アイ・ラブ桐生 第一部
(7) 第二章 八木節祭りの夜(前)
・八木節
アヽヽアー 又も出ました 三角野郎が
四角四面の やぐらの上で 音頭とるとは
おゝそれながら 国の訛りや 言葉の違い
許しなされば 文句にかかるが
オヽイサネ
アヽヽアー ここに名高き 国定忠治
国は上州 アノ 佐波郡音に聞こえた
国定村の親の名前を
忠兵衛というて 二番息子が忠治でござる
生まれついての任侠肌で 音にきこえた
国定村の 人のためなら けんかもなさる
アヽヽアー 人もうらやむ 大貸元で
頃は弘化の 三年九月 今日もあしたも
あしたも今日も 今日もあしたもあしたも
今日も勝負勝負で其の日を送る
アヽヽアー もっとこの先よみたいけれど
手で長いはまたよけれども 下手で長いは
おんざの邪魔よ やめろやめろの声なきうちに
ここら当りで 段切まするが オヽイサネ
■群馬の民謡、「八木節」です。
木の樽を叩いて音頭をとり、リズミカルなお囃子は和製のサンバとも言われています。
古今の出来事を物語として歌い上げ、独特の節回しを持っています。
手踊り、傘踊りなど踊りも多彩です。
音頭取りと踊り手が一体となるのが八木節音頭の特徴で、
櫓(やぐら)が建ちならんだかつての「本町通り」では、踊り手たちの
人の波が道路を埋め尽くしました。
桐生の夏は、気温の上昇と共に、
この軽快なリズム持ったお囃子が、町内のいたるところから響くようになります。
町内ごとに始まったこの夏の踊りとお囃子の稽古は、やがて市内のすべてに及んで、
桐生の街全体を祭り一色に包み込んでいきます。
桐生市に生まれた市民なら
この樽を叩く八木節音頭のリズムは、生まれた時から身体に沁みこんでいます。
かく言う私もそれはまったく同じ事です。
祭りのたびに、この八木節音頭に「どっぷり」と浸ってきました。
お囃子の音を聞くだけでも、もう、ウズウズと身体が動き、血が騒ぎます。
調理実習も二年にわたるの研修期間が、無事に終わりました。
配属先も決まり、地元に近いとある温泉旅館の板場で、私の板前修行は始まりました。
しかし板前見習いにはなったものの、まだ心にはわだかまりを残していました。
図案師への道は閉ざされたものの、いまだにデザイン関係の仕事に未練を抱えています。
ただ単に、手に職を付けて行くためだけの、板前修行の日々が始まりました。
板場の仕事は、調理の種類ごとに細分化をされています。
新人に与えられる最初の仕事といえば、後かたずけと、食器と道具類の手入れのみです。
先輩達から最初に仕込まれるものは、とにかく粘り強くなることと忍耐を覚えることでした。
仕事を覚える前に、まずは職人への適応能力が試されます。
雑用ばかりをひたすら繰り返し指示された揚句に、忍耐強いことが認められると、
次にようやく、調理のための下ごしらえの段階に進むことができます。
これにも昇進の順序が有って、野菜から魚へ、さらに肉へとその階段をあがります。
煮物や魚の焼き物から始まって、汁もの、お造り(刺身など)などを、
その日の献立にしたがって仕上げることを任されるのは、これらの下積み修業を終えた
一人前の板前さん達だけに限られています。
調理ごとに、その専属の板前さんが配置されています。
多くの新人や若手たちはその下準備や補助役として、常に先輩たちから厳しく
叱られながら、毎日にわたって手荒くこき使われました・・・・
この年の八木節祭りには、一人で行くことになってしまいました。
いつも一緒に行く相棒が、些細な交通事故で足を折り入院をしてしまったためです。
桐生市内では祭りの期間中にかぎり、24時間にわたって大幅な交通規制がかかります。
別ルートを使って迂回をしながらも、比較的効率よく目的地に近づく
市内循環のバスを利用するというのが、これまでの常套でした。
しかし今回に限って一人ということもあり、自分の車で出掛けることになりました。
迷路のよう煮入り組んだ桐生の細い路地をいくつも、すり抜けました。
予期せぬ迂回を何度か繰り返した結果、「本町通り」のすぐ近くにある小さな空き地へ、
無事に駐車ができた時には、我ながら上出来と、思わずひとりで自分をほめました。
夕暮れと共に、市街地の中心を貫くこの「本町通り」は、
路面のすべてが解放される歩行者天国となって、祭りのメイン会場へと早変わりをします。
高さが10m以上にもなる八木節音頭用の櫓(やぐら)が
通行止めとなった本町通りのど真ん中へ、町内ごとに次々と引き出されます。
路上に待機していた音頭取りと囃子手たちが、我先にと壇上へ登りはじめます。
周囲には気の早い踊り手たちが早くも輪になり、櫓を取り囲みます。
踊り手たちは準備中の櫓を見上げては、「早くはじめろ」と口々に囃したてます。
こうして祭りの本番に入った桐生市では、本町通りの北から南までのすべてにわたって、
細長い八木節祭りの競演会場が出来上がります。
そんな熱気の中を、ようやく暗闇がおりてきました。
時刻は午後の7時を少し回ったばかりです。
駅から、祭り会場になっている本町通りへと向かうアーケードの通りを
人の波に押されながら、歩いている時のことでした。
人の流れに逆らいながら、見覚えのある女性がひとり、浴衣姿で
こちらへやって来るのが見えました。
・・・・レイコです。
こいつがあらわれるのは、いつもだしぬけで、かつ突然です。
赤い鼻緒の下駄の片方だけを手に持ったレイコの、もう片方の足は、裸足のままでした。
乱れかける浴衣の前をもう片方の手で必死に押さえながら、懐かしいその顔は
なぜかもう、涙でクシャクシャのようさえ見えました。
(あらぁ・・・何が有ったんだ、こいつ。今回は)
なにやら今回だけは、いつもと様子が大違いです。
水がすっかり切れてしおれきった花瓶の花のように、
がっくりとうなだれたレイコが、遂にその場に立ちつくしてしまいました。
一度だけ後ろを振り返りました。
しかし後方から誰も追ってこないことを確認すると、ようやくあきらめがついたのか、
ポンと下駄を乱暴に投げ捨ててから、両方のこぶしで目がしらをぬぐいはじめます。
呆気にとられたまま、私もその様子をただただ見つめているばかりで、
なぜか、レイコへ声をかけることが出来ずにいました。
ひとしきり泣きじゃくった後、やっとレイコがクシャクシャの顔を上げました。
手のひらで足の裏をポンポンと叩いてから、フンと小鼻を鳴らし、
転んでいる下駄を乱暴に突っかけます。
肩でひとつ、大きく息を吐き出してから、もう一度だけ両方の目尻をぬぐい、
再び、トボトボと歩道を歩きはじめました。
その瞬間に私とすれ違ったというのに、レイコは、まったく気ずかずに、
そのまま他人のように通り過ぎて行きます。
「え?どうしたんだ、こいつ・・・」
いつものレイコとは、まったく何かが違っています。
たった今、すれ違ったその瞬間、それに初めて気がつきました。
いつもより、ずいぶんと髪が短くなっていました。
ボブカットという、最近流行っている短めの髪型に変わっているレイコでした。
(へぇ~ショートの髪にしたんだ・・あのレイコが)
レイコは幼いころから長い髪が大好きでした。
デモ行進のデートの時、背中の中ほどまで有った長い髪のレイコとはまるで、別人です。
それでも初めてみるレイコの短い髪もまた、私には別の意味で新鮮でした。
こちらから声をかけようとしたら、
今度は、崩れ落ちるように、その場にレイコが座りこんでしまいました。
どうした?今度は何だ ・・・・なにが有ったんだ、お前。
とにかく人の流れを避けて、馴染みの喫茶店まで引っ張り込むまでが、実に大変でした。
「なんで、こんな詰まらないところに、あんたがいるのさ。」
・・・それは、こっちがレイコに聞きたいくらいです。
ようやく落ち着きをみせたかと思えば、また突然泣きじゃくって、大暴れを繰り返します。
・・・・おいおい、暴れるなよ、浴衣が大変なことになるぜ・・・・
やがて疲れきって身体の力も抜けたのか、レイコが座席に座って悄然としました。
最初に頼んでおいた私のホットコーヒーは、口をつける暇さえなかったために、
今はすっかりと冷めきっていました。
覚悟を決めて一気に口に含んだものの、それはまるでやっぱり、
出来損ないのアイスコーヒー、そのものでした。
「それで・・なにが有ったんだ。人ごみの中を裸足で歩くなんて?」
「あんたには関係ない。大きなお世話です!。」
また、レイコを元気にさせてしまいました。
これ以上、相手にしてはさらに面倒なことになると考え、
タバコが空になったのをきっかけに、立ちあがるとカウンター側へ移動をしました。
パイプをふかして暇そうなマスターを呼び寄せると、ウイスキーのダブルと煙草を頼み、
それを待っている間、少しだけ男同士の立ち話が始まりました。
気になってチラリと振り返った時に、
何故かレイコの姿は座席に見えず、いつのまにか私の視界から消えていました。
(どうせ、お手洗いか何かだろう・・・・崩れた化粧直しかな・・・
すぐにまた機嫌を直してあらわれるだろう。
あいつの取り柄と言えば、立ち直りの素早さだ。心配には及ぶまい・・・)
ところがレイコは、そんな私の油断を見透かして突然、背中越しに現れました。
あっと言う暇もなく、目の前に置かれたグラスをわし掴みに奪い取られてしまいました。
おい、呑んでもいいが気をつけろ。それはウイスキーのダブルだぞ・・・・
「おかわり!」
レイコは心配をよそに、それを一気にあおったあげく、空になったグラスを、
ドン!と勢いよくカウンターの上へ、割れんばかりに叩き置きました。
「何杯飲んで構わないが・・・・
とりあえずこれ以上、訳も解らずに、荒れるのだけは勘弁してくれ。
俺でよければ、今晩くらいはつきあうから。
いい加減で、機嫌を直せ」
そう声をかけると案外、素直にレイコが頷きますした。
唇に着いたアルコールを、私から奪い取ったおしぼりでふき取ってから、
いままでにないほどの、低い声で、
「そうするから、ひとつだけ、私の頼みを聞いて」とつぶやき始めます。
少しだけ背筋を、 嫌な予感が走りました。
レイコが、悪戯っぽい目で私を見る時には、ほとんどの場合、
途方もないお願い事が待っているのです・・・・
やはり、いつものように、
「今から、海が見たい」と言いだしました。
「はぁぁ!・・・・?」
今夜は、桐生の町の全てが、うかれきっている八木節祭りの真最中です。
これから本町通りでは、祭りのメインでもある八木節の競演会もはじまります。
しかしレイコは、そんなことには全く興味が無いようです。
早くこんな縁起の悪い浴衣は脱ぎすてて、あの騒々しくて煩いだけの
八木節もたった今から私は大嫌いになったから、こんな町からは、
一刻も早く抜け出したいと・・・・即座にその場で言い切ってしまいました。
「誰もいない海が見たいから、早く連れていって。」
と、その一点張りを意固地になって、何度も繰り返しています・・・・
それはいいけれど、手元に着替えさえもないままでは、
どうすることもできないだろうと、極力控えめに反論などをしてみると、
「親友のM子に頼むから、そんなことなら、即、大丈夫だわ。」
と早速、電話をかけるために、レイコはよろめきながら立ちあがります。
(M子だって・・・M子は、俺の初恋の相手だぜ。お前、よりによって・・・・)
それ以上の反論などを、考えつく暇がありません。
電話を終えたレイコは、席へ戻って来たとたんに、私の腕をつかみました。
話は全てついたから、さあ、今から心おきなく出掛けましょう!と、
ついさっきまで泣いていたカラスは、あっというまに笑っています。
(8)へつづく
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(7) 第二章 八木節祭りの夜(前)
・八木節
アヽヽアー 又も出ました 三角野郎が
四角四面の やぐらの上で 音頭とるとは
おゝそれながら 国の訛りや 言葉の違い
許しなされば 文句にかかるが
オヽイサネ
アヽヽアー ここに名高き 国定忠治
国は上州 アノ 佐波郡音に聞こえた
国定村の親の名前を
忠兵衛というて 二番息子が忠治でござる
生まれついての任侠肌で 音にきこえた
国定村の 人のためなら けんかもなさる
アヽヽアー 人もうらやむ 大貸元で
頃は弘化の 三年九月 今日もあしたも
あしたも今日も 今日もあしたもあしたも
今日も勝負勝負で其の日を送る
アヽヽアー もっとこの先よみたいけれど
手で長いはまたよけれども 下手で長いは
おんざの邪魔よ やめろやめろの声なきうちに
ここら当りで 段切まするが オヽイサネ
■群馬の民謡、「八木節」です。
木の樽を叩いて音頭をとり、リズミカルなお囃子は和製のサンバとも言われています。
古今の出来事を物語として歌い上げ、独特の節回しを持っています。
手踊り、傘踊りなど踊りも多彩です。
音頭取りと踊り手が一体となるのが八木節音頭の特徴で、
櫓(やぐら)が建ちならんだかつての「本町通り」では、踊り手たちの
人の波が道路を埋め尽くしました。
桐生の夏は、気温の上昇と共に、
この軽快なリズム持ったお囃子が、町内のいたるところから響くようになります。
町内ごとに始まったこの夏の踊りとお囃子の稽古は、やがて市内のすべてに及んで、
桐生の街全体を祭り一色に包み込んでいきます。
桐生市に生まれた市民なら
この樽を叩く八木節音頭のリズムは、生まれた時から身体に沁みこんでいます。
かく言う私もそれはまったく同じ事です。
祭りのたびに、この八木節音頭に「どっぷり」と浸ってきました。
お囃子の音を聞くだけでも、もう、ウズウズと身体が動き、血が騒ぎます。
調理実習も二年にわたるの研修期間が、無事に終わりました。
配属先も決まり、地元に近いとある温泉旅館の板場で、私の板前修行は始まりました。
しかし板前見習いにはなったものの、まだ心にはわだかまりを残していました。
図案師への道は閉ざされたものの、いまだにデザイン関係の仕事に未練を抱えています。
ただ単に、手に職を付けて行くためだけの、板前修行の日々が始まりました。
板場の仕事は、調理の種類ごとに細分化をされています。
新人に与えられる最初の仕事といえば、後かたずけと、食器と道具類の手入れのみです。
先輩達から最初に仕込まれるものは、とにかく粘り強くなることと忍耐を覚えることでした。
仕事を覚える前に、まずは職人への適応能力が試されます。
雑用ばかりをひたすら繰り返し指示された揚句に、忍耐強いことが認められると、
次にようやく、調理のための下ごしらえの段階に進むことができます。
これにも昇進の順序が有って、野菜から魚へ、さらに肉へとその階段をあがります。
煮物や魚の焼き物から始まって、汁もの、お造り(刺身など)などを、
その日の献立にしたがって仕上げることを任されるのは、これらの下積み修業を終えた
一人前の板前さん達だけに限られています。
調理ごとに、その専属の板前さんが配置されています。
多くの新人や若手たちはその下準備や補助役として、常に先輩たちから厳しく
叱られながら、毎日にわたって手荒くこき使われました・・・・
この年の八木節祭りには、一人で行くことになってしまいました。
いつも一緒に行く相棒が、些細な交通事故で足を折り入院をしてしまったためです。
桐生市内では祭りの期間中にかぎり、24時間にわたって大幅な交通規制がかかります。
別ルートを使って迂回をしながらも、比較的効率よく目的地に近づく
市内循環のバスを利用するというのが、これまでの常套でした。
しかし今回に限って一人ということもあり、自分の車で出掛けることになりました。
迷路のよう煮入り組んだ桐生の細い路地をいくつも、すり抜けました。
予期せぬ迂回を何度か繰り返した結果、「本町通り」のすぐ近くにある小さな空き地へ、
無事に駐車ができた時には、我ながら上出来と、思わずひとりで自分をほめました。
夕暮れと共に、市街地の中心を貫くこの「本町通り」は、
路面のすべてが解放される歩行者天国となって、祭りのメイン会場へと早変わりをします。
高さが10m以上にもなる八木節音頭用の櫓(やぐら)が
通行止めとなった本町通りのど真ん中へ、町内ごとに次々と引き出されます。
路上に待機していた音頭取りと囃子手たちが、我先にと壇上へ登りはじめます。
周囲には気の早い踊り手たちが早くも輪になり、櫓を取り囲みます。
踊り手たちは準備中の櫓を見上げては、「早くはじめろ」と口々に囃したてます。
こうして祭りの本番に入った桐生市では、本町通りの北から南までのすべてにわたって、
細長い八木節祭りの競演会場が出来上がります。
そんな熱気の中を、ようやく暗闇がおりてきました。
時刻は午後の7時を少し回ったばかりです。
駅から、祭り会場になっている本町通りへと向かうアーケードの通りを
人の波に押されながら、歩いている時のことでした。
人の流れに逆らいながら、見覚えのある女性がひとり、浴衣姿で
こちらへやって来るのが見えました。
・・・・レイコです。
こいつがあらわれるのは、いつもだしぬけで、かつ突然です。
赤い鼻緒の下駄の片方だけを手に持ったレイコの、もう片方の足は、裸足のままでした。
乱れかける浴衣の前をもう片方の手で必死に押さえながら、懐かしいその顔は
なぜかもう、涙でクシャクシャのようさえ見えました。
(あらぁ・・・何が有ったんだ、こいつ。今回は)
なにやら今回だけは、いつもと様子が大違いです。
水がすっかり切れてしおれきった花瓶の花のように、
がっくりとうなだれたレイコが、遂にその場に立ちつくしてしまいました。
一度だけ後ろを振り返りました。
しかし後方から誰も追ってこないことを確認すると、ようやくあきらめがついたのか、
ポンと下駄を乱暴に投げ捨ててから、両方のこぶしで目がしらをぬぐいはじめます。
呆気にとられたまま、私もその様子をただただ見つめているばかりで、
なぜか、レイコへ声をかけることが出来ずにいました。
ひとしきり泣きじゃくった後、やっとレイコがクシャクシャの顔を上げました。
手のひらで足の裏をポンポンと叩いてから、フンと小鼻を鳴らし、
転んでいる下駄を乱暴に突っかけます。
肩でひとつ、大きく息を吐き出してから、もう一度だけ両方の目尻をぬぐい、
再び、トボトボと歩道を歩きはじめました。
その瞬間に私とすれ違ったというのに、レイコは、まったく気ずかずに、
そのまま他人のように通り過ぎて行きます。
「え?どうしたんだ、こいつ・・・」
いつものレイコとは、まったく何かが違っています。
たった今、すれ違ったその瞬間、それに初めて気がつきました。
いつもより、ずいぶんと髪が短くなっていました。
ボブカットという、最近流行っている短めの髪型に変わっているレイコでした。
(へぇ~ショートの髪にしたんだ・・あのレイコが)
レイコは幼いころから長い髪が大好きでした。
デモ行進のデートの時、背中の中ほどまで有った長い髪のレイコとはまるで、別人です。
それでも初めてみるレイコの短い髪もまた、私には別の意味で新鮮でした。
こちらから声をかけようとしたら、
今度は、崩れ落ちるように、その場にレイコが座りこんでしまいました。
どうした?今度は何だ ・・・・なにが有ったんだ、お前。
とにかく人の流れを避けて、馴染みの喫茶店まで引っ張り込むまでが、実に大変でした。
「なんで、こんな詰まらないところに、あんたがいるのさ。」
・・・それは、こっちがレイコに聞きたいくらいです。
ようやく落ち着きをみせたかと思えば、また突然泣きじゃくって、大暴れを繰り返します。
・・・・おいおい、暴れるなよ、浴衣が大変なことになるぜ・・・・
やがて疲れきって身体の力も抜けたのか、レイコが座席に座って悄然としました。
最初に頼んでおいた私のホットコーヒーは、口をつける暇さえなかったために、
今はすっかりと冷めきっていました。
覚悟を決めて一気に口に含んだものの、それはまるでやっぱり、
出来損ないのアイスコーヒー、そのものでした。
「それで・・なにが有ったんだ。人ごみの中を裸足で歩くなんて?」
「あんたには関係ない。大きなお世話です!。」
また、レイコを元気にさせてしまいました。
これ以上、相手にしてはさらに面倒なことになると考え、
タバコが空になったのをきっかけに、立ちあがるとカウンター側へ移動をしました。
パイプをふかして暇そうなマスターを呼び寄せると、ウイスキーのダブルと煙草を頼み、
それを待っている間、少しだけ男同士の立ち話が始まりました。
気になってチラリと振り返った時に、
何故かレイコの姿は座席に見えず、いつのまにか私の視界から消えていました。
(どうせ、お手洗いか何かだろう・・・・崩れた化粧直しかな・・・
すぐにまた機嫌を直してあらわれるだろう。
あいつの取り柄と言えば、立ち直りの素早さだ。心配には及ぶまい・・・)
ところがレイコは、そんな私の油断を見透かして突然、背中越しに現れました。
あっと言う暇もなく、目の前に置かれたグラスをわし掴みに奪い取られてしまいました。
おい、呑んでもいいが気をつけろ。それはウイスキーのダブルだぞ・・・・
「おかわり!」
レイコは心配をよそに、それを一気にあおったあげく、空になったグラスを、
ドン!と勢いよくカウンターの上へ、割れんばかりに叩き置きました。
「何杯飲んで構わないが・・・・
とりあえずこれ以上、訳も解らずに、荒れるのだけは勘弁してくれ。
俺でよければ、今晩くらいはつきあうから。
いい加減で、機嫌を直せ」
そう声をかけると案外、素直にレイコが頷きますした。
唇に着いたアルコールを、私から奪い取ったおしぼりでふき取ってから、
いままでにないほどの、低い声で、
「そうするから、ひとつだけ、私の頼みを聞いて」とつぶやき始めます。
少しだけ背筋を、 嫌な予感が走りました。
レイコが、悪戯っぽい目で私を見る時には、ほとんどの場合、
途方もないお願い事が待っているのです・・・・
やはり、いつものように、
「今から、海が見たい」と言いだしました。
「はぁぁ!・・・・?」
今夜は、桐生の町の全てが、うかれきっている八木節祭りの真最中です。
これから本町通りでは、祭りのメインでもある八木節の競演会もはじまります。
しかしレイコは、そんなことには全く興味が無いようです。
早くこんな縁起の悪い浴衣は脱ぎすてて、あの騒々しくて煩いだけの
八木節もたった今から私は大嫌いになったから、こんな町からは、
一刻も早く抜け出したいと・・・・即座にその場で言い切ってしまいました。
「誰もいない海が見たいから、早く連れていって。」
と、その一点張りを意固地になって、何度も繰り返しています・・・・
それはいいけれど、手元に着替えさえもないままでは、
どうすることもできないだろうと、極力控えめに反論などをしてみると、
「親友のM子に頼むから、そんなことなら、即、大丈夫だわ。」
と早速、電話をかけるために、レイコはよろめきながら立ちあがります。
(M子だって・・・M子は、俺の初恋の相手だぜ。お前、よりによって・・・・)
それ以上の反論などを、考えつく暇がありません。
電話を終えたレイコは、席へ戻って来たとたんに、私の腕をつかみました。
話は全てついたから、さあ、今から心おきなく出掛けましょう!と、
ついさっきまで泣いていたカラスは、あっというまに笑っています。
(8)へつづく
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/