つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

時を乗せて、津幡の鉄路を列車が走る。

2011年03月28日 07時52分52秒 | 鉄道
東日本大震災が発生した3月11日、1つの歴史が幕を閉じた。
1964年の国鉄時代から、関西と北陸を結んでいた特急列車「雷鳥」が、
ダイヤ改正で姿を消したのだ。
JR西日本は、地震の物理的・心理的影響を踏まえ、
本来、11日夜にラストランを迎えるにあたり
金沢駅と富山駅で予定していた記念式典を中止。
注目度を大きく下げての千秋楽となったが、これも運命である。

ピーク時には1日に20往復するなど
花形特急として長年愛された「雷鳥」に代わり、
現在の主役を担っているのが「今日の一枚」…「サンダーバード」だ。

撮影場所は、本津幡駅⇒能瀬駅間のレール上。
路線終着の和倉温泉駅を目指す途上。
この電車の走行音は、七尾線の他の車両のそれとは、明らかに違う。
やはり、より大きく、より速さを感じる。

「雷鳥」と「サンダーバード」。
名前に共通する要素はあるが、異なるマシーン。
それは「昭和」と「平成」。
時代の違いと言えるかもしれない。

僕は、どちらにも乗った経験がある。
熱心な鉄道好きではないため、専門的・歴史的に両者を比べる術を知らない。
ただ乗り心地の良さ、スピード、デザインなど、
感覚の差、時の流れは理解できる。

やがて遠くない将来、
「北陸新幹線」が開通した暁には「らいちょう」の名が復活して欲しいと願う。
それなりに思い入れのある名称であるから。
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津幡の鉄路で待ちぼうけ。

2011年01月14日 22時58分46秒 | 鉄道
「今日の一枚」は、津幡町と富山県・小矢部市との境付近で撮影。
理由は判然としないが、運転を見合わせているサンダーバードである。
特段、周囲に物々しさは感じられなかったから、事故ではないように思う。

前回の投稿で「冬季閉鎖の踏切」について書いたが、
この季節、北陸の鉄道にとっては何かと受難のシーズンだ。
雪のため。
風のため。
凍結のため。
冬ならではの障害によって、度々ダイヤに乱れが生じる。
僕が高校生の頃も、よく通学の足が妨げられた。
以前にも書いたことがあるが、当時のローカル路線の車両はディーゼル車。
乗降ドアが手動の場合も多い。
低温が進むと、そのドアが凍りついてしまうのだ。
すると、乗客数人が協力し合って抉じ開けたり、
駅員さんがヤカンのお湯をかけて氷を溶かし難を逃れた事もあった。

また、ダイヤの時間調整のために一時停止も日常茶飯事。
対向列車が通過するまで、しばし待機したものだ。
そんな時は、ジタバタしても始まらない。
皆、早期の運転再開を願いつつ、
車内の空気にあきらめに似たムードが漂ったのを覚えている。

…ちなみに停車しているサンダーバードの車窓からも、
何となく手持ち無沙汰な人たちの表情が窺えた。


心中お察しする。
明日から、また冬型が強まるらしいが、
日常生活への影響が少ない事を祈るのみである。
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真冬の津幡に設けられた「鉄路の関」。

2011年01月12日 23時53分49秒 | 鉄道
「今日の一枚」の撮影場所は街中から津幡の湧水…「しょうず」へと至る道の途中。
冬期車両通行止めになった踏切りである。

実は僕はつい先日まで腑に落ちなかった。
何故およそ100日にも渡る長期の閉鎖が必要なのか?
正直、大して通行量があるわけでもない。
殆ど、通行は歩行者が中心。
稀に、車両も通るが今の季節は農繁期に比べて激減しているはず。
だが、分かった。
これらこそが閉鎖の理由だったのだ。

少々以前になるが…日本列島が寒波に襲われた昨年末、
写真の場所とは違うが、津幡町・庄の同じような環境の踏切で事故があった。
積雪で2トントラックが踏切上で立ち往生し、運悪く七尾線の列車と衝突。
トラック運転手がお亡くなりになった。

言うまでもなく踏切りの中央を通るレールは鉄だ。
雪に覆われると滑りやすくなる。
そして、通行量がない踏切は緊急時に助けが得られにくい。
そこは一種の難所である。

他人ごとではない。
不幸な事故は誰にだって起こりうるのだ。
危うきには近寄らないのが賢明である。
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風に揺れる、津幡の秋。

2010年10月26日 21時17分47秒 | 鉄道
線路はレールの下に枕木、枕木の下に土台がある。
土台と言っても「土」ではなく、敷き詰められているのは「石」だ。
つまり、動植物の目線で考えれば、そこは一種の荒れ地である。

石の目は粗く、水や養分を蓄えるのに向いていない。
常に列車が通過するため、線路の上では根も張れず、
ゆっくり過ごす事もままならないだろう。

だが、ほんの少し横にそれた辺りを棲みかにするタフな奴もいる。
「セイタカアワダチソウ」だ。
以前、今月5日…空き地一面に森のように茂った様子を掲載したが、
線路脇もなかななかの繁殖度合い。
通過する列車を覆い隠すほどの背丈に伸び、
まるで、林のようになっている地点もある。

11月下旬並みという今年一番の冷え込みになった今朝。
僕は今にも泣き出しそうな空の下、線路の傍を散歩していた。
…と、突然、列車の接近を告げる踏切が鳴った。
小さな汽笛と共に、みるみる近づく赤いトレイン。
走り去る直前、慌ててシャッターを押したのが「今日の一枚」である。

ガタガタッ!と振動が起こり、ゴオッ!と強い風が巻くと、
セイタカアワダチソウが大きく揺れた。
これもまた、秋を感じる一瞬である。
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振り返ると、一本のレールが見える。~津幡町・七尾線~

2010年07月06日 07時37分31秒 | 鉄道
今回の写真は、舟橋の踏切に入って撮影した一枚。
本津幡駅から能瀬駅へ向かうJR西日本の七尾線だ。
ここは、町中を抜けて能登半島へ向かう途上にあって、
カーブが浅く、直線が延びている。
やはり、遮るもののない「鉄路」は、真っ直ぐなのがいい。
身も心も、遥か彼方へ運んでくれる期待感がする。

思い返せば、僕は鉄の路を何度も行き来してきた。
小中学校時代、鉄路を通って金沢に出かけ、文化に触れた。
高校時代になると、鉄路は通学路になり、
さらに鉄路を辿って県外へ出て、見聞を広めた。
大学時代、中型二輪免許を取るまで、鉄路は名古屋と実家を結ぶ存在だった。
そして、社会人になってしばらくの間、
鉄路は仕事と私生活を隔てる緩衝地帯だった。

とりわけ思い出深いのは、高校2年の夏の鉄道一人旅である。
本津幡駅から七尾線の普通列車に揺られて、金沢駅へ。
金沢駅から、特急「日本海」に乗り込み、青森駅へ。
青函連絡船で津軽海峡を渡り、函館駅から札幌駅までは、特急「北斗」。
札幌駅から稚内駅までは、急行「天北」で稚内へ。

日本最北端の宗谷岬を訪れた後は、
花の浮島・礼文島と、隣に浮かぶ利尻島へ足を運んだ。
もちろん、岬や島への交通手段は鉄道ではなかったが、
帰りの行程も含めこれだけ長時間、長距離を列車で移動したのは初めてだった。

車中で、旅先で、色んな人と知り合い、会話をした。
何を食べ、何時・何所へ行き、何をするかは、全て自分次第。
自由には、責任が付いてくる事を学んだ。
また「時刻表」の読み方を学んだのも、この旅だった。

規則正しく刻まれる鉄路のリズムを聞きながら、
僕は、少しだけ大人になった気がした。
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