中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

ノラや(2)

2011-06-12 10:47:43 | 身辺雑記

 『彼は猫である』に続く『ノラや』の前半は、ふとしたことから内田家に飼われるようになったオス猫のノラの様子が面白く描かれている。それまで百夫妻は猫を飼ったことはなかったようだが、飼いだすと愛情が湧いてきたようだ。

 

とりわけ夫人はいつも傍にいるノラを可愛がったことが分かる。ノラがよそから来た猫と張り合って負けそうになると夫人はやりかけたことを投げ出して加勢に駆けつける。あるものすごく強い猫が家の中に侵入して、寝ていたノラに噛みつき追っ駆けまわして取っ組み合いになったときにも夫人は駆けつけ、「一層憤慨して、いつだってノラをいぢめてゐる挙句にこんな事までした。もう勘弁しない。これからは見つけ次第、引っぱたいて、突っついて、追っ払ってやると云った」。

 

 食べ物も最初は夫妻の食べ残しだったが、そのうちにバターと卵とコンビーフを混ぜてこね合わせたものや、小アジを筒切りにしたものやチーズなども食べるようになったが、とりわけ鮨屋から取り寄せた握りの玉子焼きが大好物になる。ほかにも夫妻とノラの交流やノラの様子がいろいろ描かれていて楽しいが、後半は一転して悲痛なものになる。

 

ある日突然ノラは出て行ったきり帰らなくなった。後半は日記形式の文章が続く。百先生は毎日泣き明かしたが、それはなりふり構わぬようなものであったようで、それほどまでに悲しかったのかと思う。

 

 「(ノラ捜しを手伝ってくれた二人の知人と)一緒にお膳についた。一献してゐる間も何だか引き寄せられる様に又風呂場に行きたくなり、行けば又泣き出す。ノラが帰らなくなってからもう十日余り経つ。それ迄は毎晩這入ってゐた風呂にまだ一度も這入らない。風呂蓋の上にノラが寝ていた座布団と掛け布団用の風呂敷がその儘ある。その上に額を押しつけ、ゐないノラを呼んで、ノラやノラやノラやと云って止められない。もうよさうと思っても又さう云ひたくなる」。

 

 猫好きでない者には当時70歳くらいになっている百先生の「昨夜は枕に頭をつけてから、涙止まらず、子供のように泣き寝入りした」というような嘆きようは過剰で異様にも思われるかも知れないが、私にはその気持ちがよく分かる。うちのミーシャがある日突然出て行って、そのまま帰ってこなかったら、声に出して泣かないまでも、私も同じように嘆き、何度も名前を呼ぶだろう。 

 

 百先生は新聞に折り込み広告を3度も出したりして、それなりの反応はあったがどれもノラではなく、結局ノラは帰ってこなかった。交通事故に遭ったようでもない。まだ若い健康な猫だったから、飼い猫がよくすると言う、死期を予感して姿を隠したのでもなさそうだ。このノラの失跡の出来事は昭和30年に近い頃で、当時は猫捕りと言うのがあった。先が輪っかになった針金をつけた長い棒で猫の首を引っ掛けて捕らえる。猫捕りは見たことはないが、犬を追っているのは見た。その時は犬はすばやく逃げて捕まらなかったが、犬よりすばしこい猫を捕まえるのはかなりの手際だったのだろう。捕まえた猫の皮を剥ぎ、三味線の胴に張るのだと言われていた。ノラが猫捕りに捕まったのかは分からないが、どうもそのような気もする。

 

 『ノラや』の終わりは次のように結ばれている。

 

「ノラや、お前は三月二十七日の昼間、木賊とくさの繁みを抜けてどこへ行ってしまったのか。それから後は風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰ったのかと思ひ、今日は帰るか、今帰るかと待ったが、ノラやノラや、お前はもう帰って来ないのか」。

 

百先生の悲しみの深さがよく分かる。

 

 

 


ノラや

2011-06-10 08:44:18 | 身辺雑記

 内田百『ノラや』(中公文庫)の中の冒頭の作品の『彼は猫である』は、ふとしたことから野良猫の子供を飼いはじめたいきさつが描かれていて、猫好きにとってはとても面白い随筆だ。軽妙な随筆である『阿房列車』シリーズで知られた作者のこの作品も、随所にユーモラスな記述があって楽しい。野良猫だからノラと名付けた猫との出会いは、冒頭にこう記されている。

 

 「うちの庭に野良猫がゐて段段おなかが大きくなると思ったら、どこかで子供を生んだらしい。何匹ゐたか知らないが、その中の一匹がいつも親猫にくっ附いて歩き、お勝手の物置で親子向き合った儘居眠りをしてゐたり、欠伸をしたり、何となく私共の目に馴染みができた」。

 

  その子猫が百先生の夫人が水を汲んでいるときにちょっかいをかけ、夫人が追い払おうとすると勢い余って庭の水甕の中に飛び込んでしまう。このあたりの描写も面白いのだが、「猫は濡れるのはきらひだから、お見舞いに御飯でもやれ」と百先生が言ったのが始まりで毎日餌をやるようになり、子猫はしだいに馴れてくる。

 

 「もうすっかり乳離れはしてゐる様で、あまり親猫の後を追っ掛けない。親猫の方はその内に又次の子が出来かかってゐる様子で、彼をうるさがり出した。どうか何分共よろしくお願ひ申しますと口に出しては云はなかったが、さう云ふ風にどこかへ行ってしまった」。

 

   夫妻はこの子猫を飼ってやろうと相談し、「前後の成り行き止むを得ないから、野良猫を野良猫として飼ってやらう。座敷には決して入れない事にすればいいだらう、と云ふ事になった」。座敷には赤ひげや目白などの小鳥を飼っているので、猫を入れるわけには行かないのだ。飼う以上は名前があったほうがいいということで、野良猫なのでノラとした。

  飼うことに決めてからのノラの様子の描写はなかなか面白く、ノラのかわいい仕草が目に浮かぶような、まことに愉快な語り口が随所にあって、さすがに随筆の達人だと思わせる。これに続く表題作の『ノラや』にもノラの生活ぶりが描かれているが、ノラはすっかり家族の一員のようになり、夫妻も愛情が湧いてきたようだ。とりわけ夫人は可愛がったようで、 

「私がこっちにゐる時、お勝手で何か云ってゐる様だから、声を掛けて、だれか来てゐるのかと聞くと、ノラと話しをしてゐるところだと云ふ。

 『いい子だ、いい子だ、ノラちゃんは』

 少し節をつけてそんな事を云ひながら、お勝手から廊下の方を歩き廻り、間境の襖を開けて、『はい、今日は』と云ひながら猫の顔を私の方へ向ける。ノラは抱かさった儘、家内の前掛けの上で、先の少し曲がった尻尾を揉む様にしたり、尻尾全体で前掛けをぽんぽん叩いたりする」。

 

  夫人の優しい様子や、書かれてはいないが百先生の笑顔、ノラの愛らしい仕草が彷彿とする。後にノラは家を出ていったまま行方不明になってしまうのだが、百先生はこのときの情景を思い返し、「ノラは全く合点の行かぬ顔をして抱かれてゐた。その様子の可愛さ。思ひ出せば矢張り堪らない」と書いている。 (続)

 

 

 

 


月光王子 月光公主

2011-06-07 17:13:08 | 中国のこと

プロ野球の日本ハムファイターズの斉藤祐樹投手は、高校生時代に甲子園での全国高校野球大会で、マウンド上で青いハンカチで汗を拭う仕草が人気を呼んで、「ハンカチ王子」と呼ばれ、ゴルフの石川遼選手はデビュー当時に、インタビューを受ける時の初々しい様子から「はにかみ王子」と呼ばれた。そのようなことから、ルックスが良い青年タレントなどを「○○王子」と言うことが一時あった。

 

中国では「月光王子」、「月光公主」という言葉があることを西安の李真から聞いた。公主はプリンセス、姫という意味だ。これは特定の人物の呼び名ではなく、「月光」の「月」は月給、「光」は何も残っていないことで、一ヶ月の給料を使い切る人のことを指す新語のようだ。中国人はこのような造語をつくるのがうまい。この王子や公主達は、給料の高い「八〇后(パーリンホウ)」に多いと李真は言った。前にも書いたがこの1980年代に生まれた世代は、消費意欲が高い。たとえ給料は高くなくても贅沢をするようで、李真の50代の同僚の八〇后の娘は、西安に戻るのに列車ではなく飛行機を使い、空港からはバスではなくタクシーを使うのだそうだ。

 

 このように八〇后が贅沢に消費するのも、彼らは「富2代」と言われ、親が富裕層であることが多いのだからだそうだ。この親の世代は改革開放時代から富裕層になった。だからその次代の「富2代」達は親の恩恵を享受して豊かな生活を送り、消費も派手で、何かにつけて金銭感覚で考えるのではないか。

 

李真はこの八〇后のちょうど前の世代に属するから、それほど豊かではないし、贅沢に消費するということはない。李真の父親はいわゆる「文革世代]で、都市から地方に「下放」された体験がある。高校時代には成績がよく、有名大学である北京の精華大学に入学できることも可能なようだったが、父親(李真の祖父)が山西省で商売をしていたため、資本家階級に属するとみなされてそれも叶わなかった。その後は努力して水墨画の画家となり、西安でも名が知られるようになったが、穏やかで寡黙、まじめな人物だ。李真は父親の世代には立派な人が多い、お金のためではなくて自分の情熱で好きなことをしてきたけれど、今の人たちはお金のためにすると言ったが、父親の生き方を見てきてそう思うのだろう。最近の中国に広がっている拝金主義的な風潮には批判的だ。

 

  消費生活が華美になると、いろいろな問題も出てくる。今の中国には「房奴」、「車奴」、「卡奴」、「孩奴」という言葉があることも李真は教えてくれた。「房奴」の房(ファン)は家、奴()は奴隷の意味で、家のローンを払うために生活が追われること、「車奴」は車の維持費に追われること、「卡奴」の卡(カ)はカードで、カードローンの返済に追われること(日本のカード地獄のようなものか)、「孩奴」の孩は孩子(ハイツ 子ども)だから、子どもの教育費に追われることだそうだ。だから消費生活を楽しんでいるような八〇后にも生活に追われる面もあるのかも知れない。

 

最近の中国では国民の経済格差が広がって、生活に苦しむ庶民も増加しているようだが、このような人達は月光王子や月光公主のように一ヶ月の給料を使い切るどころか、一ヶ月ももたないというのが生活の実態だろう。このような生活を表わす新語はまだ生まれていないのだろうか。

 

 


内縁関係

2011-06-07 09:07:08 | 身辺雑記

 神戸市で31歳の内妻の5歳の次女に暴行して肋骨を折るなどの重傷を負わせた男が傷害容疑で逮捕された。このような事件はこれまでにもたびたび起きており私もブログに書いたことがあるが、被害を受けた幼い子どもは本当にかわいそうだと思う。

 

 ところが、この事件で私が呆れたのは、逮捕された男は19歳の無職の少年であることだ。この少年は3月頃から8歳から2歳の4人の子どもがいるこの女性と同居していた。「内妻の」とあるからこの少年は「内縁の夫」と言うことになるのだろうが、やはりまだ未成年の少年と、一回り年上の熟女とも言える4人の子持ちの女性の組み合わせは理解しにくいものがある。

 

 前にも書いたことだが、だいたい、年齢差はともかくとして、男女が同居生活をしているだけで、「内縁関係」と言えるのだろうか。定義によれば「事実上夫婦として生活しながら、所定の届け出を欠くため、法律上の婚姻に至らない男女の関係」(広辞苑)ということになるが、その意味ではこの二人は「事実上夫婦として」生活していたのだから内縁関係なのだろうが、二人に結婚するという明確な意思があったのか。これも広辞苑によれば、「(婚姻とは)一対の男女の性的結合を基礎とした社会的経済的結合で」とある。確かに彼らには性的結合を基礎とした生活はあったのだろうが、果たして社会的経済的結合と言えるものなのか。乱暴な言い方であることを承知で言えば、性に対してルーズで、社会的な判断力が乏しく、子ども達に対する責任感が希薄な三十女が、これも社会的に未熟で生活能力もない少年を引っ張り込んで同居生活を始めたのではないか。そこには性に対する欲望だけがあるような気がする。だから内縁関係にしてもまともな夫婦関係であったはずはなく、そこから少年(内縁の夫)の幼女に対す傷害沙汰も起きたのだろう。他の子ども達もこの「父親」をどのように見ていたのだろう。

 

 最近は正式に結婚しないで同居生活をするいわゆる「パートナー」の関係も少なくないようで、その結果として「シングルマザー」も増えているらしいが、それはそれで現代の男女の関係のあり方、生き方として理解できるものだ。少なくとも自分や相手、社会に対して責任のある生き方をするのなら、男女が結びつく形態はいろいろあっていいと思う。だが今回の事件のような男女関係は、私には不潔としか考えられないのは、年寄りの時代遅れの偏見なのだろうか。

 

 


剩女

2011-06-05 10:17:15 | 中国のこと

  神奈川県に住む西安出身の曹渓が、友人の李真から「剩女」を日本語で何と言うかと尋ねられたと言った。曹渓と李真は西安外国語大学日本語科の同級生で、仲がいい。そんな言葉は知らないなと私は言ったら「負け犬」と曹渓は言ったのでああそうかと思い当たった。曹渓は賢い女性で、日本のこともいろいろ勉強しているようだ。

 

 「剩女(ションニュイ)」は直訳すると「余った女性」ということになるが、要するに結婚適齢期になっても機会を逃した女性のことで、最近の中国にはとても多い、「剩女」は最近の流行り言葉ですと曹渓は言った。「余った女性」と言っても、学歴も高く仕事もできる優秀な女性を言うようで、それが却って結婚するのをためらうことにもなるのだろう。曹渓は「裸婚」に妥協したくないから、経済的に良い条件の持ってる男を求めているうちに、自分が年になって結婚できなくなるのも珍しくないですとも言った

 

日本語の「負け犬」については大雑把なことしか知らなかったので調べてみると、ベストセラーになり講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞したエッセイストの酒井順子さんのエッセイ『負け犬の遠吠え』で有名になった言葉ということだ。未婚女性が自分は幸せだと言うと世間の反感をかうことに配慮し、「どんなに美人で仕事ができても、30歳代以上・未婚・子なしの条件が揃った女は負け犬」だと甘んじてレッテルを貼られておいたほうが世間とうまくやっていける、と未婚女性の処世術を説いたことから来るのだそうだ。転じて30歳代以上の未婚の女性を指すこともあるとのこと。これを文字通り受け取って反発する向きもあっただろうが、酒井さん30歳代超で子どもを持たない未婚女性を指してこう表現することで逆説的にエールを送ったとされていて、共感者も少なくないようだ。

 

「家庭よりもやりがいを求めて職業を全うする女性が1980年代以降増加の一途を辿っており、結果、気が付いた時には「浮いた話の一つもない30代」という女性が、職場では相応の地位を獲得しつつも結婚できないというジレンマに陥ることもあるという」(Wikipedia)。私はいわゆるアラサーやアラフォーが社会的に地位を得て活躍しているのは素晴らしいことで、結婚の有無は問題ではないと思う。要はその人の生き方の問題だろう。

 

中国の「剩女」は、前に紹介した「八〇后」に多いようだが、この世代は女性の学歴が高く、社会的にも地位を占めているから、その自負が北京や上海などの大都市では離婚が増えている原因にもなってはいるようだ。

 

 

 


伯母の死

2011-06-04 10:37:43 | 身辺雑記

 母の双子の姉である伯母が亡くなったと、伯母の次男から知らせがあった。それによると5月23日の早朝に逝ったというが、家族だけで葬儀は済ませたとのことだ。明治44年の6月生まれだから、あともう少しで100歳になるところだったが、昔風に数え年で言えば100歳にはなっていた。最近は意識もはっきりしなかったようだし、取りとめもないことも言っていたようだが、最後は眠るように逝ったと言う。カソリックの洗礼を受けていたから、モニカという洗礼名がついていた。

 

 双子だけあって、母と伯母はとても仲がよかった。おそらく一卵性双生児で、幼い頃の写真を見るとまったく区別がつかなかったし、私が幼い頃は、母と伯母を間違えることはたびたびあった。双子は後で生まれたほうが兄なり姉とされるということも聞いたが、伯母は先に生まれたらしい。二人には姉とか妹とかいう意識はまったくなかったようだった。結婚して年を経るほど、とりわけ戦後からは二人の境遇はずいぶん変わり、母は私を筆頭にして子沢山の貧乏暮らしだったが、伯母は財閥系のある企業の社長夫人に納まった。それにつれて性格も違ってきて、娘時代は活発だった母は内気でおとなしくなり、伯母は活発で、いささか気儘な性格になった。それでも二人は年をとっても仲がよく、母が伯母の家を訪れたり、2人でデパートなどに出かけて長い時間過ごしていたりしていた。仲がいいので、どちらかが先に逝ったら残されたほうがすぐに後を追うのではないかなどとも思われていたが、母が先に逝っても伯母は案外けろりとしていて、平成9年(1997)に逝った母よりは14年長生きした。

 

 母は女8人男1人の9人きょうだいで、叔父と1人の叔母が比較的早く亡くなったほかは皆長生きだったが、今では母の次の妹である叔母と末妹の叔母が残っているだけになった。私自身の年を考えても、ひとつの世代が終わったという思いがする。

 

 


裸婚

2011-06-02 09:47:05 | 中国のこと

 前に西安の李真が教えてくれた「裸官」という新語のことを書いた。裸官(luoguan)とは「裸体官員」を略したものだ。中国では大きな汚職に手を染めた役人は死刑になることもある。そこで汚職官僚は職権を利用して蓄財し、まず妻子を海外に移住させる。頃合を見て自分も海外に逃亡し、外国籍を取得したり定住したりする。もちろん蓄財した金は海外の銀行などに預金する。このような悪質、悪辣な腐敗官僚を「裸官」と言う。役人の汚職大国の中国では、このような、海外逃亡した汚職官僚、裸官は過去4000名以上にのぼり、流失金額の総計は50億ドルに上るとも言われている。

 

 裸官に似た言葉で、これも新語の「裸婚(luohun)」というのがあることも最近李真から聞いた。最近流行っている言葉で、「家なし、車なし、お金なし」で結婚するということのようだ。これから二人で頑張って稼ぐために、両親から何ももらわないで結婚することだそうで、それはそれでいいことじゃないかと私は言ったが、よく雑誌やネットで「裸婚したか」という記事が載っているけれど、実際に試している人はやはり少ないでしょうと李真は言った。

 

 このような現象は80年代後の世代の若者に言われているようだ。いわゆる「八〇后(パーリンホウ)」で、一人っ子政策の第一世代。李真の次の世代だ。大卒・ホワイトカラーが多く、インターネットが大好きと言う。ビジネスの世界でも大きな注目を集めていて、その消費行動がそれまでの世代とは大きく異なり、節約を美徳とする価値観は薄く、「高価なものでも気に入ったらすぐに買う」という大胆な消費行動が大きな特徴で、オンラインショッピングやクレジットカードの利用にも全く抵抗はないと言う。最近の著しい経済発展の中国でももっとも好奇心旺盛で消費欲が強いとされているようだ。だから結婚についても前向き積極的、自分たちの才覚と力量でやっていけるという自信があるのだろう。中国での結婚式は概して派手で、多くは親がかりだから、そのようなあり方に抵抗する「八〇后」らしい自立心の表明なのだろうが、現実にはどうか。

 

 中国では最近は物価が上昇し、住宅価格はどんどん高くなっている。沿岸部と内陸部の経済的な格差は大きい。大学卒業後の就職など、「八〇后」の後の世代はかなり苦しい状態にあると聞く。そのようなアンバランスは中国社会の状態にどのような影響を及ぼすのだろうか。「八〇后」はやがては国の中枢を担い、指導的立場になるが、その頃には中国はどのようになっているのか。前の世代や後に続く世代とどのように調和し、対外的にはどのように見られる国になるのだろう。