つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

熟成した記録は「思い出」という。

2023年02月11日 20時20分20秒 | これは昭和と言えるだろう。
                          
「photograph」が発明されたのは今から200年ほど前、19世紀と言われる。

photoは「光の」、graph は「書く、描く」。
日本語では「 光画 」とも訳されるが、一般的に普及しているのは「写真」だろう。
真(まこと)を写すとは、言い得て妙。
確かに写真は「記録」と「伝達」と「表現」を兼ね備えたものだ。
しかし、物事は常に多面的であり、被写体の真実が1つとは限らない。
故に、同じ写真であっても、解釈は観覧者によって異なる場合がある。

また、撮影から時を経た写真は、熟成し「思い出」になると思う。
「時を切り取った記録」は、観覧者が当事者ではなかったとしても、
「あの頃の記憶」を想い起こす触媒になり得るのではないだろうか。

2023年2月現在「津幡ふるさと歴史館 れきしる」では、
企画展「思い出の津幡町~1枚の写真から想う~」を開催中。
今回は、その一部を紹介したい。



【当館が所蔵している写真を中心に、
 「学校」「遊び」「記念日」などをテーマに紹介します。
 ありきたりの生活の一瞬をとらえた貴重なカットです。
 そして、それらの写真にはさまざまな思い出が込められています。
 写真を見て、懐かしさに触れてもらえるのではないかと思います。

 写真撮影にはカメラなど、映像を残す機材が必要です。
 当館所蔵のカメラをはじめ、町内の方からもカメラなどの撮影機材を提供いただきました。
 今回展示している懐かしい写真と共に撮影機材にも関心を寄せていただき、
 思い出に浸っていただければ幸いです。

 また、会場の関係から展示できなかった昔の町並みや、小中学校の校舎、役場庁舎なども
 モニターに流すスライドショーとして上映していますので、
 時間の許す限りゆっくりとご覧いただければと思います。】


(※上記【    】内、れきしる配布解説文より引用)


<昭和32年(1957年)撮影。
 木の棒を振りかざす男の子と同じような自分自身を想い起こす。
 昆虫を捕まえたり、チャンバラをしたり、野山は遊び場だった。
 彼の背後に写るのは、木造校舎時代の津幡小学校。
 今と比べ田園の面積が広いことも見て取れる。
 失われた風景の記録として貴重な一枚だ>




<上から順に、昭和42年(1967年)撮影「津幡中学校陸上競技大会 応援合戦」。
       昭和44年(1969年)撮影「津幡中学校プール掃除」。
 僕もどちらも経験した。
 応援の方の記憶は朧気だが、プール掃除はよく覚えている。
 掃除前、水を抜いた底には、藻類に混じりヤゴ、水生昆虫が散見できた。
 デッキブラシで水垢をこすり落としながら、
 生き物たちの生息域をなくすのを申し訳なく思ったものだ。>


<昭和43年(1968年)撮影「津幡小学校体育館での明治100年記念式典」。
 ステージ上で歌声を披露しているのは、
 向かって左・奥から順に成人女性→中学生→小学生か?
 女子児童のスカートは、かなりのミニ。
 これも時代なのである。>



前述の解説文にもあったとおり、ガラスケース内には機材も展示されている。

「Camera」の語源はラテン語の「暗い部屋」。
小さな壁穴を通った光が、反対側の壁に外の景色を逆さに写し出す。
ヨーロッパ中世の画家たちは、いわゆる「ピンホールカメラ」の原理を使って、
壁に写った光の跡をなぞりスケッチを描いた。
この装置は「Camera Obscura(カメラ・オブスキュラ)」という。
Cameraは「部屋」、Obscuraは「曖昧な、暗い」の意である。

カメラ・オブスキュラに、銀の化合物を塗った金属板をセットして写し取る技術が生まれ、
金属板はフィルムとなり、フィルムは白黒からカラーへと進化。
被写体をデジタルデータとして定着できるようになったのが、現在だ。





僕は、撮影機材面についての知識は少ない。
典型的な文系脳にとって、カメラは極めてメカニックな印象。
見た目がカッコいいと思う反面、取っ付きにくい対象だった。
だが、今ではスマートフォンの機能の1つに組み込まれ、
気軽に撮影・記録ができるようになり、ありがたいと思っている。
お陰で拙ブログを作ることができるようになった。



今回紹介したのは展示のごく一部。
「津幡ふるさと歴史館 れきしる」の企画展
「思い出の津幡町~1枚の写真から想う~」は、2023年3月12日まで開催。
機会と時間が許せば足を運んでみてはいかがだろうか。

あなたにとっての思い出が見つかるかもしれない。

< 後 記 >

冒頭で、写真は「記録」と「伝達」と「表現」を兼ね備えたものと書いた。
今、トルコ、シリアから伝えられる記録写真は、溜息なしに見ることができない。
理屈として分かっていても、改めて災害(地震)の怖ろしさを実感する。
復興への道のりは長く苦しいものになるだろう。
ともあれ一人でも多くの命が救われることを願って止まない。
                      
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立春、上越にて③~番外篇 喰ったり買ったり。

2023年02月06日 21時44分44秒 | 旅行
               
過去2回、新潟県・上越への旅について投稿した。
おとといは「盲(めしい)の女旅芸人・瞽女(ごぜ)さんと、
      国内最古の映画館がある雁木(がんぎ)の街並み」。
きのうは「上越が生んだ文豪・小川未明」特集。
今回はその続篇にして番外篇、極めて個人的な旅の記録である。

【喰ったもの】



旅初日、映画館「高田世界館」を見学した後、
空腹を覚えた僕は飲食店を探し歩き始めた。
雁木が連なる通りを彷徨ううち、どうやら「夜の街」に迷い込んだらしい。
キレイなお姐さんや居酒屋料理の看板で腹が満たされるはずもなし。
まさに“絵に描いた餅”である。
どこも扉は固く閉じられたまま。
途中で見かけたコンビニにでも行くしかないかと諦めかけた時、
赤い外観の店構えが目に入った。



「中国料理 北京菜館」。
営業中の掛札が下がるガラス戸を開け、席に座り、
しばしメニューを広げて注文したのは「ラーメン(大盛)」。



鶏ガラが香る醤油味のスープに揺蕩う(たゆたう)のは、柔らかめの中華麺。
豚もも肉のチャーシュー、メンマ、刻みネギ、海苔。
昔、屋台で食べた夜鳴きラーメンのような一杯。
典型的な、日本的な、中華そばの何と旨かったことか。



完食であります。
ごちそうさまでした!



草鞋を脱いだホテルチェーン「ルートイングループ」のウリの1つは、
「無料バイキング朝食」である。



豊富なメニューから選んだのは、洋食ラインナップ。
クロワッサン、ラウゲンロール、ルスティコ、3つのパンを中心に、
卵料理とハム、カレー、オレンジジュースにクラムチャウダーとコーヒー。
サラダも追加し大満足だった。



続く2日目の昼食は、新潟県・糸魚川市能生の「あさひ楼」。
ここは昨夏にタイミングが合わず苦汁を舐めていた
リベンジである!
あの時食べられなかったラーメン(大盛)を思う存分すすった。



中細の縮れ麺が沈むスープの表面には、たっぷりのラードが浮かぶ。
お陰で冷めない構造。
一口含むと、豚ゲンコツや野菜、煮干しの味がする。
トッピングは刻んだタマネギ、メンマ、
豚バラ肉チャーシューに降りかけられた多めの白コショー。
なかなか個性的な一杯は、やはり旨かった。



完食であります。
ごちそうさまでした!


【買ったもの】

まずは上越市の町工場「新和メッキ工業」が手掛けた、
チタン製の生活道具ブランド「iroiro(いろいろ)」謹製の「お猪口」である。





原材料は、新潟県上越市を中心に国内で加工・生産した「意匠チタン」の薄板。
軽く、強く、錆びにくい金属「チタン」は、
電気を使った表面処理を行う際、電圧を変えることで100以上に色分けが可能。
三原色はもとより、いぶし、くすみ、グラデーションまで自由自在。
この塗装ではなく化学反応で発色をコントロールする技術を使い、
様々なカラーリングを施した製品が「iroiro」の特徴である。

今回はお世話になっている方の定年記念として購入。
本来はネットショップか、指定ショップの展示の中から買わなければならないのだが、
旅行の折に受け取りたいという僕のわがままな申し出を聞き入れてもらい、
製造元へ直接お邪魔させてもらった。
ありがとうございました。



続いては書籍類。
向かって左から「瞽女力入門」、真ん中が「小川未明 童話集」。
二冊の背後、赤い表紙の大判サイズは「小川未明の世界」。
いずれもご当地・上越でなければ手に入り難いものかもしれない。



既に一度、ざっと目を通してみたのだが、
これからこれらを読み込み、自分なりの思案を重ね、
解釈を加えた後、改めて投稿記事を書きたいと思う。



最後に買ったハナシは「競艇」。
上越には、東京の「平和島競艇場」が運営する場外舟券売場、
「ボートレースチケットショップ オラレ上越」がある。
1日最大7場・80以上のレースが販売されるそこでは、時折、イベントを開催。
2月4日のそれは「予想会」だった。
個人的には右手を挙げた青いニットの上着を着た女性
「高尾晶子(たかお・あきこ)」ちゃんとの邂逅が嬉しかった。

長年、テレ朝深夜番組「トゥナイト」レポーターとして活動後、
現在は競艇界のМCとして活躍中。
彼女と交わした短い会話によれば、ご母堂は石川県・七尾市出身との事。
ご縁が分かり、やはり嬉しい限り。

--- オジサンはヒソカに応援している。
                        
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立春、上越にて②~仄暗き淵に佇む文学~

2023年02月05日 22時22分22秒 | 旅行
                
きのう投稿の続篇、新潟県・上越市の旅その2。



その施設は、上越市街地の中心部「高田城址公園」の一角にある。
市立「高田図書館」に併設した「小川未明(おがわ・みめい)文学館」が、
旅2日目のハイライトだ。
残念ながら内部は撮影禁止のため、展示物の画像はない。



「小川未明」は、上越市高田出身の小説家・童話作家。
明治15年(1882年)旧・高田藩士の家に生まれた。
高校(当時は尋常中学校)までを郷里で過ごし、上京。
早稲田大学在学中に、文筆の師「坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)」から
「未明」の号をもらい、小説家としてデビューした。
卒業後、雑誌『少年文庫』の編集にたずさわり、童話も書くようになる。
大正15年/昭和元年(1926年)、小説の筆を折り童話に専念。
79歳で死去するまで、生涯に1200点以上の童話を創作した。



僕が作家の存在を意識したのは、つい先日、今年1月。
偶然「あやかしラヂオ」というNHKのラジオ番組を聴いたのがキッカケだった。
そのプログラムで取り上げられたのが「小川未明」作「金の輪」。
あらすじを紹介したい。

【まだ春には早い3月の日中のことであります。
 病気がちの子「太郎」は、輪回しに興じる一人の少年を見かけました。
 少年が回す2つの輪は金色に輝き、触れ合う度に鈴のような音がしました。
 「太郎」の前を通り過ぎるとき、彼は懐かし気に微笑み、
 白い路の彼方へ消えてゆきました。
 次の日も、同じ時間、同じ場所で少年を見かけた「太郎」は夢をみました。
 少年に金の輪を1つ分けてもらい、一緒に走るうち夕暮れの中に溶けてゆく夢を。
 明くる日から「太郎」はまた熱を出し、二、三日目に七つで亡くなりました。】



(※画像リーフレットの写真は、少年時代の未明)

突然の「死」がもたらす呆気ない幕切れ。
童話にありがちな「末永く幸せに暮らしましたとさ」とは真逆の結び。
--- “その作風は雪深い上越の気候によって育まれたのではないだろうか”
前述のラジオ番組でそう評されているのを聴き、僕は「小川未明」に興味を抱いた。
果たして彼の作品を開いてみると、人が死ぬ、草木が枯れる、町が滅びる。
ネガティブなテーマによる畏れと刺激に満ち、実に読み応えがあった。
ペンネームの「未明」は、夜明け前。
まるで仄暗い淵を覗き込んだような文体にピッタリである。

もう一つ代表作のあらすじを紹介したい。
「小川未明」作「赤い蝋燭と人魚」。

【暗く冷たい北の海、身重の人魚が寂しく暮らしておりました。
 生まれてくる子には寂しい思いをして欲しくないと考えた彼女は、
 陸の人里にわが子を産み落としたのであります。
 蠟燭屋の老夫婦に拾われ、たいそう美しく成長した娘は、
 蠟燭に赤い絵の具で貝や魚を描くようになりました。
 これが評判を呼び買い求める客が後を絶ちません。
 その中に一人の「香具師(やし)」がおりました。
 香具師は老夫婦をたぶらかし、娘を買い取り南の国へ連れてゆくことに。
 思い出にと娘が遺していったのは、赤い蝋燭が二、三本。
 真っ暗な雨が降る晩、赤い蝋燭の灯が波間に漂うと、
 海は荒れ狂い、船にも里にも災難をもたらしたのであります。】








上越北部、作品の舞台と思われる直江津(なおえつ)の公園には、
伏し目がちで哀愁漂う人魚のブロンズ像が佇み、日本海を見詰めている。
                             
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立春、上越にて①。

2023年02月04日 21時00分00秒 | 旅行
                    


僕は今、津幡町にはいない。
新潟県・上越市を再訪しビジネスホテルで草鞋を脱いだ。
大浴場で汗を流し、買い込んだ惣菜を肴に酒盛り。
朝早くから巡った行程を反芻しながらキーボードを叩く。
しかも、上越の場外舟券売り場で投票した競艇レースをスマホで観戦しながら。
--- 日常を離れた「旅」と「旅打ち」、そして「独り」。
これは、個人的に「至福」の時間なのだ。



さて、立春ながら上越の残雪は多い。
路上の雪は取り除かれているものの、路肩・歩道・屋根には雪の山。
昨年のクリスマス~先日の大寒波の折は、
さぞ忍従・苦労を強いられたことと察する。
履物にブーツを選んで正解だったなと思いつつ、僕はまず「高田世界館」へ向かった。
(※以下、太字は高田世界館HPより引用/抜粋)



<歴史的な文化遺産として>
高田世界館は1911年 (明治44年) に芝居小屋「高田座」として開業しました。
5年後の1916年 (大正5年) に「世界館」と改称、常設映画館となりました。
その後「高田東宝映画劇場」「高田セントラルシネマ」「松竹館」等
名称を変えつつ営業が続きました。
現役で営業している映画館としては日本最古級と言われ、
当時の趣を残す建物は国の登録有形文化財や近代化産業遺産にも指定されています。






<取り壊しの危機>
2007年まで、常設館として最後にあたる「高田日活」(成人館)として営業を続けていました。
しかしながら、その年に起こった中越沖地震などの影響により雨漏りが酷くなり、
建物の老朽化が深刻な問題になっていきました。
個人オーナーによる運営ではもはや映画館を維持することが難しく、
廃業と建物の取り壊しの危機に迫られていたのです。






<NPOの設立>
そんな中、同館を地域の財産として残そうという市民の有志や
映画ファンが中心となって保存活動が始まり、
2009年にはNPO法人「街なか映画館再生委員会」が発足。
個人オーナーから高田日活の譲渡を受け、新たな体制による運営がスタートしました。
以来、歴史的な建造物であるとともに
街に界隈を生み出す施設でもある映画館の
再生保存・活用に向けての活動が具体的に検討され始め、
その再生のための募金運動も活発化していきました。

<「再生」へはまだ道半ば>
現在ではメディアへの露出も少しずつ増え、
全国でも有数の文化財として注目されるようになってはきましたが、
老朽化の問題が解決されたわけではありません。
今後も耐震補強、冬場の防寒対策などの課題を抱えています。
ですが、そうした中でも映画館として
日常のコンテンツを提供できるくらいにまで持ち直すことができました
建物保存が目下の課題であった高田世界館でしたが、
今は保存の先にある「活用」へとステージが上がりつつあります。
常駐の職員の設置を経て、今後は街に賑わいを生む
文化施設・コミュニティスペースとして定着していくことが望まれます。






本日は作品鑑賞をするタイミングが合わず、館内見学に留まる。
上映時間の合間を縫った10分間余りの慌ただしいものだったが、
それでも時を経た風合いは充分に感じられた。
また、地元の熱心な映画ファンたちが交わす会話も耳に挟む。
文化施設・コミュニティスペースとして定着が進んでいるようだ。
尚、1階観客席の後ろ、壁際に「アーケードゲーム機」が放置されていたのは、
前述「成人映画館」時代の名残だろうか。

さて、今観光のメインイベント「高田瞽女(ごぜ)」による
「門付け(かどづけ)」の再現である。



瞽女とは江戸時代から昭和39年まで活動していた盲(めしい)の女旅芸人。
信州 、関東・東北地方から一部北海道まで渡り、語り物や歌い物を唄い歩いた。
娯楽が少なかった当時、農村部では農閑期にやってくる娯楽として歓迎されたという。
最盛期の明治半ば、上越・高田には90人近くの瞽女が暮らしていたそうだ。
冬、演奏会開催に先立ちPRのため家々の玄関先でパフォーマンスをしたのが門付け。
こうした文化を知ってもらおうと再現が行われたのだ。

--- ひと言でいえば「とても良かった」。
三味を爪弾き小唄を口ずさみながら、伏し目がちに歩く一行を眺め、
蘇ったかつての情景に浸ることができた。
高田瞽女に関する僕の思案は、回を改めて披露したいと思う。





歴史絵巻が練り歩いた場所は「雁木(がんぎ)通り」。
雁木とは、おもに冬季の通路を確保するため、
家屋の一部やひさしなどを延長したもので、豪雪地の生活の知恵だ。
高田地区に現存する雁木の総延長は、日本一。
およそ一年前の投稿同様、雁木のある風景のスナップで結びとしたい。
但し、今回は「モノクロ」である。










                       
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