沖縄から帰ってきました。
今回の最大の目的は、 ひめゆり学徒隊終焉の地である 「荒崎海岸」 に行くことでした。
以前、 BOOMの宮沢氏もTVでここ荒崎海岸で島唄(沖縄戦の唄)を歌っていたことがあります。
自分も今回この目で確認できました。 (普通の観光客はまずここには来ない)
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「ひめゆり」校章 最期の地、 糸満・荒崎海岸で発見
1945年6月18日、戦況の悪化で南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいた
ひめゆり学徒隊には解散命令が出され、その後、一高女の生徒らが荒崎海岸に追い詰められた。
同21日、米兵の銃撃の乱射を受ける中、一高女の教師1人と生徒7人、卒業生1人、
県立第二高等女学校の生徒1人が手りゅう弾で命を絶った。
ひめゆり平和祈念資料館館長で県女師・一高女ひめゆり同窓会理事の本村つるさん(83)は、
「校章はみんなが一番大事にしていた。一高女の生徒として誇りを持ち、亡くなる時に抱き締めていたのかもしれない」
と思いやった。
琉球新報より引用抜粋。
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全員16歳~17歳の女子高校生たち。
昨年この地で校章が見つかったという記事を以前読んだ。
今現在、 僕たちがこうして平和に暮らせるのは先人たちの犠牲があったからこそを痛感した。
あらためてご冥福をお祈りいたします。
2年前に訪れた ひめゆりの塔
240人が南風原病院(豪の中)に送り込まれた。 (その時点で父母兄弟たちとは生き別れ)
南風原病院では重傷患者たちの手術(麻酔なしで手足切断(破傷風防ぎ))や青酸カリが飲まされていた。
ひめゆり学徒隊は、 薄暗く狭く不衛生な豪の中で患者さんのために一生懸命働いていた。
ひめゆり学徒隊終焉の地、 荒崎海岸。
奥に見える岬が日本軍終局の地、 摩文仁(まぶに)の丘。 1945年6月23日 牛島軍司令官割腹自決の地。
6月23日を慰霊の日(沖縄戦終結)として定め、 毎年必ず首相が参列。
(1945年8月15日 日本無条件降伏)
戦争は絶対にしてはいけないですね。