臚館も鎌倉時代に消失した。一説によると、延喜二十(920)年に廃止されたとされる。
11世紀初頭に成立したとされる王朝文学『源氏物語』の『第1帖 桐壺』には、鴻臚館に滞在していた高麗の占術師が登場している。なお『源氏物語』は、作者とされる紫式部の時代から見て約100年前の10世紀前半を作中の年代として執筆されたと推定されている。
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