エッセイの最後の章です。
当たり前のことですが、人は人との関係性の中で生きています。
他人との距離の取り方というか、コミュニケーションのことに深く踏み入ったのは、自閉症の息子を見ていたからでした。
私自身もかつては人との関わりに苦労した経験があり、それは取りも直さず自分でこしらえた壁があったからだったと気づいたのは、ついこの前のような気がします。
「出会い」がもたらす奇跡を十分に享受するためにも、自分を解放し壁を壊し、恐れずに生きていければと思うのです。
《最後の最後に言うことば》
最近通っている歯科医院で、担当医に深刻な顔で紹介状を渡された。
実は、2週間以上前に抜歯した痕から今なお出血がひどく、麻酔のための針をさしてもすぐ出血してしまう状態だったのだ。何らかの病気が潜んでいては大変だから、早急に検査するようにということであった。
近頃は年齢的なものからくる疲労などは感じても、とりあえず健康体だと信じて疑わなかった私だが、この時ばかりはさすがに診療台の上で万一のことを考えて沈んでしまった。
一端、頭の中で悪いシュミレーションを始めると、いろんなことが妄想のように浮かんでくる。自分はまだやり残したことだらけであることとか、今はまだ子どもをひとり残しては逝けないという無念とも執着ともつかない思いが胸を締め付ける。
とりわけ、一体私は今までの人生でホントに愛というものを学んで来ただろうか?という疑問が湧き上がって仕方なかった。
話は変わるが、つい先だって、あの写真家のアラーキーこと荒木経惟氏にポートレイトを撮ってもらうという千載一遇のチャンスがあり、生まれて初めて「モデル」の体験をしたのである。
その時の、カメラマンの荒木氏と被写体としての自分とのほんの一瞬ではあるが、その場で創り出される「関係性」というものに、非常に新鮮な驚きを覚えてしまった。
簡単に言ってしまうと、撮られることが快感になっていくような、そんな感じだ。
実際、氏は自分の本の中で「ポートレイトはやっぱり難しい。お互いの感情のぶつかり合いになるから、なかなか撮れるもんじゃない。よくオレは『相手へのオマージュだ』って言ってるけど、オブジェにしちゃいけない。相手が喜んでくれなくちゃ」と述べている。
写真を撮る瞬間に感じたことで作られる関係性も、撮っていくうちに「違うな」と思うと、どんどん変えていくのだそうだ。いとも簡単に。
あの撮影現場のイキイキした楽しさというのは、そういう氏の変化を受け入れ楽しむスタンスから生まれてくるものだったのだ。
実はこれってパートナーシップについても同じことが言えるんじゃないの?と思う。
「この人は“運命の人”だろうか?」なんて、誰かと出会うたびに期待をしたり枠付けしたりすることが、相手と生き生きした関係性を作る妨げになっているかもしれないではないか。
出会った人と自然体で相対し、時間や環境の移ろいの中での変化も柔軟に受け入れ、その都度新たな関係性を作り直していくというような、細やかなパートナーシップを私は未だに結べていないような気がする。そうやって育まれる「愛」を私はまだ知らない。
こんなことはしちゃいられない! さっさと身体のメンテナンスをして元気を復活させなくっちゃ!
「あなたに再び会うために生まれた」そう言葉に出来るのは、永い時をかけてパートナーシップを育んだ、最後の最後に生まれる言葉なのだから。 おわり
※画像はアラーキー氏による撮影現場のスナップ(わたし本人です)