ライトフロウズノウト 今日の一ページにようこそ♪
先週あたりから、日ごとに風が涼しく
朝の小鳥の声、夜は虫の声がよく聞こえてくる…と
思っていましたら昨日今日は蒸し暑く、時おり雨風で
夏と秋の交代にまだ少し時間かかるようです。
来週もお天気マークmix、季節の変わり目なので
体調など気を付けてまいりましょう♪
今週末もう秋分~お彼岸、ありふれた日常でも非日常でも
時間は等しく過ぎてゆきます。
どんな秋冬が待っているのか、
不確かな季節にもいつも希望を持てるように、
備えていきたいと、ふと思うのでした。
見えない明日、そしてイメージで見える過去の思い出、
その中で先日から何度となく浮かんでくる記憶のお話をいくつか…
ピアノを習っていたころのよもやま話です♪
♪)ショパン ピアノ曲 ロンド第一番op1
先日訪れたホテルのレストランでかかっていた
ピアノのBGMのうちの一曲でした。幼稚園から高校までピアノを
習っていたのですが、最後から二回目(確か中三のとき)の発表会で弾いた曲で、
その頃の私には難しかったけれどとても魅力的でよく覚えている曲です。
それほど有名な曲ではなくて一般的にはCDやコンサートでもあまり聴かれない、
(ピアニスト・音楽ご専門のかたはご存じと思います)
外できくのは初めてかも、という曲でしたが
聴いたのが八月末・奈良ホテルのフレンチ・節目のお祝い、
”今ここで聴こえている”タイミングが、私にとって何か象徴的な気がしたのでした。
この曲では本番演奏後 後々まで残る記憶が二つありまして、
ひとつは「緊張」について、
発表会の曲は普段のレッスンより一~二段階レベルをあげて
先生が選ばれるのですが、このときは”ちょっと(=かなり)難しいけれど”と
仰りつつ曲をくださったのでした。前年に、いつも私の前の時間レッスンの
しっかりもののお姉さんが弾くのを聴いていて馴染みのある好きな曲、
それは良いのですが 難しいよと言われ、練習時間十分に
とるべきだったのに、よりによってこのタイミングで
学校の音楽の先生が有志でつくる合唱団に参加してしまい
どこかの合唱コンクールに出るための練習あり
週に何回か帰宅が遅くて
むしろ例年よりピアノほうは練習が少なくなりました。
この学校の合唱団は私が歌が上手で呼ばれたのでは全くなく、
進んで参加したのでもなかったのですが
仲の良かった友達がひとりで入るのが心細い?という理由で
本当に文字通り腕ロックで引っ張っていかれたのでした。
(合唱好きだけれど時間ないというのは無視しやる子)
参加したら途中でやめるのは思いつかなくて、こちらは
よい体験でとても楽しかったです…が、
このころピアノは普段の練習で一日二時間x週6あと一日は先生のレッスン、
週七日弾いていてそれが習慣でした。
発表会前は毎日三時間ほど弾くはずで帰宅後そんなに
余分な時間はなかったのに、週何回かの合唱練習に参加していては
普通に考えて練習不足、
案の定不安をかかえたまま本番の日を迎えてしまい、
本番前の舞台袖で言葉にすれば「どうしよう」のひとことしか浮かばず
冷や汗さえかかないほどド緊張で固まっていて
多分顔面蒼白のすごい顔をしていたと思います。そんな状況で
椅子に座っている短い時間の、
本当に出番直前の先生の短い叱責の言葉、
「そんなに緊張しなくても弾けます!」とピシャリ。
不思議なものでその瞬間 ふっと我にかえりいつもほどの緊張感、
あるいはむしろリラックスに近いなかで演奏できたのでした。
ピアノは私は上手ではなくて発表会の曲もそれほど好きに
なれない年もあったのですが本番のミスは一度もありませんでした。
ピアノ‥あるいはほかの楽器でも子供一人で大勢の観客の前で
舞台に立つことで鍛えられる部分はあるなと思います。
ショパン ロンド第一番を弾いた直前の緊張の落差、
特に先生の言葉ですっと何かが落ちて
目が覚めたような感覚はいまも鮮明に残っています。
この時の先生は普段は鷹揚で生徒をきつく叱ることは
滅多にないかたでした。
私のあまりの様子を見かねて懸けてくださった的確な言葉、
…弾けます!の力は先生への信頼感からも速攻有効な効果があった
と今ではわかります。
過度の「緊張」その元の「プレッシャー」が本来の力を奪うのは
オリンピックなどの本当の大舞台で世界最高のアスリートでさえ、あるいは
それだからこそ起きること、(比べるところが高すぎますが)
この時のとんでも緊張の元は”練習できていない””仕上がっていない”
と自分でわかっていて自らにかけたプレッシャー、
「緊張状態」今は色々よいメンタル維持についての研究あり
対処法アドバイス・実践も多く見受けますが、それでも一旦陥ると・
なかなか自分でコントロールできない厄介な代物、
これが一・二秒の数ワードにより一瞬で解ける、その体感と
意識の不思議は今も印象強く残り、もしかしたら
何かの本番前の私を今でも助けてくれているかと
ここで書きながら気づきました。
もうひとつも「緊張」そして「体のリンクとちょっとした時間」になるでしょうか、
この曲は出だしで右手の速い細かい指の動き、5連の装飾符が入ります。
(曲のリンクを下に貼ります)
その出だしがどうしてもスムーズにいかない、何度練習してももつれて綺麗ではない、
特に最初の中指~薬指~中指、本来の細やかで均等なエレガントな響きには
及ばないけれども、なんとか本番までに どうにか弾けたという感じ…
だったのですが、終わって数日後なんとなくもう一度弾けるかな?と
ふとその部分を弾いてみると、それが軽く弾けるのです。
その理由が何となくですがわかり、その時”そんなものなんやな”
と思いました。具体的には無駄なところ、要らない力を入れたまま
繰り返していた、また弾けない弾けないと刷り込んで練習していたこと
←解消・リセット&日(時間)を置くのが有効なこと全体を感じたのでした。
これがちょうど昨日 朗読のレッスン中に「練習」についての
のお話で先生が仰ったこととも重なったのでした。
この曲のリンクを貼ります♪ショパン15才の時の作品だそうです。
魅力的なフレーズとメロディー、豪華な和音、天才の記念すべき作品1、
のちのポロネーズ・バラード・スケルツォの美質も内包される
とても素敵な曲。(へたな人=私が弾いて良かったのかどうか、
そしてこれをよく暗譜できたと思う)
2015年ショパンコンクール第六位入賞のかた
Dmitry Shishkin - Rondo in C minor Op.1(second stage) の動画が
見つかりました。9分弱です。
もうひとつ同じ時のノクターンの動画も合わせて、もし良ければ‥
Dmitry Shishkin - Nocturne in E flat major Op.9No.2(second stage)
他に良い動画もたくさん上がっていますね^^♪
ショパンの協奏曲は長いのでどうしようかなと迷いましたが
今の季節によくあるのでお時間があればどうぞ(44分ほど)
♪)音の響きの原体験
家にいれば何かは聴きながらする ながら族ですが
(と今も言う?)ライフワークとして英語講師であり、そして
朗読に携わるようにもなった頃から 声・音の響きや広がりのことは
始終考えているのですが、その中でも折に触れよみがえる
小さい時の記憶があります。
先日奈良ホテルのBGMでかかっていた懐かしい曲のおかげで
また色々思い出したもので、
音の響きについて、初めて子供なりに感じて考えた
原体験といってもよいかもしれません。
それは本当にピアノを習い始めてすぐ、幼稚園の年長の頃のこと、
上記の先生の前で初めてピアノを教わった先生との体験です。
とてもしっかり教えてくださった良い先生でした。
習い始め、ピアノを弾くお稽古に入る前に
音符とト音記号とヘ音記号を書く練習があり
横長の画用紙で子供用の大きな五線は母が書いてもらって
その上に、五歳の頃の私にはト音🎼記号が難かしく、先生のチェックも厳しくて
線との接点、クロスの位置、形など何回も練習したのも懐かしい思い出です。
そして同じころ弾く前にお指の体操もあり、
この時の先生の説明が音の原体験なのですが
確かピアノの蓋で、ピアノを弾くつもりの手の形で
両手を丸く伏せて…卵包むような形にして
指を付け根からしっかり上げて、
そこから力抜いてトンっと落とす、のを指一本ずつ
十指でします。
ここで、指を落とすときに肩や手に力を
入れないように…というのがポイントで
先生でそれはなぜか、を見せて聴かせてくれたのが
鉛筆を持って音をだす二つの動作、
ひとつは力を入れて鉛筆を握りしめたかたちで、
鉛筆底でピアノ蓋叩く、
もう一つは鉛筆は持っているけれど
軽く持って、手全体の力は入れないで鉛筆を
落とすようにする、
鉛筆と音の響きをだすピアノの蓋とは
ほんの二・三センチ、ピアノに傷がついても
いけないしでほんの小さな動作の中での違い、
「力を入れすぎるとこんな固い音、
そのまま落とすとよく響く音、わかる?」
と先生の二通りの説明がありました。
確かに前者では、擬音語ではお伝え難しいのですが
コン、とかクン、というような
つまった広がらない、子供の耳でも耳障りな音、
後者では
コォン‥とただの鉛筆と蓋でもきれいな
小さくても響きが広がる音、
手や体のどこもかしこも力んでしまっては良い音がでない、
小さな音でも自然な「響き」は心地よい…
そういえば、今思い出しましたがピアノ弾き始めの頃、弾いている途中で
時おり先生がふっと手を下に入れて私の手首をすっと
持ち上げられたことも数回ありました。
余計な力が入っていなければ先生の手とともに私の手も軽くあがって○、
力が入っていて先生の手とともにあがらないのは✖、
力をいれなくても手首から肘を水平に保つことは
子供でもできてくる頃のことだったかと思います。
徒な力みは、もし大きく鳴らせても良い響きをもたらさない、
演奏のために必要な良い姿勢を保つため整える体の位置以外、
抜くべきところの力は抜いて柔らかく などは大人では、
楽器、声楽、そのほかの分野でもよく知られていることで、
プロの演奏家やアマチュアの音楽愛好家のかたがたは
会得されていることではあります。
けれどその時はまだ幼稚園児だった私、
その小さな実験で教わったことが新鮮な驚きだったのでした。
確かこの時 音の”大きさ”と”響きの良さ”
は別、という先生の教えもあったと思います。
今でも先生の鉛筆を持った手、
その時の音もはっきり記憶に残っています。
先週日曜日、奈良の、とある新刊発売記念の催事の中の
朗読でお呼びいただき貴重なひとときを
過ごすことができたのですが
この時も朗読をどのような声で?と自問し何点か思案したのち
自分の音の響きの原点にやはり還ってきたのでした。
もちろん、表現の手法で思い切り力を入れて音を出す、
濁った響き、潰れた声、不協和音などを選んで使うこともありますね。
綺麗なだけでは成り立たない、ひとの心と体・感情、環境があり
その表現に引き込まれることもあります。
けれど私の場合は、今そしてこれからも
音~声の響きの原点に帰る作業があるとき
この小さな鉛筆と響きのシーンをきっと思い出すのです。
朗読のレッスンの中で、ごく最近
「一音一命」
という言葉に出会いました。
また息子がピアノを7年ほど教わったピアノ教室の
スズキメソード、そのある年のグレード修了証の
創始者 鈴木鎮一先生の
「美しき音に命を」この言葉も今も心に残ります。
(息子は忘れているでしょう)
なぜか残って胸を離れない、それは本質に同調するから
ということがあるのでしょう。
しかし理想は彼方、終着点のない道程の半ばなので
普段は外向けに言わずにしまっていく
言葉かもしれませんが
blogの訪問者みなさまと分かち合えるのも
きっと佳いご縁、おつきあいくだされば
とても嬉しいです。