つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

月日は百代の過客~大垣散策 昭和風味~

2024年04月17日 09時09分09秒 | 旅行
                           
岐阜県西南部「西美濃の旅」続篇2。
“偏った視点の街歩き”である。

今回の旅で草鞋を脱いだ大垣市の位置は、岐阜県の濃尾平野・北西部。
県庁所在地の岐阜市に次いで2番目の人口(15,000あまり)を有する。
異名は「水の都」。
木曾川・長良川・揖斐川など木曽三川を利用した舟運(しゅううん)が盛んで、
江戸~明治にかけ重要な交易ルートとして活用されていた。
また、地下自噴水も豊かで今も上水道の水源となっている。

一方、豊かな自然は、時として「脅威」にもなり得る。
大垣市も、度重なる水害に悩まされてきた。
水が付きやすい土地で発達したのが「輪中(わじゅう)」。
読んで字のごとく輪の中のことで「低地集落を堤防で囲んだ」のだ。

そして、戦時下の昭和20年、6度の空襲を受ける。
特に7月28日から29日にかけての第6回目の空襲は、苛烈。
上空に飛来した米軍の「B29戦略爆撃機」90機は、
100ポンド焼夷弾3000発、4ポンド焼夷弾17000発を投下。
多くの被害者を出し、広範囲が焼け野原に。
この時、国宝に指定されていた「大垣城」も消失。
(現在は昭和34年に再建された鉄筋コンクリート製の天守が建つ)

こうした経緯から、戦災復興を果たして以降の市街地が多い大垣は、
「昭和の面影」を留めているのではないか?
そう推測した僕は、スマホ片手にJR大垣駅周辺を歩き回ってみた。
以下、何枚かスナップを掲載する。
尚、画像は少々「フィルム写真」っぽく加工してみた。

























いかがだろうか。
旅人にとっては郷愁を誘う光景なのだが、やや寂しさも漂う。
少子高齢化、中心部の空洞化などを反映しているかもしれない。
勿論それは大垣に生活基盤のない異邦人の勝手な言い分である。





大垣散策中に店構えが気になった喫茶店を見つけ、モーニングサービスを楽しむ。
厚切りバタートースト、ゆで卵、フルーツを乗せたヨーグルトを、
コーヒー代だけでいただけるのだ。
モーニングは愛知県・一宮市の発祥と聞くが、お隣・岐阜にも普及しているらしい。

後で調べてみると、ここは大垣の人気スポットとの事。
開店は昭和38年。
店名「サンパウロ」のロゴは日本を代表するグラフィックデザイナーの1人、
「亀倉雄策(かめくら・ゆうさく)」氏のデザイン。
(1964年東京五輪のエンブレムとポスター
 1970年大阪万博、72年札幌五輪などのポスター
 NTTのシンボルマークなどを手掛けた)
店内の雰囲気は、やはり昭和風味なのである。
充実、美味しい朝食になった。
ご馳走様でした!



<むすびに>

今回、大垣市内の移動は徒歩に加え、無料のレンタサイクルを使わせてもらった。
再整備した放置自転車を活用した「すいとGO!(水都号)」だ。
晴天に恵まれた旅の空の下、あちこち見て回るには最適。
数時間もサドルに跨ったのは何十年ぶりだろう?
乗り始めの運転はおぼつかなかったが、すぐに身体が思い出し快適に過ごせた。
ほゞ初めての散策だったため、ほんの一端しか覗けていない。
次はより深い魅力を探してみたい。
また訪れたい町ができた。

さて、前々回、前回、今回の小旅行3回シリーズ、
タイトルは全て「松尾芭蕉」に由来している。
--- と言うのも、大垣は「奥の細道 結びの地」。
元禄2年(1689年)「芭蕉」は江戸深川を出発。
東北・北陸地方を巡ること150日あまり、
全行程およそ2400kmの旅を大垣で終えた。
大垣には“俳聖”にまつわるスポットも少なくないが、
そのあたりは回を改め「不定期イラスト連載」で書いてみたいと考えている次第だ。
乞うご期待。
                               
コメント (6)
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