熊谷三郎徒然日記(gooブログ版)

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gacco日本中世の自由と平等 最終課題レポート

2014-05-24 17:26:00 | gacco
最終レポートの成績が5/19に発表になりました。小生は早めに提出したので、採点も少し甘く早かったようです。
今後の参考に問題と小生の解答をアップしておきます。

<課題>
.「日本中世における自由・平等・平和」について800字を基準として述べよ。但し、この時に「所有権の未成熟」「熊谷直実」「人口の増加」という語句を用いること。

<小生の解答>
「日本中世における自由・平等・平和」
日本の中世(鎌倉・室町時代)における自由は、網野善彦先生が主張されるアジール(誰かに支配されない自由)無縁・公界・楽に象徴される考え方もあるが、本郷先生はどちらかと云えば、それは強者の自由であったと考える。それを実証する絵詩が男衾三郎絵詩である。それによれば、男衾三郎(武蔵の国の有力武士)の門の前を通りかかっただけで、鏑矢で射られたり、殺されて生首をさらされたりすることが半ば平然として行われていたことからも裏付けられる。
 またこの時代は所有権も未成熟の時代で、源頼朝は恩賞などを与える際、その荘園の地頭に任命するという形を取った。このことは所有権を与えるのでは無く、管理・支配の権限を与えたのである。従って中世は所有概念が浸透して行く過程であったと考えられ、自由も進展していく過程だったと結論づけられる。
 中世における平等は「仏の前の平等」という考え方が法然により広められた。その良い例が熊谷直実の逸話である。法然が熊谷を帯同し、九条兼実の屋敷で法談を行った際、熊谷はその身分の低さから法談を聴くことを許されなかった。法然上人絵伝によればその時熊谷は「ああ、この世ほど口惜しいものはない。極楽では、こんな差別はないであろうに!」と嘆いたとされる。法然の教えは親鸞や一向宗に引き継がれ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、善人も悪人も等しく救われるという思想が広まって行ったが、この平等の思想は織田信長の主従関係を基本とする天下統一の野望と相容れなかった。そのため信長は一向宗を弾圧し、結果として天下は統一されたが、平等というリゾームの形態は一旦収束してしまった。
 これにより戦国時代は終わりを告げ、平和な時代となったが、そのことは人口の増加で裏付けられる。西暦600年(飛鳥時代)に600万人だった日本の人口は1600年(安土桃山時代)に1200万人と千年かけてやっと倍になったが、1700年(江戸時代)には2500万人と、たった100年で倍以上となった。このことは平和な時代が訪れたことの証左である。

 郷土の武将が二人も出たのはラッキーでしたね。

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