<はじめに>
正直、心身共に疲れを覚えていた。
令和6年能登半島地震に始まり、愛犬の死、災害ゴミ受け入れ業務---。
年が明けてから休まらない日々が続いた。
また先月まで寒さが長引いたことも、気を滅入らせた一因だったかもしれない。
しかし、幸い暖かくなってきた。
僕は、春の陽気に誘われ小旅行に出かけた。
行先は岐阜県南西部「西美濃」。
これから3回シリーズでその記録を掲載したい。
まず訪れた「大垣市」では、散際の桜が出迎えてくれた。
大垣市の位置は、岐阜県の濃尾平野北西部。
県庁所在地の岐阜市に次いで2番目の人口(15,000あまり)を有する。
面積206.57km²のうち「平成の大合併」で編入した旧・上石津町と旧・墨俣町は、
旧・大垣市の面積より大きく、更に飛地となっている。
大垣には「水の都」の異名もある。
かつては河川を利用した舟運(しゅううん)が盛んで、
明治時代に入っても重要な交易ルートとして活用されていた。
大垣〜桑名間を結ぶ「水門川」の船町港跡には灯台が建つ。
寄棟造りの「住吉灯台」は高さ8m。
港の標識・夜間の目印として天保11年(1840年)に建造(現存物は明治の再建)。
最上部の四方には油紙障子をはめ込み中央に燈火を入れた。
明治16年に小型蒸気船の定期航路が開設された折には、
年間1万もの船が行き来していたという。
地下自噴水も豊かで、上水道の水源になっている。
恒常水温13度だから、夏は冷たく冬は温かい。
また、適度な硬水で旨い。
その水を活かした名物菓子をいただいた。
JR大垣駅近く、寛政十年(1798年)創業「金蝶園総本家」。
そこで明治初期から作られている「水まんじゅう」。
たっぷりの氷を浮かべた湧き水に沈む様子は涼しげ。
餡(抹茶と小豆)を、葛、本わらび粉の皮に包んだ逸品。
食感ぷるぷる、つるん。
甘味あっさり。
大変美味しゅうございました。
続いて、城下町・大垣のシンボル大垣城である。
現在の天守は「復元」。
昭和20年(1945年)7月29日未明の「大垣空襲」により焼失。
しかし、国宝に指定されていたお陰か、
戦前に実測図と写真集を作成していたため、往時の容姿に近い形で再建された。
(※鉄筋コンクリート製)
噴水、池、花壇、ホールなどが整備された「大垣公園」は、
面積3.10haにすぎないが、かつては3倍以上の規模。
水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、櫓の数は10を数える。
まさに要塞だったと言っていい。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原決戦では「石田三成」の本拠地になった。
当初、西軍は大垣城にて東軍に抵抗しようと考えていたが、
9月14日(新暦:10月20日)夜、主力部隊を関ヶ原に展開させる。
本戦の火蓋が切られる直前、東軍が大垣城を攻撃。
三の丸が落ちた。
翌日、西軍が敗れたことで城は敵地に取り残される格好に。
残る守備隊は引き続き籠城抗戦するも数日後に降伏、開城した。
つまりここは、関ヶ原の前哨戦であり、延長戦の舞台になったのである
天守内部は、甲冑・火縄銃・槍・弓などの武具類、
戦いの推移を表した地図・パネルなどの資料を展示。
中でも個人的に気になったのは「幻の大垣城決戦」である。
『石田三成が大垣城から関ヶ原に転進せず、もし大垣城決戦が行われていたら、
どんな戦いになったでしょうか?
関ヶ原合戦直前の大垣城一帯には、
関ヶ原に転進した石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜田秀家らの
約30,000と、石田三成らの転進後も大垣城を守備した約7,500の、
あわせて4万近くの兵がいました。
徳川家康率いる東軍の総兵力は10万。
数の上では東軍が優勢ですが、籠城するのに大垣城には十分すぎる兵がおり、
また南宮山一帯(※1)には大垣城を後詰する(=後方から支援する)
毛利秀元・長宗我部盛親ら約25,000の兵が布陣していたので、
東軍もうかつに攻められなかったと考えられます。
また、大垣城一帯は低湿地の輪中地帯(※2)で、大小多くの川が流れており、
東軍は大垣城の水攻めを計画していたともいわれます。
いずれにしても短期で決着がつくとは考えられません。
東軍には徳川秀忠の徳川本隊や加賀の前田利長の到着、
西軍も立花宗茂らの大津城攻撃軍や丹後田辺城攻城軍、
豊臣秀頼を擁した毛利輝元の来援も全くないとはいえず、
戦いの帰趨は混とんとしたものになっていたことでしょう。』
(『 』内、展示パネル原文ママ)
(※作注1/岐阜県大垣市、垂井町、関ケ原町、養老町にまたがる標高419 mの山)
(※作注2/わじゅう、低い土地を水害から守るため堤防で囲んだ集落、濃尾平野に多い)
時間の流れは常に一方通行であり、決して止まらない。
その意味で“歴史のif”は考えても詮無いが、
関ヶ原合戦は間違いなく日本史のターニングポイント。
僕たちが生きる今に影響を与えているからこそ、あえてifを問い、
ありえたかもしれない過去を起点に、現実とは違う現在を探ることは、
未来を描く際の研究になりえる(と思う)。
何より歴史ファンにとっては、実に楽しいひと時なのだ。
---さて、大垣城の石垣はなかなかのレアケース。
大垣一帯は河川の堆積によって形成された沖積地で、石材は産出されない。
そこで美濃の山から石を切出し、水運を利用して輸送した。
その山で産出されるのは、サンゴやウミユリなどの死骸が固まってできた「石灰岩」。
所々「化石」が含まれていることが分かる。
上掲画像は、我々人間など影も形もない遥か太古の海の生き物、
「ベレロフォン」という古生代の巻貝の一種だとか。
先ほど『時間の流れは常に一方通行』などと書いたが、
じっと見つめるうち、僕の脳は5億年の時を遡るかのような錯覚を覚えた。
今投稿ラストは、天守からの眺望。
ビルに隠れて見えないが、その先には「関ヶ原」がある。
次は、天下分け目の決戦場訪問記だ。
<次回へ続く>