アイラブ桐生
(1) 序章・「やんちゃ」時代の想い出
(山に囲まれた織物の町、それが群馬県の桐生市です)
北関東の奥座敷。
はるか東北まで至る山塊の山裾にいだかれた織物の町・桐生市は、
私の青春時代がいまでも静かに眠り続けている町です。
「西の西陣、東の桐生」と歌われ
絹織物の町としてたいへんに繁栄をしたという古い歴史を持っています。
といっても、それはもう過去の話で約半世紀以上もむかしの話です
夏祭りの八木節のリズムと、機織りの機械が作り出すリズミカルな騒音は、
桐生では、ごく当たり前といえる日常の音であり、生活そのもののリズムです。
そんな桐生で、「やんちゃ」にすごした青春時代について、
少しづつ、思い出しながら書きすすめたいと思います。
私が生まれて育った桐生市は、三方をきっちりと山塊に囲まれています。
一方だけ開けていますが、いわゆる盆地に近い地形です。
しかもこの狭い市街地の中を2本の河川が、東と西のそれぞれを流れています。
扇のように山裾から広がり始めた桐生の市街地は、7~8キロもいかないうちに
早くも、北から流れてきた渡良瀬川によって、家並みを阻まれてしまいます。
東側は、山懐に源を持つ桐生川によって、こちらも町並を東西に隔てられています。
高い建物などは、ほとんど見当たりません。
特に、市街地作りの基点とされている桐生天満宮の付近には、
昭和初期から大正にかけて建てられたという木造住宅が、約400軒のうちの
半数以上を占めています。
桐生の下町を象徴する、きわめて細い路地が、ここにはたくさん残っています。
人一人がやっと歩ける路地がたくさん交差をしている狭い街、
それが私の産まれた桐生です。
三角屋根で「のこぎり屋根」と呼ばれた織物工場跡もたくさん残っています。
かつては桐生は織物の町として全国に知られ、その主役をに担った「おり姫」さんたちが、
各地からたくさん集まってきました。
私のおふくろも、そうした『おり姫』の一人です。
乙女のころから、もう一人前の「織姫」としてこの下町で、
朝から夜遅くまでせっせと機(はた)を織り続けていたそうです。
桐生はまた、 「桐生は着道楽、男のおしゃれ」と桐生音頭にもあるように、
機屋(はたや)が栄え、旦那衆が着飾り、かつよく遊んだという町です。
絹産業をささえてきた機屋(はたや)の三角屋根の工場は、
全盛期には市内で数百にも及んだと、古い資料には残っています。
それを物語るように今でも市内の各地に、既に使われていないのこぎり屋根の工場が、
いまだに(当時の様子のままに)200近くが残っています。
織物の町に、男衆の働く場所はありません。
働き者の織り姫たちに支えられ、男たちは遊びに現(うつつ)をぬかします。
地元の名士や旦那衆たちが、芸妓を引き連れて華やかに遊んだ、北関東いちと言われた、
花柳界が桐生の一角には有りました。
それが「仲町通り」と呼ばれた歓楽街のことです。
驚ろくべきことにこの歓楽街の入口には、名士たちのロータリークラブがあり、
その本拠となる建物がそびえています。
地位と名声を勝ち取った地元経済界の男たちの社交の場である、
「桐生倶楽部」が、洒落た地中海風の洋式建築で、それこそデンとそびえています。
しかし飲み屋街の入口としては、まったくもって不釣り合いと言える建物です。
この路地は、桐生芸者たちも歩きました。
置き屋が一件だけあり、『絹芸者』を名乗る10名余りの芸妓が籍を置いていました。
日中は浴衣姿の芸妓が路地を艶めいて歩き、正装をした男たちは、黒塗りの乗用車で
社交の場・「桐生倶楽部」へ乗りつけました。
こちらで豪勢な食事を済ませてから、日暮れと共にネクタイを緩め
割烹や小料理屋が立ち並び、芸妓たちが待つ二階の御座敷へと消えていきます。
それが仲町という歓楽街の、ごく当たり前の毎日の光景でした。
この街の人々が長年にわたって織りなした古い歴史と、
長年続いてきた機織りの機械の音が、そのまま私の育ってきた「ゆりかご」です。
1970年代に入ると、経済が急速な成長を遂げ始めます。
田舎の町にも(時節に乗って)さまざまな新しい文化とブームと呼ばれる風潮が押しかけてきます。
特に、物欲がからんだ大量消費という波は、それまでの日々の暮らしまでも変え始めました。
学生と高校生の数が多い桐生へ、きわめて激しい学生運動や安保闘争などという
時代の波までもが、ついでのように押し寄せてきました。
平穏に暮らしてきた若者たちの間に、こうした時代の波が静かに浸透をはじめました。
やがて、戦争を知らない若い世代が、70年代の安保闘争に立ちあがります。
政治の深淵さえよく理解をしていないうちに、若者たちは熱病のように首都・東京へ
連日、抗議のデモ行進のために押しかていくようになりました。
そんな時代を背景にして、4年にわたる私の青春の「放浪」が始まります。
最初のやんちゃが、「家出」です。
しかしまずは、私の初恋の話から始めたいと思います。
私にとって欠かせない永遠の人、レイコをまず紹介したいと思います。
この3部作を通じて、常に変わらずに私を支えてくれていたレイコは、
実は、産まれた時から近所に居たという幼馴染みで、かつ同級生の一人です。
(大谷石で造られた三角屋根。『のこぎり屋根』とよばれた織物工場跡のひとつです)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(1) 序章・「やんちゃ」時代の想い出
(山に囲まれた織物の町、それが群馬県の桐生市です)
北関東の奥座敷。
はるか東北まで至る山塊の山裾にいだかれた織物の町・桐生市は、
私の青春時代がいまでも静かに眠り続けている町です。
「西の西陣、東の桐生」と歌われ
絹織物の町としてたいへんに繁栄をしたという古い歴史を持っています。
といっても、それはもう過去の話で約半世紀以上もむかしの話です
夏祭りの八木節のリズムと、機織りの機械が作り出すリズミカルな騒音は、
桐生では、ごく当たり前といえる日常の音であり、生活そのもののリズムです。
そんな桐生で、「やんちゃ」にすごした青春時代について、
少しづつ、思い出しながら書きすすめたいと思います。
私が生まれて育った桐生市は、三方をきっちりと山塊に囲まれています。
一方だけ開けていますが、いわゆる盆地に近い地形です。
しかもこの狭い市街地の中を2本の河川が、東と西のそれぞれを流れています。
扇のように山裾から広がり始めた桐生の市街地は、7~8キロもいかないうちに
早くも、北から流れてきた渡良瀬川によって、家並みを阻まれてしまいます。
東側は、山懐に源を持つ桐生川によって、こちらも町並を東西に隔てられています。
高い建物などは、ほとんど見当たりません。
特に、市街地作りの基点とされている桐生天満宮の付近には、
昭和初期から大正にかけて建てられたという木造住宅が、約400軒のうちの
半数以上を占めています。
桐生の下町を象徴する、きわめて細い路地が、ここにはたくさん残っています。
人一人がやっと歩ける路地がたくさん交差をしている狭い街、
それが私の産まれた桐生です。
三角屋根で「のこぎり屋根」と呼ばれた織物工場跡もたくさん残っています。
かつては桐生は織物の町として全国に知られ、その主役をに担った「おり姫」さんたちが、
各地からたくさん集まってきました。
私のおふくろも、そうした『おり姫』の一人です。
乙女のころから、もう一人前の「織姫」としてこの下町で、
朝から夜遅くまでせっせと機(はた)を織り続けていたそうです。
桐生はまた、 「桐生は着道楽、男のおしゃれ」と桐生音頭にもあるように、
機屋(はたや)が栄え、旦那衆が着飾り、かつよく遊んだという町です。
絹産業をささえてきた機屋(はたや)の三角屋根の工場は、
全盛期には市内で数百にも及んだと、古い資料には残っています。
それを物語るように今でも市内の各地に、既に使われていないのこぎり屋根の工場が、
いまだに(当時の様子のままに)200近くが残っています。
織物の町に、男衆の働く場所はありません。
働き者の織り姫たちに支えられ、男たちは遊びに現(うつつ)をぬかします。
地元の名士や旦那衆たちが、芸妓を引き連れて華やかに遊んだ、北関東いちと言われた、
花柳界が桐生の一角には有りました。
それが「仲町通り」と呼ばれた歓楽街のことです。
驚ろくべきことにこの歓楽街の入口には、名士たちのロータリークラブがあり、
その本拠となる建物がそびえています。
地位と名声を勝ち取った地元経済界の男たちの社交の場である、
「桐生倶楽部」が、洒落た地中海風の洋式建築で、それこそデンとそびえています。
しかし飲み屋街の入口としては、まったくもって不釣り合いと言える建物です。
この路地は、桐生芸者たちも歩きました。
置き屋が一件だけあり、『絹芸者』を名乗る10名余りの芸妓が籍を置いていました。
日中は浴衣姿の芸妓が路地を艶めいて歩き、正装をした男たちは、黒塗りの乗用車で
社交の場・「桐生倶楽部」へ乗りつけました。
こちらで豪勢な食事を済ませてから、日暮れと共にネクタイを緩め
割烹や小料理屋が立ち並び、芸妓たちが待つ二階の御座敷へと消えていきます。
それが仲町という歓楽街の、ごく当たり前の毎日の光景でした。
この街の人々が長年にわたって織りなした古い歴史と、
長年続いてきた機織りの機械の音が、そのまま私の育ってきた「ゆりかご」です。
1970年代に入ると、経済が急速な成長を遂げ始めます。
田舎の町にも(時節に乗って)さまざまな新しい文化とブームと呼ばれる風潮が押しかけてきます。
特に、物欲がからんだ大量消費という波は、それまでの日々の暮らしまでも変え始めました。
学生と高校生の数が多い桐生へ、きわめて激しい学生運動や安保闘争などという
時代の波までもが、ついでのように押し寄せてきました。
平穏に暮らしてきた若者たちの間に、こうした時代の波が静かに浸透をはじめました。
やがて、戦争を知らない若い世代が、70年代の安保闘争に立ちあがります。
政治の深淵さえよく理解をしていないうちに、若者たちは熱病のように首都・東京へ
連日、抗議のデモ行進のために押しかていくようになりました。
そんな時代を背景にして、4年にわたる私の青春の「放浪」が始まります。
最初のやんちゃが、「家出」です。
しかしまずは、私の初恋の話から始めたいと思います。
私にとって欠かせない永遠の人、レイコをまず紹介したいと思います。
この3部作を通じて、常に変わらずに私を支えてくれていたレイコは、
実は、産まれた時から近所に居たという幼馴染みで、かつ同級生の一人です。
(大谷石で造られた三角屋根。『のこぎり屋根』とよばれた織物工場跡のひとつです)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/