アイ・ラブ桐生 第一部
(4) 第一章 学生たちの喫茶店(前)
(市街地の中心部になる交差点から)
学生たちがよく集まる「純喫茶」から物語は始まります。
総人口が12万人弱という地方都市の割には、桐生は学生と高校生の多い町です。
(注)人口は、1970年代のものですが現在でも、それほどの推移はありません。
群馬大学の工学部を筆頭に、5つの公立高校と2つの有名市立高校が
ぐるりと山に取り囲まれている狭い旧市街地に、ひしめいています。
市街地の西北部で繁華街をすこし外れた通りに、地下、1,2階ともに、
20~30人は入れるという大きなフロアーを持った喫茶店があります。
ここは今も昔も、学生たちの溜まり場になっています。
地元の絹織物産業で、図案士になりたかったという当初の夢が閉ざされてしまい、
挫折した私が、それならばということで、板前修行を始めました。
高品質で知られ、隆盛を極めてきた桐生市の繊維産業は
海外から輸入される安い絹製品などの市場を席捲され、存続の窮地をむかえていました。
長引く不況の波などにも襲われて、長く続いてきた機織りの歴史が、
終焉を迎えはじめた時期ともいえました。
あたらしい進路を決めたとは言え、どこまでも挫折感をひきずったままの
方向転換のために、あまり気乗りのしない中途半端な板前修業の始まりでした。
その鬱積と生来の好奇心が70年代の若者たちの間で、
大きなうねりを見せはじめた、政治的な青年運動の場へと私を向かわせました。
青年運動の中心的なグループと、某サークルのサブリーダーを務めていたという関係で
群大工学部の学生たちとの交流する機会が随所にありました。
群大工学部の寮へは、学生たちが全国の各地から集まってきます。
二年間を前橋市にある教養学部の荒牧キャンパスで過ごしてから、その後に、
桐生に作られた工学部の学生寮へと移動をしてきます
こうした事情のもとで、青年人口の密度が比較的高い桐生市では、見知らぬ若者同士を繋ぐ
多彩な取り組みが日常的に、盛んに開かれていました。
スポーツや文化の交流活動をはじめ、歌声喫茶なども頻繁に開催され、
同じ年代同士の交流がきわめて早い速度ですすみました。
学生と社会人がいち早く交流を始めたのも、
群大・工学部のこうしたシステムと、桐生独自の文化と風土によるものでした。
余談ですが・・ここで知り合った多くの学生たちとの交遊は、南は鹿児島から、
北は北海道までの広範囲にわたり、今でも季節ごとの便りが届いています。
小さな町で育まれた、手紙だけの長い付き合いはすでに40年を越えました。
時代はちょうど、70年安保の直前でした。
おおくの学園を占拠した学生運動の過激派たちも、すっかりとなりをひそめます。
学園改革の波もすでにピークを過ぎて引き潮となり、学生たちの間には
無感動と無関心という新しい時代の風潮が広がり始めました。
労働運動史に残るほどの激しい戦いを見せてきた労働争議も、各地で相次いで集結をしました。
権利を守るために繰り返されてきた各地の職場での闘争も、一段落を見せました。
こうして長きにわたって時代を揺り動かしてきた大きなエネルギーが、
ひとつづつ消滅をして、世の中には『平穏と安泰』の空気も満ちてくるようになります。
こうした中で、かろうじて生き残った「70年安保」の闘争だけが、
若者たちの希望をあおり、消える前の蝋燭のように唯一の高揚感をあおりました。
とはいえ・・1950年から始まり10年以上にもわたって
熾烈に繰り返されてきた「安保反対闘争」も、70年代の直前に至ると
すでに日米軍事同盟は既成の事実となり、反対運動は無駄という空気さえうまれてきました。
あきらめ感に支配され、盛り上がりに欠けていたこともまた疑いようの無い事実です。
それでも一部の勢力を中心として、根強く「安保」を闘うと言うエネルギーは残りました。
社会党系の「日本社会主義青年同盟」、日本共産党系の「日本民主青年同盟」、
さらに極左勢力の学生を排除した民主的な学生の自治組織などが、それらを代表しました。
その日は、2階で密談の最中でした。
翌日の、国会デモ行進を前にしての打ちあわせです。
集結地まで行く方法と細かい時間の確認、さらに途中の車内での注意事項、
不測の事態に備えての対処の仕方などと、帰り道での諸注意・・等々。
要はグループごとでの前夜における、おのおのの決起集会です。
ふと視線を感じて振り返えると、
同級生で、見覚えのあるような女の子が一人、じっとこちらを見ています。
「さて、誰だろう。」その時は、まったく思い出すことができません。
女子学生たちのグループでも、話は慨に終わったらしく、
一斉に立ちあがた後、あっというまに散りじりになってしまいました。
呼び止める暇も有りません。
こちらのほうでも話は終わり、軽く呑みに出ようということで
階段を降り始めた時のことでした。
「しばらく。」
と女性が、私の前を横切りました。
「あっ」、と気が付き、女性の名前を言おうとしたときに、
「呑みに行くのなら、私も連れてってよ」と、階段を塞いでしまいます。
暗くなりかけた夕闇の気配のなかで、もう一度、しっかりとその顔を確認しました。
やはり久し振りに行き会う、同級生のレイコです。
2年ぶりに見るその顔にはお化粧が施されていて、まったく初めてみる
妖艶な大人の顔のようにも見えました。
「珍しいところで逢うな」
「なぁに言ってんのさ。
この間も行き会っていたわよ。そのつまんない顔をはっきりと見たもの」
「どこで?」
「○○サークルが主催の、歌声喫茶。」
それは月に一度ひらかれる、学生たちの歌声喫茶のことでした。
その場には確かに行きましたが、レイコの顔を見た記憶が私にはまったくありません。
「あいかわらず、なんだから、もう。
せっかく会ったんだもの、呑みに行きましょう。」
「まだ、未成年だろ・・(それは、私も同じですが。)」
「どうせ、行くんでしょ?」
うん、と振り返り、仲間を探すと・・
もう階段にも、降り切った下の空間にも、誰一人として姿が見えません。
みんな帰ったのかと思いながら、ポケットから煙草を取り出すと、
間髪をいれず、瞬時にレイコの指がのびてきました。
「未成年に煙草は、ダメ!。」
ひょいと私の指から煙草の箱を奪い取り、
躊躇も見せずに、無造作にポンと屑籠へ投げ捨ててしまいます。
「酒はいいのかよ」
「ばれなけりゃ、だいじょうぶ!」
こいつは、いつもこういうことを平然と口にする女です。
つかみどころのないくせに、なぜかいつでも決まって、上からの目線で
私にものを言うのです。
「明日の朝は、早いぜ。」
「寝ずに行くもの。」
「大丈夫かよ・・・」
「電車で、寝られるもの・・・」
などと会話しつつ、すでに足はいつもの焼鳥屋へと向いています。
明日の朝、本当に大丈夫かなと思いながらも、先輩の両親が営業している、
縄のれんを目指してレイコと肩を並べて歩きはじめました。
レイコは、油断をしている時に限って、いつも突然にあらわれます。
ぴったりと、いつの間にか私に寄り添っていたかと思えば、
また、あっという間にいなくなってしまいます。
小学校に入る前からも、そうでした。
こいつとは小、中学校と9年間、不思議なくらいにいつも同じクラスでした。
「そういえば、お前。
いつも俺の席の近所にいたよなぁ。
俺の前だったり、後だったり・・」
「何とぼけたことを言ってんの。生まれた月は同じでしょう。
あいうえお順だって、ひとつ違い。
背丈もおなじだったら、
どうやっても、そんな風になるのが、当たり前でしょ。」
なるほど。・・そういうことか。
じゃあ、もう15年ちかくにもなるんだな・・こいつとは。
5へつづく
(桐生の中心部、本町5丁目の歩道から)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(4) 第一章 学生たちの喫茶店(前)
(市街地の中心部になる交差点から)
学生たちがよく集まる「純喫茶」から物語は始まります。
総人口が12万人弱という地方都市の割には、桐生は学生と高校生の多い町です。
(注)人口は、1970年代のものですが現在でも、それほどの推移はありません。
群馬大学の工学部を筆頭に、5つの公立高校と2つの有名市立高校が
ぐるりと山に取り囲まれている狭い旧市街地に、ひしめいています。
市街地の西北部で繁華街をすこし外れた通りに、地下、1,2階ともに、
20~30人は入れるという大きなフロアーを持った喫茶店があります。
ここは今も昔も、学生たちの溜まり場になっています。
地元の絹織物産業で、図案士になりたかったという当初の夢が閉ざされてしまい、
挫折した私が、それならばということで、板前修行を始めました。
高品質で知られ、隆盛を極めてきた桐生市の繊維産業は
海外から輸入される安い絹製品などの市場を席捲され、存続の窮地をむかえていました。
長引く不況の波などにも襲われて、長く続いてきた機織りの歴史が、
終焉を迎えはじめた時期ともいえました。
あたらしい進路を決めたとは言え、どこまでも挫折感をひきずったままの
方向転換のために、あまり気乗りのしない中途半端な板前修業の始まりでした。
その鬱積と生来の好奇心が70年代の若者たちの間で、
大きなうねりを見せはじめた、政治的な青年運動の場へと私を向かわせました。
青年運動の中心的なグループと、某サークルのサブリーダーを務めていたという関係で
群大工学部の学生たちとの交流する機会が随所にありました。
群大工学部の寮へは、学生たちが全国の各地から集まってきます。
二年間を前橋市にある教養学部の荒牧キャンパスで過ごしてから、その後に、
桐生に作られた工学部の学生寮へと移動をしてきます
こうした事情のもとで、青年人口の密度が比較的高い桐生市では、見知らぬ若者同士を繋ぐ
多彩な取り組みが日常的に、盛んに開かれていました。
スポーツや文化の交流活動をはじめ、歌声喫茶なども頻繁に開催され、
同じ年代同士の交流がきわめて早い速度ですすみました。
学生と社会人がいち早く交流を始めたのも、
群大・工学部のこうしたシステムと、桐生独自の文化と風土によるものでした。
余談ですが・・ここで知り合った多くの学生たちとの交遊は、南は鹿児島から、
北は北海道までの広範囲にわたり、今でも季節ごとの便りが届いています。
小さな町で育まれた、手紙だけの長い付き合いはすでに40年を越えました。
時代はちょうど、70年安保の直前でした。
おおくの学園を占拠した学生運動の過激派たちも、すっかりとなりをひそめます。
学園改革の波もすでにピークを過ぎて引き潮となり、学生たちの間には
無感動と無関心という新しい時代の風潮が広がり始めました。
労働運動史に残るほどの激しい戦いを見せてきた労働争議も、各地で相次いで集結をしました。
権利を守るために繰り返されてきた各地の職場での闘争も、一段落を見せました。
こうして長きにわたって時代を揺り動かしてきた大きなエネルギーが、
ひとつづつ消滅をして、世の中には『平穏と安泰』の空気も満ちてくるようになります。
こうした中で、かろうじて生き残った「70年安保」の闘争だけが、
若者たちの希望をあおり、消える前の蝋燭のように唯一の高揚感をあおりました。
とはいえ・・1950年から始まり10年以上にもわたって
熾烈に繰り返されてきた「安保反対闘争」も、70年代の直前に至ると
すでに日米軍事同盟は既成の事実となり、反対運動は無駄という空気さえうまれてきました。
あきらめ感に支配され、盛り上がりに欠けていたこともまた疑いようの無い事実です。
それでも一部の勢力を中心として、根強く「安保」を闘うと言うエネルギーは残りました。
社会党系の「日本社会主義青年同盟」、日本共産党系の「日本民主青年同盟」、
さらに極左勢力の学生を排除した民主的な学生の自治組織などが、それらを代表しました。
その日は、2階で密談の最中でした。
翌日の、国会デモ行進を前にしての打ちあわせです。
集結地まで行く方法と細かい時間の確認、さらに途中の車内での注意事項、
不測の事態に備えての対処の仕方などと、帰り道での諸注意・・等々。
要はグループごとでの前夜における、おのおのの決起集会です。
ふと視線を感じて振り返えると、
同級生で、見覚えのあるような女の子が一人、じっとこちらを見ています。
「さて、誰だろう。」その時は、まったく思い出すことができません。
女子学生たちのグループでも、話は慨に終わったらしく、
一斉に立ちあがた後、あっというまに散りじりになってしまいました。
呼び止める暇も有りません。
こちらのほうでも話は終わり、軽く呑みに出ようということで
階段を降り始めた時のことでした。
「しばらく。」
と女性が、私の前を横切りました。
「あっ」、と気が付き、女性の名前を言おうとしたときに、
「呑みに行くのなら、私も連れてってよ」と、階段を塞いでしまいます。
暗くなりかけた夕闇の気配のなかで、もう一度、しっかりとその顔を確認しました。
やはり久し振りに行き会う、同級生のレイコです。
2年ぶりに見るその顔にはお化粧が施されていて、まったく初めてみる
妖艶な大人の顔のようにも見えました。
「珍しいところで逢うな」
「なぁに言ってんのさ。
この間も行き会っていたわよ。そのつまんない顔をはっきりと見たもの」
「どこで?」
「○○サークルが主催の、歌声喫茶。」
それは月に一度ひらかれる、学生たちの歌声喫茶のことでした。
その場には確かに行きましたが、レイコの顔を見た記憶が私にはまったくありません。
「あいかわらず、なんだから、もう。
せっかく会ったんだもの、呑みに行きましょう。」
「まだ、未成年だろ・・(それは、私も同じですが。)」
「どうせ、行くんでしょ?」
うん、と振り返り、仲間を探すと・・
もう階段にも、降り切った下の空間にも、誰一人として姿が見えません。
みんな帰ったのかと思いながら、ポケットから煙草を取り出すと、
間髪をいれず、瞬時にレイコの指がのびてきました。
「未成年に煙草は、ダメ!。」
ひょいと私の指から煙草の箱を奪い取り、
躊躇も見せずに、無造作にポンと屑籠へ投げ捨ててしまいます。
「酒はいいのかよ」
「ばれなけりゃ、だいじょうぶ!」
こいつは、いつもこういうことを平然と口にする女です。
つかみどころのないくせに、なぜかいつでも決まって、上からの目線で
私にものを言うのです。
「明日の朝は、早いぜ。」
「寝ずに行くもの。」
「大丈夫かよ・・・」
「電車で、寝られるもの・・・」
などと会話しつつ、すでに足はいつもの焼鳥屋へと向いています。
明日の朝、本当に大丈夫かなと思いながらも、先輩の両親が営業している、
縄のれんを目指してレイコと肩を並べて歩きはじめました。
レイコは、油断をしている時に限って、いつも突然にあらわれます。
ぴったりと、いつの間にか私に寄り添っていたかと思えば、
また、あっという間にいなくなってしまいます。
小学校に入る前からも、そうでした。
こいつとは小、中学校と9年間、不思議なくらいにいつも同じクラスでした。
「そういえば、お前。
いつも俺の席の近所にいたよなぁ。
俺の前だったり、後だったり・・」
「何とぼけたことを言ってんの。生まれた月は同じでしょう。
あいうえお順だって、ひとつ違い。
背丈もおなじだったら、
どうやっても、そんな風になるのが、当たり前でしょ。」
なるほど。・・そういうことか。
じゃあ、もう15年ちかくにもなるんだな・・こいつとは。
5へつづく
(桐生の中心部、本町5丁目の歩道から)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/