■(第45話)わんだふるぷりきゅあ!「ずっとずっと友達」
犬飼さんの総まとめ回(おそらく)。
ここに至るまで色々あったけど、終わってみればそこまで変なことにはなっていなかったのかもしれない。
今回、犬飼さんは一人思い悩んでいました。
まず大事な点として、「こむぎの死を予感して悩んでいるのではない」は強調しておきたい。
そのような言及は劇中で出てきていません。
可能性として推察することは可能ですが、劇中人物の視点でいえば「フクちゃんの死を悲しんでいる」が第一でしょう。
犬飼さんとフクちゃんは幼馴染のようなものですから、まずは何よりフクちゃんの死が犬飼さんにとっては重要です。
こむぎは現時点で元気なんですから、幼馴染の死をほったらかして、こむぎのことを気にするのは奇妙です。犬飼さんのキャラとしても納得しがたい。
その上で、悲しんでいるお鶴さんが、友人たちの寄り添いで立ち直ろうと前を向いていることを犬飼さんは知ります。
フクちゃんの死が覆るわけではない。友人が直接何かをできるのでもない。
それでも共にいてくれるだけで、何某かの力になる。
犬飼さんは気づく。親しくなれば、相手にとって救いになる。
だからトラメとも遊ぶ。
今までも彼女は他者と仲良くしたがっていました。
こむぎも、悟くんも、猫屋敷さんも、それで救われた。
犬飼さん自身は「救ってやろう」と大上段に構えて親しくしていたのではなく、「一緒だとワンダフルだから」というそれだけでしょう。
ですが今回、自覚した。親しくなれば、相手にとって救いになる。
犬飼さんに対する批評として「何で仲良くしようとするのか分からない」といったものを見かけましたが、それへの直接のアンサー。
行動そのものは以前と変わらなくても、自覚して行っているかは大きな違い。故に、犬飼さんの成長としても上手く着地しています。
犬飼さんの総まとめ回(おそらく)。
ここに至るまで色々あったけど、終わってみればそこまで変なことにはなっていなかったのかもしれない。
今回、犬飼さんは一人思い悩んでいました。
まず大事な点として、「こむぎの死を予感して悩んでいるのではない」は強調しておきたい。
そのような言及は劇中で出てきていません。
可能性として推察することは可能ですが、劇中人物の視点でいえば「フクちゃんの死を悲しんでいる」が第一でしょう。
犬飼さんとフクちゃんは幼馴染のようなものですから、まずは何よりフクちゃんの死が犬飼さんにとっては重要です。
こむぎは現時点で元気なんですから、幼馴染の死をほったらかして、こむぎのことを気にするのは奇妙です。犬飼さんのキャラとしても納得しがたい。
その上で、悲しんでいるお鶴さんが、友人たちの寄り添いで立ち直ろうと前を向いていることを犬飼さんは知ります。
フクちゃんの死が覆るわけではない。友人が直接何かをできるのでもない。
それでも共にいてくれるだけで、何某かの力になる。
犬飼さんは気づく。親しくなれば、相手にとって救いになる。
だからトラメとも遊ぶ。
今までも彼女は他者と仲良くしたがっていました。
こむぎも、悟くんも、猫屋敷さんも、それで救われた。
犬飼さん自身は「救ってやろう」と大上段に構えて親しくしていたのではなく、「一緒だとワンダフルだから」というそれだけでしょう。
ですが今回、自覚した。親しくなれば、相手にとって救いになる。
犬飼さんに対する批評として「何で仲良くしようとするのか分からない」といったものを見かけましたが、それへの直接のアンサー。
行動そのものは以前と変わらなくても、自覚して行っているかは大きな違い。故に、犬飼さんの成長としても上手く着地しています。
(付け加えると「獣医の娘なのに今まで死を知らなかったのか」についても、「フクちゃんの死を悲しんでいる(こむぎの死の予感ではない)」のなら解決します。死を知っていても、実際に亡くなったら悲しい)
振り返ってみれば、犬飼さんは内面がよく分からなかった。
何か仕掛けがあると思い続けていましたが、「無自覚に行ってきたことを自覚する」という流れだったっぽい。
「私が仲良くしてあげれば、あなたは救われるよ」はかなり傲慢とも言える思想ですから、最初から言語化するのはまずい。
なのでここに至るまでに、こむぎ達が犬飼さんに救われた描写を見せる。犬飼さんも恩着せがましく狙って仲良くしていたわけでもない。無自覚にやってきた体裁で、いろはが他者と仲良くしたがるのは当然であると、見せ続ける必要があったのかもしれない。
こむぎは以前「絶滅」のことを「友達がいなくなる」と表現していました。
一般的な意味でいえばかなり不自然な表現ですが、今回の話とは整合が取れています。
プリキュア能力を「こむぎと共に走れる」「トラメと仲良くできる」に置き換えたのも、序盤への回帰的に上手い。
強いて言えば、犬飼さんが主役に見える展開なのが気がかりですが、ザクロを猫組が沈めるのであれば、幹部の枝払いをサブキュアがやっていく展開なのかもしれない。
ガオウ様をきちんとこむぎが解決するなら、それほど違和感はないと思う。
作戦会議の場面で、悟くんも猫屋敷さんも「ペットが傍にいればそれだけで救われる」を回答にしています。
ラストシーンの「こむぎ達がいるだけで救われる」はペットモチーフとしても真っ当な決着だと思います。何か具体的な役に立つから救われるのではなく、ただ居てくれるだけで救われる。綺麗に着地したと思う。
…のだけど、ノイズとミスリードが凄まじい。
最初に書いたように、犬飼さんの悩みは「こむぎの死の予感」ではない。
もしそれを悩んでいたのだとすると、幼馴染のフクちゃんの死がダシにされているし、お鶴さんや悟くん・猫屋敷さんと繋がりません。トラメにいたっては、「動物だからすぐ死ぬかもしれないけど、今は仲良くしたい」となってしまい、不可解なことになる。
トラメは絶滅(=友達がいなくなること)を悲しんでいる。
いろははフクちゃんの死を悲しんでいる。
いろはは、こむぎや悟くんたちの存在に救われた。
トラメも、友達がいれば救われるのではないか。
この方が綺麗に収まると思う。こむぎの寿命は直接の関係はない。
とはいえ制作サイドは、ミスリードされても構わない。どころか意図的にそうさせようとしている気配すら感じます。
もちろん私が間違ってる可能性もありますが、どうにも落ち着かない。
それもこれも原因の一つは、「死」の描写を避けてるせいだと思う。私らが見れば「ああ、フクちゃんは亡くなったんだな」と分かりますが、直接的な「死」の表現はない。「お墓」ではなく「供養塔」と表現するなど、普段なら分かりやすさを重視するのに、子供には難しい表現を使っています。犬飼さんの悩みもぼかされている。
分かる人だけ分かれの方針も悪いとまでは思いませんが、犬飼さんの総決算で彼女のキャラクターに大きく関わる部分が、ミスリードによって激変してしまうのは切ないものがある(繰り返しますが、私が間違ってる可能性も大いにある)。
【特ワと普ワ】
物議を醸した「特別なワンダフル」と「普通のワンダフル」について。
ひとまず今の理解としては、普通のワンダフルとは「自然の摂理に従った別れを許容する関係」かなと思ってます。
フクちゃんは自分より先に死ぬ。お鶴さんや犬飼父母も、先に死ぬ。
悲しいことだけど、寿命による順番です。自然の摂理として受け入れる。
一方で特別なワンダフルは「摂理を捻じ曲げてでも一緒にいたい関係」。
美しいとも言えるし、醜いとも言える。死んでも反魂だか暗黒蘇生術だかで復活を試みるような感じ。
スバルとガオウはおそらくはこれで、執着のあまりオオカミ一族(普通のワンダフル)を絶滅させてしまうような悲劇を招いたのではないかなと。
「明日喧嘩するとしても今日仲良くしないのは寂しい」(普通のワンダフル。いずれ起きる喧嘩を受け入れている)や、「離れたくない」(特別なワンダフル)などの描写と合致。映画のムジナの行動も説明できる。
この解釈ならどうにか、特ワ普ワも許容できる…と思いたい。
振り返ってみれば、犬飼さんは内面がよく分からなかった。
何か仕掛けがあると思い続けていましたが、「無自覚に行ってきたことを自覚する」という流れだったっぽい。
「私が仲良くしてあげれば、あなたは救われるよ」はかなり傲慢とも言える思想ですから、最初から言語化するのはまずい。
なのでここに至るまでに、こむぎ達が犬飼さんに救われた描写を見せる。犬飼さんも恩着せがましく狙って仲良くしていたわけでもない。無自覚にやってきた体裁で、いろはが他者と仲良くしたがるのは当然であると、見せ続ける必要があったのかもしれない。
こむぎは以前「絶滅」のことを「友達がいなくなる」と表現していました。
一般的な意味でいえばかなり不自然な表現ですが、今回の話とは整合が取れています。
プリキュア能力を「こむぎと共に走れる」「トラメと仲良くできる」に置き換えたのも、序盤への回帰的に上手い。
強いて言えば、犬飼さんが主役に見える展開なのが気がかりですが、ザクロを猫組が沈めるのであれば、幹部の枝払いをサブキュアがやっていく展開なのかもしれない。
ガオウ様をきちんとこむぎが解決するなら、それほど違和感はないと思う。
作戦会議の場面で、悟くんも猫屋敷さんも「ペットが傍にいればそれだけで救われる」を回答にしています。
ラストシーンの「こむぎ達がいるだけで救われる」はペットモチーフとしても真っ当な決着だと思います。何か具体的な役に立つから救われるのではなく、ただ居てくれるだけで救われる。綺麗に着地したと思う。
…のだけど、ノイズとミスリードが凄まじい。
最初に書いたように、犬飼さんの悩みは「こむぎの死の予感」ではない。
もしそれを悩んでいたのだとすると、幼馴染のフクちゃんの死がダシにされているし、お鶴さんや悟くん・猫屋敷さんと繋がりません。トラメにいたっては、「動物だからすぐ死ぬかもしれないけど、今は仲良くしたい」となってしまい、不可解なことになる。
トラメは絶滅(=友達がいなくなること)を悲しんでいる。
いろははフクちゃんの死を悲しんでいる。
いろはは、こむぎや悟くんたちの存在に救われた。
トラメも、友達がいれば救われるのではないか。
この方が綺麗に収まると思う。こむぎの寿命は直接の関係はない。
とはいえ制作サイドは、ミスリードされても構わない。どころか意図的にそうさせようとしている気配すら感じます。
もちろん私が間違ってる可能性もありますが、どうにも落ち着かない。
それもこれも原因の一つは、「死」の描写を避けてるせいだと思う。私らが見れば「ああ、フクちゃんは亡くなったんだな」と分かりますが、直接的な「死」の表現はない。「お墓」ではなく「供養塔」と表現するなど、普段なら分かりやすさを重視するのに、子供には難しい表現を使っています。犬飼さんの悩みもぼかされている。
分かる人だけ分かれの方針も悪いとまでは思いませんが、犬飼さんの総決算で彼女のキャラクターに大きく関わる部分が、ミスリードによって激変してしまうのは切ないものがある(繰り返しますが、私が間違ってる可能性も大いにある)。
【特ワと普ワ】
物議を醸した「特別なワンダフル」と「普通のワンダフル」について。
ひとまず今の理解としては、普通のワンダフルとは「自然の摂理に従った別れを許容する関係」かなと思ってます。
フクちゃんは自分より先に死ぬ。お鶴さんや犬飼父母も、先に死ぬ。
悲しいことだけど、寿命による順番です。自然の摂理として受け入れる。
一方で特別なワンダフルは「摂理を捻じ曲げてでも一緒にいたい関係」。
美しいとも言えるし、醜いとも言える。死んでも反魂だか暗黒蘇生術だかで復活を試みるような感じ。
スバルとガオウはおそらくはこれで、執着のあまりオオカミ一族(普通のワンダフル)を絶滅させてしまうような悲劇を招いたのではないかなと。
「明日喧嘩するとしても今日仲良くしないのは寂しい」(普通のワンダフル。いずれ起きる喧嘩を受け入れている)や、「離れたくない」(特別なワンダフル)などの描写と合致。映画のムジナの行動も説明できる。
この解釈ならどうにか、特ワ普ワも許容できる…と思いたい。